社外の人たちとの関わりが、自分を豊かにする

最近、よく目にするのが、若い女性二人がそっくりな格好をしているというおしゃれ。

おそろいの服を着て、髪型も同じように整え、靴やバッグも同じものを身につける。

そうした装いを「双子コーデ」と呼ぶのだそうだ。

若い女性を対象にしたある調査によると、その双子コーデとやらに「興味がある」「自分もやってみたい」と答えた同年代の人が少なくないという。

双子コーデを決めるには、自分と似た人間が必要だ。

体型や顔つきがにていることは重要だが、それだけではない。

「この服、可愛い」と思える服の趣味が似ていなくてはならない。

それを買える金銭的環境もしかり。

それほど自分に近い人間とべったり一緒にいる―。

実際の社会には、自分と似ても似つかない人間がたくさんいて、そういう人たちと適度な距離感を保ちながら交流していかなければならない。

若いうちから、自分のそっくりさんとつきあっているだけで、他人との距離をうまく保てるのかとも思う。

いま、社員寮に入りたがる若い社員が増えているのだという。

寮なら民間マンションよりも安くすむという事情もあるが、それ以上に「仲間がいる」のがいいらしい。

流通関係に勤める50代の人事部長は、入社してきた地方出身の新入社員の多くが、すぐに寮に入ったことに驚いていた。

しかも、入寮資格のない都内に実家のある社員が、それをうらやましがったのだという。

「帰宅後も仲間がいたら楽しそうだ」というのが理由だそうだ。

その部長は「俺は、そんなことは頼まれても嫌だ」という。

どんなに安くて広くても、会社の人事部が把握しているところになど住みたくない。

若い頃から、できるだけ違う世界の人たちと接したいと思っていたからだ。

もちろん、会社の人間関係は非常に重要だ。

転職が当たり前の時代とはいえ、定年までその会社で働くことも考えられるのだから、会社の人とは揉めることなく適切な距離感でつきあわなければならない。

だからこそ、同じ会社の人間とはあまり深入りしないほうがいいのだ。

新入社員のうちは、同期とも友達気分でつきあえる。

会社でイヤなことがあっても、寮の仲間と愚痴をこぼし合えば気も晴れるかもしれない。

しかし、会社は競争社会だから、いずれは出世という差がつく。

置かれた立場も与えられる権限も変わってくる。

そのときにも、いつも仲のいい友達でいようとしたら無理が出る。

会社の人間関係は難しいが、それに煩わされないですむいちばんの方法は、社外にいい人間関係を持つことに尽きる。

仕事が大変な人ほど、まったく関係のない人や、自分とは違うタイプの人と積極的につきあったほうがいい。

仕事に没頭していると、「新しい人付き合いなどいらない」と思えてしまうかもしれない。

「そんな人とつきあっている時間があったら、仕事をしたい」とも思うだろう。

そして、気づいたときには仕事の人間関係が9割以上を占めている。

同じような人間と、終始狭い世界の中にいるから衝突も起きる。

なまじ価値観が似ているからこそ、お互いに引けないのが会社の人間関係だ。

そんな関係ばかりでは疲れ果ててしまう。

自分と違う世界にいる人となら、そうはならずにいい距離感を保てるはずだ。

定年後にスポーツクラブや趣味の会に入ったはいいが、仲間から嫌われる人がときにいる。

そんな人は自己紹介をするとき、決まって「〇〇に勤めていた・・・」から始める。

下手をすると、最終肩書きまでつけ加える。

会社の人間以外と付き合ってこなかったから、「そんなことは関係ない」ということがわからないのだ。

これは、定年を迎える世代の問題とは限らない。

若い人でも予備軍は大勢いる。

狭い世界で、似たような仲間に囲まれていると気分的にラクかもしれない。

だが、若いからこそ広げられる世界もある。

あえて、違う世界の人たちと接点を持ってみるべきだろう。

アメリカの作家B・C・フォーブスは、「ゴルフにバンカーやハザードがなければ、単調で退屈に違いない。人生もしかりだ」といった。

ゴルファーにはわかる言葉だ。

人生も、たしかにそうかもしれない。

相手の本音は、仕事以外の雑談から出てくる

成功している経営者はみな一流だが、なかでも尊敬してやまない人が数人いる。

彼らに共通しているのが、「ものすごい人なのに決して偉ぶらない」という点だ。

彼らは年下・目下の人間にも同じように丁寧に応対する。

私が二十代の人間を同行させていれば、その人にも私に対するのと同じように接する。

年齢や置かれた立場で対応を変えるようなことをしない。

「人と話をするときは、その人自身のことを話題にせよ。そうすれば、相手は何時間でもこちらの話を聞いてくれる」

これは、イギリスの首相を務めたディレーリの言葉だ。

いずれにしても、本当に尊敬すべき人たちは、上から目線というものがない。

同じ距離にあっても、上から下への距離と、並行の距離は違う。

私が尊敬する人たちは、並行の距離感で人とつきあえた。

すぐに上下の距離感に立ちたがる人は、そこに「用件」のみしか持ち出せない。

上の人が指示を出し、下の者がそれを聞く。

面白くも何ともない。

対して、並行の距離感でつきあえる人は「雑談」ができる。

雑談は非常に大切で、そこに人の本音や、人生のヒントが隠されていることが多い。

ふだんから誰とでも雑談ができる人は、それだけ人から材料を引き出すことができる。

哲学者フランシス・ベーコンはいった。

「賢明な人たちは、農夫や、貧しい女や、子どもたちにいたるまで、喜んで身を低め、他人の話を聞いて多くを学ぼうとします。

無学と思われている単純なそれらの人々の話の中には、賢明な人たちの興味を引かない、たくさんのことがうかがい知れるからです」

ましてや、いま私たちの目の前にいる人は、無学でも単純でもない。

多くの学びを与えてくれる人ばかりだ。

そういう人たちと、いつも雑談を交合わせる距離を保っていたいものだ。

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いつもお行儀よくでは、相手の心は開かれない

基本的に、人と人の距離は少しずつ縮めていくのがいい。

しかし、それだけに留まっていたら、誰にとっても「その他大勢」の中の一人になってしまう。

ときには、ハッタリをかましてもグッと近づく必要がある。

最初は節度ある距離感を保っておき、隙を見て一気に相手の懐に入ってしまうのだ。

講演会などでは、講演者一人が一方的にしゃべり、受講者はみんなおとなしくそれを聞いてくれる。

それに甘えて、ずっと同じトーンでしゃべっていたら、受講者はそのうち必ず退屈する。

眠ってしまうかもしれない。

せっかく足を運んでくれた人たちに対して、それでは不発である。

基本的に、丁寧な言葉遣いと聞きやすい話し方を心がけているが、途中でいきなり声を荒げてみせることもある。

「でも、これが出来ている人は少ないんだ!みなさんだってそうでしょう?」

「ダメダメ!ほら、ここにいる人の九割が間違っているはずです!」

ズケズケ厳しいことをいったのに、会場には笑いが広がる。

一気に受講者と講演者の距離が縮まるのを感じる瞬間だ。

もちろん、ずっとガミガミいっていたら受講者はイヤになってしまうから、また節度ある距離に戻る。

こうして、近づいたり離れたりしながら、いい関係性を構築していくのだ。

このテクニックは、さまざまに応用できる。

あなたが、取引先の社長と話をしていて、自分という人間を印象に残し、次の面談につなげたいと考えているとしよう。

「なるほど、〇〇社長でなければ乗り切れないような大変な局面だったのですね。

すごいことですね。ところで、そのとき、ご家族にはどのようにご説明なさったのですか?」

たとえば、このように丁寧な話し方で敬意を表現しておきながら、適切なタイミングが来たらパッとくだけた言葉を使う。

「ええっ?社長、それはないでしょう!」

思わず出てしまったという感じを装う。

それほど相手の話が面白く、つい親しみを感じてくだけた言葉が口をついたというスタンスをとるのだ。

この一言で、それまで遠かった相手にかなり近づくことができる。

しかし、タイミングを間違えれば、「何だ、こいつ生意気なヤツだ」と思われてしまうから注意が必要だ。

少し高等テクニックでもある。

最初は上手な先輩を見て学ぶといい。

意識して観察していると、そうした戦術を用いている人がけっこういるのがわかるはずだ。

フランス文学者の河盛好蔵は、その著書『人と付き合う法』の中で、「人間同士の付き合いは、たとえ、どんな遠慮のない仲であっても、常に一種の演技がいる」と述べている。

人の懐に入っていくとなれば、当たり前のことをしていては無理。

ここいちばんの演技力を磨くことだ。