他人のことが気になる心理は無意識にあり

他人のことが気になる心理

人間関係は無意識で9割決まる

意識の上では周囲の人に従順に接しているつもりなのに、無意識下では「敵意」がある。
意識では控えめに遠慮して生活しているのに、無意識には敵意がある。

社会的に立派な大人として生活しているのに、無意識では、わがままな幼児のまま。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローの言う「疑似成長」である。

自分では一生懸命に人に親切にしているつもりでいる。
それなのに周囲の人の反応は期待した反応とは違う。
望んだように人に好かれない。

それは、その人の無意識に、深刻な劣等感があるからである。
劣等感の現象のひとつは「人間嫌い」である。
つまり実はその人は周囲の人が嫌いなのである。

ただそのことに本人は気がついていない。

相手はその人の無意識の敵意、劣等感に反応している。
だからその人は頑張っても、頑張っても期待したように好かれない。
望むような人間関係ができない。

意識の上でどんなに親切にしても、相手はその人の無意識に反応するから、楽しい人間関係は形成されない。

すると「自分がこんなに頑張っているのに」とますます不満になる。

友人、同僚、部下ばかりではない。
親子でいえば親は子どもにますます不満になる。
夫婦でいえば、相手にますます不満になる。

夫や父親の「俺がこんなに頑張っているのに」という気持ちに嘘はない。
しかし相手はその人の頑張っている態度に反応しているのではない。
その人の無意識の敵意や劣等感に反応しているのである。

「もっと愛してほしい」執着の正体

権威主義的な親に従順な子どもは、「依存と頼りなさの過度な感情」を持つ。

服従によって意識的には安定するが無意識においては不安。
服従と敵意は同じコインの表と裏、だから感情は不安定である。

「依存と頼りなさの過度な感情」を持った人ほど他人が重要になりすぎる。
そしてその頼りなさから、他人のひと言で心が動揺する。

心が動揺すれば動揺するほど、人にしがみつきたくなる。
しがみついた人の言葉でさらに心が動揺する。
どんなに善良な人でも、この悪循環に陥って消耗し、やつれていく。

心理的に病んだ人々は執着の激しさを愛情の激しさと錯覚する。

不安から相手にしがみつく。
そのしがみつきの激しさを自分の愛情の激しさと錯覚する。

愛情の激しさと思っているものは、不安の激しさでしかない。
「相手をこんなにも必要としている」という自分の気持ちを「自分はこんなにも愛している」と思い込んでいる。
愛されたい要求の中に「敵意」が隠されている。
相手が自分のことをどんなに愛していても、愛を感じない。

「依存心が強いまま」で恋愛、結婚、親子関係になれば、どんなに恐ろしいことが起きるか。

自分がさみしいから因縁をつけて、その人にこだわる。
よくあることである。

他人の言うことを気にすまい、気にすまいという無意味な努力をするよりも、「なぜ自分はこんなに依存心が強いのか?」という過去の人間関係を見つめなおすことが、意味のある努力である。

私たちは「人の言うことが気になる」という表に現れている現象にとらわれ、それを直接的に解決しようとする努力をする。
その現象の背後にある本質に注意を向けない。

しかし、私たちの感情は、ただ「気にすまい」と思って気にならなくなるほど、単純ではない。

アメリカの精神心理学者フロイデンバーガーは”燃え尽き症候群”になったか、ならないかを判断できる確実な方法のひとつは自分のエネルギーの状態をみることだと言う。

そして、「もしいつもに比べて顕著に低いときは、なにか異常がある。」と言う。

こういうときに元気を出そうと努力することは、より消耗していくだけである。

「なにがこんなにストレスになっているのか?」あるいは「不誠実な人に、不必要に尽くして消耗しているのではないか?」あるいは「不誠実な人に、不必要に尽くして消耗しているのではないか?」などといまの自分の人間関係を見つめることである。
「自分は怖がる必要のないなにを怖がっているのか?」などなど、いまの自分の人間関係を見つめることである。

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他人のことが気になるのは意識ではなく無意識にあり

あの人はなぜ、些細なことで怒りだすのか

その人の無意識の領域に隠されていた本質は、長い人生で、いつかどこかで偽装された姿で現われてくる。

仕事はよくできるが、人との関係が依存的敵対関係になる。
仕事はよくできるが、配偶者との関係は悪いという人は多い。

仕事では成功者であるようなエリート官僚が些細な失敗でノイローゼになる、親子関係、夫婦関係で失敗する。

エリート・ビジネスパーソンが、ある日突然、燃え尽きたり、うつ病になる。

社会的に成功していても心の支えになるような人がいないのである。

社会的成功していても、心理的には「疑似成長」しているだけだからもともと危険な状態であったのだ。

彼らには意識と無意識の乖離があったに違いない。
だから周囲の人に笑顔を振りまきながらも、周囲の人に心を閉ざしていた。

彼らの無意識の領域に隠されていた本質が、そのような形で現われたのである。

そこには隠された怒りがあったか、記憶の中に凍結された恐怖感があったか、あるいは最も深いところに深刻な劣等感があったか。
深刻な劣等感は本当の感情を認識することを妨げるという。

要するに、劣等感は抑圧されがちである。

小さなことで悩む。
些細なことで悩む。

心理的に健康な人は、なんでそんなことで悩むのだと不思議になる。

些細なことに悩んでいる人に、なんでそんな些細なことに悩んでいるのだ、悩まなくてよいと、理屈で説明しても、相手の悩みは消えない。

不安な人は、人の何気ない言葉で心が動揺する。
冷静さを失って感情に走る。
人間関係は些細なことでトラブルになる。

その些細なことが問題なのではない。
不安が心理的基盤になっていることが問題なのである
問題は、不安で心が混乱しているに過ぎない。

すぐに心理的に動揺する。
感情の起伏が激しい。
気難しい人。

人が些細なことで怒ったときには、重大な問題で怒ったときよりも、パーソナリティの視点から言えば、問題は深刻である。

夫は、妻の返事の仕方ひとつで、ものすごく怒り出す。
その怒りがなかなか収まらない。
そんな些細なことでなぜそこまで激怒するのかまったく分からない。
そう嘆く女性は多い。

理屈としては簡単である。
夫は不安。
そして敵意と攻撃性が大量に心の底に堆積している。

「臨床的にしばしば観察される現象であるが、反抗的な意味で独立的で孤立した人間は、他の人々と確認された関係を結びたいという欲求と願望を抑圧している。」

また、なにかちょっとしたことでも思うようにいかないとすぐに落ち込んでしまう。

それは、個々の事柄が問題なのではなく、根本のパーソナリティが不安だから、ちょっとしたことが大ごとになる。
もとになる土台が不安定なのである。

心理的に完全に健康な人などいない。
だれでも神経症的部分は持っている。
その神経症的部分に直面すれば、道は拓けてくる。

ジョージ・ウェインバーグは、ある真理を見たくない、感じたくないという欲求は、すべての神経症的傾向が強い人に見られる、と言っている。

自分が見たくない真実とはなにか?」そう考えれば、道は拓けてくる可能性が出てくる。

人間が正気であるためには人とかかわりあいを持たなければならない。
それは性や生命への欲望にも増して強いものである
」と社会心理学者のエーリッヒ・フロムは言う。

社会的に成功しながらも、人生につまずいた人は、どこが問題だったのか。

彼らは社会的に成功したが、フロムの言う「人とのかかわりあい」に失敗していたのである。

だが、この「人とのかかわりあい」の失敗は外からは目に見えにくい。

社会的にはエリートだが、心の中は、小さいころ迷子になったときの気持ちである。

なぜか心は焦っている。
しかも自分の心の中の迷子の気持ちに、本人自身が気づいていない。

自分が心理的に迷子になってしまったと、自分が分かっていない。

社会的にはエリートでも、なぜか心は焦っている。

ただ社会的に成功して偉くなっても、それだけでは人格は備わらない。

真の人格者は心理的に迷子ではない。
自分の生き方に自信がある。

人格者はゆとりがある。
そのゆとりとは時間のゆとりではない。
心の中の満足度である。
心が満足している人は人におせっかいをしない。
「今日も満足して生きた」という積み重ねが人格である。

心の支えになる友人がいないという現象の裏に隠された本質は、その人が自発的な感情から人と接するような人間になっていないということである。
つまりその人は無意識に基本的不安を抱えている。

そういう人は、自分の無意識の基本的不安に気がつかない限り、どんなに人間関係で努力しても幸せな人の特徴であるいい人間関係はできない。

人は外界に適応しなければ生きていけない。
しかし外界に適応することがそのまま心の必要を満たしているということではない。

つまり社会的に適応していることがそのまま情緒的に適応しているということではない。

社会的に適応していると情緒的に適応していなくても問題がないように外からは見える。

「特別な存在でありたい人」が進む道

それぞれに原因は違うが、「引きこもりの人」の中には、意識では壮大な自己イメージを捨てられない人がいる。
だから心を開く友人ができない。

周囲の人は、その人とのよい人間関係の形成に努力しない。
現実のところは、その人の壮大な自己イメージを受け入れられない。
付き合いたくない。

そうなれば、その人は引きこもるしかない。
壮大な自己イメージに最後まで固執すれば、現実の社会では引きこもる以外に生きる道はない。

引きこもる人の意識にあるのは神経症的要求である。
壮大な自己イメージである。

しかし無意識にあるのは、深刻な劣等感である。
その反動形成としての壮大な自己イメージである

その自分の無意識に、本人が気づかない限り、いくら意識で努力しても、効果はない。

無意識に、依存心や甘えがあり、それに気がつこうとしないままに、周囲の人に壮大な自己イメージの扱いを求める。
自分をそのような人として扱い、評価することを周囲に求める。
残念ながら意識的努力はすべて水泡に帰する。

壮大な自己イメージの内容は、ナルシシズムであり、依存心であり、母親固着である。
フロムのいう「衰退の症候群」の要素である。

その壮大な自己イメージは現実には挫折する。
それがその人の人生への絶望感となる。
そしてその人はその絶望感を抑圧する。

その抑圧された絶望感こそ、まさに「人は常に苦しみたがる」原因である。
「苦しみ依存症」のようなものである。

壮大な自己イメージを持ちながら、その意識の領域の不満が無意識に追いやられ、意識と無意識の乖離が深刻になり、自分が何者だか分からなくなる。
自分自身が、なにがなんだか分からなくなる。

周囲の人に対して、心の底には不満が積もりに積もっていく。
毎日毎日、不満が心の底に堆積していく。
そして最後は引きこもるしかなくなる。

「自己拡大的解決方法で人生の諸問題を解決しようとしている人は、人間関係や仕事で困難が表われる。根底において他人とつながっていない彼の存在の姿は、近い人との関係で表われる。」

近い人に対して不満で心の中がもやもやしている。

近い人に対するなんとはなしの不満や怒りは、実はその人が心の底では誰ともつながっていないということに起因する。

日常生活で親や近い人に、素直になれないのは、誰ともつながっていないことに起因する。

問題は、自分が誰とも心でつながっていないということを意識できていないことである。
自分の日常生活での慢性的不満は、実は自分が誰とも心がつながっていないことが原因であるということに本人は思いもよらない。