生きるエネルギーがない人は幸せになる決心を

生きるエネルギーがないとは

生きるエネルギーがない人は我慢している

生きるエネルギーがないある80歳の一人暮らしの女性である。

人が「お金を貸してくれ」と言うと、貸してしまう。

もちろん貸したお金は返ってこない。

貸したくないのに貸してしまうから、貸した後でその人への悪口はすごい。

口汚くののしる。

その人への恨みはすごい。

それだけひどく言うなら貸さなければよいと思うが、また貸してしまう。

自分の生活費に困らないならまだよいが、違う。

この生きるエネルギーがない高齢の女性は、トラブルに常に巻き込まれている。

その生きるエネルギーがない原因は、この女性の寂しさである。

自分が不本意ながらもお金を貸してしまうのは、寂しいからだと意識していればよい。

「よい」というのは、トラブルに巻き込まれる機会は少なくなるからである。

しかし自分を動かしているのは、生きるエネルギーがない無意識にある孤立感だということが理解できていないとトラブルは死ぬまで続く。

生きるエネルギーがない彼女は孤立することが怖い。

それで周囲の人の言いなりになる。

何度失敗しても、同じ失敗を繰り返す。

トラブルの原因は多くの場合、その生きるエネルギーがない人の無意識にある感情である。

繰り返し騙されたり、失敗したりするのは、それをすることが無意識にある必要性だからである。

無意識の領域にある欲求を満たしているからである。

アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーが見事な指摘をしている。

「ある行いが賢いものか愚かなものかは、結果に照らして初めてわかるものです」

人から良く思われる努力よりも、自分に対する義務を果たす努力の方が、勇気がいる。

自分自身であろうと努力するよりも、人に受け入れられる努力をする方が心理的には楽である。

しかし自分自身であることで、生きるエネルギーが湧いてくる。

その生きるエネルギーではじめて社会的な貢献ができる。

人にいい人と思ってもらおうと努力することで消耗する。

その結果、人のお荷物になる。

「自分の中の生命力に関心を持たない限り、自分が住んでいる世の中に奉仕することはできません。

ただのお荷物になってしまいます」

多くの人は、真面目に頑張った。

ただ生きるエネルギーがない人は人から認められたいという努力をするために、結果として「ただのお荷物になって」しまった。

現実を認める

ハーヴァード大学のエレン・ランガー教授は離婚と苦しみの調査をした。

そして離婚をしていつまでも苦しんでいる生きるエネルギーがない人と、苦しんでいない人の違いについて次のように述べている。

離婚をしていつまでも苦しんでいる生きるエネルギーがない人は、離婚原因を全て相手に帰している人だという。

なぜだろうか?

それは現実を否認しているからである。

離婚をしたときに、「なぜ離婚をするようになったか?」と考える人がいる。

またそのようなことを全く考えない人もいる。

「なぜ離婚をするようになったか?」と考える人は、相手にもこういう欠点があったけれども、自分にもこういう欠点があったと認める人である。

そして「なぜ離婚をするようになったか?」と考えることで、人は成長する。

それが竹の節目となってさらに上に伸びていく。

離婚でなくても同じである。

恋人から振られたとする。

そのときに怒って、一方的に恋人を非難罵倒する生きるエネルギーがない人がいる。

また「なぜ振られたのか?」と考える人もいる。

そして「なぜ振られたのか?」と考える人は、次に新しい恋人が見つかる。

しかし怒って一方的に恋人を非難罵倒する生きるエネルギーがない人は、次の恋愛も失敗するであろう。

そして生きるエネルギーがない人はまた不満になり、怒ってまた相手を非難罵倒する。

離婚であれ、失恋であれ、一方的に相手を非難罵倒する生きるエネルギーがない人は、自分の欠点を認めない。

つまり現実否認である。

そしてこの生きるエネルギーがない人は、何も失恋に際してだけ現実否認をするのではない。

他のことでも生きるエネルギーがない人は常に現実否認をしている。

現実を認めなければ、いつか苦しい目にあうのは当たり前である。

人は好むと好まざるとを問わず生きるエネルギーがない人は現実の中で生きている。

自分が生きているこの現実を認めなければ、だんだん苦しくなるのは当たり前である。

だから離婚をして、その原因を全て相手に帰している生きるエネルギーがない人が、いつまでも苦しんでいるのは当たり前なのである。

人は、苦しいけれど現実を認めることで先に進める。

そして次には、その人のベストを引き出してくれるような人とも出会える。

依怙地になって現実を認めないで突っ張っていれば、最後には生きている現実感がなくなる。

生きるエネルギーがない「あのブドウは酸っぱい」と言ったキツネのようになってしまう。

甘いと認めることで、キツネは成長できる。

しかし「酸っぱい」と言い張って依怙地になったことで、生きるエネルギーがないキツネは心理的に成長できなくなる。

そしていつまでもブドウへの執着を捨てられない。

現実受容の心の姿勢

「あのブドウは甘いけれども自分は取れない」と現実を認めることで先に進める。

新しい人生が拓ける。

それが現実受容である。

離婚をして「俺は悪くない」と言い張っていれば、現実否認から生きるのが苦しくなるのは当たり前である。

その生きるエネルギーがない人は離婚で苦しんでいるのではなく、もっと本質的には現実否認という心の姿勢で苦しんでいるのである。

オーストリアの精神科医ベラン・ウルフは「現実は味方である」という名言を吐いている。

現実が味方なのに、敵としてしまったことに苦しみの原点がある。

振られたときに、「なぜ振られたのか?」と考えることが現実受容の心の姿勢である。

昔どこで読んだか忘れたが「人は過ちゆえに相手を許さない」といった主旨の言葉を読んだ。

つまり相手に対して何か過ちを犯す。

例えば相手は悪くないのに、怒って相手を非難罵倒して殴ってしまったとする。

相手は悪くない、自分がイライラしていたからだと心の底で気がついても、それを認めない。

それを認めないために、頑固に「あいつが悪い」と言い張る。

そして「悪くない」と心の底で気がついている相手を許さない。

相手から殴られたときには、誰でも相手を憎む。

しかし時が経てば、相手を許せる。

自分が被害者の場合には、時が経てば相手を許せる。

ところが被害者でなく自分が加害者の場合が問題なのである。

時が経ち心も落ち着いてくれば、人は自分のしたことがわかる。

つまり自分が加害者であったということに気がつく。

いろいろなことが重なり、イライラして、当たるべき人でない人に当たってしまった。

「本当はあのときに自分をイライラさせていたのは、あのことだった」と心の底で気がつく。

例えば、夫婦関係が上手くいっていない。

イライラしている。

そこで、子どもの担任の先生を非難罵倒する。

生きるエネルギーがない人の攻撃性の置き換えである。

しかしそれを認められない。

自分を守ろうとする。

そうして「あいつが悪いからあいつを殴った、あいつの教育のためにあいつを殴った」と言い張る。

相手を「許す」ということは、自分が加害者であることを認めることである。

これが現実受容である。

自分を守ろうとする姿勢がない。

しかし、どうしてもこの現実受容ができない人がいる。

そして「俺は悪くない」と依怙地になる。

生きるエネルギーがない人は相手を許さない。

生きるエネルギーがない人は「私ばかりつらい目にあう」と言い張る。

世界はどんどん狭くなる。

認めてもらいたいという願望を捨てる

カレン・ホルナイは「感情的盲目性」ということを言っている。

相手が自分に迷惑をかけたときにはヒステリックになって怒る。

しかし生きるエネルギーがない自分が同じようなことで相手に迷惑をかけていることは認めない。

自分を守るという姿勢が強すぎると、現実否認がひどくなる。

それが感情的盲目性でもある。

神経質なプライドが強過ぎて、理性が働かない。

自分を守るという姿勢が強い生きるエネルギーがない人は、認めてもらいたいという願望が強い人である。

迷惑をかけたときに「ごめん」と言えば済むものを、どうしても謝らない。

「俺は悪くない」と言い張る。

「あれは迷惑をかけたのではなく、あいつが悪いのだ」と依怙地になる。

認めてもらいたいという願望が強いのに、結果として周囲の人から「困った人だね」となってしまう。

認めてもらいたいから言い張ったのに、結果として「あの人、問題の人なのよ」となって、認めてもらえない。

認めてもらいたいという願望から出た守りの姿勢であるのに、周囲の人から幼稚な人と評価されてしまう。

現実否認の生きるエネルギーがない人は最後には孤独になる。

孤立すれば孤立するほど、依怙地になる。

そして依怙地になればなるほど孤立するという悪循環に陥る。

そして最後には現実を認めるくらいなら死んだ方がよいと思うほど、現実を認めることがつらくなる。

依怙地になっている生きるエネルギーがない人は、実は心の底では「認めてくれー」と叫んでいるのである。

生きるエネルギーがないは「助けてくれー」と叫んでいるのである。

依怙地になって孤立した状態が生きるエネルギーがない彼の望む状態ではない。

それはまさに彼が望んだ状態とは正反対の状態である。

依怙地になっている生きるエネルギーがない人は、心の底では人と親しくなりたい。

人とふれあいたい。

しかしふれあい方がわからない。

「ごめん」と言えば、認めてもらえるのに、「ごめん」ということを生きるエネルギーがない人は神経質なプライドが許さない。

燃えさかる火の中を通らなければ、望んでいる所に行けない。

「ごめん」と言って現実を認めることは、生きるエネルギーがない人にとって火あぶりになるのと同じくらいつらいことである。

依怙地になれば人が離れていくことがわかっているのに、どうしても依怙地になる。

それが神経質的なプライドである。

それは誇りとは違う。

誇りは現実受容の心である。

生きるエネルギーがない人の神経質的なプライドは現実否認の心である。

こんなことをしていれば、どんどん地獄に堕ちていくとわかっていても、どうしようもない。

生きるエネルギーがない人はどうしても「ごめん」とか「ありがとう」が言えない。

それを言えば幸せになれるとわかっていても、それが言えない。

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メンツにこだわると苦しくなる

生きるエネルギーがない人は神経質的プライドがあるから言えない。

もっとわかりやすい表現をすれば、メンツがあるから言えない。

メンツにこだわらないから事はうまくいく。

メンツにこだわることは現実を認めないということである。

メンツは生きるエネルギーがない不安の心理。

メンツにこだわっている生きるエネルギーがない人は、自分の価値が脅かされている人である。

不安な心理でものごとを解決しようとするとうまくいかない。

メンツでトラブルの解決に向かうということは、不安の心理が動機でトラブルを解決しようとすることである。

メンツを重んじて解決しようとすることは、ものごとの解決ではなくて、自分の感情を解決しようとしていることである。

感情はスッキリしたとしても生きるエネルギーがない問題は解決していない。

むしろトラブルは大きくなっている。

そのうえ実は生きるエネルギーがない感情はスッキリしていない。

不安な人は満足と幸福の選択で満足を選ぶ。

メンツを重んじて満足しても、生きるエネルギーがない人は幸福を捨てている。

自分のメンツを重んじるということと、生きるエネルギーがない問題を解決することは違う。

自分が不安のままで問題を解決しようとしている。

それは無理。

結果は問題が解決した方がよい。

そこで人は先に行ける。

メンツを保つことは先に行けないことである。

自分のメンツにこだわって、ことを大きくしてしまう。

人との感情が上手くいかなくなる。

アメリカのある心理学の教科書にカール・ロジャーズの説の説明が出ているが、そこに下記のような文章が載っている。

私達が最も自己実現できるのは、自分に自信があるときである。

自我価値の剥奪に怯えていないときである。

自己実現することで、人生の諸問題は解決できる。

それなのに、まさに自己実現しなければならないときに、人は自己実現しない。

自我価値の剥奪に怯えているときが、生きるエネルギーがない人はメンツにしがみついているときである。

励まされて、励まされて成長してきた人は、自己実現して生きる。

逆に「ありのままの自分には価値がない」という破壊的メッセージを与えられて成長してきた生きるエネルギーがない人は、自我価値の剥奪に怯えて自己実現できない。

しかしそういうときこそ試練のときである。

まさに火あぶりの試練を経て、人は生きることの最深の意味を体得する。

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自己実現で生きるエネルギーが湧く

人は成長することで楽に生きることができる

現実を認めない人の最期は、やりきれないほどの空しさである。

とにかく現実の中で生きていないのだから、死を前にして生きるエネルギーがない自分の心をどうしようもない。

「俺は悪くない」と、自分の非をどうしても認めない人がいる。

生きるエネルギーがない人は認めないことでメンツを保とうとしている。

しかし幸せを捨てている。

現実否認は生きるエネルギーに乏しく、メンツを保って、幸せを捨てている。

そして他人から見るとメンツは丸つぶれである。

現実受容はメンツを捨てて、幸せを得ている。

エレン・ランガー教授の調査のように「離婚したのはあいつが原因」と、自分の側の原因をどうしても認めない。

そうして苦しみ続けるが、人生最期になれば、苦しみと同時に空虚感に悩まされる。

最期にもう一度言う。

人は満足と幸福の選択で満足を選ぶ。

そして幸福を捨てる。

満足と幸せとは違う。

ここが人生のポイントである。

これを理解しないと、個人も国もすることを間違える。

生きるエネルギーがない人は不満と不安の選択で不満を選ぶ。

どうしようもない夫でも、妻は離婚をしない。

これから先のことが不安だからである。

夫に不満でも離婚をしない。

不安より不満を選ぶ。

どんなに不満でも、不安を避けたい。

人は成長と退行の岐路で、成長を捨てる。

だが人は成長することで幸せになれる。

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好きか嫌いかを見極める

今、悩んでいる生きるエネルギーがない人は次の質問を自分にしてみることが大切である。

私は、ずるい人に気に入られようとして、自分がどれほどのものを失っているのだろうか?

これを一度真剣に考えてみる。

本当は嫌いな相手なのに無理して「好きなふり」をして振る舞って、「自分は何を失っているか?」を考えてみる。

今、自分が「好きだ」と思っている人は本当に好きな人なのか?

今、会社で好きと思っている同僚がいる。

あるいは上司がいる。

それは部下でもよい。

案外嫌いなことがある。

それは会社を辞めたあとで気がつく。

会社を辞めたあとで時間ができたのに、会いたくない。

そういうときには、生きるエネルギーがない人は好きと思っていてもたいていその人を好きではない。

だんだん時が経つと、「私はあの人を嫌いだった」と気がつくことがある。

そして「好きではない」と気がつくことから「会いたくない」人に変わる。

最期には「顔もみたくない」に変わる。

しかし会社にいるときには「好きだ」と思っている。

なぜか?

それは「好きだ」と思っている方が、仕事をするのに都合がいいからである。

あるいは寂しいからである。

生きるエネルギーがない人は寂しいから親しい人が欲しい。

そこで自分の心をごまかして、「親しくない人」を、無理して「親しい人」と思い込む。

寂しいから親しい人を求めている。

生きるエネルギーがない人は友達を求めている。

人は、その人が嫌いだけれども、「その人がいると便利だ」という人を「好き」と思っていることがある。

しかしこういう自己欺瞞が、その人の心に及ぼす影響は計り知れない。

また生きるエネルギーがない人は嫌いとわかっているのに、好かれようとすることがある。

嫌われるのが怖いからである。

嫌われるのが怖いにしろ、便利だと思い込もうとしているにしろ、寂しいにしろ、嫌いな人を親しい人と思い込むことの代価は大きい。

ロロ・メイの言うように、そうして失っているのは「統合性とかコミュニケーション能力」などはもちろんである。

そのほかに失っているものはいろいろとある。

今、毎日が不愉快な気持ちになっている。

しかし心がけ次第では、日々愉快な気持ちで過ごせる。

それなのに、生きるエネルギーがない人はその愉快な毎日を失っている。

長いこと、ずるい人に嫌われることを恐れて無理することで、できあがってしまった心である。

その歪んだ心で生きるエネルギーがない人は楽しい日々を失っている。

さわやかな朝を失って、代わりに「ぼーっとして気分の悪い朝」をむかえている。

不誠実な人、傲慢な人、ずるい人に好かれようとして無理をする。

そのことで、本当に親しい人との楽しい会話を失って、生きるエネルギーがない人は重苦しい息詰まる人間関係を得ている。

卑怯な人に嫌われるのを恐れて生きるエネルギーがない人は生きているうちに何を失ったのか?

リラックスした会話を失って、無口な重苦しい人間関係を得ている。

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生きるエネルギーがない人は嫌われるのが怖い

嫌われるのが怖い人

ずるい人に好かれようとして無理している生きるエネルギーがない人は、自分がどのくらい貴重なものを失ったかに気がついていない。

宝の山を失っている。

それなのに財布一つなくしたことを生きるエネルギーがない人は大騒ぎして悔やんでいる。

生きるエネルギーがない人はことあるごとに「あの財布さえあれば」となくした財布を思い出す。

仕事一つを失ったことで悔やんでいる。

生きるエネルギーがない人は落ち込んでいる。

将来の不安に怯えている。

失恋に悩んでいる。

生きるエネルギーがない人は生きる希望を失っている。

しかし質の悪い人から嫌われることを恐れて無理をしている人が、この人生で失っているものは、財布や失恋や失業どころではない。

このずるい人達に気に入られるために、せっかくもらった尊い命と、意味ある人生をなくしてもよいか?

クヨクヨ悩んでいる生きるエネルギーがない人は、失敗したそのことに悩んでいるというよりも、失敗した自分は低く評価されているのではないかと気にしている。

「あの人にこう思われるのではないか?」とか、「あの人に嫌われることをしてしまったのではないか?」とか、「あの人は怒っているのではないか?」とかいうことで悩んでいる。

自分が相手にいい印象を与えられなかったことを生きるエネルギーがない人は悩んでいるのである。

その「あの人」とはどんな質の人なのか。

自分は、あの人に気に入られるために生まれてきたのか?

あの人に気に入られるために、無理して頑張って健康を害してもよいのか?

病気になってもよいのか?

そう自分に問えば、自ずと答えが出るのではないだろうか?

そこまでして「あの人」に気に入られる必要はない。

あの人に悪く思われることを悩んでストレスから病気になることはない。

何でそこまでよく思われたいのか?

なんでそこまで嫌われることが怖いのか?

そう考えたら、自分の生き方が見えてくるのではないだろうか?

人に好かれるためだけに生きてきた生きるエネルギーがない人は自分。

自己実現して生きてこなかった自分。

心に核のない生きるエネルギーがない人は自分。

その原点はやはり「親に気に入られなければ、生きられなかった過去の環境」「ありのままの自分を否定され続けた過去の環境」などであろうが、自己分析しているうちに自分が見えてくる。

ありのままの自分を否定され続けた過去の環境」などであろうが、自己分析しているうちに自分が見えてくる。

カレン・ホルナイの言うように、神経質的プライドの強い自分には自分のためのエネルギーがないと気がつくのではないか。

神経質な生きるエネルギーがない人は自分自身のエネルギーを持っていないとカレン・ホルナイは言う。

神経質な生きるエネルギーがない人のエネルギーは自己実現のエネルギーではない。

それは自己執着のエネルギーである、退行のエネルギーである。

成長のエネルギーではない。

自己実現のエネルギーは成長のエネルギーである。

愛は成長の原動力であるが、無理して気に入られようとしている人には愛がない。

生きるエネルギーがない人は欲だけがある。

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自分のために生きる

エネルギーがない時には生きるエネルギーがない人は社会と接するのが嫌。

今の「悟り」と称する若者、ひきこもり等、皆エネルギーがない。

生きるエネルギーがない人は覇気がない。

それは小さい頃から自然なコミュニケーションをして生きていないからである。

フロムの言う母親固着、ナルシシズム、ネクロフィラスの三つを含む衰退の症候群には成長のエネルギーがない。

恋人は、本当は「これは、自分のもの」と思っている。

それなのに、気に入られたくて、無理して「これは、自分のもの」と思っている。

それなのに、気に入られたくて、無理して「これは、あなたのものよ」と言う。

生きるエネルギーがない人は気に入られるために自分自身を偽る。

無理して譲り合っていればいろいろと悩んで考えなくてよい。

そういう場合、両方とも小さい頃の親子関係がうまくいっていない。

子どもは親にむしゃぶりつく。

小さい頃むしゃぶりつけなかったので、本来親にやることを恋人にやっている。

両方がお互いに「もっと、もっと」愛してと言っている。

生きるエネルギーがない人は社会と接するのが嫌。

自分に不都合な情報が入るのも嫌。

生きるエネルギーがない人はネットの偏った情報にしがみついている方が楽。

皆不安だから。

でもニートのときには屁理屈を言って一時的に心理的に安定している。

しかし先は拓けていない。

エネルギーがないということは「母なるものを持った母親を体験していない」ということでもある。

しかし、こんなことでクヨクヨ悩んで命を縮めてよいのか。

今つらいけどここを踏ん張って自己実現するのと、一生悩み続けるのとどちらがよいか?

要するに神経質とは、自分のために生きられないことである。

人に気に入られるために生きてきた人である。

人生の軸が自分になくて、他人にある。

その結果、心身ともに不調をきたした。

昼間はスッキリとしないで、夜はぐっすりと眠れない。

考えてみれば、それも当たり前のことである。

生きるエネルギーがない人は自分のために生きてこなかったのだから、心身ともに不調にならなければおかしい。

毎日、毎日、次のように自分に言い聞かせる。

自分の命と、ずるい人に気に入られることとどちらが大切か?

自分の命と、あの人に気に入られることとどちらが大切か?

あの人は、こちらのことなど、すぐに忘れている。

そういう人に気に入られるために、「私は生まれてきたのか?」

「あの人が悔しい」と言うことで、そのストレスから命を縮めるのか。

馬鹿らしい。

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自分が幸せになろうと決心すれば幸せになれる

人は社会的な業績ではなく、心の成熟によって救われる。

コミュニケーション能力で救われる。

「私は悪くない」と「なぜ、わたしばかりつらい目にあうのか?」という台詞は、本質的な内容でそれほど違わない。

「私は悪くない」と言い張る態度が、人に嫌われ、結果として人間関係で「辛い目にあう」ことが多い。

別に「あなた」ばかりが辛い目にあっているのではない。

結果だけを見るから「私だけが辛い目にあっている」と一人で勝手に思い込んでいる。

つらい今に至る過程を見れば、結果を見るほどには「私だけがつらい」とは思わない。

アメリカに今から90年も前に、運についてカーソンという人が書いた興味ある本がある。

幸運を呼び寄せるための13の知恵とでも言うべき本である。

著者は全てのことには理由があるという。

ニュートンはリンゴが木から落ちたときに「これには理由がなければならない」と知っていた。

戦争や自然災害等を除いて、平凡な時代の当たり前の日常生活では「辛い目にあう」には「辛い目にあう」理由がある。

例えばいつも深刻に悩んでいる生きるエネルギーがない人は皆、社会的な自分の位置がわかっていない。

人間関係での自分の位置がわかっていないからトラブルを起こす。

生きるエネルギーがない人は人間関係の距離感がない。

フロム・ライヒマンは愛されなかった人は対象無差別に愛されようとすると言う。

フロム・ライヒマンが言うごとく、母親の愛情の欠如として、子どもは小さい頃に誰からも愛されようとする強迫的必要性を発達させる。

そして彼女はなんとその「全ての人から愛されたいという強迫的必要性」はその人の全生涯にわたって続くであろうと言う。

リンカーンは「万人に気に入られようとすれば自分の力が弱まることを知っていた」と言う。

そして慢性的うつ病に苦しんだアメリカ大統領リンカーンは言った。

ほとんどの人は自分が幸せになろうと決心するだけ幸せになれる。

人に気に入られようとすることで自分の心の力が弱まることである。

対象無差別に気に入られようとする生きるエネルギーがない人の周りには質の悪い人が集まる。

弱い生きるエネルギーがない人は自分を侮辱する人に気に入られようと必死になる。

相手が自分を侮辱しているということに気がつくことすらできない。

「自分が幸せになろうと決心するだけで幸せになれる」、そのためには「自分が自分であろうと決心すること」である。