傷つきたくない人に恋をする資格などない

傷ついたぶん得になる恋愛もある

傷つくのがいやだから恋愛できない、そんな人が増えているようです。

恋愛に限らず、何事に関しても全力でぶつかることのできない人の心の深層には、自分を投げ出し全てを賭けたあげくに、失敗して傷ついたりしたらもう立ち直れない、といった心理があるはずです。

傷つくことを恐れる人は、裸の自分を相手にさらすことができません。

できることなら自分の全てをわかってほしいし、ありのままの自分でいられる関係のほうが楽なのに、それがなかなかできないのです。

本気でぶつからずに逃げ道を残しておけば、万一失敗しても、
「もともとそんなに本気だったわけではないし、たいしたことないわ」
と自分をごまかすことができるからです。

全力でぶつかって、もし失敗したら、失うものがあまりに大きいというのはわかります。

でも、だからといって何事にもムキにならないというのは、夢をみることはしないというのと同じです。
実現可能性があまり高くないからこそ夢なのであって、非現実的な夢をみることで人は救われているのです。
現実の地平にへばりついて、無難に、なんらうねりのない毎日を送ることで、何が得られるのでしょうか。

私たちは、コンピューター社会の思考法にいつのまにか慣らされてしまい、何事に対しても情報を駆使して先を予測しようとする態度を身につけていはしないでしょうか。

コンピュータ労働者のなかには、コンピュータの思考法に染まってしまって、妻や子どもなど自分の意思をもった生き物、つまりこちらのプログラミングとデータ入力による予測を裏切る存在とうまく付き合えないという病気が出てきており、それがために離婚したコンピュータ未亡人(夫をコンピュータにとらわれた人)なる人もいるようです。

生きた人間と人間の関わりは、つねに互いの予測を裏切りつつ進展していくものです。
とくに恋愛などは、予想外の展開ばかりで先の予測がつかないからこそ、わくわくドキドキときめくのです。

いざというときのことを考えると、冷めていたほうが傷が浅くて済むから得だという意見を聞くこともあります。
たしかに、恋愛関係が壊れた場合、より大きなダメージを受けるのは、強く愛していたほうの人でしょう。
でも、結果的に束の間のものに終わったとしても、燃える心をもって二人の楽しい日々をぞんぶんに味わった人と比べて、夢をみることなく冷めた心で坦々とした生活を続けている人のほうが得だと、どうしていえるのでしょう。

傷つかないですむぶん得だというのでしょうが、その代わりに、輝くような二人の時や一体感の幻想による幸福感を経験することができないぶん、損してはいないでしょうか。
一人の他者を深く理解しようとし、お互いの誤解や対立を乗り越えようとするなかで、自分の性格を知り、その限界や可能性に気付いた人は、たとえ傷ついても得しているのではないでしょうか。

もちろん損得の問題ではないのですが、百歩譲ってそうした観点に立っても、冷めていたほうが傷つくことがなく得だ、などとはいえないのです。

長く続くのがよい恋愛ではない

そう思って情熱の火を絶やさずにいれば、いつかよいことがあるものです。
それで思いだすのは、ハーバート・ロス監督の「グッバイガール」です。

主人公のポーラ(マーシャ・メイスン)は、とてもチャーミングな女性ですが、どうも男運がよくないようです。

そして、どういうわけか俳優に縁があります。
娘ルーシーの父親も、つい最近まで同居していたトニーも俳優で、どちらもいい役がついたとたんにポーラを残して消えてしまいました。
俳優なんかロクなもんじゃない、もう二度と男になんか惚れるものかと心に誓うポーラですが、その前に現れた男エリオットは、またしても俳優でした。

はじめのうちは頑なな態度をとるポーラも、エリオットの優しさに触れ、心を開いていきます。
それでも、本気になってあとで傷つくのはもういやだと思うポーラは、引き返すなら今のうちと、ときおり自分の心にブレーキをかけますが、エリオットはものともしません。

たとえば、はじめて一夜を共にしたあと、またさようならになるのが怖いから夕べのことは忘れてくれと言うポーラに対して、「もう手遅れだ。日記につけてしまった」と言い、「恋なんてもう二度とお断りよ」と言うポーラに対して、「君が男に見放される原因がわかった。君は愛情の発育不全だ」と激しく食ってかかる。

とうとうエリオットの情熱がポーラの心の鎧を溶かし、今度こそうまくいくかにみえた矢先、ポーラが帰宅すると、エリオットが大役がついたと荷造りをしています。

エリオットは必ず帰ってくるからと言って出ていきますが、またグッバイガールになってしまうのではとポーラの心中は穏やかではありません。

そこに突然電話のベルが鳴り、「一緒に来い」とエリオット。

彼なら信じられると確信したポーラは、待つことにしますが、ようやくグッバイガールにグッバイできたというわけです。

映画だからうまくいくのよ、と言われればそれまでですが、ポーラがもう二度と人を愛すまい、心を開くまいという態度を頑なにとり続けていたら、もうグッバイのつらさを味わわずにすんだかもしれませんが、あたたかい心の交流も二度と経験できなかったはずです。

あたたかい心を素直に感じ、好意をこめた情熱に共振する心をもちつづけていたからこそ、運命的な出会いというものも成り立ちうるのです。

といっても、なにも結果が問題なのではありません。

情熱を向けた相手に一歩でも近づきたいと切に願い、甘い夢をみたり、悶々と苦しんだり、背伸びしたり、自己嫌悪に陥ったりするプロセスそのものが恋愛なのであって、結果として長く続いたか、うまくいったかなどは恋愛の本質に関係ないことです。

どんなに好きな相手でも全ての溝が埋まることなどありえない

傷つくのがいやだから本気にならないという人は、好意を寄せる相手から嫌われることを極度に恐れているようです。

そして、自分の弱点を知られるのを避けるために、必要以上に距離をおいて突っ張ったり、醜い自分が出て来ないようにサラリとした関係を維持しようとしたりします。

重たくならずに、楽しい部分だけを共有したいというわけです。

たとえば、性格的に分離不安が強く、本気になるとひとときも離れていられなくなるといったタイプの人がいます。

それがわかっているからあまり夢中になりそうもない相手をわざわざかぎわけて好きになるというケースもあります。
もちろん、本人がつねにそれを意識しているわけではありませんが。

普段はニコニコ穏やかにしていられるし、たいていのことには寛大で優しい女性との評判もある人が、恋愛したとたんに人が変わったかのように自己中心的な行動をとりはじめるということがあります。

分離不安の強い人は、限りなく相手との一体感を求め続けますが、別々の人間同士がどんなに理解しあっても、別々の人格であるかぎり、全ての溝が埋まることなどありえません。
そこでイライラしたり不安になったりします。

「このすばらしい状態がいつか終わってしまうのでは」
「ほんとうの自分を知ったら、彼は私を嫌いになるのではないかしら」
「もっと魅力的な女性が彼の前に現れたらどうしよう」

などと情緒不安定になり、穏やかな心のゆとりは失せ、やがて愛情とは裏腹の攻撃的な気持ちを恋人に向けることになります。

目の前の幸せにひたるよりも、それが失われることへの不安が先に立ち、愛していながら、これでもかこれでもかと恋人を追い詰め、かえって嫌われるような言動に出てしまうのです。

だから本気にならないように気をつけているというのですが、そのまま自分の本性に触れずに生きていても、何の解決にもなりません。
あえて自分の醜さに直面し、自己嫌悪にさいなまれ、相手からたたかれ、傷つくなかでひと皮むけていかないことには、一生ありのままの自分を生きるのを恐れつつ生きていかなければなりません。

ヤマアラシのジレンマの乗り越え方

相手を傷つけることになったらいやだから、深い関係を避けているという人も同様です。

たとえば、初めてのデートの頃は、たとえ三十分とか一時間とか相手が遅れてもニコニコしていられる。
あるいは、特別な関係にない相手が遅れてきても、さしてイライラせずに待てる。

それが、関係が親密になればなるほど、イライラするようになり、口をとがらせて文句のひとつも言いたくなる。
そんなふうにして、関係が深まると自分のなかのエゴがむきだしになってきて、相手を傷つけてしまう恐れがあるから、深い関係にはなりたくないというケースがあります。

人を傷つけたくないから深くつきあわないというと聞こえはいいのですが、逆にいえば、一歩を踏み出して自分が変わっていかないかぎり、いつまでも人を傷つける可能性をはらんだ危険人物でありつづけるということになります。

はじめから角のとれた人物などいません。
ゴツゴツした岩のかけらが、川床で水の流れに身を任せてぶつかりあい、削り合ううちに、まるくすべすべした石になっていくように、私たちも他人とぶつかりあうことで角がとれ、円味のある人格へと成熟していくのです。

その過程で、自分のゴツゴツした部分が相手を傷つけてしまうのはやむをえないことです。
ぶつかりあうことを避けていては、いつまでたってもゴツゴツした岩のままで、ちょっと触れただけで人に怪我をさせるようないやな自分でありつづけなければなりません。

山アラシのカップルが、寒いからお互いのからだを暖めあおうと近づく、近づきすぎてお互いのからだのトゲで相手を傷つけてしまった。
痛さのあまり遠のいたりまた近づいたりを繰り返しながら、互いに暖めあうことができ、かつトゲで相手を刺すことのない、ほどよい距離をとることができるようになった、という話があります。

これは「山アラシのジレンマ」とよばれるものです。

自分のなかの醜い部分、なかなかコントロールしきれない部分は、抑圧されたまま、不発弾のように不気味に存在しつづけます。
距離をおいたつきあいに終始する人は、自分自身とも切り離されたままでいなければなりません。

別々の人間と人間が限りなく近づこうとあらゆる手段を尽くす恋愛は、二人の間の貴重な体験を与えてくれるだけでなく、ほんとうの自分と出会う機会を与えてくれます。

だからこそ恋愛関係を恐れる人も出てくるのですが、それだからこそ素晴らしい可能性をはらんでいるのです。