私たちは、多かれ少なかれ期待されている役割を生きる自分を形成します。
そのために、「本当の自分」と「偽りの自分」という分裂した感覚がもたらされるのです。
「本当の自分」を生きていない、「偽りの自分」を生きているという感覚は、期待されている役割を生きる自分に比重をかけた生き方をしているために生まれるものです。
それでは、期待されている役割を生きる自分とは何でしょうか。
愛着を得るために
自我が健全に発達する第一の条件は、母親・養育者への揺るぎない愛着が形成されることです。
愛着は、養育者の共感的な庇護を受けることによって形成されます。
しっかりとした愛着が形成されると、子どもは安心して自分を外界に開放し、内発的な成長力によって伸び伸びと成長していきます。
ところが、養育者に対して安定した愛着が得られないと、子どもは自分を抑え、養育者の感情や欲求、願望、期待などに自分を適合させることで安心できる養護環境を得ようとします。
こうして作られていくのが期待されている役割を生きる自分なのです。
役割期待に応えて
期待されている役割を生きる自分は、「自分」と感じるものを抑圧した形で外界に適応する自我の部分ということができます。
すなわち、自分の生身の感覚、感情、欲求、願望、衝動をさておいて、外界から期待されている自分、外界が歓迎する自分として感じ、思考し、欲求し、行動しようとする自分のことです。
人間が発達するということは、自分の内発的なものと外的要請との葛藤を調整するという側面があります。
すなわち、自分の感情や衝動、欲求、願望が、養育やしつけなどの外的要請とぶつかりあいますが、自分の心と行動をこれら外的要請に折り合わせなければなりません。
たとえば、手づかみの食事は、スプーンを使った食事へと、さらに、箸をつかった食事へと移行するように求められます。
時と所に無頓着な排泄は、トイレでするようにしつけられます。
早く食べたいお菓子に手を伸ばすことは禁じられ、おやつの時間が来るまで待つことを求められます。
泣き喚くという感情の表出は、言葉での表出に置き換えるよう求められます。
自分の衝動を優先する行為はしばしば罰せられ、他者への配慮が要請されます。
自分の感情を優先するのではなく、相手の感情を優先することさえ求められることがあります。
私たちが発達することとは、このように外的要請を受け入れるということなのですが、健全な自己の発達においては、このプロセスがあくまでも「自分がしている」「自分でしている」という基本的な感覚を保持した状態で進行します。
これに対し、「自分が」「自分で」という感覚を放棄して、もっぱら外的要請に自分を譲り渡して発達していくのが、期待されている役割を生きる自分なのです。
こうしたことから、期待されている役割を生きる自分ということができます。
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見かけの健全さ
無力な幼い子どもは、養育者の庇護を受けることによってしか生きていけません。
期待されている役割を生きる自分の形成とは、幼い子どもがこの庇護を得るための方策なのです。
ですから、「期待されている役割を生きる自分」=「心の障害」というようなものではありません。
私たちの心のなかには、期待されている役割を生きる自分の要素が多かれ少なかれ存在します。
人は誰でも外界に適応するために、自分の内なるものをある程度抑制せざるを得ないからです。
つまり、期待されている役割を生きる自分として発達することが自分を作るという面を持つのであり、期待されている役割を生きる自分をしっかりと生きることにより、立派に人生を作っていく人が大部分なのです。
人一倍崇高な人生を送る人も珍しくありません。
問題は「本当の自分」と感じるものと切り離された程度によるのです。
発達の早い段階から期待されている役割を生きる自分の形成を迫られた人ほど、また、期待されている役割を生きる自分の形成を迫る圧力が強かった人ほど、自我の中で期待されている役割を生きる自分が占める位置が大きくなります。
期待されている役割を生きる自分は、健全な自我と同様の行動を引き起こします。
それどころか、特に子ども時代は、健全な自我以上の健全さを示します。
それは、子どもの未熟な心を抑えて、周囲の期待や社会の規範に応えようとするからです。
このために、健全な自我と期待されている役割を生きる自分とを外見上区別することは困難です。
親も周囲も、子どもの期待されている役割を生きる自分としての発達を順調な発達と誤解してしまい、これまでの養育を肯定し、その後もその養育スタイルを継続することになります。
子ども本人もまた、本来の自分ではなく、期待されている役割を生きる自分を生きているということを意識することはできません。
ただ、それを「つらさ」だとか、「気持ちの重さ」などとして体験しています。
こうして健全な自我発達が妨害され、期待されている役割を生きる自分が肥大していきます。
期待されている役割を生きる自分を生きているということを本人が気づくのは、自分の心の動きを対象化できるようになる思春期以降のことです。