自分も相手も尊重して楽に生きる
より楽に自由に生きれるはず
「自由」の中には、「私が人のことをどう考えようと自由」ということも含まれます。
もちろんこれも同様に、「相手が、他の人のことや私のことをどう考えようと自由」ということになります。
たとえば、「私が会社のある一人の同僚を”大嫌い”」だと思うのが自由であれば、「会社の誰かが、私のことを”大嫌い”」であっても、それはその人の自由となるでしょう。
自分を嫌いと感じている人に、「私を好きになりなさい」と強制することはできません。
ましてや「争って、自分を好きにさせる」ことなどできるはずもありません。
得てして私たちは「他者の考え方や生き方が自分と異なる」と、それを否定したり批判したり、ときには自分の考えや生き方を押しつけようとしてしまいがちです。
そこから争いが始まって、相手に対して敵意が高じていけば、「あんな人、私の目の前から消えてしまってほしいわ」「あんな奴、さっさとクビになってしまえばいいんだよ」などと口走ってしまうほど、相手のことが心と頭を占めるようになっていくでしょう。
お互いの自由を認められないと、こんなふうに否定的な関係のまま、相手との距離をどんどん縮めていって、怒り、憎しみ、恨みといった感情に、自分自身が苦しむことになってしまうのです。
苦手なあの人から距離を離すと
「相手の自由だ」と考えると、「相手のすることを認めなければならないから、苦しくなってしまいます」という人がいます。
もしこんな気持ちになるとしたら、「認める」ということを、「相手が自分の意に染まないことをしても、それを認めなければならない」
「相手の言うことを認めて、相手の言うことに従わなければならない」
あるいは、「相手が私を傷つけても、それを許さなければならない」
こんなふうに捉えている可能性があります。
そんな人ほど、ためしに「戦っている相手、敵だと思っている相手」を思い浮かべながら、「相手がどんな生き方をしようが、どんな人生になっていこうが、それは相手の自由なんだ。私とは関係がない」
この言葉をつぶやいてみてください。
どんな気持ちになりますか。
こうつぶやくと、「私」から、相手が遠くなっていく”感覚”を体感できるでしょうか。
声を出して何度も言ってみると、より実感できるでしょう。
すぐこの後で「そんなことして、何になるんだ」などと、頭で打ち消す思考をしてしまいそうになる人ほど、繰り返し、”実感できる”まで声を出して言ってみてください。
なぜなら、そういった人こそ、相手が自分から離れて遠くなる感覚、相手への囚われから解放されて”心が楽になる感覚”を是非とも体感してほしいからです。
他者や社会に対して”敵”だという意識を抱いている人や怯えている人にとっては、まったく「体験したことのない感覚」かもしれません。
この”感覚”を実感した後で、「今まで、私は何をしていたんだろう。どうしてあんなに嫌な人とくっついていたのだろう」と答えた人がいました。
「目の前の霧が晴れたようです」と。
相手が怒りながら生きようが、戦いながら生きようが、要領のいい生き方をしようが、ずるい生き方をしようが、その人の勝手です。
”私”とは関係がないことです。
その人が職場で怒った表情をしていようと、感情的な言い方や責める言い方をしようと、怠けようと、それも自由です。
こんな言葉を、声に出してみると、どんな気持ちになるでしょうか。
この言葉を実感する間もなく、「そんな、相手の自由だなんて。じゃあ、その人が、私に迷惑をかけたらどうするんですか。それも自由というのですか」といった言葉で打ち消したくなるとしたら、もう、敵意識のスイッチが入っています。
そんな敵意識から解放されるために、「相手が遠くなる感覚」の体感が必須なのです。
実は、この感じ方の違いが他人の目を気にすると自分も相手も尊重することの違いなのです。
心もプラス思考にぐんぐん変わる
「相手が自分から離れて遠くなった」自分も相手も尊重する感覚を体感できると、心に変化が起こります。
- まず、相手に一般常識や自分の良識を押しつけたり、相手に変わることを期待して要求することが減っていきます。そんな思いから解放されるだけでも、随分と心が軽くなるでしょう
- 相手に無用に干渉しなくなるために、これだけで無数の争いが起こらなくなっていくでしょう
- さらに重要なのですが、相手に向かっていた意識を自分に引き戻すと、目の前で起こっている出来事に対して、「私は、私のために、この問題やトラブルを、どう解決しようか」という捉え方ができるようになってきます
- そして、「私のために、私自身が行動しよう」となっていくのです
「相手がどう生きようと自由なんだから、それを否定することはできない。
できるのは、”私”に何らかの不都合なことや被害が具体的に生じたとき、私が、私のために行動することだけだ」
というシンプルな意識に立ち戻ることができるのです。
自分のためにだけ動き楽に生きる
関係のないことばかり気にしている
けれども、「それは相手の自由」という捉え方をしたら、どれほど他人の目を気にするという意識が自分を苦しめているかに気づくでしょう。
たとえば、
- 同僚が、手伝ってくれるかどうかは、同僚の自由です
- 課長があれこれと口を出すのは、課長の自由です
- 取引先がわがままなのも、取引先の自由です
- 楽な仕事をしている同僚が花形部署に異動したというのは、「私にとっては、まったく関係のない」ことです
- 「わかってくれない。助けてもくれない。評価されない」ことも、基本に則るならば、他者の選択の自由です
いずれにしても、これらのことを相手に強制することはできないし、ましてや戦って変えることはできません。
こんなふうに列挙していくと、いかに自分が「自分にとっては関係のないこと」で気に病んだり、腹を立てたり、勝手に傷ついたり、争ったり、失望したりして無駄なエネルギーで自分を消耗させているかがわかるのではないでしょうか。
より自分のできることに意識する
では、そんな状況で、「私が行動できること」はなんでしょうか。
- 仕事のA,B,C,Dのうち、A,B,Dは自分でやれそうなので、Cを同僚に頼んでみよう
- 課長に対しては、何を望んでいるかを具体的に聞いて、「これに関しては、3時間後に報告します」などと具体的に提案してみよう
- 取り引き先が望んでいることをもっと煮詰めるために話し合いの場をもってみよう。その前に、「Aについては、譲れない。Bについてはまだ、保留の状態だ。Cについては、この点は譲歩できる」などと、自分のスタンスを具体的にきめておこう
- もしどうしても、負担が大きいと感じたら「どこができないかを説明できるように整理して」から、上司に再調整してくれるように頼んでみよう
このように、一つ一つの問題について、「私自身が、私のために、私を大事にするために何ができるか」という発想をして行動できれば、考えることも行動することもシンプルになって、他者と争うことが激減するのではないでしょうか。
この「私を大事にするために」という中には、「私を守るために」ということも含まれています。
こんなふうにして見ていくと、結局は、「自分自身が、自分のために行動できていなかったり、自分を守ること」ができずに、あれこれと他人の目が気になって悩んだり、勝ち負けを争っていたりしていたのだと気づくのではないでしょうか。
私を大事にするため、私を守るためであれば、「私だけを見ていて大丈夫」なのです。
不思議に思うかもしれませんが、むしろ、「自分の為だけ」の視点からスタートしたほうが、はるかに争いから降りていられるのです。
楽に生きるために「宿敵との争いから降りる」レッスン
相手の正体を暴く
姑と争っている女性がいます。
彼女の立場に立つと、姑のほうが悪いように見えるでしょう。
けれども姑の立場に立つと、嫁が悪いと見えています。
それぞれがそれぞれの立場で「相手が悪い」と見えるために、「なぜか被害者はいても加害者がどこにもいない」というのが日常生活における争いです。
正しいのは私なので、謝れ
それに、彼女が姑のことを悪しざまに攻撃したくなるのは、相手も必死だからです。
姑がそんなに必死になるということは、姑からすると、彼女を手強く感じているからでしょう。
お互いに手強い相手と戦っているのですから、殴り合いながら「私が正しいので、謝れ」とつかみかかっても、相手が謝るはずもありません。
仮に相手を打ちのめし平伏させたとしましょう。
しかし、相手が恐怖から「悪かった」と謝ることはあるとしても、心からそう思っているわけではないでしょう。
その場では頭を下げても、のちに報復のチャンスを狙うかもしれません。
多くの人が戦いながら「心から、謝れ」と要求しますが、すでに戦っている状態であればあるほど、無理な話なのです。
お互いの主張を感情論で言い募っても、争いが激化するだけです。
具体的な対策がなければ、「相手と戦うことが目的」となって、戦うために戦いを挑み、その戦いは果てしなく続くでしょう。
もし本気で相手に自分の非を認めさせたいと望むのであれば、具体的な証拠を集めることです。
事件を扱うように、現場写真を撮り、電話の声を録音し、証言者を捜すというふうに、相手が反論できないぐらいの物的証拠を集めて、その責任を突きつけることです。
ときには、弁護士に相談したり、警察に通報せざるを得ないようなこともあるでしょう。
できるだけ、そうならないためにも、本気で自分の正しさを証明したいと思うなら、具体的な対処方法をもって行動すべきです。
嫌味を言われたとしてもサラッとかわす
ところで、冷静に考えれば「戦っているときに、相手が謝るわけがない」と判断できるにもかかわらず、多くの人たちが、どうして戦う相手に自ら近づいていってしまうのでしょうか。
どう考えても、益になる相手ではありません。
それは、自分の中に「悔しい」という強烈な感情が残ってしまうからでしょう。
それを解消できないために、近づいていってしまうのです。
ではどうして、「悔しい」という感情を解消することができないのでしょうか。
一つには、我慢しているからです。
自分の気持ちを優先できずに、義務や「しなければならない」で動いているからです。
はっきりとは自覚できなくても、無意識のところで沸々と感じていて、それを蓄積させています。
感情的になって争うとき、その「沸々」が一気に噴き出してしまうのです。
つまりその「悔しさ」は、普段の自分が「自分のために行動していない」ことの証であると言えるのです。
たとえば姑が電話で、「孫が私に反抗するのは、あなたが私を嫌うように仕向けているからじゃないの」と彼女に嫌味っぽく言ったとします。
けれども、姑が子どもと一緒にいるときに、姑がそう感じたとしたら、「これは姑と子どもの二人の問題だ」という捉え方をします。
ですから、彼女はあれこれ気を揉むよりは、「そうですか。そんなふうにお義母さんに感じさせてしまうことがあったのですね。それは傷つきましたね。では、子どもと直接お話をされてはいかがでしょうか。子どもに電話を代わりますか?」などと答えて、その話題からさっさと身を引いたほうが、嫁姑戦争を避けることができます。
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楽に生きるには相手の挑発に乗らない
どうのように思われようが、無関係
自分が自分のために行動できれば、少々意地悪な相手であっても、強引な相手であっても、あるいはまったく相手が変わろうとしなくても、自分自身の満足度が高くなります。
自分自身を守ることができれば、心理的な距離が遠くなります。
そうやって、小さな場面から我慢しないでいる自分を育てていくにつれて、精神的に自立していけば、未来のあるとき、過去を振り返って、「どうして、あんなくだらないことで悶々として悩んだり、接着剤のようにくっついて争い合っていたのだろう」と、自分のそんな過去が遠い昔のように感じられるかもしれません。
争えば争うほど繋がりは悪化
もう一つの大きな理由として、どんどん相手に関わって争ってしまうのは、そうすることで「悔しい」という思いがいっそうエスカレートしていくからです。
大多数の人がいまだに、争って勝てば満足するのではないかという幻想に惑わされています。
そのために、その幻想を求めて戦おうとします。
しかし、勝ち負けで「完全に勝った」と満足することはない、というのはこれまで述べてきた通りです。
どんなに戦っても満足するどころか、互いに「悔しい」という感情は増幅していきます。
争っていけばいくほど、その感情に囚われていくのは火を見るよりも明らかです。
争っていけばいくほど、自分の感情は、解消するどころか、どんどん増幅していきます。
それこそ、相手が自分の目の前から消えてしまわない限り、鎮火しないでしょう。とはいえ、仮にそんなチャンスが訪れたとしても、蓄積した感情がすぐに霧散してしまうというわけでもありません。
争いから降りない限り、さまざまなマイナス感情の蓄積を止める手立てはないのです。
それでもやめられない最大の理由は、「孤独感」です。
私たちの周囲には人があふれているので、普段は”孤独”ということを自覚しないで済みます。
けれども、実際に孤独に追いやられれば、いたたまれないほどの恐怖を覚えるでしょう。
誰でも「独りでいるのは寂しい。誰かと一緒にいたい。自分に構ってくれる相手がほしい」と欲求します。
それは、誰かに「愛されたい。愛し合いたい」という根源的な欲求です。
争っても、そんな根源的な欲求が満たされるわけではないのですが、孤独であることよりは”まだ、まし”です。
争うことでしか人とコミュニケーションをとることができない人は、その”まだ、まし”を求めて争いを仕掛けていくのです。
そんな無意識の欲求も織り交ぜながら争っていくので、争いに乗れば乗るほど、争い合う関係は激化していくことになるでしょう。
だから早めに降りたほうが、「悔しい」という感情を最小限にとどめることができます。
会話を早いうちに打ち切る
理想は、「争いそうな気配」を感じたら、相手と会話を続けるよりも、ただちに、「どうやって、今のこの会話を打ち切ろうか」と考え始めることです。
もしあなたが、そんな気配を感じたとき、たとえば、「争いたくて話をしているわけではありません。私自身も、争って傷つきたくないんです。だから、この話は、今日はここまでにさせてください」
などときっぱりした態度をとって、自分のほうから能動的に「争いから降りる」行動ができたとすれば、あなた自身が、どれほど満足感に満たされることでしょう。
一度でもあなたがこんな体験をすることができれば、相手の挑発に乗らないでいられた自分を、この上なく誇らしく感じるに違いありません。
争いに乗っていかないと、そんな自負心が自然と蘇ってくるのです。
そして、そうやって争いの世界から遠くなっていくと、次第に、争いに乗っていかないほうがはるかに快適な毎日を過ごすことができると確信するようになっていくでしょう。