人に好かれない自分が好かれる自分に変わる原則

好かれるためには、そんなに世間的に成功することよりも、相手の好意を受け入れることのほうが大切である。

世間的に成功しているが、相手の好意を受け入れることができない人は好かれないであろう。

親しまれないであろう。

親しくなる、好くということは、相手の側の問題である。

相手が自分を親しく感じるようになる、自分を好きになるということである。

それは自分の問題ではない。

愛する能力のある人は、弱点をも含めて相手を愛するのである。

人に好かれない人は嫌われることを恐れて、ありのままの自分を隠している。

しかし相手は「あなただけはありのままのあなたであって欲しい」と思っているかもしれない。

人に好かれない人は自分は駆け足が遅いと認められない、自分は美人でないと認められない、それは、遅いと認めたら、自分がいい子という証明がなくなるから。

それは親が、駆け足のはやい子は「いい子」と言ったから。

人に好かれない人は認めてしまったら自分の人格がなくなると思っている、でも認めることで人格が磨かれる。

認めることでバカにされると思っているが、認めることで皆から親しまれ、好かれる。

それを認めない、人に好かれない人は、必ず恋人を失う。

人に好かれない人はかならず親友を失う。

見捨てられる不安のある、人に好かれない人は、相手と言い争うとそれだけで、もうその関係は壊れてしまうのではないかと恐れる。

人に好かれない人はそこで言い争うことを避ける。

人に好かれない人は言い争うということを、もの凄いことに感じる。

しかし見捨てられる不安のある、人に好かれない人が「言い争い」と感じていることを、必ずしも相手が同じようなものと感じているとはかぎらない。

同じ体験を、ある人は「結末にいたる言い争い」と感じ、もう一人のほうは「単なるコミュニケーション」と感じているかもしれない。

見捨てられる不安のある、人に好かれない人に、「あなたは恋人と何回喧嘩しましたか?」と聞いたとする。

同じことを心理的に安定した恋人に聞いたとする。

恋人同士で共通の体験をしながら、解釈は違っているはずである。

おそらく喧嘩をしたと思っている回数はかなり違う。

見捨てられる不安のある、人に好かれない人は、「意見が違いながらも相手が自分を好きだ」ということが理解できない。

「相手が自分の弱点を指摘しながらも、自分を好きだ」ということが理解できない。

だから人に好かれない人はちょっとした欠点の指摘で、深く傷ついてしまう。

人に好かれない人はものすごく不愉快になる。

人に好かれない人はちょっとしたことでも取り返しのつかない喧嘩と感じてしまう。

そして人に好かれない人はその意見の食い違いに、心の中でこだわってしまう。

あるいは人に好かれない人はその弱点の指摘にこだわってしまう。

人に好かれない人はなかなか忘れられない。

ある離婚経験者同士の恋愛である。

二人ともが幸せになれるだろうに、ふとしたことから結婚にいたらなかった。

お互いの子どもの育て方を話していたときである。

女性のほうが深い意味もなく「ずるい」という言葉を使った。

それが人に好かれない男性に堪えた。

その言葉を言った側の真剣さと、受け取った側の真剣さが違いすぎた。

女性は、その男性がずるくても好きなのである。

しかし人に好かれない男性は、ずるいということは嫌いだということにしか考えられなかった。

それを別れの言葉としてしまった。

相手の言葉をどう解釈するか、これは大問題である。

相手の言った言葉を、相手の言った意味においてとらえることは、ときに外国語を理解するより難しい。

批判は、「愛さない」ということではない。

しかしある人に好かれない人にとっては、成長過程では、それが愛さないという意味であった。

嫌いだという意味であった。

そこで「別れたい」という意味にとらえる。

存在を拒否されて、心の底で孤立して成長した人に好かれない人にとっては、批判は堪える。

存在を拒否されて成長した、人に好かれない人にとって批判は、「愛されない」という意味である。

人に好かれない神経症者にとって、いかなる批判も、それは「愛さない」と言う意味に受け取られる。

同じように、自分が相手に言うことも、自分の言った意味で相手がとらえているとはかぎらない。

どのようなことに屈辱を感じるかは、人によって異なる。

したがって、侮辱するつもりで言った言葉ではないのに、相手が屈辱を感じるということはある。

そんなつもりではない。

そういう意味で言ったのではない。

こんな会話がよく交わされる。

ある人はただ面白がって、会議で自分のアイデアを話した。

すると別の人は、その人がそのアイデアを実行してくれるものと期待する。

どのレベルで話したか、どのレベルで聞いたかで誤解が生じる。

もともと、どのようなときにも、どのような状況で使われても正しいというような言葉があるわけではない。

どの人が、どのような状況で使うかで、その言葉が正しかったり正しくなかったりする。

その言葉を言っていいか悪いかは、その状況と、誰が言うかで決まる。

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喧嘩できない人が本音を言うチャンス

結果よりプロセス(過程)を大切に

明るいことがいいことだ。楽しくすることがいいことだ。

そこで「明るく楽しくしていると好かれる」と本に書いてある。

しかし人が真剣に話している時に、手を叩いて「あー、ヨイヨイ」とちゃちゃをいれたらどうなるか。

どんな言葉でも状況の中で言われている。

人に好かれるかどうかは、結果である。

それを目的にして生きてはいけない。

人に好かれるかどうかは、手のひらの上の鳥である。

神経症的傾向の強い人に好かれない人は、「結果として得られるものを目的にして生きているという、重大な過ちを犯している。

人に好かれない人は成長動機ではなく、欠乏動機で動いているということである。

人に好かれない人は軽蔑されていないのに軽蔑されていると思い、虚勢を張る

そして人に好かれない人は人を批判することで、自分を防衛する。

自分を不必要に守る、人に好かれない人は、人から責められていると思っている。

城を守るというときは、敵が攻めてくるときである。

自分を守る、人に好かれない人は周囲が敵と思っている。

自分が臆病であることを認められない人に好かれない人が、人を「あいつは臆病者だ」と言って批判する。

これを投影という。

投影している、人に好かれない人は、「自分は臆病ではない」と人々に思われていると思っている。

しかし実は、ほとんどの場合、周囲の人々は、その人が臆病だと知っている。

テントウムシに斑点があることを、皆は知っている。

当のテントウムシだけが、皆は自分の斑点を知らないと思って、トンボの真似をしている。

そして他のテントウムシを見ては、「あの虫は赤い斑点がある、おかしいなー」と笑っている。

しかし言っている自分は何となくぎこちない。

そして、人に好かれない人は、言えば言うほど怖くなる。

仲間に受け入れられているテントウムシは斑点を隠さないし、斑点をバカにしない。

無理をしている、人に好かれない人は、仲間に受け入れられていない。

弱点と思っていることを隠している、人に好かれない人々は、お互いに不信感がある。