ここでは、「心の状態」でいうところの「I’m not OK, You’re not OK.」で苦しんでいる人に向けて書きました。
この状態だと、
私はダメです。あなたも信じられません。
という非常に苦しい、捨て身のどん底といった状態です。
「どうして私のことを理解してくれないの?」と思う一方で、「私なんか誰にも理解してもらえない」となります。
「まわりは、話のわからないバカばっかり!」と怒りを覚える一方で、「オレはダメな奴だ」とひどく落ち込みます。
他人を攻撃したり、責める一方で、自分を攻撃したり責めたりします。
つまり、他人にも自分にも「OK」を出すことができない。
「他人大嫌い」「自分大嫌い」なわけです。
このような状況になると、ひどいときにはうつや自傷に走ってしまう人すら出てきます。
これでは、非常につらい。
この状態のときは、一番心がしんどい状態です。
自分はもとより誰も信じられないのですから、とにかく人間関係は、「しんどい」。
ここでは、こんな状態になっている人たちの心に効く話です。
同じようなところで人はつまずく
自分の壁を乗り越えられない「トラウマラインの法則」
自分が嫌で嫌でどうしようもない。
そのうえ、周りの人みんなが敵に見えてしょうがない。
「誰一人自分の味方なんていない」と思って絶望的になってしまう。
あげく「こんな自分の味方になってくれる人なんていなくて当然だ」なんて自己否定に入ってしまう。
こういう捨て身の、どん底の状態の方がいます。
その方たちは、いろんな仕事の方、主婦、学生などの立場にかかわらず、また、老若男女を問わず、本当にさまざまな要因の悩みを抱えています。
でも、よく聞いてみると、悩みの環境や、周囲の人間関係などに違いはあるものの、一つ、大きな共通点があります。
それは、「悩みは、遠い昔から繰り返してきたパターンである」ということ。
気がつけば、子どもの頃から繰り返しているパターンで悩んでいる人が実に多いのです。
つまり、「あるパターンが乗り越えられない」
ということなんです。
では、「あるパターン」とは何でしょう。
そのパターン、壁に当たったら、ついつい避けてしまう、逃げてしまう、立ち向かえない、勇気が出ない、あきらめる、怖い、不安になる。
そんな壁のことです。
その壁が、人それぞれに存在するようです。
どうしてそれが怖いのか。
それは、その壁を乗り越えようとしたときに、自分が今まで一番見たくなかったものに触れてしまうからなのかもしれません。
自分の過去の嫌な体験を思い出してしまって、同じパターンの中をぐるぐる回り続けて抜け出せない。
そして、この壁のことを「トラウマライン」と呼ぶことにしました。
この「トラウマライン」、友人関係やパートナーとの関係、恋愛関係だけでなく、仕事や会社経営にも当てはまります。
この「トラウマライン」を見つけるには、次の質問が有効です。
「いつから、そのパターンを繰り返していますか」
「その壁を乗り越えようとすると、何が怖いですか、何を思い出しますか」
「どんなことがあったから、その壁が怖くなったのでしょうか」
落ち着いた環境でゆっくりと自分自身に質問してください。
きっとあなたの中の「トラウマライン」が見えてくるはずです。
〇越えられない壁の存在に気づく
心のありのままを見直してみる
自分が思うように動けない「心の初期設定の法則」
日本に生まれ、その地域の文化、両親の教え、先生の教えなどを受けて育つうちに、
・これはいいこと
・これはいけないこと
といった判断基準ができてきます。
それは、自分が不快に感じたこともあるでしょうし、怒られたことや教えられたこともあるでしょう。
「これはいけないこと」と教えられたもの、感じたことは、大人になっても自分ではしないように心がけます。
無意識に守り続けます。
この状態は、我々の身近にある「あるもの」に似ています。
それは「パソコン」です。
パソコンを使っていても、思うように動かないときがよくあります。
そういったときに、パソコンに詳しい人にチェックしてもらうと、「あんた、初期設定でここにチェックいれてるからだよ」といわれることがあります。
「このチェックをはずしたら大丈夫」と、はずしてもらうと、不思議と魔法のように動きます。
つまり、知らないうちに入れてしまった初期設定のおかげで、ずっと悩んでいたのです。
実は、すごく簡単なハードル。
でも、自分ではそんなことはまったくわかりません。
で、思うように動かない。
何事か悩んでいる人の話を聞くと、学生さんも、60歳近い方も、結局は、子どもの頃と同じことで悩んでおられるのです。
あなたも、結局は昔から同じことで悩んでいませんか。
何度も、同じようなトラウマでつまづいていませんか。
この状態は、パソコンの初期設定を見てもらいながら、「なんで、こんなとこ『Yes』にチェックしてるの」
というようなことが、人生で起こっているだけかもしれません。
そして、作業中(人生)の不具合を通じて、自分の初期設定を探して、設定を変えていく。
これってすごく楽しい謎解きですよね、考えようによっては。
ただし、それにはとても地道な作業が必要だったり、そこまで築きあげてきたものが、崩れ落ちることもあるかもしれません。
その「初期設定を見直す」つまりは、「トラウマと向き合う」ということは、もしかしたら「両親に向き合う」ことかもしれません。
両親はあなたの「価値観」という初期設定プログラムの重要な設計者です。
その重要な設計者に向き合うことで、大きな初期設定の間違いに気づくこともたくさんあります。
また、たまたまいい初期設定がされている場合は、そんな悩みすら知らない。
初期設定がおかしいから作業がうまくいかないとぼやき続けても周囲の人も困ります。
初期設定に向き合うことはとてもしんどいことです。
パソコンが苦手な人にとって、初期設定に向き合うのは、すごくめんどくさい。
それと同じかもしれません。
苦手な人には、苦手。
簡単な人には簡単。
自分は、そのような「初期設定」になっていて、不具合が起きている場合、どうすればそれを変えられるのか。
それを考えてみてください。
すると、「あ、なんだ、ここか」と、あっけないぐらい簡単に解けることかもしれません。
〇この機会に初期設定をチェックする
自分は満たされているということを理解する
ずっと満タンにはならない
なぜかいつも不安で、自分は中身が空っぽで、価値がないような感じがしてしまうときはありませんか。
「欠けている」「満たされていない」と思っていると、「足りていない」「不平不満」「奪う」「勝つ」「不安」という思いが生まれます。
すると、誰かが「持っている」のを見ると、奪いたくなったり、嫉妬したり、不平不満が湧いてくる。
逆に「持ってない」人を見ると、ちょっと優越感を感じるから、不幸なニュースについつい目が行ってしまったり、他人のあら探しをしてしまう。
心の中ではいつも競争して、いつも他人と比べて、満たされていない自分を責めて・・・と、忙しい。
そして、もがいてもがいて、自分を満たそうとする。
・・・でも、満たされない。
では、どうすれば自分を満たすことができるのか。
お酒の大きな樽を思い浮かべてみてください。
お酒の樽は、たくさんの板を合わせてできています。
その中の一枚の板が、もし半分の高さで割れていたら、お酒は、どうなると思いますか。
そう、どんなに大きな樽でも、お酒がたまる量は、その割れた板の高さになるのです。
人は本来、大きな器(樽)で生まれてきます。
豊かなものが、なみなみと入る大きな樽です。
でも、いつのころからか、そのうちの何枚かの板が割れてしまった。
だから頑張っても、お酒が満たされない。
いくら入れても、割れたところから漏れ出していく。
もし、この板が割れていなかったら、がんばった分だけ、どんどんお酒がたまっていきますよね。
やがてあふれ出し、まわりの人と美味しさを分かち合うことができます。
自分の樽がいっぱいだから、いくら分かち合っても安心です。
そして、たくさんの人が集まってきていつも楽しい状況が、豊かな世界がそこには繰り広げられます。
・・・でも、割れている。
私の樽は、割れている。
割れずに生まれてきたはずなのに、割れている。
と、「感じている」。
そう、割れていると「感じてる」だけなのです。
なぜ「割れていると感じている」のか。
それは「割った奴がいるから」です。
樽の板を割る人の多くが、親です。友人です。教育者です。
「あなたは、ここができていない」
「そういうことはやめなさい」
「なんでこんなこともできないの」
「〇〇ちゃん、へん」
これらはすべて「あなたは、割れてるわよ」という言葉です(※たとえ、それがしつけや成長のための愛の言葉であっても受け取り方はそれぞれですから)。
今、満たされていない人は、たまたま親から「割れてるよ」という言葉を受け取ってしまった。
言葉を真に受けてしまっただけです。
それだけです。
つまり、実は最初から割れてないんです。
心の板、割れてないんですよ。
いっぱい入るんですよ。
愛情も、豊かさも。
あなたの樽は。
だから、
もう、割れていると思わなくていいんです。
もう、争わなくてもいいんです。
もう、分かち合ってもいいのです。なくなりません。
もう、自分にひどいことをした人にも、感謝してもいいのです。
そう、もう、満たされていいのです。
そう、満たされていることに気付いていいのです。
〇誰の樽も割れていない
目の前の問題はいつかの自分のカケラ
涙がかれるまで泣くほうがいい「贈る言葉の法則」
昔、昭和に流行った海援隊の「贈る言葉」という歌があります。
武田鉄矢主演の名作ドラマ『3年B組 金八先生』の主題歌だった曲ですね。
その一節に「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」とあります。
人はやがて、悪い出来事は自分が引き起こしているのかもしれない、と思うようになってからも心が苦しくなるような出来事がいくつか続き、それをもがいて乗り越えていくうちに気づくのです。
「これは、つらいわ」心が苦しむつらさを感じるのです。
そして、はじめて自分以外の人のつらさを受け入れられるようになるのです。
そして、こうやって悲しみを感じるほどに自分の心が他人に対して優しく、受容的になってくるのを感じるのです。
いかに今まで、器がちっちゃかったのかがわかります。
すると、「悲しみの数だけ人に優しくなれる」のです。
また、先ほどの歌詞には、こんなフレーズも出てきます。
「悲しみこらえてほほえむよりも、涙かれるまで泣くほうがいい」
悲しみに、理不尽に、怒りに立ち向かうのはものすごくエネルギーが必要です。
ところが子どもの頃には、そこまでのエネルギーや対応方法、表現方法もありません。
だから、笑うしかない、いうとおりに従うしかない、気づかないフリをするしかない、感情を閉じるしかない。
そんなことしかできない場合があります。
そのほうが「まし」。
そうしないと「安全に生きていけない」。
すると、そのとき感じた怒りや悲しみ、欠乏感などの感情が残ったままになります。
本当は、悲しみや怒りといった感情は感じつくすまで感じて昇華させてしまえばいいのに。
それが残っているのを知っているので、その部分を「見ないように」「感じないように」「なかったこと」にして、凍結させて生きていくのです。
これが、いわゆる「トラウマ」の素になってしまいます。
すると、大人になったある日、突然解凍されて、目の前の人を使って、目の前の出来事を使って当時の感情が「再現」「追体験」されることがあります。
それが「問題」です。
つまり「問題」「問題となる人間関係」は、過去の終わってない感情を思い出すための単なるツールなのです。
「問題」はあなたが残してきた、感情のかけら。
解凍して、向き合うことで、きっとあなたの失った感情が取り戻せるはずです。
今からでもいい、その時の感情を思いきり感じ尽くして”終わらせて”ください。
問題は解くからこそ価値が生まれる
人生の試練がやってくる意味が理解できる「受験の法則」
我々は、困ったときに、「問題が起こった」とか「あの人は問題だ」とか「私のこういうところが問題」という表現をします。
これっておもしろいなぁと思ったんです。
ほかにも「社会問題」とか「夫婦の問題」とか、いろんなふうに使います。
で、ふと思ったのが、学校のテスト用紙にも「問題」って書いてあるんですよ。
この場合「問題」には「解答」がついてきます。
つまり「問題」っていうのは「解くもの」なのかもしれません。
最初にいった、社会的にいう「問題」が終わりを迎えるときは、「解決」といいます。
ここにも「解」という文字が入っています。
「テスト」として何か「問題」が起こったときや、問題を感じる人が目の前に現れたとき、僕たちは、場合によっては「排除」しようとします。
逃げたりすることもあります。
向かい合わないこともあります。
しかし、問題を解決するということは、その問題を「解くこと」ではないかな、と感じたのです。
そして、解かないでそのままにしておくと、「宿題」として、ずっとついてくる。
未解決。
問題を解決する、ということは、「目の前の問題をヒントにして『本当の問題』を解くことで、次のステップに進むこと」ではないかなと思いました。
間違っても、その「問題」を変えようとすることではないのです。
つまり問題を解くことが、自分の人生のステップアップにつながるんだ、と。
目の前に現れる問題(人や出来事、自分の内面)は、次のステップに進むための「テスト」だということです。
高校受験や大学受験、進級試験や昇段試験、昇進テストなど、人が「次のステップに進む」ときには、多くの場合「テスト」がありますよね。
その「テスト」を乗り越えないと、次には進めません。
ずっとそのレベルのままです。
ただし、100点をとる必要はありません。
学校の進級テストも、人生の進級テストも同じです。
自分が今のクラスで、今の場所でちゃんと何かを学んで、次のクラスに進むための経験を積むことで、初めて成長ができるのではないでしょうか。
自分にとっての困難な出来事、苦手だと感じることが常にやってきます。
これが「人生のテスト」の「問題」です。
テストに出てくる「問題」は、習ったこと、つまり「経験したこと」しかでてきません。
問題が起きるときは、人生の昇級テストの時期、自分の今までの人生をもう一度振り返り、やり残したこと、逃げてきたことに取り組み直すことで、次のステージに進めるのかもしれませんね。
けれど実際は、「この問題が悪い」と、問題のせいにしている人も少なくありません。
「お前が変わらないから」「あの人が変わらないから」「あの人のせいで」「会社のせいで」「あの上司のせいで」と人のせいにしている。
自分はちゃんとしている、自分は問題ない、と、自分以外に問題を押し付けている間は、考える力も、行動力も身につきません。
そうして、進級試験には合格しないで、その場所でぐるぐると回り続けることになるのかもしれませんね。
その「問題」を、自分に「与えられた物」として、きちんと意味やメッセージ、ヒントとして活用すれば、きっと成長できるのだと思います。
〇あなたの問題には「正解」ではなく、あなただけの「答え」がある。
■関連記事
びくびくする心理
まわりの人を見回せば自分がわかる
すごく当たり前のことなんですが、自分の顔を何の道具もなく見ようとしても見れません。
どんなにがんばっても見れません。
首を速く回しても見れません。
鏡って偉大だなぁ、ビデオや写真って偉大だなぁ、とあらためて思いました。
高校生になって髪型なんかを気にし始めたとき、鏡を見て髪の分け方とかを色々気にしました。
自分の声や、カラオケで自分の反響音を聞いたとき、とても違和感があります。
自分が聞いている声は、骨を伝わっているも聞いている、慣れ親しんだ声です。
最初に自分の声をテープで聞いたときは逃げ出したくなりました。
鏡やビデオ、カメラがないと自分の姿さえ自分では見れません。
お化粧にしても、服装にしても、鏡がないと自分がどうなっているのかわかりません。
チェックもできません。
髭もそれません。
自分のおならも同じです。
閉め切った部屋の中にいて、こっそりおならをしました。
まわりの人が「おや、何か臭いぞ」と言い出しました。
でも、自分のおならは、他人のよりも愛着がありますので、自分は耐えられます。
「お前がおならしたんだろう」と誰かに言われました。
「違うよ!」と図星をさされたから、ムキになって怒ります。
また、自分がしたときは平然としていますが、誰かがついおならをしてしまったときには、鬼の首を取ったように責め立てたりもします。
こんな方に、「あなたもおならするよね」と聞くと、「おならするけど、私はしたって言うよ」「私は誰もいないところでするわ」といいます。
心を映す鏡はありません。
だから、自分と同じ「人間」を使うのかもしれません。
自分の出しているエネルギー、同じものが集まってくる、というか、周囲が自分と同じ色に染まっていく。
- 自分の出しているエネルギー
- 自分がしている表情や口癖
- 自分が周囲からどう見られているか
- 自分がこれからどうなっていくのか
そんなことを知るためには、どうやら、自分の周囲の人を鏡代わりに見るしかないようです。
「人のふり見て我がふり直せ」
昔のことわざは本当によくできています。
自分では見えない自分の問題と向き合うために、鏡のような人間が目の前に現れるのですから。
今、あなたのまわりにいる人は、どんな口グセ、どんな行動、どんな考え方、どんな優しさ、態度の色を出しているでしょうか。
それがあなたなのかもしれません。
〇まわりの人を一人ひとり見直す
失敗は大歓迎、自分の思いを大切にする
難しい状況で思考が止まる「頭が真っ白になる法則」
よく「自分の意見がない」とか「頭が真っ白になる」といったことで悩んでいる人がいます。
パニックで頭が真っ白になるとか、質問されても考えが浮かばないとか、というパターンです。
その理由を考えていて、一つの結論にたどり着きました。
頭が真っ白になるには、理由があったのです。
それは-、「自分の意見を捨ててきた」ということかもしれないと思ったのです。
私たちは、日々生きていく中で、さまざまなものを見たり聞いたり考えたりします。
すると、そうやって取り入れた情報は、その人の中にある、今までの人生で築きあげた独自の価値観に照らし合わされ、そこで初めて「感情」や「思い」が生まれます。
要は頭が真っ白になる人というのは、この「感情」や「思い」がどこかに行っちゃってる。
では、どこに行ってしまったんでしょう。
今まで、自分の意見や思いが湧いて、それを口に出したら笑われた、口に出したら怒られた、口に出したら間違ってる、おかしいと言われた。
もしくは自分が思ったことを口に出そうかどうか躊躇していたら、別の人が口に出して、それが批判されていた。
そんな体験をもし今まで何度となくしてきたとしたら、日々の暮らしの中でさまざまな思いが湧いたとしても、
- こんなこといったら笑われる
- こんなこといったら怒られる
- こんなこといったらバカにされる
と、せっかく湧いた思いをすべて消してしまいます。
あれもダメ、これもダメ、それもダメ・・・。
すると「なんにも残らない=真っ白」という図式ができあがるのではないかと思います。
つまり、すべての湧いてくる思いや感情に自分で「×」をつけて捨ててきたのです。
真っ白にならないで残った思いがあるなら、それはたぶん「無難」なものじゃないかなと思います。
失敗しないもの。
何も怒られない、笑われない。
みんなと同じ、失敗しない。
すべての行動の判断基準がこういったものにあると、今までの人生、すべて無難を選んで生きてくるはずです。
すると、無難な人生ができあがります。
でも、これからの人生、もっと楽しく、もっと成長したいなら、「無難」ではなく「勇気」「挑戦」「失敗」してみる。
そんな判断基準で生きていくと、大変だけど楽しくなるかもしれません。
ベストセラー『夢をかなえるゾウ』の著者・水野敬也さんが書いた『大金星』という小説があります。
ここに出てくる、主人公をサポートする変な男の言葉です。
「テンパった数だけ、人は成長する生き物でごわす」
いい言葉です。
ホントにそうなんだろうなって思います。
人間、ピンチや悩みを乗り越えることで初めて根を張り、実り、大きく成長するのかもしれませんね。
さぁ、あなたのこれからは、「無難」か「挑戦」、どちらでいきましょう。
〇真っ白よりもあなた色がいい
正解は何かにこだわることをやめる
人生、どっちに転んでもかわることはない「答えは同じの法則」
あの人とこれ以上一緒に仕事をするのも嫌だから会社を辞めたいけれど、かといって違う職場にいっても、自分がうまくふるまえる自信がない。
彼と付き合ってても苦しいから別れたいけれども、また誰かと付き合える自信がない。
このように「これもダメ、あれもダメ」と自分にも自信がもてず、かといって他人も信じられないとき、「決断を下す」のはとても悩ましいですよね。
「会社を辞めるべきか、どうか」
「彼氏と別れるか、どうか」
「結婚するか、しないか」
「一番傷つかない方法はAかBか」
「ここでいうべきか、いわないのか」
このように多かれ少なかれ、僕たちはAかBかで悩みます。
Aのほうがいいのか、Bのほうがいいのか。
人生には山ほどの選択肢があります。
選択肢を前にして、「どっちが正解(失敗しない)なんだろう」と、悩む場面がたくさん存在します。
行くも地獄、戻るも地獄です。
でも、実は、「正解」なんてないのかもしれません。
たとえば、Aを選んだとします。
すると、すぐにまた次に、CかDかEかFかを選ばないといけない事態が、目の前にやってきます。
で、今回はCを選んだ(他の選択肢をすべて捨てた)。
すると、そのあとすぐに、今度はGかHかIかJかKかLかMかNを選ぶ事態が、目の前にやってきます。
で、Gを選んだ。
すると、OかPかQか・・・と、延々と選択、つまり、決断の連続なのです。
目の前のAかBだけで決まるのではない、ということです。
そして、実は、今の自分も、「そのときの自分の思考回路にとって最善の選択」をしてきた結果なのです。
- 一番いいと思える方法
- 一番傷つかない選択
- 一番失敗しないだろう選択
- 一番前進できるだろう選択
今まで、いったい何通りの選択肢を捨ててきたのでしょう。
これから、いったい何通りの選択肢を捨てていくのでしょう。
選択肢はネズミ算式に、無限にあります。
すべて二択だとしても、十回決断する間に千以上の選択肢を捨てています。
ニ十回決断する間なら百万を超える選択肢を捨てることになります。
そうなると、どれが正解だったなんて、全然わかりません。
百個ある答えのうち、正解が一個だなんてことはありませんよね。
だったら、「正解はどれか」なんてことにこだわっていてはもったいない。
どの選択が、一番、自分が成長できるだろう。
その選択が、結果的に「正しい」後悔のない選択なのかもしれません。
〇正解を気にせず選択する
自分を主人公にした物語に見立ててみる
人生はドラマチックだ
映画では二時間程度の時間で人の心を動かすドラマチックが展開されます。
そして、よくできた映画は、さまざまなところで「伏線」がしかれています。
囲碁などでも、さまざまな伏線をしいていくことで、勝敗を左右します。
感動する映画、楽しい映画は「つらいとき」「落ち込んだとき」と、「楽しいとき」「うまくいったとき」のギャップが大きいほど感動します。
虐げられていたものが、何かをきっかけに立ち直って成功したり、さまざまな困難を乗り越えて、幸せになっていく姿が感動を呼びます。
それは主人公の「成長する姿」に自分を重ねていくからなのかもしれません。
もし、最初から最後まで幸せなお姫様の映画だったとしたら、誰も見ないでしょう。
また、強烈な悪役キャラがいることも、映画を面白くするポイントだったりします。
裏切りや誤解、災害、恨みや悲しみなどのネガティブな感情が、少しずつ誤解が解けていったり、許し合えていくさまも感動を呼びます。
さて、ここまでの話を、あなたの人生に当てはめてみるといかがでしょうか。
人生も、映画と同じだと思います。
ドラマチックで伏線があるほど、魅力的だと思いませんか。
物語では、夢や目標に向かいながら、その過程で強力なライバルが現れたり、病気になったり、さまざまな障害や問題に出会い、知恵と勇気を使って乗り越えていったりします。
さあ、今あなたは、ストーリーのどのあたりの場面にいるのでしょう。
〇トラブルのおかげでドラマチックに
神様は乗り越えられない壁は与えない
もしも自分が神様だったとしたら。
日本で生きている、自分という魂の入った人間に、どんなことをさせるだろうか。
ただ、のんびりと、幸せに、ふわふわと過ごさせるだろうか。
それとも、魂を鍛え、成長させるためのことをするだろうか。
たぶん、後者を選ぶだろう。
そのためには、何をするだろう。
たぶん、試練を与えるだろう。
ちょっとがんばれば乗り越えられる試練、すごくがんばれば越えられる試練。
間違っても、越えられない試練は用意しないだろう。
ちょうど、先生が、テスト問題を作ってるのと同じ気分かもしれない。
ちょっと引っかけてみたり、点のとれる問題を用意してみたり、すごく難しいのを混ぜてみたり、どこかにヒントを用意してたり。
テスト中に答えを教えるわけにいかない。
別に100点をとらせるのが目的でもない。
でも、生徒がうんうん悩んで考えて立ち止まって、「あ!」と叫んでペンを走らせ始めたとしたら、先生はにんまりと笑うかもしれない。
「わからない」「難しい」と投げやりで文句をいう生徒にはどうするだろう。
にやっと笑って自分で考えるまで待つのかもしれない。
全然解けなくても明るく取り組む生徒には、「これなら解けるだろ」と、簡単な問題を出すかもしれない。
通りすがりに、ポンポンと答えを指さしてやるかもしれない。
「先生、ヒントだけください」と言われたら、ちょっとだけならヒントを出すかもしれない。
すべて、成長を期待するから。
がんばって、がんばって、苦労して、工夫して、魂は磨かれていく。
私が神様なら、きっとそんなことを楽しむだろうな。
そう思った。
まとめ
無意識にあるトラウマに人はつまずく。
それには、何がトラウマになっているかに気づく必要がある。
目の前の問題は無意識の抑圧した自分にある。
失敗して楽になることがある、それはありのままの自分を出せた証拠。
正解にこだわらず、行きたい道をみつけることで人生は満たされる。
物語の主人公は自分であり、神様は乗り越えられない壁は与えない。