よい子の悲劇とは

よい子の悲劇とは

よい子は親に見捨てられる怖さから

子どもが抱く恐怖心の中に、親から見捨てられることに対する恐怖というのがある。

子どもにとってそれは大変な恐怖で、その恐怖ゆえに子どもは自分の本性を裏切ることがある。

そして、それは後々までその人の人生に尾を引き、大きくその人を支配する。

幼い頃、このような恐怖にさらされながら生きた子どもは、大人になってもなかなかこの影響から脱することができない。

たとえば、相手の気持ちを自分に引き留めておくために何か特別にいいこと、あるいは特別に相手に都合のいいことをしなければならないと思ったりする。

そしてそのように一生懸命努めるために、いつも不安な緊張に悩むことになる。

その結果、緊張しさえしなければできることでもできなくなるし、自分がもともと持っている能力も発揮できなくなってしまう。

見捨てられるのが怖いから、見捨てられまいと緊張する。

そしてその緊張がその人をコチコチにしてしまう。

新しい環境に接して自分の可能性を試してみようとするよりも、その新しい環境を恐れるのである。

心の底にあるその恐怖は、幼い頃はそれなりの理由があったと思われる。

その子からすれば、実際に見捨てられる可能性があったわけである。

現実に見捨てられるかどうかということではなく、小さな子どもが自分でそのように感じたかどうかということが問題なのである。

親からみれば、一時の感情という言い方ができるが、子どもの側はそのようには解釈できない。

そのように「見捨てられる恐怖」を持った子どもは、いつも心理的には不安定である。

いつか自分は見捨てられるかもしれないという不安におののいている。

そして不安であればあるほど、人は相手にしがみつく。

そしてそのような人ほど、相手の言動に敏感になる。

相手のちょっとした言葉や仕草から、もう自分のことを嫌いなのではないかと疑う。

不安と恐怖が強ければ強いほど、相手の言動を自分に悪く悪く解釈し、自分を卑下して考えるようになるのだ。

劣等感を持つ人が、自分の弱点を過剰に意識するのは不安だからである。

見捨てられる不安を持てば持つほど、相手の何気ない一言を自分の弱点に向けられた非難と受け取る。

ちょっと相手との関係でうまくいかないことがあれば、すぐに自分の欠点と結び付けて解釈する。

捨てられるのではないか、捨てられるのではないか、そればかりが心の底では気になっているのである。

それに比べて見捨てられる不安なしに育った人は強い。

何も恐れない。

「・・・したがって幸運にも、普通のよい家庭で愛情のある両親と一緒に成長してきた個人は、支持、慰め、保護を求め得る人達を、またその人たちをどこで見いだせるかを、常によく知っている。(中略)この経験が、困難な場に立たされるとき、いついかなるときにも彼に援助の手をさしのべてくれる信頼に足る人物が常に存在するという無意識に近い確信を与える」

ちなみに、聖書の中に最もよく出てくるフレーズは、「恐れるな」であるそうだ。

自分を信じられない人の苦しみ

恐怖というのは心理的な大問題である。

その大問題を解決できる人と、生涯解決できないで終わる人がいる。

自分を表現することを恐れない人は、生きることを楽しむことができる。

相手に面と向かって自分を表現することが怖くない人は、心に力強さを感じている人である。

一方、見捨てられることを恐れている人は、心の底で自分に対する頼りなさを感じている。

そのためついつい肩に力が入る。

自分に自信がないということは、その人が見捨てられる恐怖を持っているということである。

見捨てられまいとするから肩に力が入るのである。

あとでもふれるように、親の不機嫌な態度は子どもにとっては「拒否」と同じである。

見捨てられる恐怖を持つということは、相手を信頼できないということである。

また相手を信頼できない人は、自分を信頼できない人である。

自分と相手への信頼は同時に起きる。

相手の好意を信頼できないから、相手がどんなに自分を信頼してくれていても、相手の心がいつ変わるかわからないと恐れてしまうのだ。

相手を信頼できないといういことは自己卑下でもある。

自分のような人間は信頼に値しないと考えるからである。

逆に自分を信頼できるものは自信を持って相手に近づけるし、相手を恐れない。

自分の中に力を感じるからである。

いずれにしても、拒否されることに対する恐怖がその人の心の力を弱める。

拒否されることで傷ついてしまうのである。

自分が傷つくことを避けようとすることが、心の姿勢を受け身にしていく。

そんな人は、相手に対する働きかけも失ってしまう。

迎合とか、とり入るとか、お世辞を言うとかいったことは、相手に働きかけるということではない。

それはむしろ自分を守ろうとするものなのである。

自分が幼い頃に受けた心の傷を無視して生きようとすれば、必ず生きることへの無意味感や、劣等感に悩まされる。

心の傷に生涯支配されてしまうのだ。

小さい頃「よい子」であることが幸福の条件であると思い込んで、自分の本性を裏切り続けてきた人がいる。

よい子の悲劇である。

よい子の悲劇にならないための親子関係

あなたを世話するのはこんなに嬉しいと子どもに伝える親と、あなたを世話するのはこんなに大変だと子どもに伝える親とでは、子どもの心理的成長にとって、親の意味は全く違う。

こんなに楽しいという顔をして子どもを世話すれば、子どもは自分の存在に自信を持つであろう。

子どもを世話する時の、親の満足した表情は、社会人になってから大成功することより、その子にはるかに自信をもたらす。

どんなに大金を得ることよりも、その人に自信をもたらす。

社長になるよりも、有名な歌手になるよりも、ノーベル賞をもらうよりも、親からあなたを世話していると嬉しくなるということを伝えられることのほうが、その人に自信を与えることになる。

「何だかあなたを世話していると、嬉しくなるわ」と非言語的に子どもに伝えてやれる親は、莫大な財産を子どもに残すことより、はるかに子どもの人生を生きやすくする。

逆に、不機嫌な顔で育てられた子どもは、大人になってからどんなに成功しても、それだけでは決して自分に自信を持つことはできない。

そんな恩着せがましい親に育てられた子どもは、自分の存在が他人にとって喜びであるなどということは、信じられないのである。

そして多くの場合、その事実に気づかず、それを知った時の新鮮な驚きを体験しないまま、一生が終わっていく。

他人が自分に何かしてくれることを嬉しがっているということは、恩着せがましい親に育てられた人にしてみれば、グラグラと天地が動き出したような、目眩にも似た感情を伴うものである。

何か信じられないが、夜が明けてくるような気持ちになる。

自分の弱点にとらわれてしまって、どうしても自分の長所を意識できない人がいる。

自分に長所がないのではなく、自分の長所を意識できないのが問題なのである。

どうしたら自分が伸び伸びと感じられてくるのか。

新鮮な驚きや、感動を味わうにはどうすればいいのか。

自分の弱点ばかりが気になって、不安でならない人がどうしたら人といることの楽しさを味わえるのか。

どうしたら自分の中から力強さを感じ始めることができるのか。

自分に自信のない人は自分のどこかにきづくことで、自分がまったく違って感じられるはずである。

どのような星の下に生まれても、それなりに幸せになることを心がけるほうがよい。

たとえ不幸な星の下に生まれても、それなりに幸せに生きるにはどうしたらよいか。

不幸な星の下に生まれても、自分の人生を諦めない。