怒りを抑え込む
自分が手にするはずだった多額の手数料を、上司に横取りされた。
はらわたが煮えくり返る思いがするが、口に出しては何も言わない。
抑え込んだ怒りを会社から家庭に持ち帰り、夕食のときあらいざらい妻にぶちまける。
デザートを前に、まだむかむかとタバコをくゆらせていると、仕事には関係のないささいなことで上司が立ち寄る。
たちまちミスター・ロジャース(アメリカの人気テレビの主人公。やさしく愛すべきナイスガイ)のようにやさしげな声で、つい出迎えてしまう。
医師を神様扱いするのをやめるずっと以前のことだ。
Aさんは定期健診のため内科医の診療所へと急いでいた。
午後二時ちょうどの予約に間に合った。
それからニ十分後、まだ待合室で雑誌をめくっていたAさんは、受付の窓をコツコツとたたき、ていねいにたずねた。
「あとどのくらい待つでしょうか?」。すると「大してかからないわ」との答えだった。
けれども、それは表向きの返事のように思えた。
それから十五分後、どうして診療が遅れているのかとたずねてみると、「先生が昼食に行ったまま戻ってこないの。でもすぐ戻るはずよ」という返事だ。
うんざりしたが、さらに消毒薬の臭いのする小部屋に連れていかれるまで三十分以上待たされた。
下着姿のままでもう十五分―胃がキリキリするのを感じたが、それでも冷静さを保っていた。
ほぼ三時半ごろになって、ついに医師が現われた。
遅れたことの詫びらしき言葉をぼそぼそつぶやく医師に、Aさんは言った-「いいんですよ」。
怒りについて語るときは、自分の内なる不快感や仕返ししたい感情にふれることになる。
これは自分を脅し、利用し、あるいは何らかのかたちで虐待してきた相手を思うと、誰もが経験する感情だ。
人には攻撃されたらやり返そうという感情が備わっている。
この世に生を受けた瞬間から、自分の利益を誰もが侵害するのだから、生きることは怒ることだとも言える。
生きることは怒ることだとも言える。
生きるとは、一個としてのレベルで考えれば、自分の領土と生き残りを賭けて競い合う戦いであって、いつも傷つけられているとか侵害されているといったような気分になる。
腹を立てる理由はいくらでもある。
子どものころ、親が自分にしたことにいまだに腹を立てている人だっているくらいだ。
やりたくないことを強いられたり、ほしいものをもらえなかったりする状況におかれると、人はいらだつ。
恋に落ちて、まわりが何もみえないようなときでさえ、遅かれ早かれその愛する相手は自分を怒らせるようなことをしでかす。
もっとも、たいていはその怒りは自分の中に収められる。
さらに、天気の話題から世界が抱える問題まで、およそ自分のコントロールが及ばない世間の事柄に対しても私たちは腹を立てる。
それがわざとであってもなくても、人や制度が誰かを不公平に扱ったり、環境を破壊したりすることに怒りを覚えるのだ。
相手が異性だということも、怒りの原因になる。
さらに心の奥で、私たちは人生の最終的な価値が死であることを恨めしく思うのだ。
実際、みんながじつに多くのことについて、じつに多くの人たちに-とりわけ最も愛する人に対して-じつに頻繁に怒っているのだ!
もちろん、なかには怒りの度合いが他人より強い人もいる。
怒るたびに感じる不快感は、そのときによって驚くほど違う。
おだやかな怒りは、困った、イライラする、うんざりするといった言い方で表現できる。
もっと強烈な怒りは、憤り、憤慨、激しい怒り、憤激といった言葉があてはまる。
ここで、いまだに謎の多いこの複雑な感情を、なんとか単純化してみよう。
慢性的でなく、感情の爆発するようなものではない怒り、つまり、人が何らかのかたちで周りの人と接するときに、ごく普通に感じる怒りに焦点をしぼってみたい。
それは私たち自身そして、大切な人間関係を脅かすような、ごく日常的な怒りのことだ。
もしあなたが、思慮深くて気のつく典型的ないい人ならば、もちろん怒るのは嫌いだし、とりわけ大切な人に対しては怒りたくないはずだ。
怒りを未成熟で間違ったものだととらえていて、怒りは乗り越えるべきだと考えている。
その場合、起こる自分に対してむっとしてしまうこともあるだろう。
怒っている自分はあまり自分らしくないと感じるかもしれない。
ときには、腹を立てたことを詫びたりさえするだろう。
とはいえ、もうおわかりだろうが、人のよさは怒りに対する免疫にはならない。
そして、自分の生活にかかわる人たち、日々あなたを怒らせるのだ。
- 家族に汚れた食器をそのままにされ、食器洗いを押し付けられる。
- 兄の車に便乗したら、むちゃくちゃなスピードを出した。
- みんなの前で友人に何度もけなされる。
- 留守を頼んだ隣人が猫にエサをやってくれない。
- パーティでパートナーがほかの異性に興味を示し過ぎる。
- 自分の怒りを誰かにとがめられる。
大切な人に怒りをあらわにするたび、社会的存在としてうまくやっているはずの自分がゆらいでしまう。
怒りをコントロールできなくなったり、それを言葉にしてぶちまけたりしようものなら、相手との関係を破壊してしまうことだってありうる。
仕事上の信頼関係、そしておそらくは人生そのものまで失うかもしれない。
そんなことが見の上に起こらぬよう、ここでは、自分にとって大切な人たちに腹が立ったとき、前向きな対応を見つけ出す手助けになるだろう。
まず何よりも大切なのは、怒ること自体は間違いではないと理解することだ。
怒ることは間違いではない
怒りは間違いではない。
間違いとはよくない選択をいうが、いい人はたいてい、怒ることを選びはしない。
また、どう怒ればいいのか、誰にも教わる必要はない。
怒りは私たちの内側で、許しもなく自動的に発生するものだ。
誰かに足を踏まれたりすると、痛みの感覚と化学物質がただちに脳と格闘し、仕返しの準備をさせる。
アドレナリンが瞬時に血液中に送り込まれ、血糖値は上昇する。
まわりの雰囲気も自分自身も、まるで充電状態になってくる。
残念なことに、怒りについてはあまりよく理解されていない。
体験的に理解するだけでなく、科学的な解明という点においても、しばしば混乱と議論のあるところだ。
けれども、誰でもわかっていることは、この情緒反応のシステムが信号を送ると、たちまち怒りとなってうなりをあげる点だ。
いい人が気に病む、人付き合いで生じる怒りは間違いではない。
それは何が正しいかを察知する、生まれつき備わった感覚から自然とわき上がってくるものなのだ。
心を傷つける人たちが、私たちのいわゆる公正さを目覚めさせる。
この情緒反応は、自己防衛手段の基準と一致するよう社会に訓練され、管理される一方、性別や体の大きさなどと一緒に遺伝子に組み込まれているのだ。
そのせいで、私たちは、「それは違うわ!」とか、「不公平だ!」といった声を上げる。
その感覚が伝えているのは、人も制度もそれぞれ活動に責任をもち、ほかの人を虐げてはならないという点だ。
心を傷つけられた結果、不快になるのはごく自然な作用であり、正当である。
だから、怒りとそれに伴う不快感も、間違いだとは言えない。
基本的な例を考えてみよう。
四歳の男の子が姉にお気に入りのおもちゃをとりあげられてしまった。
彼の内側でアラームが鳴り出す。
泣き叫び、床に寝転がって足をばたばたさせ、姉にかみつく。
怒っているのは、自分中心に世界がまわっていると思っているためではなく、自分のおもちゃで遊びたかったからでもない。
姉がしたことは不正で、それが通るわけはないと思ったのだ。
彼は姉の行動について”有罪”の判決を下した。
弟はたったの四歳だが、両親が姉を叱ってそのおもちゃを返すようにさせなければ、きっと弟は両親に対しても、有罪の判決を下すだろう。
誰もこの子どもに、「君は正しい。このまま踏みつけにされていたらだめだ」とは言わなかった。
「きみの両親は、姉さんが君にしたことを黙って見ていちゃいけない」と彼に教えてくれる者もいなかった。
もちろん、かみつくといった行為は正当化されないし、結局は自分の首を絞める。
だが、その怒りは、権利意識やフェアプレー精神、自分の所有権、そして何よりも自分自身の心を傷つけられたことから生じているのだから、間違いだと決め付けることは誰にもできない。
怒りが間違いであるはずがない。
怒りは、理にかなったゴールにたどりつく手助けをしてくれるものだ。
くじけそうなとき、怒りは前進する力になる。
まわりの人との接し方を変えるよう手を貸してくれる。
怒りが、生まれつき備わった公平さの感覚に共鳴すると、相手に謝ろうという気持ちを起こさせ、虐待をやめさせるのだ。
そうなるのが当然だし、私たちの望む結果でもある。
怒りを表現しないでいるのは、「自分は傷つけられてもいい」と公言するようなものだ。
怒りを間違いとは呼べない。
怒りは希望あふれる正義のビジョンで、憂うつな感情や苦悩の内にある美しさ、意義、希望を生み出しながら、これまで世界の優れた文学や芸術に命を吹き込んできた。
また、怒りは不公平な権力に抵抗する力を人々に与え、政治的改革を助けもする。
事実、世界で起きるプラスの社会変化はほとんど、怒れる人々によって実現されている。
一人ひとりが社会に無関心だったり、不誠実に対する自分の怒りを表わせないでいると、専制政治や腐敗政治、残虐行為をはびこらせる。
怒りの強烈さは人をおびえさせるが、怒りを正常で普遍的というだけではなく、便利なものとしてとらえることも大事だ。
怒りは人間関係を修復したり構築し直すこともできる。
宗教を例にとれば、神という神は不誠実、搾取、そしていろいろな個人虐待について聞かされれば怒りを表わす。
子どものころ私たちが教えられたのとは正反対である。
怒ることは間違いではない。
怒りについての誤った考え方こそ間違いなのだ。
これまで親や世間から教えられてきた考え方をもとにして怒りをとらえていては、いやでも自分の中に、間違ったものの見方ができあがってしまう。
そんないい人が自分の怒りについて犯している間違いに気づくことは不可能だ。
なぜ、怒りを抑え込むのか
怒りとは情緒的な経験であって、行動ではないとされているようだが、怒りに関するいい人の勘違いは、怒りをどのように処理するかという点にある。
まずは「いい人ではない人」たちがどのように怒りを表現するかを、ちょっとみてみよう。
- このトンマ、とっとと消え失せろ!
- まったく、あんたの言うことは頭にくるぜ。このマヌケ!
- ばか言うな、このアホ!おまえの出る幕じゃないよ!
- あの手数料はオレのもんだぜ。このゲス野郎。オモテへ出ろ!
いい人にすれば、たまにはこんなふうに、湯気を噴き出すように怒ってみたい・・・と思うかもしれない。
けれどもいい人は、もしそうできたとしても、そんなことはしない。
憎むべき犯罪には、炸裂する怒りがつきものかもしれない。
だが、普段の生活での出会いでは、他人を侮辱したりできないし、自分の尊厳を保ちながらほかの人たちとの関係を維持していくものだ。
怒りをぶちまけてしまうと相手に利己的だと思われるだろうし、お互い気まずくなるのも知っている。
それに、怒りが緊迫した状況をさらに悪化させることも、最悪の場合は暴力さえ引き起こすことにも、気づいている。
さらにまた、どのような状況での怒りであっても、およそ正当化される見込みはないだろうし、怒りを瞬間的に表したら、そんな自分にとまどってしまうかもしれない。
そのうえいい人は、コントロールの利かない反応は未成熟の証だと思っている。
怒りが沸騰したところで、熱はそうは長びかずに、すぐ冷める。
最初は、めちゃめちゃに暴れたいと思ったりしても―バットで殴ってしまったかもしれない!
そんなことになってしまったら人生の破滅だが、-幸いなことに、いずれは自分の中の善良な何かが、踏みとどまらせて、怒りを収めてくれるのだ。
そこで、「いい人でない」という非難を避けるために、以下のように考えてしまう。
- 両親から、むかっ腹を立てるのは子どもじみていて世間に受け入れられないと教えられた。
- 怒るといったふるまいはあさましさにつながる。
- 愛する子どもたちのために、そんな態度を手本にしたくない。
- 無礼で害のある怒りの原因について、良心がとがめる。
- 怒ったら人にどう思われるかを考えると、恐ろしい。
たしかに、いい人は自分から望んで口汚く怒りを爆発させたりしない。
だが、それは間違いなのだ。
怒りを抑え込むためなら何でもするという意味で。
怒りをがまんすることの副作用
一生怒りを抑え込んで我慢を続け、すべて収まるのならそれでもいい。
だが当然、そんなふうにうまくいくわけはない。
不誠実な人になる
人はじつはみんな熱い感情の持ち主だから、クールに見えるよう努める。
感情を押しころし、そんなものは自分のどこを探してもないというそぶりをする。
誠実さや真の人間関係とは、自分が感じることと、他者に伝えることの一致をさすとわかっていながら、つい、感情を抑えてしまう。
だから、抑え込まれた怒りは、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても誠実ではない、人間らしさに欠けていると感じさせる。
そして皮肉にも、いっそう怒りを生み出す。
わだかまりが残ってしまう
友人があなたを怒らせる。
でも、それを怒りとして表せないために、友情関係をこわしてしまう。
あるいは、若くて美人だという理由で、上司が同僚を昇進させたときに感じた怒りを、おおい隠そうとしたとする。
そのことが心のわだかまりとなって、上司や、これまでいつも楽しいと感じてきた仕事を嫌悪しはじめるきっかけになる。
仕返ししたい気持ちがくすぶる
どれほど必死になってその気持ちを奥深くに押し込んだところで、葬り去ることはおろか、覆い隠したままにしてはおけない。
たとえ覆い隠したつもりでいても、それは精神のエネルギーを吸い取り、幸福を遠ざけ、命あるかぎり昇進とは縁がなくなる。
そして、遅かれ早かれ、最初に仕返ししたいと思ったときと同じだけのパワーを使い、これからあげる四つの破壊的な方法のいずれかで仕返しをすることになるのだ。
1.過剰反応。
お高くとまった友人のしたことに、尋常でない怒りを爆発させることがある。
私たちは数え切れないほどのことに腹を立てているが、そのうちのいくつかは彼とは無関係のことだ。
だが、彼が憤慨するようなことをしでかすと、それらすべてが爆発する!
全部が彼の責任ではないのに、そのあおりを全部彼が受けることになる。
2.まわりくどい行為。
職場の同僚がいい成績を上げてみんなを出し抜く。
しかもそれを自慢する。
誰もが困惑し、腹立たしい思いだが、何も言わない。
その不快感を意識しないまま、やがて彼女にいやみや、皮肉を言うようになる。
彼女からものを頼まれても、答えに詰まってみせたりする。
自分たちはいい人なのだが、彼女を陥れるまで墜落するかもしれない。
3.腹いせの八つ当たり。
上司から、なまけているとおかど違いの非難を受ける。
彼を何とかぎゃふんと言わせたいが、仕事が大切なのと、職場ではだれからもいい人だと思われたいので、家庭で怒りを発散する。
悪くすると、暴力を振るうところにまでエスカレートするかもしれない。
4.ストレスで病気になる
医師は、慢性的に怒ったり、あるいは長期にわたって悩みを溜め込むと、深刻な健康状態を自ら作り出す危険性があると述べている。
たび重なる頭痛、心臓疾患、潰瘍、うつ状態、その他の病気。
長期的に見て、怒りを自分の中に抑え込むと、人間関係をこわすだけでなく、私たちの生命を奪う危険すらある。
悲惨なことに、収まらない怒りが最も痛々しく心を傷つけるケースは、お互いに深く愛し合っているいい人同士の間で起きる。
たとえば、二人とも仕事熱心だとか、あるいは子どもの教育や地域活動に懸命なために相手に無関心になり、お互いのことをおろそかにしてしまっているような夫婦の間に見られる。
このような夫婦は、配偶者が直面しているプレッシャーや板ばさみ状態を理解していても、自分が感じる孤独感や、相手の無関心に対して腹を立てる。
どうせ受け入れてもらえないと思い込んで、怒りを抑え込むのだ。
心の傷や憤りについて口に出して言うことはおろか、自分自身がそれについて考える勇気すらない。
こうなると、先ほど述べた四つの破壊的な方法の出番になるのは確実だ。
あるいは低レベルで、いつまでも続く相手への憎しみとなる。
それが夫婦の愛情を削ぎ、性生活をこわし、夫と妻の間にくさびを打ち込む。
このようなことが起きると、遅かれ早かれ、かつて一度は経験したはずの喜びを分かち合うという感覚もすべて失う。
結婚とはそもそも、そういうものを与えてくれるはずのものではなかったのか。
こんなふうに考えてみてはどうだろう。
どんなにいい人であっても、怒りを抑えて、一生涯コントロールしていくのは無理だし、そうかといって怒りを粉みじんにもできない。
むしろ、自分のほうが怒りにコントロールされて、ばらばらになる。
そして、その気があろうとなかろうと、いつかこれまで犯してきた重大な間違いに気がつく日がやってくる。
いい人は、自分の怒りを処理する新たな方法を見つけなければならない。
怒りを処理する前向きな方法
日常生活の中で、誰かに腹を立てたら、どんな怒りか知っておく必要がある。
二人が一対一で話をすれば、お互いに感情的な圧迫感から自由になり、自分に真剣にもなれる。
怒りが真の人間関係を築く糸口になるかもしれない。
ただ、腹を立ててまわりの人を巻き込む前に、するべきことが四つある。
これに従えば、自分の気持ちに誠実でいて、相手から意地悪されずにすみ、大切な人間関係を損なわずにいられる。
怒りを認め、受け入れる(A=acceptance=受け入れる)
アラームが鳴る。
軽いいらつきの波紋でも大きな爆発音でも、いずれにせよ自分が起こっているのだということを告げている。
耳を傾けて、自分の内にある雑音を聞こう。
怒りが熱をおびてくるのを感じたら、鏡に自分を映して見るように後ずさりして、こう自分に言ってみよう。
「おい、このことで頭にきてるんだ。誰がなんと言おうと本気で怒ってる。あー、イライラする!」
自分の怒りを認めると、その感情を経験し、自分のものにできる。
これは怒りと取り組み、通過し、乗り越えるうえで重要なことだ。
はじめは、怒りを認めにくいかもしれない。
怒りをパワーの贈り物として受け入れる代わりに、拒絶される結果を恐れて怒りを抑え込むのになれているからだ。
たしかに、これまでに自分を受け入れていれば、このような恐れはわずかか、あるいは大部分が消えてなくなっていたはずだ。
だが、アラームが鳴ったら、怒りと恐れの両方を抑え込む習慣はやめよう。
当面の課題は、ただちに怒りを認めて受け入れることだ。
不快感も、仕返ししたい欲求のどちらも同じく受け入れよう。
時間の力を借りて気持ちを落ち着ける(B-borrowing=借りる)
突然の怒りが脳の働きをストップさせ、ものを考えたりスマートにふるまえなくなることがある。
頭が混乱し、気持ちが動揺しているときは、昔ながらの数字のおまじないを唱えるといい。
まずほんのちょっとリラックスし、長く深く息を吸って、その息を吐いたら、心の中でゆっくりと数を数える。
1,2,3,4・・・。心が落ち着いたと感じられるようになるまで数えよう。
反撃するという考えに支配されそうだとわかったら、自分にこう言うといい-「そこまで!」。
妙な考えにとらわれる前に、すぐに拒んで断ち切るのだ。
どんなに短期でも簡単にコントロールでき、また、どれほど怒りを前向きに表しやすくなるかを知って驚くだろう。
こんなふうに自分自身を落ち着かせることができると、数をそれほど多くかぞえなくてもすむようになり、怒りを表すまであまり時間がかからなくなる。
だが、ポイントは次の点だ。
基本的な目的は、仕返ししたいという感情を理解し、コントロールすることであって、その感情に自分がコントロールされることではない。
ちょっとした瞬間、心を静めて緊張の高まりをほぐすのは怒りをためることにはならない。
足早に通りすぎる嵐のような瞬間的反応を避けるために、怒りをほんの一時コントロールしさえすれば、大切な友人関係や仕事上のつきあいに致命的な打撃を与えずにすむはずだ。
数を数えている間は、自分は観察者なのだと思うといい。
そして次のようなことをたずねてみよう。
- いったいどうしたんだ?なぜ自分は怒っているんだろう?どれくらい頭にきているのか?
- この怒りの根っこにある感情は、正しさの尺度なのか、それとももっとささいな問題なのか?
- この怒りを自分はどうしたいのか?今は怒りを表してもいい時と場所なのか?それをどう言えばいいんだろう?
こうした自問自答は、感情的に高ぶったその場を収めて、怒らせた相手に直接、自分の怒りを落ち着いて話せるようにしてくれる。
また、この問いかけをして自分に焦点を合わせると、その怒りが正当かどうかを見極める機会にもなる。
怒りが生じた瞬間、ほんの少し考える時間をとり、怒りが正当ではないとわかれば、怒りはうせて、ばつの悪い思いをしたり後悔の念に駆られなくてもすむだろう。
おそらく、友情や仕事を失うこともないだろう。
ただあなたがカッとこないでいるという、ただそれだけのことでだ。
繰り返すが、なずべきことを一時停止することは、怒りに永久にふたをするのとは違うし、いつか表すときがあるだろう。
時間を借りると、外に出す前に怒りについて考えられるようになる。
それは、まず怒って後からその行動について考えるという方法とは対照的だ。
自分がまわりの人たちに対して、責任をとる立場ではなくても、その人たちへの責任を感じとるかぎり、怒りについて慎重になるものだ。
私たちは自分の生き方とまわりの人たちの生き方が、互いに関係し合っているのはわかっている。
自分と同じように相手も不完全な存在であり、同時に意味のある大切な存在であることも知っている。
そして自分たちが生きるこの世界を、誰にとっても安全で尊敬し合える場所にできるかどうかは、自分自身の肩にもかかっていることもわかっているはずだ。
必要に応じて相手と距離をおく(C-creating=距離をおく)
時間や場所が話し合いに適さない場合や、怒りのアラームが鳴り響き、自制心を失ったまま冷静さを取り戻せないとき、あるいは、ただ単に怒りを上手に扱えないのではないかと不安に駆られたときは、こう言ってみよう。
・君のふるまいに、実は気が動転している。自制心を失いたくないから、私が怒っていることをちゃんと伝えたい。友好的に解決したいんだ。
・何がなんだかよくわからないが、今、心が傷ついた感じで、腹を立てている。だから落ち着くまで時間が必要なんだ。今度話すことにするよ。
「傷ついた感じで、腹を立てている」という言い方は直接的だが、「傷ついて、腹を立てている」という言い方よりは少しは柔らかだ。
怒りというのは、誰の心をも動揺させることを頭に入れておいてほしい。
四歳の子どもは時間を借りることはできないし、気持ちを落ち着け、距離をおき、そして、より繊細で洗練されたかたちで怒りと向き合ったり、それについて考えたりはできない。
だが、あなたならその方法を学べるのだ。
その方法を実践するにしたがい、待たずに勇気がわくようになれば、自分自身が進歩したことがわかる。
自分の進歩がはっきりしてくればそれだけ、自分らしさを実感できる。
言うべきことを決めて書きとめる(D-decide=決める)
いったん自分のなすべきことがはっきりしたら、何をすべきか、そして何を言いたくないかに注目しよう。
さらに、それに対する相手の反応が、これまで以上に自分を動揺させたり驚かせたりしたときに何を言うかを、前もって紙に書くなどして準備するといいだろう。
この方法は自分が言いたいことを言いながら、相手から前向きな反応を引き出す最良の機会になるはずだ。
いつ、どこで話をするかを決めたり、あるいは話を切り出すときの声の調子を決める際にもこの方法は役立ってくれる。
面と向かって話をするか-これがベストだが、いつでもそうなるとは限らない-あるいは電話で話をするにしても、ノートを目の前に置いておくといい。
「あなたとの関係が大切なものだから、二人の間に起きていること、あなたに対する自分の反応について少し考えてみた。
この会話を実りあるものにしたいから、それをノートに書きとめてあるんだ」と言ってもいい。
物事を書きとめるという行為そのものが、自分は結局どうしたいと思っているか、厳密にはどう反応したいかをはっきりさせる助けとなる。
しかも、ふつう怒りが放つ、めちゃくちゃで過剰な熱を冷ます効き目もある。
怒りを上手に表現する練習
自分が怒っているという事実と向き合い、その怒りをコントロールできるなら、怒りを効果的に処理できる状態にある。
心を傷つけた本人に直接怒りを示す
争うことの気まずさと仕返しされる可能性を避けようとして、いい人は心を傷つけた人のことではなく、傷つけられた事実について話すことが多い。
- 聞いてくれよ。あの娘、また僕にうそをついたんだぜ。はらわたが煮えくり返るよ!
- 姉にあんな態度をとるなんて、もう頭に来た!
- 会社で僕のことをあんなふうに言うなんて、彼女、信じられないな。
心を傷つけた強い怒りについて誰かにぐちをこぼすと、怒らせた当人をその怒りに対応させる機会を奪ってしまう。
自分の仕返ししたいという気持ちの解消になるわけでもなく、人との関係の修復にもまったくならない。
一方、直接心を傷つけた相手に対して怒りを示すなら、すぐにでも行動と感情の調和がとれる。
そのうえ、仕返ししたいという破壊的な欲求を減らせるし、心を傷つける人に虐待をやめさせるチャンスが増える。
そして、そういう自分を好きになれる。
心を傷つけられて、その相手に怒りを表現するときは、第三者が介入してこない適切な時と場所をみつけるといい。
時間、場所ともに双方に都合がよければもっといい。
ただし、まれには第三者の前でどなり声を上げたほうが効果的な場合もある。
もちろん、顔を合わせて話すことができないときには手紙しかないが、それも悪くない。
書くことで、思ったとおりに表現できるまで深く考えられるし、編集や書き直しもできる。
誤解されたり、あるいは後になって間違った引用をされたときのために、記録として残せる点も便利だろう。
信頼できる友人がコミュニケーション術にすぐれているなら-しかも、何が起きたか話しても秘密を侵すことにならなければ-手紙を送る前にその人に目を通してもらってもいいだろう。
心の底にある恐怖心を打ち明けてしまう
誰かに腹を立てると、がっかりする、心が痛む、欲求不満になるといったネガティブな感情を経験するだろう。
そして、必ずその根っこにあるのが恐怖心だ。
私たちはたいてい、怒りと同じくこの恐怖心を心の底のほうに押し込んでしまう。
その対策は-ちょうど恐怖心のために沈黙してしまうときと同じように-恐怖心を自覚して、その原因を突き止めることだ。
恐怖心について深く考えてみよう。
自分が怒っていると知られたら、いやがらせをされる心配がある、友人に悪口を言うかもしれない、昇進や昇給のじゃまをされるかもしれないし、仕事をクビになるかもしれない。
ごく身近な人間が相手なら、絶交されるかもしれない。
どの場合も心おだやかではいられない。
しかし、心の奥底ではわかっているはずだ。
心から自分を大切に思ってくれている人なら、もし自分が怒りを表してもその愛が去っていくことはないと。
だが、そうした相手にさえ、自分の怒りで彼らが反発するかもしれないと心配になるのが、いい人なのだ。
それ以上に、恐怖心を表現することや、恐怖心を認めることを恐れているかもしれない。
しかし、自分の恐怖のもととなっている原因を突きとめ、怒りが生じてしまう前に、それについてきちんと話す勇気があれば、きっと次のような成果を上げられるはずだ。
1.自信と人格が備わってくる。
怒りや恐怖心を自分の中に抑え込んだり、相手に恐れを隠して、ただ怒っているとだけしか伝えないでいると、自分にも相手にも不誠実でいることになる。
一方、自分の恐怖心と怒りの両方を認めるなら、充分に誠実で、充分に今を生きていて、充分に自分らしく生きるあなたがいる。
さらに、道徳的、精神的な資質が備わると人格ができてくる。
自分らしく感じ、行動できるようになるからだ。
2.恐れを打ち明けた自分とその行為に満足する。
不誠実に恐怖心や怒りを隠していれば、いい人でいたい人は罪悪感をもつ。
しかも、その罪悪感が転じて自分への怒りなり、困惑し、おそらくは抑うつ状態になるだろう。
一方、恐怖心と怒りのどちらも表現すれば、その誠実さのおかげで生き生きとし、人格の成長に伴って心が豊かになる。
3.楽に怒りを表せるようになる。
恐怖心について自分から弱みをさらけ出して話すほうが、優位に立つよりずっといい。
傲慢に怒りをぶちまければ、相手の自己防衛心によって復讐されるかもしれないが、謙虚で素直に話せば同情を得られる可能性もある。
そのうえ、より効果的に、より楽に、怒りを表現できるようになる。
- 私が腹を立てているって、あなたに話すのがじつは不安なんだ。
- 私が腹を立てていると話せば、あなたは動揺して、友人たちに悪口を言うかもしれない。
- お話ししたいことがあるのですが、足が震えてしまって。
腹を立てる状況を説明してみる
恐怖心について打ち明けることによって、自分を怒らせた人への怒りは解けると考えてみよう。
いよいよコミュニケーションの核心部分に到達した。
頭の中で自分を怒らせる人たちを非難したり、やり返す代わりに、次の点を説明してみるといい。
- 彼らが何をしたせいで自分の心は傷ついたのか。
- どんな気分になったのか。
- そういう気分になった理由は何か。
1.では相手が自分を怒らせた事柄をあげてみよう。
- 上司-自分が稼いだ手数料を横取りする。
- 家族-汚れた食器をそのままにして食器洗いを押しつける。
- 兄-スピード運転で怖い思いをさせる。
- 友人-みんなの前でけなされる。
2.では、相手がとった行動について、自分はどう感じたかを説明する。
- 横取りされたと感じて腹が立っている。
- 憤慨している。
- 事故が起きそうだとおびえているし、腹立たしい。
- 恥をかかされたと感じて怒り狂う。
ここで重要なのは、「誰かに」怒らせられたときどう感じたかではなく、「何かが起きたとき」にどう感じたのかを説明することだ。
だから、相手が誰であるかにはふれなくてもいいし、彼らをとがめたり非難することもない。
- 横取りされたと感じて腹が立っている-でも、うすぎたないやつだと感じるのではない。
- 憤慨している-でも、思いやりのない無精者めと感じるのではない。
- おびえていてかつ腹立たしい-でも、スピード狂だと感じるのではない。
- 恥をかかされたと感じて怒り狂う-でも、無神経でいけ好かない、と感じるのではない。
3.では、なぜそのように感じるのかを説明する。
- なぜなら、販売員は自分の手数料を手に入れる権利があるからだ。
- なぜなら、自分で使った食器は自分で洗うというのがわが家のルールだからだ。
- なぜなら、不必要に生命の危険にさらすからだ。
- なぜなら、人をぼんくら扱いするからだ。
ここでのねらいは、自分の怒りの正当性をチェックすることだ。
「なぜなら」という言葉を使うよう自分に義務づける。
怒りの原因が真実かつ正当かどうか、現実的なことではなく別の何かに原因があるかどうかを知るためだ。
誤解だったり、恥ずかしいと思っていることを友人が他人に指摘したので、自分のコンプレックスが刺激されたのがもとかもしれない。
あるいは、周りの人に軽く扱われているような気がするだけで、実際にそうされたのではなかったり、ねたみによる怒りかもしれない。
自分がなぜ怒るのかをはっきりさせると、その怒りを表に出す前に、それが正当かどうかを吟味できる。
もし正当ではないと感じれば、怒りはその勢いをすぐに失って、もともと自分を怒りに駆り立てていたものも結局は大した問題ではないと思えてくるだろう。
結果として、自分に正直でいられるし、大切な人間関係をこわさずにすむ。
ある男性Aさんのとある晩のこと、家へ帰ってみると、妻が泣きながら夕食の仕度をしていた。
Aさんたちの娘はどこにでもいるティーンエイジャーだったが、学校から戻ると自分の部屋の床に服を投げつけた。
それは、妻が朝、アイロンをかけてあげた服だった。
同じようなことは前にもあったが、娘を充分反省させようと、Aさんは声を上げてがみがみ言い出した。
「自分勝手だぞ!部屋が豚小屋だ」。
娘は「ここは私の部屋よ!」と叫び返してきた。
それからAさんは怒りのボルテージを少し上げた。
「母さんのことを考えていないだろう!おまえはつべこべ言って・・・」すると娘は部屋に入ってドアをバタンと閉めた。
Aさんがこの手の非難したとき決まって行われる、彼女にとっての唯一の防衛手段だった。
そうした状況を解決する糸口を求めようと、Aさんはあるセミナーに参加した。
そこで紹介された、「避難陳述法」に対する「状況描写法」というのは次のようなものだ。
娘をネガティブな非難で責め立てても、バタンとドアを閉められてコミュニケーションが断絶するだけだ。
その代わりに、こう切り出す。
「おまえがそうするといつでも私は腹が立つ。それはね、おまえのふるまいがお母さんを動揺させるからなんだ。
そして夕食の時間は最悪になるからだよ」
「だって、あれはみんな私の服だもの。それに、私の部屋だし」
「おまえがそういうふうに言い返してくるから私はイライラするんだ。
これからも床に服を投げつけるのをやめたくないとおまえが言っているようなものだからだよ」
「母さんは、私の服にアイロンかけることなんてないのよ。私、自分でやるから」
「おまえのその言葉は、もっと不愉快になる。
なぜって、服を床に投げるようなやつがその服にアイロンをかけるなんてこと、どうやったら信じられるっていうんだい?」
ここで言いたいのは、「状況描写法」を用いても、娘に自分の服の整頓はさせられないかもしれないが、少なくともドアをバタンと閉めないようにはできるということだ。
誠心誠意をもってコミュニケーションをしたのはたしかだ。
怒りは善い悪いに関係なく、自分の中に、あるいは怒りそのものとして存在する。
それはすばらしいものではないが、恥ずべきものでもない。
大切なのは、怒りがもつパワーをコントロールして、自分に正直になり、心を傷つける人たちの行為を防ぐためにその力を使うことだ。
怒りのもととなる相手に、どうしてほしいのか伝える
次に、「肯定的な主張法」を身につけよう。
相手の怒り、自分の腹立ち、なぜそうした気持ちになるかをはっきりさせられれば、あとは前向きな言葉遣いで、相手に変えてほしいことは何か、あるいは相手にこれまでとは別の付き合い方を望んでいると伝えればいい。
相手への第一の要望が、謝ってほしいということなら、こう言ってもいい。
「あなたがこれまで私にしたことで傷ついているの。謝ってもらいたいとずっと思ってきたわ」
これは、相手の面目を失わせたいということではないし、自分が彼らより優位に立った気分になりたいというのでもない。
ここでの目的は、自分への尊重の気持ちを欠いてきた事実を相手に直視してもらい、それを改めるよう決意してもらうことにある。
自分に対する不当な態度をやめさせる正当な権利が、あなたにはあるのだ。
もし相手が謝ったら、すぐありがとうと返すといい。
謝らないときでも、相手はばつが悪いと感じていたり、考えを整理できないという可能性もある。
彼らの言葉やボディランゲージから、後悔や、この先は自分の行動を改めようという気持ちを感じとれるなら、厳しく形式ばった判断をしたり、理由なく追い詰めたりする必要はないだろう。
彼らの顔を立てることも、彼らのためにドアを開けておくこともできる。
そうして、その後あなたにどうかかわるのか様子を見るのだ。
自分がこの先も共に生きていく人たちや、一緒に働いていこうとする人たち、ずっと友人でいたいと思っている人たちについて話していることを忘れないでほしい。
- これからは、私が受け取るべき手数料は私に渡してほしい。
- これからは汚れた食器は半分ずつ洗ってもらいたい。
- 私を車に乗せるときには必ず制限速度内で運転してほしい。
- みんなの前で私に敬意をもって接してほしい。
思いやりをもって接してくれるように相手に要求するときは、自由意志を損なうことのない範囲で精一杯のことをしてほしいと伝えよう。
あなたはこうするべきだ、こうしなくてはならないと言わずに、私はこうしてほしいと言ったほうがいい。
もちろん、そう伝えたところで、思い通りにはしてくれないかもしれないが、相手に何をしてほしいのかをお互いが知ることが重要なのだ。
健全な関係とは、相手に敬意を払って接し、相手からも敬意を払って接してもらう付き合いなのだ。
関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法
自分を信じられないと他人も信じられない
まだ怒りを表現できなかったら
なかには、いくら敬意をもってあたっても、和解はおろか反抗的な対応しか期待できない人もいる。
あなたの申し出を受け入れず、謝ろうとしない人もいれば、今後は敬意を払うというそぶりをみせる人もいるだろう。
前者は、関係がこわれてもかまわないと思っている人たちだから、関係修復は不可能だ。
家族や友人たちとの間でこうした問題が起きたら、心が痛むにちがいない。
謝らないにしても、失礼な対応をやめる相手の場合は、それが最短距離のゴールかもしれないし、望みうる最高のゴールなのかもしれない。
なかには、攻撃的になり、正反対のことを言ってくる人もいるだろう。
弱点をついたり、問題はあなたにあるかのように言ってくるかもしれない。
本当にあなたが問題を抱えていたり、自分の問題点に同意するのはかまわないが、もし相手との関係を健全なものにしたいなら、次のように一貫して、態度を変えるように相手に主張しよう。
傷つけられたあなたには当然その権利があるのだ。
- あの見積書を再検討されたそうですが、あの仕事は私がしたのです。手数料を払って下さい。
- きみの忙しさに理解がないのかもしれない。けれども時間がないのは僕も同じだ。それに、自分が使った食器は自分で片づけると決めたはずだから、その取り決めに従ってほしいんだ。
- たしかに、私はスピード運転を怖がりすぎるかもしれません。それでも法は守ってもらいたいの。
- もしかしたら、私は感受性が強すぎて、あなたのからかいをまじめに受け取りすぎたのかもしれない。でも、これが私なの。だから、私にはそれなりに気をつかってほしいの。
怒りの処理が下手で謝りたいというときは、できるだけ早く、直接謝ろう。
だが、間違った扱われ方をされたと確信しているなら、その怒りをけなす必要はまったくない。
大事なのは、自分自身の誠実さを大切にして、怒りを大切にすることだ。
そうすれば、怒りの力強さは相手の態度を変えさせるはずだ。
もちろん、相手が執拗にひどい態度を繰り返すなら、あなたの中の復讐の炎に再び火がつく。
相手は自分の最悪の面を見せているだけでなく、あなたのもつ最もひどい部分も引き出す。
そんなときには、第一に、自分の健康のためにも復讐の炎を燃やし続けないと決心することだ。
そう決意すると復讐の欲望はたちまち消え、肩から大きな荷物を下ろすようなきがするだろう。
さもなければ、もう一度、腹を立てる状況を説明する練習をしよう。
それでも相手の態度が変わらないのなら、最終手段として、彼らに心を傷つけられる機会自体をなくすことができる。
友達づき合いをやめるとか、兄さんが運転する車には乗らないといった簡単なことだ。
もし、彼の車に乗って毎日通勤しているようなケースだったら、この手段はたしかに簡単ではないから、どちらを重視するか考えてみるべきだろう。
そのために仕事を変えたり、引っ越すというような極端な対応もあるかもしれない。
自分の気持ちが傷つけられ続けることはがまんできないと感じて、関係を断ったり、姿を消してしまう人もいるだろう。
離れてしまうほうがいいこともある―虐待的な関係は、関係がまったくないというよりずっと悪い。
実際、自分のほうから関係を断つべき場合もある。
その際も、相手が考えを改め、新たな関係を築きたいと願う見込みがあるなら、いつでも関係を修復できるようにしておくといいだろう。
私たちは、根拠のある要求や願いを尊重してくれる相手とだけ、真の関係を維持できる。
正しく怒りを表すことによって関係が改善されなかったとしても、あなたは自分なりの精一杯のことをしてきた。
少なくとも、相手と自分の両方のために誠実であろうとしたのだ。
未解決の問題をどうするか
亡くなった人や、引越した人たち、あるいは単に自分の人生から出ていった人たちに、もしあなたがずっと恨みを抱いていたらどうなのだろう。
子どものあなたにつらくあたったり、虐待していた親や兄弟姉妹、友人の裏切りやいじめがあったのに、あなたがけっして反発しないのをいいことに、彼らが去ってしまったら、この未解決の問題にどう始末をつければよいだろうか?
虐待の犠牲になっていたことは間違いなく悲劇だ。
しかし、怒りにこだわっていても何の解決にもならないし、悲しみを大きくするだけだ。
そう理解し、自分自身が怒りから解放されたいと願うのなら、あなたにできることはちゃんとある。
無難に怒りを発散する方法
誰もいない部屋で叫び声を上げ、口汚くののしりながら枕をたたこう。
あるいは、その人が自分にしたこと、それによってどう思ったのか、そしてなぜまだ怒っているかを紙に書きとめ、それを読み上げてテープレコーダーに吹き込むのもいい。
「友達みんなの前で私をばかにした!」激しい気持ちは外に出たがっている。
この熱した気持ちは原初的真理や感情的現実でもあり、おそらくスピリチュアルなものだ。
多くの人たちがこの方法で救われたという。
心を傷つけた人を許してしまう
たった今述べたような方法で蒸気を噴き出してしまえば、一時的には気分がよくなるかもしれない。
というのもネガティブなプレッシャーを取り去ることになるからだ。
しかし、去っていかない恨みもある。
なぜなら、依然として変わらない、自分の中の強い憎しみに対処できていないからだ。
心を傷つけた人たちを許すことは、自分を許すことでもある。
だが、いったいどこから彼らを許そうという気持ちと強さを得られるのだろうか?
死ぬまでそうした強い憎しみとともに生きていくのはうんざりだし、それを取り除くためなら何でもするという用意があり、次のように考えられる場合にはいっそう、許すことは簡単になる。
- 人はみんな自己中心的で、意地悪で、不合理で加虐敵な生き物-あなたや私のようないい人も含め-だとはっきりわかる。
- 自分もまた他人の心を傷つけていて、許しを請う立場であることを忘れない。
- 抑圧された怒りは自分自身の幸福をむしばみ、怒りの原因である相手以上に自分自身を傷つけるものだと納得する。
だが、どうしても相手を許せず怒りにコントロールされるときには、どうすればいいのだろう?
幸い、それもまた解決可能だ。
けっして、始めるのに遅すぎるということはない。
まず手始めは、恨みを忘れたくないという自分を認めることだ。
許せないと抵抗している事実を直視するだけで、恨みから自由になれる。
その正直な行動は、逆に恨みから離れようという気持ちの引き金をひくことになる。
だから、わざとこう言ってみてもいい。
「彼は許す価値のない人間だ。私をわざと友人たちの物笑いにしたからだ。彼を許すものか。たとえ命が縮んでも恨んでやる。許さない。どうなるか見ていろよ」
許すことは、未来の人生においてきわめて重要なことだ。
許しは心に受けた傷の痛み、人を弱らせるほどの恨みを抱えている重みから、自分を解放できる唯一の方法だ。
許しは私たちの心に安らぎをつくり出す。
一瞬立ち止まり、恨みと同居しているネガティブな気持ちを表面化させてしまおう。
それから、自分がその気持ちを抱えつづけていたいかどうかを選択する。
もし、怒りをもちるづけたくないなら、傷つけた人たちを許し、そこから生まれた新たな感情と、長い間抑え込んできた怒りが生み出した感情とを比べてみよう。
許しの対話を練習する
許したいけれど、実際すぐにはできそうにないなら、自分を怒らせた人たちと想像上の対話をしてみてもいい。
自分を傷つけた人が亡くなっていたら、今も生きている彼らと話をしていると想像する。
彼らをイメージに描いて、自分が彼らを許している様子を、鮮明に記憶に残すのだ。
そうすれば、許しに感情面の強さが付け加わる。
「私を傷つけたと、あなたを恨んでいた。でも、もううんざりなんだ。
あなたがしたことを許そう。
だから、どうか私の至らなさや、あなたに腹を立てたことを許してほしい。
一緒にいられたときに言えなかったのは残念だが、今それを言いたい。
この思いを残したままにしておきたくなかった」
自分の謝罪と許しを心の中で彼らに受け入れてもらうのだ。
それから、相手をじっと抱きしめている自分を目にするのはどんな感じか味わってみる。
もう大丈夫、恨みは捨てられた
イメージの世界の対話では役に立たないと考える人でも、この「儀式」は認めている。
相手がしたこと、それによってどのように感じたか、なぜそう感じたか、どのように自分が相手の行動を不愉快に感じたかについて書き出す。
それから、流し台でその紙を燃やし、灰になったら排水路に流す。
こうした小さな儀式に、自分の恨みを捨て去ろうという気持ちを象徴して、恨みを洗い流すのだ。
もし必要ならば毎日でも毎週でも、痛みがうすれるまで、あるいは儀式には効果がないと断定するまで行う。
紙を燃やす代わりに、庭かプランターに埋めるという方法もある。
自分の恨みを心の中から外に出し、許して恨みに終わりを告げるという決意をその紙に象徴させるのだ。
一週間か一カ月先か、カレンダーにその紙を掘り出す日にしるしをつけておく。
もし、そのときになっても自分の怒りが消えていないなら、その紙を掘り出して、別の言葉を書きとめ、また別の埋葬の儀式を行う。
それでも、許そうという気持ちが起きず、想像上の一人芝居や儀式も、恨みを過去のものにしてくれないときは、自分の身の上話に共感してくれそうな友人、自助グループ、有能なカウンセラーに話してみてもいいだろう。
話をするほうが書くよりも問題を明らかにし、勇気を裏付けるという人もいる。
また、言葉に出し、人に話すことによって、異なった観点からのサポートや見識を得ることもできる。
ごく最近感じた怒りや、長いこと感じてきた怒りをどう処理するかを決めるには、じっくりと考えなくてはならないし、エネルギーも必要だ。
道のりは困難かもしれないが、最初はそろりそろりと自分の力を出してみよう。
たしかに、身についた習慣を簡単にやめられないのが普通だ。
しかし、ほんの少し考えをめぐらし、忍耐し、練習を積めば、いい人であること以外の生き方を基本とする、前向きな習慣をすぐにつくり出せるだろう。
そのとき、限りない手応えを感じて、自分のはるかな成長の過程を喜ぶことができるだろう。
もう、怒りを抑え込むのはやめよう。
そうすれば、自分自身がもっと楽しめるようになる。
それでも、いい人でいられる。
まとめ
まず何よりも大切なことは、怒ることは間違っていないということだ。
怒りとは何が正しいかを察知するために自然とわき上がってくる感覚である。
怒りをぶちまけてしまうと自分が利己的な人間に見え、お互い気まずくなることは知っている。
かといって怒りを抑え込むと無気力になったり、さらに怒りが膨らんだりといった様々な症状に襲われることになる。
怒りを上手に解消する方法としては、まず怒りを理解し、受けとめ、時間の力を借り自分を落ち着かせ、必要に応じて相手との距離をとったり、言うことを決めて書きとめることだ。
怒りをうまく表現できれば、生きるのが楽になる。