丸く収めるとは
日本の社会ではよく、「まるくおさめる」ということが尊ばれる。
ことは荒だてないほうがいいとされる。
私だってできればそのほうがいいと思っている。
しかしなにを犠牲にして、誰の犠牲においてことが丸くおさまったのかということは、しっかりとわきまえなければいけないことではなかろうか。
「丸くおさまる」ときはたいてい人のいい人間が犠牲になって、利己的な人間が不当な利益を得ている。
「まるくおさまる」ことはよいことだが、それが最優先する集団は、病的な集団である。
犠牲になる人間はたいてい決まっているのであるから。
そしてその人間がどれだけ傷ついているかを、周囲の人間はたいてい理解できていないのであるから。
「愚か者の楽園」という言葉がある。
もしまるくおさまることがすべてに優先するなら、それはエゴイストの楽園である。
そしてこの日本には、なんとエゴイストの楽園の多いことか。
しかしそれは同時に、お人好しの人間にとっては地獄でしかないのである。
日本人がこれほどまでに陰で人の悪口をいい、嫉妬深く、会社では足のひっぱりあいがあるのは、エゴイストの楽園だからではなかろうか。
皆ゆずりながらも、おもしろくないのではなかろうか。
一見、柔和で物腰のやわらかい人でも、芯は強いという人がいる。
そういう人がかえって、受けた侮辱に対してはなかなか反感が消えないということがある。
表面的に「けしからん、けしからん」と大声で騒ぐ人より、反感は根深く克服しがたいものである。
大声で騒ぐ人はもともと不当に優遇されるし、侮辱を受けたとしても騒いで解消できる。
それに対して、一見温和に見える人は、ついつい不当な不利益をこうむる。
その不利益、侮辱は強力性性格の人より耐え難いものであり、しかも発散できず、うらみとなって長く心の中に留まる。
外的に与えられた侮辱や不利益の影響の長さは、強力性性格や無力性性格の人よりははるかに長い。
それらの人から見れば異常と思えるほど長い。
真面目で良心的であればあるほど、大騒ぎするエゴイストの横暴に克服しがたい反感をもつ。
良心的で温和であれば、「それでは俺の不利益はどうなるんだ」とは叫べない。
相手の不利益は気の毒だからなおそうという。
そしてなおすことで、こちらの不利益が出る。
しかしそれは、「まあ我慢してくれ」となる。
もともと執着性性格だの敏感性性格だのという人は自責の念が強いから、くやしくても自分のわがままはいってはならないと我慢することになる。
しかし、考えてみれば、「あなたは我慢しなくていいです。あなたは我慢しなければいけません」とあらかじめ決まっていること自体がおかしいのである。
そしていったんそのようになんとなく決まってしまうと、仕事熱心で温和で良心的な人の中に、夜も眠れぬほどの侮辱や不利益への反感があることに、周囲の人は気づかない。
ひかえめで勤勉な人は報われない。
このことがわかっていないのである。
誰が喜んで自らすすんで報われない立場をとるだろうか。
そのような立場にならざるを得なくて、
やむを得ずそのようになっているのである。
そしてそのような立場に立たされてしまったから、食欲不振、便秘、不眠、頭痛を耐え忍んでがんばって働いているのである。
大声で騒ぐ異常な利己主義者たちは、それならそのように主張すればいいではないかという。
しかし同じように利己的になれば、その集団は壊れる。
温和で控えめで良心的で勤勉な者は、その集団が壊れることを避けようとするから、結局ゆずらざるを得ないのである。
家庭でもそうである。
自分が他の成員と同じように利己的になれば家はもたないとわかるから、ゆずってしまう。
会社でも同じである。
あいつと同じに自分が利己的になれば、自分の課は業績をあげられない、まとまりがなくなるとわかるから「あいつ」にゆずってしまうのである。
上に立つ者の大切な資質は、ひかえめで勤勉な者がそれなりに報われるようにすることだと思っている。
その場その場を無原則におさめていこうとするようなリーダーは、まず間違いなくこのひかえめで勤勉で温和な人を犠牲にする。
リーダーがただただその場をうまくおさめていこうとすれば、どうしたってこの少し堅苦しいけれど良心的な人に不公平に負担を背負ってもらって、集団の問題を解決していくことにならざるを得ない。
そしておかしなことに、ある人が不公平に負担をいったん背負うと、なんとなく皆はそれがあたり前と感じはじめてしまうのである。
もともと堅苦しくて良心的で勤勉な人というのは、普通の人よりはいつも不安な緊張があるから疲れやすい。
大声で騒ぐエゴイストのほうがよほど疲れていない。
それなのに疲れていて、しかも疲れやすい敏感性性格的な人に負担はどんどんかかっていく。
そして今述べたとおり、いったんそのようになってしまうと、今度はその人が、疲れや仕事上の負担の軽減を訴えても、誰も耳を貸さないのである。
たいていその必死の訴えは無視される。
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すぐれた上司、すぐれたリーダーというのは、じつはこの訴えをきちんと聞いてあげることができる人なのである。
周囲の同僚や部下にはわからなくても、きちんとそのようなことがわかるというのが上司、リーダーの資質である。
それにしても、このように上役として、上に立つ者としてきわめて重要な資質を欠いているリーダーの、なんと多いことであろう。
不公平に負担を背負わされ、疲労困憊し、怒りやすくなれば、「あいつはすぐに怒る」「あいつはなんかいつもイライラしているな」と評判が悪くなる。
過重な労働を不公平にさせられて、訴えを無視されて、神経がおかしくなったあげくに、「あいつは仕事ができない」ということで、放りだされたり、窓際に追いやられる。
そして温和に見えても、心の中では、冷たいエゴイストよりは、そのことで深く傷ついている。
出世できなかったことで上司を憎んで、悪口をいって歩ける人はまだいい。
敏感性性格的な人は、そのことを不満に思っても、会社内で上司の悪口もいえない。
いや仲間と一緒に飲みながら、その上司や同僚をぼろくそにけなすこともできない。
いやむしろそのことを、自分の能力不足と受け止めようとするような気真面目さがある。
しかしこの人は完全には倫理的な人ではないので、そのように思いこもうとしたって思いこめるものでもない。
この人だって職業上の名誉もほしいし、お金もほしい、その点では大声を出して騒ぐエゴイストと同じことである。
それなのにそのエゴイストに負けてしまう。
エゴイストのように威勢よく自分の利己的なことだけを平気で主張できない。
そのような主張にはどうしても良心の呵責を感じてしまう。
そして自分の主張をひっこめる。
あるいはひっこめさせられる。
「彼の利益が優先します」といわれて、自分の利益を手放す。
そのとき心の中の奥深い無意識の領域で、「それでは俺の利益はどうなるんだ」と叫ぶ。
しかしその叫び声は、彼をも含めて誰にも聞こえない。
本当を言えば、その声を聞ける能力こそ、上司に必要な能力なのである。
もしそのような上司や親が日本にたくさんいれば、それに正比例して、「うらめしや」といって出てくるお化けは、日本に少なくなるのではなかろうか。
善良な人を甘く見るな!このことがわかっている人のなんと少ないことか。
少なくともいまの日本では、家の中でも、地域社会でも、職場でも、どこでも善良で勤勉な努力家に負担が不公平にかかりすぎている。
重荷の背負い方が不公平なうえに、仕事がうまくいかないとき、えてして非難されるのは、この不当に重荷を背負わされている人たちなのである。
そして荷物をもたない横柄なエゴイストが思い上がって意気揚々としていたりする。
この世の中には、ほんのちょっとしたことがひどくこたえる人もいれば、なにを言われてもあまりこたえない人もいる。
押しの強い人だけが得をするということのないように配慮できる上役が、私は有能な上役だと思う。
この世の中にはいざこざがいやな人、いざこざがこたえる人、いざこざの不愉快さに耐えられない人がいる。
しかしいざこざがいやであっても、それ以上に自分の利益が大切で、いざこざがあっても一晩飲めば忘れてしまうという人もいる。
自分の利己的な主張を堂々とする人は、ひかえめな人に、おまえだって主張すればいいじゃないかという。
するとひかえめな人は、「そうなんだ」というようになってしまう。
これはまったく利己的な人の土俵にのってこいといわれて、そうですとのっていくのと同じである。
おまえだって主張すればいいじゃないかといわれれば、「おまえだって少しは自己抑制して他人の利益を考えろ」というのがいいのではないだろうか。
もしどうしても「おまえだって主張すればいいじゃないか」というなら、化けて出られてもあきらめるより仕方ない。
つまりお互いに自分を主張するというときには、お互いにゆずる姿勢があってはじめて成り立つことなのである。
声の大きいエゴイストははじめからゆずるつもりはないし、そのような心情的やさしさがない。
そのうえで、相手に主張してもよいといっているのである。
これはたいへんな思い上がりで、他人の人格を二重にも三重にも無視したひとりよがりの横柄な態度である。
相手の主張を聞く心の姿勢がないうえで主張しろというのは、きわめて卑怯なのである。
そこらへんのことをわかっていなければいけないのが上司なのである。
言葉だけ聞いていれば、「おまえだって主張すればいい」というのは正しい。
したがって反論しにくい。
しかしこの正しさには前提がある。
たいていこのようなことをいうエゴイストは、その前提を欠いているのである。
そこのところを見抜けるのが、すぐれたリーダーなのである。
まとめ
ものごとをまるくおさめるということは、いい人が犠牲になることである。
そして、お互いに自己主張することは、お互いがゆずりあって成立することである。