イライラの複合汚染を防ぐ
イライラは無力な被害者の感情であり、イライラしないほうを選んで生きていけば力強く思い通りの人生を歩んでいくことができます。
しかし、現在何かにイライラしていて、それをどうにもおさめることができない、という人のために、「今のイライラを解消する為には」を見ていきます。
脱・イライラのためにまず必要なのは、イライラする自分を認めることです。
「イライラしないほうを選ぼう」と言われると、イライラしている自分を否定したくなるものですが、実は逆なのです。
自分が現在イライラしているというのは、間違いのない現実。
現実を受け入れられないとイライラしてしまいます。
イライラする自分にイライラすると、イライラの「複合汚染」を作ります。
イライラする自分=困っている自分とイメージする
そうは言っても、イライラしている自分を受け入れるのは難しいでしょう。
「イライラ」と言うと、どうしても、「人間的に未熟」「寛大でない」など、人間としてのネガティブなイメージがあるからです。
でもイライラしているときというのは、困っているときです。
「イライラしている自分」ではなく「困っている自分」と思ったほうが、はるかに受け入れやすくなるでしょう。
困っている自分に対してなら優しくなれるし、どうしたら困らなくなるか、自分に寄り添って考えようという気になれるからです。
脱・イライラの第一歩は、「自分は困っている」と認めることです。
ポイント:困っている自分に寄り添って考えてみる
衝撃を受けた自分をいたわればイライラは解消していく
現実を受け入れようと言われても、人間、なかなかそうはいかないもの。
例えば人身事故で電車が遅延、などという現実はどう考えても受け入れるしかない性質のものだということが頭ではわかっても、そんなに簡単に受け入れられるものではありません。
それは、そこに衝撃があるから。
人間の心は、衝撃を受けたとき、回復のために一連のプロセスを経る必要があります。
衝撃が大きければ、その時間も長くかかりますが、そうではない程度の衝撃でも、回復にはそれなりに時間がかかるものです。
このプロセスをできるだけスムーズに進めるコツがあります。
それは、酷い目に遭った自分をいたわることです。
多くの人が、実は逆のことをしています。
「この程度のことはさっさと乗り越えなければだめだ」「現実は現実なのだから受け入れるべきだ」などと、自分に強いてしまうのです。
すると、結果として、衝撃を乗り越えるのが遅れる、ということにもなってしまいます。
衝撃からの立ち直りに最も効果的なのは、自分の感じ方を肯定することです。
衝撃を受けたときには、イラッとしたり、「なんで?」がしばらく繰り返されてイライラしたりするものですが、それらも含めて、自分を全部肯定しましょう。
これは「被害者モード」に入ることとは違います。
単に「被害」に遭ったという現実を認め「大変だったね」「これだけひどい目に遭ったのだから、しばらくイライラするのも仕方ないね」と自分をいたわる、というだけのことです。
その後、冷静に善後策を考えるためにも、まずは自分を立て直すことが必要なのです。
困っている自分も受け入れよう
現実を受け入れよう、と言うと、通常思いつくのは「電車は遅れることもあるという現実を受け入れなければ」という部分。
もちろんこれも最終的に受け入れる必要のある現実には違いないのですが、現実というのはそれだけではありません。
衝撃を受けて困っている自分も、受け入れるべき現実の一部なのです。
「電車が遅れたのは現実なのだから受け入れるべき」
と厳しく考えているときには、まだまだ現実の全部が視野に入っていません。
「衝撃を受けて大変な自分」という視点があれば、どんなに厳しい発想が出てくるわけがないからです。
イライラするときには、どうしても「イライラさせるもの(人)」に目が向きがちですが、実は必要なのは「衝撃を受けて大変な自分」に対する優しい目。
これは、実際に何か対応が必要な状況であってもとても役に立ちます。
衝撃に反応してピリピリした状態では、とても冷静にベストの善後策を検討することなどできないからです。
まずは自分の衝撃を癒し、それから現実的な検討に入る、という順番が最も効率的です。
実はこの癒しが「被害者モード」を手放すことにつながります。
寛大な人は衝撃に強い
衝撃への強さには2種類あります。
一つは、そもそも驚かないこと。
その人にとっての「本来あるべき状態」の幅が広いと、いちいち驚かなくなります。
「まあ、いろいろな人がいるよね」と、人間についての「本来あるべき状態」を広く考えていれば、人の言動から衝撃を受けにくくなるでしょう。
もう一つは、衝撃は受けるけれども、対応が上手であること。
「まあ、衝撃を受けるよね」と、衝撃をきちんと認識し、自分に優しくできるということです。
この2種類の「強さ」がいろいろな割合で混ざっている人も多いと思います。
こうやって衝撃に強くなっておけば、イライラすることも少なくなり、結果としては「寛大」ということになります。
何かに一瞬眉をひそめてもすぐに「まあ、いろいろな人がいるよね」「それにしても驚いた」と、手放していけるのです。
そしてそういうことを繰り返しているうちに、だんだんと、そもそも眉をひそめる気にもならない、つまりイラッとしない、ということが増えてくるはずです。
ポイント:衝撃を受けた自分を受け入れる。それが本当に現実を受け入れること。
今できていないことには何かしら理由がある
それぞれの人には事情があって、その事情を考えれば全ては「必然」と言える、という目で見てみれば、その人に今できていないことには必ず何らかの理由がある、と言うことができます。
本当の意味で「できるはずなのにやっていない」という人はいません。
能力はあっても「やる気がない」というのも一つの事情です。
その人がやる気を失う何かがあったということなのです。
あるいは、うつになっていたり、ホルモンバランスが悪くなっていたりして、「やる気がない」という結果になっているのかもしれません。
相手の現状には必ず理由があり、それは「必然」とも言えるものだということと、それが自分にとっての「本来あるべき状態」と違うということは、矛盾せず両立することです。
もちろん、相手を知る中で、自分の「本来あるべき状態」を広げていくこともできるでしょう。
「いろいろな事情を抱えた人がいる」ということを実体験として知っていけば、人間としての「本来あるべき状態」をそれほど狭く規定できない、ということがわかってくるからです。
しかし、それができなくても、「相手がやっていることは確かに不適切。でも、これが現実だということは、そうなるに至った事情があるのだろう」とおもうことは現実を受け入れる確かなステップになります。
実際に、多くのイライラがこれでおさまるはずです。
「きっと何かの事情があるのだろう」と思えれば、イライラのときに頭の中でエンドレスに続いている「なんで?」が終わるからです。
「できるはずなのにやっていない」と思うから、イライラするのです。
ポイント:相手に何かの事情があると思えれば、多くのイライラがおさまるはず
大きな視野を持つことで、被害者役を返上する
一連の苦労が続いたあとで、「ああ、この時期は自分がこれを学ぶための機会だったのだな」と腑に落ちたり、「あの苦労の時期が自分を最も成長させたな」と思ったりすることがありますよね。
実はこれが「なんで?」への究極の答えとなります。
一つ一つの「受け入れられない現実」だけに注目してしまうと「なんで?」のオンパレードになるのですが、より大きな視野を持ってみると、「なるほど、こういうことだったのだな」と思える場合が多いのです。
これは、現在進行形で応用することができます。
何も、一連の苦労が終わってから「なるほど」と腑に落ちるのを待つ必要はありません。
「今はわからないけれども、きっとこれも何かを学ぶための機会なのだろう」と考えることで、脱・被害者モードが始まるからです。
「被害者」どころか主体的な「学習者」「成長者」になることができます。
イライラするとき、あるいは「どうして自分にばかりこんなことが起こるのだろう」と不運を嘆きたくなるときは、「きっと何かを学ぶ機会なのだろう」と考えてみると、違う視野が開けるでしょう。
イライラは、「本来あるべき状態」とは違うことが起こっていて、それに対して「コントロールできない感」を抱くときの感情。
でもその「本来あるべき状態」というのは、あくまでも現時点の自分が考える主観的な「本来あるべき状態」です。
そこからはずれることが続くとしても、「本来あるべき状態」の幅を広げるチャンスになるのかもしれません。
また、ある一点だけを見れば「本来あるべき状態」とは違うことだと思っても、全体を見ればそうでもない、ということもあり得るのです。
ポイント:イライラするときは、「何かを学ぶチャンスかも」と考えてみる
誰でも寛大な人になることができる
ここまで「人には事情がある」「今起こっていることには意味がある」など、物事を必然ととらえる見方を紹介しました。
これは、一つのコントロールの形です。
コントロールというのは必ずしも相手が変わることを意味するのではなく、自分の中での位置づけを変えて、受け入れられるようにする、というのもその一つです。
実はこれは同時に、「本来あるべき状態」も修正する作業になっています。
最初は「逸脱」と感じたものを、「まあ、これも一つの必然なのかな」「いろいろな事情の人がいるわけだし」と思うことは、「本来あるべき状態」の範囲を広げている、ということになるのです。
こういう作業を繰り返していくと、だんだんと、自分にとっての主観的な「本来あるべき状態」が、必然としての「本来あるべき状態」に近づいていきます。
つまり、どんなことでも受け入れられるようになってくるのです。
もちろん、最初のうちはイラッとしますし、「イラッとする」が「イライラする」に移行してしばらくしてからようやく「本来あるべき状態」を修正することができる、というようなことが続くと思います。
やがて、「イラッとする」けれども、「イライラする」への移行は防げる、というくらいになってくるでしょう。
そして将来的には、イラッとする」頻度も激減してくるはずです。
これが、いわゆる「寛大な人」ですね。
そうなれば、自分もイライラしませんし、周りの人からも、その寛大さと安定感ゆえに愛され慕われることでしょう。
「寛大な人」を装うと「被害者モード」が倍になる
「寛大な人」に見られたくて、本当はイライラしているのに、ものわかりのよいふりをしている人もいると思います。
つまり、イライラを我慢している人です。
こういう人は、トラブルこそ起こさないものの、本人のストレスは大変なものでしょう。
イライラは我慢すると膨張します。
それは「被害者モード」にとどまったまま我慢をすると、「被害者モード」がより強まってしまうからです。
「〇〇のせいで・・・」という感覚を残したまま、「〇〇」にもよい顔をする、というのは大変なことです。
また、なぜそういう姿を装うのかというと、人からどう思われるかが気になるから。
「狭量な人」「未熟な人」と思われたくないので、寛大なふりをするのです。
このときに、主役が「他人」になっていることに気づいているでしょうか。
「被害」と「被害者モード」を区別することは、誰が主役かを決めること。
「被害」を認めるときの主役は自分、「被害者モード」に陥るときの主役は他人です。
そして、人からどう思われるだろうかということを気にするときの主役も他人。
つまり、「被害者モード」と同じ心境なのです。
ですから「〇〇のせいで・・・」という思いを抱えたまま、人からどう見られるかを気にして、寛大なふりをする、ということになると、単に「被害者モード」が倍になるだけ。
主役は他人で、自分は一被害者であり、かつ「他人から点数をつけられるだけの対象」ということになってしまいます。
あまりにも無力ですし、どこにも自由な主体性がありません。
もちろん、イライラを我慢しないで単にぶつければよいわけではないのです。
そして「寛大な人」でありたい、というのは、多くの人の願いでもあると思います。
ポイント:自分の期待を相手の現実に合ったものにすれば「寛大な人」になれる。
どのように伝えればできる相手なのかを考える
例:ほったらかしにされた茶碗にこびりついた米かすを急いで洗い流すとき。水につけておいてって、何度言ったらわかるの、とイライラ
こんなときのイライラも、自分が相手に期待していることを相手がやってくれていないために生じます。
この場面で自分が考える「本来あるべき状態」は、「水につけておいて」と過去に言われたことを受けて、きちんと実行すること。
しかしそれが満たされず、何度言ってもそれが実行されないということで「コントロールできない感」をもたらしています。
イライラする条件がそろっています。
しかし、何度言ってもできない、ということは、やはり「相手にはできないこと」なのか「伝え方が相手に合っていない」のかのどちらかなのです。
茶碗を水につけるということが物理的にできない人はあまり多くないでしょう。
また、「水につけておいて」と言ったときには本人もいったん了解しているはずですから、「やる気になればできるはずのこと」なのだと思います。
ということは、この場合は「伝え方が相手に合っていない」というケースになるでしょう。
人によっては「注意」の問題を抱えていることもあります。
そういう人は、ただ口頭で「水につけておいてね」と言うのではなく、「茶碗は水につけること」と紙に書いて必ず見るところに貼っておかないと実行できないでしょう。
そうでもしないと、食べ終わったときには、すでに「次にすべきこと(仕事など)」に注意が向いているため、食器を水につけるようにいわれていたことが完全に頭から抜け落ちてしまうのです。
言われれば思い出すのですが、その時点でそちらに注意が向かないと実行はできません。
このような特徴は、いくらイライラして待っていても変わらない性質のものです。
あるいは、「言い方が気に入らない」という人もいます。
イライラした言い方で「何度言えばわかるの!」などと言われてしまうと、言い方に「攻撃」を感じとった相手は、とりあえず自己防衛に走る、という場合が少なくないのです。
これは専門的には「受動攻撃性」などと言われるものですが、何もしないことであえて抗議の意を示しているのです。
そういう人に対しては、「洗い物のときにとても困るの。お願いね」と優しく頼むと、やってくれる確率がぐっと高まるでしょう。
相手に合わせることで自分が主役になる
ここを読んで、「当然のことをやっていないのは相手のほうなのに、なぜ低姿勢でお願いしなければならないの?」とイライラした人がいるかもしれません。
しかし、先ほどお話ししたように、ここで目指しているのは、「成功率100%」。
事態を自分の思い通りに動かすことです。
「水につけておいてもらえない」という自分の「被害」を取り戻すために最も効果的な方法を考える、ということをしているのです。
今までのやり方では現実が変わらないので、別のやり方を考える、それも、相手にとっての「本来あるべき状態」に合わせたものにすれば、成功確率が格段に高まる、というだけの話なのです。
相手に合わせて期待を変える、というのは、一見屈服することのように見えますが、ここで実質的に行われているのは、「自らが主体的に関わって事態をコントロールすること」です。
つまり、自分が「主役」になる、という話なのです。
場合によっては、自分が主体的に関わることで相手にとっての「本来あるべき状態」を変えることも可能です。
例えば、自分が指示されていることの理由がよくわからないためにやらない、という場合。
食器洗いをする立場の人にとっては常識である「水につけておかないと米かすがこびりついて取れない」ということも、不慣れな人にはピンとこないかもしれません。
そういう人には、一度、立場を代わってもらったり、一緒に実験してみたりして、納得してもらうと、相手にとっての「本来あるべき状態」が、こちらのものに近づいてきます。
ポイント:相手に合わせた伝え方をすると、事態を思い通りに動かせる。
まずは実体験する
ここまで見てきたように、「被害者モード」を手放して主体的に関わろうとすれば、伝え方を変えてみたり、相手に期待することを考え直してみたりして、最終的には「自分が期待した通りのことを相手にやってもらう」ことが実現できます。
もちろん、そこで言う「自分が期待した通りのこと」というのは、当初考えていた「本来あるべき状態」とは違った形になっている場合が多いかもしれません。
しかし、変わらない現実を前に「被害者モード」に陥ってイライラし続けるよりも、よほどストレスなく自分の思い通りに物事を進められることは間違いありません。
つまり、現実を受け入れると、コントロールできる範囲が広がるのです。
そして、実際に「自分が期待した通りのことを相手にやってもらう」ということには、単に物理的に「自分が求めていた何かがなされた」という以上の意味があります。
それは、人間同士の温かい交流なのです。
「何もやってくれない!ゆるせない!」と思っていた相手が、自分のために誠実に何かをしてくれる姿を見ると、胸が温かくなります。
これはイライラとは対極にある心境です。
人間は、自分の存在や思いを受け入れてもらえると、他のものでは代え難い満足や癒しを得るのです。
また、「頼んだらやってくれた」という一つの成功体験を持つことは、未来への希望を与えてくれるものです。
相手のよい側面を知ることにもつながりますし、もともとの相手の状態についても、「悪気があって怠けていたわけではなかったんだな。
本当にできなかったんだな」と受け入れることができるようになります。
こんなふうに、実体験には、理屈を超えた力があります。
いったん体験すると、その気持ちよさから、ここで述べた内容の説得力も格段に増すと思います。
ですから、まずは体験してみてください。
ポイント:実体験は「心からの納得」をもたらすもの。とりあえず、チャレンジ!