演技性の人は、愛着の性質を知り尽くし、それを巧みに活用する
本当に愛着しているかどうかはともかく、愛着したように振る舞うことで、相手に愛着を感じさせ、対人距離を縮めてしまう。
その場合に、彼らがよく用いる手法の一つが、アイコンタクトやボディタッチを積極的に行うということである。
アイコンタクトは、視線と視線がふれあうだけなのだが、スキンシップと同じように愛着システムを活性化し、愛着ホルモンのオキシトシンの分泌を活発にする。
つまり、目を見つめ合うだけで、親密さや好意が生まれやすいのだ。
演技性の人は、そのことを体感的に知っている。
ウィンクしたり、じっと見つめることで、相手の心を捉えようとする。
好意や信頼を得ようとすれば、話を交わしている間、できるだけ相手の目を見るようにすることである。
相手も積極的に目を合わせてくれば、体を触れ合っているのと同じような効果が生まれてくる。
もちろん、ボディタッチは、さらに親密さを深めやすい。
しかし、いきなり「ハグして」と言ったり、膝に乗るというのは、常人にはできないことである。
嫌らしいとか非常識と思われずに、さりげなく相手の体に触れるためには、少々技がいる。
よく使われるのは、肩もみマッサージをしてほしいと言って、自分の体に触れてもらうという方法である。
逆に、「肩こってる?」と聞いて、こってるという答えが返って来れば、「ちょっともんでやろうか」と言うこともできる。
もちろん、相手が拒否すれば、脈がないか時期尚早ということだ。
もう一つの技は、手相を見るというものだ。
手相を見ようとすると、自然に相手の手に触れることになる。
しかも、手相は運命を示すものであり、それを相手に見せるということは、心理的支配に陥りやすい状況に、自らを差し出すということだ。
あなたに手相についての知識がある程度あれば、親密さや信頼を醸成するきっかけになるだろう。
カミングアウトと自己開示
演技性の人は、どのようにして、相手の気持ちを揺り動かし、自分を受け入れてもらうだけでなく、味方につけてしまうのか。
彼らが得意とする戦略の一つは、つらい過去や悲しい生い立ちを開示し、相手の同情を誘うということである。
ルソーがヴァラン夫人のハートを掴んだのも、石川啄木が金田一京助や与謝野晶子の助力をほしいままにしたのも、悲しい身の上を明かし、放っておけないという気持ちにさせたからだ。
この方法は、相手が自分の助けになるかどうかを見定める上でも、極めて有効だ。
仮に反応が悪く、そんなことを自分に言われてもという素っ気ないものだとすれば、その人には、つけいる余地がないということであり、それ以上に無駄な労力をはらう必要がない。
相手が放っておけないという反応をしたときだけ、くらいついていけばいいのだ。
多くの支援が見込めるのは、間違いなく後者だからだ。
悲しい出自を打ち明けるのと同じ効果をもつのが、自分の弱点や障害、トラウマ的体験について打ち明けることである。
打ち明けられた相手は、話の内容にショックを受け、そうした体験をした目の前の存在に同情を覚える。
そして、同情ほど、愛情に変わりやすい感情はない。
かわいそうだと思う気持ちは、母性的、父性的な感情と同じであり、支えになろうと行動を起こすうちに、その対象は、もはやその他大勢ではない特別な一人になっていく。
それは、愛しく思う気持ちの始まりでもある。
借金の天才だった野口英世
野口英世が、周囲の助力を引き出したのも、幼いときの火傷がもとで不自由になった手で、ずっと苦労し、そのハンディを抱えながら、医者になろうと頑張っているというストーリーに、多くの人が抗えない感銘を覚えたからだ。
英世は、自分の恩師や手術をしてくれた医師の引き立てを受け、学業を続けることができた。
そうした中で、彼は自分のハンディのことを持ち出せば、多くの人が自分のために尽力してくれるということを学び、そのことに甘えるようにさえなっていた。
学業の為と支援者から引き出した金で、派手に遊んでしまうということもあった。
アメリカに渡航するときは、みんなから餞別として集めた多額の渡航資金を、壮行会の祝宴の勢いのままに、芸者を上げてどんちゃん騒ぎをし、一晩で使い果たしてしまう。
これではアメリカに行けないと、また後援者に泣きつくという始末だった。
普通なら見放されても仕方のないところだが、後援者は衣類も家具一切も抵当にいれ、高利貸から借りて作った金を英世に渡したのだった。
アメリカから帰ってきたのは、十五年もたってからで、その頃には、ロックフェラー研究所の研究員となって、破格の高給を取っていたにもかかわらず、日本に帰る費用さえ、また後援者に出してもらったもので借りた金も結局返さないままに終わった。
身上が傾くくらい、英世に貢いだ支援者の一人は、自分の子どもに、「男にだけは惚れるな」と言い残したという。
それくらい入れ込んでしまう抗しがたい魅力を、英世はもっていたということだろうが、それは手の火傷なくしては培われなかった特技かもしれない。
英世は、誰もが自分のために力になってくれるという強い愛着期待を持っていた。
それが彼の大きな強みであり、難局を切り抜ける力となった。
自分が助けを求めたら、必ず助けてもらえるという愛着期待のそもそもの源泉は、母親への絶対的な信頼感に由来していた。
長男として溺愛されたうえに、母親には、我が子に火傷を負わせたという負い目があり、貧しい中でも、英世が望むことなら何とかかなえてやろうとしたのだ。
怠け者の夫は頼りにならず、英世にすべての期待をかけて育てたのである。
アメリカに渡ったのも、正式のルートではなく、来日したジョンズ・ホプキンス大学の教授の通訳を務めたときに、儀礼的にかけてもらった、「いつかアメリカに来なさい」という言葉だけが頼みの綱だった。
もちろん当の教授は、そんな言葉をかけたことさえ忘れていたので、日本から本当に英世が訪ねてきたときには、驚愕した。
結局、英世を追い返すこともできず、助手としておくことになったのだ。
微かなツテさえも、チャンスとみたら、しがみつき、絶対に後に引こうとしない図々しさは、成功する人に共通する傾向だと言えるだろう。
遠慮などしていたのでは、チャンスは来ないのである。
自分から裸になる
自分の恥部や隠すべき過去をさらけだし、相手に打ち明けるという行為は、自己開示であるとともに、親密な関係への強力な誘いでもある。
自分の恥部をさらけだすということは、言葉を換えれば、裸になるということであり、それは相手にも裸になることを誘っているのである。
実際、親密な関係が深まっていくときには、相手が自分の過去や内面の話をさらけ出すと、それに呼応する形で、こちらも自分の過去や内面を語り出すということが起きる。
自己開示は、相手の自己開示を誘発し、親密さが深まっていくというのは、親密さを高める上での重要な原理なのである。
付き合っている彼氏やうまくいっていない夫のことを相談するうちに、相談に乗ってもらった知人や上司や弁護士と、ねんごろな関係になってしまうということは、よく出会うケースである。
実は、意中の人に、相談に乗ってもらうという形で、アプローチしているという場合もある。
意識的か無意識的かはともかく、悩みを打ち明け、相談するというのは、親密な関係を誘発する効果的な手段なのである。
逆に、自己開示を避ける人は、親密さが深まりにくい。
相手が自己開示してきているのに、それに応えず、うじうじと表面的な話でお茶を濁すことは相手求めている親密さを拒否しているということであり、相手はこちらに壁を感じて、それ以上接近しなくなる。
傷ついたように感じ、こちらのことを恨むようになる場合もある。
自分だけが裸になったのに、こちらは裸になってくれなかったのだから、恥をかかされたと思ってしまうのだ。
自己開示をしてくるということは、好意と信頼の表れであり、相手の話に共感しつつ、こちらも自己開示して応えていくことが、関係を深めていくうえで不可欠なのである。
逆に言えば、親密な関係になりたくない相手に対しては、自己開示をしない、させないということが、重要になる。
プライベートな情報を与えたり、思い出話をしたり、自分の気持ちや悩みといったことを、その人の前では口にしないようにする。
また、相手がそうした話をしてきても、深入りして聞き過ぎないようにする。
こちらにその気がなくてもついそうした話をしたり、聞いたりしてしまうと、相手によっては、こちらが親密さの証として、そうした話をしてきたのではないか、聞いてくれたのではないかと勘違いしたり、それがきっかけで、こちらに特別な関心を抱いたりするようになることも珍しくない。
自己開示をすることは、肌を見せるのに等しい意味をもちかねないというリスクの部分も知って、行動する必要がある。
上手な嘘をつく
演技性の人がよく使うもう一つの手は、上手な嘘をつくというテクニックだ。
生真面目で、演技性の傾向があまりないタイプの人は、事実と違うことを言う事は、悪いことだという思いが強い。
そのため嘘がつけない。
その点にこだわり、面倒な事態になってしまうことも多い。
正しいかどうか、事実かどうかということを優先してしまうのである。
演技性の人は、そもそもそういう発想をしない。
事実か作り事かということ自体、その区別にあまり意味がないと感じている。
作り事であろうと、それが言葉となって交わされれば、それも一つの事実だというくらいに思っているのだ。
彼らがもっと重視するのは、相手がそれで喜ぶかとか感動するかということであり、またどれだけ注意を惹けるかということだ。
事実をいくら並べても、誰も振り返ってくれなければ、結果として最悪である。
少し嘘や作り事が混じっていようが、相手が喜んだり、愛情やお金をくれれば、そっちの方がずっといい。
いいに決まっている、という基準で考える。
質のいい演技性の人は、誰も傷つかないような嘘をつく。
相手を喜ばせ、その気にさせ、こちらも潤うことになる。
病的な演技性の人は、後で嘘だとばれるようなことを言ってしまう。
ばれるとわかっていても、言わないではいられない。
出自や経歴に関する嘘というのも、演技性の人にはよくあることだ。
親しくなれば、後でボロがでることは時間の問題なのだが、自分をよく見せたいという願望の方が勝って、
つい華やかに脚色してしまう。
反抗や革命に生きたはずのマルローでさえ、学歴や経歴を詐称していた(積極的に詐称したというよりも、間違えを訂正しなかったのかもしれないが)。
ジャックリーヌ夫人の場合は、父親は名門の出身ということになっていて、一家の歴史を記した書物まで刊行されているが、どうやら一家の歴史も書物の内容も、でっち上げた嘘っぱちのようである。
浅はかな匂いがするとは言え、それらしく装うことも、秘密めかしたり、由緒あるように見せかけるのも、重要な演出なのである。
すべては自らを高く売るための知恵なのだ。
そうした営みによって、実際に社会は動いてきたのである。
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自己愛をくすぐる技術
演技性の人は、ある意味リアリストである。
理屈でそうかではなく、実際にどうかが重要なのである。
演技性の人では、言語理解といった言語的な能力は意外に低く、むしろ動作性の能力が優れている。
彼らは言葉で考えると言うよりも、体で考えるのだ。
本能的に本質を見抜き、それに従って行動する。
演技性の人が見抜いている人間の本質とは何だろうか。
それは、人は自己愛で動くということだ。
つまり、自分を喜ばせる存在や自分を愛してくれる存在を愛するという原理だ。
彼らはそのことを本能的に、あるいは経験的に知っている。
そして長い時間をかけて、その技を磨いてきた。
たとえば、何の好意や関心も抱いていないとしても、相手に好意や関心を抱いているふりをすることで、相手の心はさらにアップし、自分に元気を与えてくれる存在に好意をもつ。
この基本的な原理を、生きていく上での行動基準として徹底的に活用しているのである。
それは演技やふりであるが、女優が役になりきって涙を流し、観客の涙を誘うことができるように、演技性の乏しい人が真心から行う共感や反応以上に、真実みと迫真性を帯び、相手の心を揺さぶる。
苦しげにすすり泣いたり、痛々しく顔を歪めたりする姿を見ると、どんなことをしてでも、このか弱い存在を守りたいと思わせる力を持っている。
それは、理屈で説得したり、力ずくで動かそうとするよりも、はるかに効果的に相手の決意ある行動を引き出すことができる。
それは、この存在を守ってやれるのは、自分だけだと思わせることに成功したからでもある。
それもまた自己愛をくすぐる戦略なのである。
もちろんそうしたことを計算ずくで行っているとは限らないが、最初は巧みまざる行為であったとしても、成功体験を積むうちに、そうした行動の有用さを学習し、意図的に活用するようになる。