自分に価値がないという感覚

どうして、自分で自分をいじめてしまうのか

まずは、「自己肯定感」とはどういうものか、改めて見ていきましょう。

「自己肯定感」を持てと言われても、他人に誇れるような才能や能力などない

「自己肯定感」とは、「優れた自分」を誇りに思うことではありません。

「ありのままの自分」をこれでよいと思える気持ちです。

これは、それほど具体的に感じられるわけではありません。

心地よく温かい空気のように、自分をぽかぽかと満たしてくれる感覚です。

普段はその存在を意識しないことが多いでしょう。

まるで、空気のようなものだからです。

空気は、あまりにも当たり前のものなので、その恩恵を感じずに生きている人が多いと思います。

でも、空気が足りなくなると、にわかにその存在が致命的に重要だということに気づくものです。

自己肯定感もそんな感じです。

自己肯定感は、人がネガティブな思考にとらわれずにのびのびと温かい人生を歩むための「空気」のようなものです。

自己肯定感が高いと、自分のダメなところ探しをすることもなく、自分らしい人生を生きていくことができます。

自分や身の回りの人や物事、景色を、明るい目で見ていくことができるのです。

もちろん、問題がなくなるわけではありません。

でも、自己肯定感が高ければ、問題が起こったときに「もうダメだ」と絶望的になるよりも、「まあ、なんとかやってみよう」「なんとかなるだろう」という感覚を持ちやすくなります。

問題解決がうまくできなくても、そんな自分を責めることなく、「今回は仕方ない。次はうまくやろう」という前向きなとらえ方をすることができるのです。

つまり、多くの人が得たいと思っている「幸せな人生」こそが、そこにあります。

一方、自己肯定感が低いと、「こんな自分はダメだ」と自己否定的になったり、「こんな自分が、どうやっていきていけるのだろうか」と不安になったり、「何をやってもどうせ意味がない」と無力感を覚えたりします。

あるいは、自分を大切にすることができないため、心身を傷つけるようなことをしたり、絶望感の中、問題行動を起こしたりする場合もあります。

自己肯定感が低い人は、「自己肯定感が低い」ということについても、自分をネガティブな目で見ています。

「私は、自己肯定感が低いから、ダメだ」「どうしてこんなに自己肯定感が低いのだろう」という具合に、です。

もちろん結果として自己肯定感はさらに下がってしまうでしょう。

自己肯定感が低いということは、自分で自分をいじめているようなもの。

つねに自分を「これではダメだ」「どうせできない」という目で見ていくことは、自分を傷つけ続けるようなものなのです。

結果として心の病になっても不思議はありません。

実際、心を病んで治療に入る人たちは、往々にして自己肯定感がとても低いものです。

ですから、治療という、「自分を肯定する作業」が必要となるのです。

治療が必要な病になっているわけではなくても、自己肯定感の低さが様々な「生きづらさ」につながっていることはとても多いものです。

そして、生きづらいと感じるほど、さらに自己肯定感が下がっていく、という悪循環に陥ります。

自己肯定感が低いと、どんな問題が引き起こされるのか、具体的に見ていきましょう。

ポイント:自己肯定感が高まると、「生きづらさ」を手放せる

「私なんて」と思い込んでしまう

「私にはどうせできない」と思って、新しいことを始められない。

まず、自己肯定感が低いと、「私なんて」という感じ方になります。

自分が他人よりも価値の低い人間だと感じたり、自分だけがどこかおかしいと思ったりするのです。

また、自己肯定感がかなり低い人になると、自分など生まれてこなければよかったのではないか、と感じることもあるほどです。

自己肯定感が低いと、もちろん「自信がない」ということになりますし、「どうせ」と投げやりになったりしてしまいます。

「どうせこんな自分にできるわけがない」「どうせこんな自分が求められるわけはない」と思ってしまうのです。

また、自分は他人よりも価値が低いと思うと、「ありのまま」の自分をむき出しにすることなど、できるわけがありません。

そんな姿を見せたら、嫌われてしまったり、評価が下がったりするからです。

こんなふうに他人の目を気にして、自分を偽ってしまうのも、自己肯定感が低い人の特徴になります。

私の部下は、注意をしてもつねに自己正当化して、決して非を認めない。上司としてやりにくいけれども、私も彼女くらいに自己肯定感が高ければ、と羨ましくもある。

この「部下」は、一見すると「私なんて」の全く逆と言えます。

「私こそが正しい」という態度で生きているからです。

しかし、この部下の自己肯定感が高いのかというと、かなり疑問です。

実際、ことさら強く振る舞う人の中には、実は自己肯定感が低いという人が少なくありません。

そういう人は、「弱く見せると侮られる」とおもっているため、上司に注意をされて、たとえ心の深い部分では「しまった」と思っても、それを打ち消すくらいに強く自己正当化してしまうのでしょう。

本当は、「ありのまま」の自分を見せても、侮られるどころか温かく深いつながりが得られることが多いのですが、そんな世界は想像もつかないのです。

ポイント:気が強いからといって、自己肯定感が高いわけではない

頑張り過ぎてしまう心理

自分を肯定できないと、「自分がどうしたいか」を基準に行動することができず、「他人はどうしてほしいか」「人間としてどうすべきか」ということを基準に行動するようになります。

そして、結果として相手に振り回されたり、非現実的なことを自分に課して燃え尽きてしまったりするのです。

自分を大切にすることができないため、自分をボロボロにしてでも他人や仕事のために尽くしてしまうこともあるでしょう。

プロジェクトリーダーになったのだが、リーダーだからメンバーの声を大切にしなければと思って対応していたら、結局自分がほとんどの仕事をやらなければならなくなり、残業と休日出勤続きで心身がきつい。

もちろんリーダーとしてメンバーの希望を聴くのは大切なことですが、それは決して「なんでも言う通りにする」という意味ではありません。

それぞれの希望を聴き、適材適所に仕事を割り振ったり、少しずつ無理を負担してもらったりするのも、リーダーの重要な仕事です。

しかし、この例の場合、「リーダーなのだからメンバーの声を大切にすべき」という「べき」に縛られてしまい、また、自己肯定感の低さから相手に押し切られてしまい、結局はメンバーの力を何も活用できていない、ということになってしまっています。

リーダーのあり方としても問題ですが、それ以上に問題なのは、今にもうつ病を患いそうな自身の過労状態です。

こんなときに大切なのは、「持続可能」という考え方。

このままのやり方で自分はもつのだろうか、ということを考えてみるのです。

「もたせなければいけない」のではなく「現実的に可能か」という視点が必要です。

本人も過労は自覚しているのですから、改めて、「これは持続可能な仕事のスタイルなのだろうか」と見直すことができるはずです。

しかし、自己肯定感が低い人は、「無理しすぎないで、自分が持続可能な状態でいる」という、自分中心の考え方がなかなかできません。

ですから、「過労⇒働き方を見直す」という発想が浮かびにくいのです。

そして実際にそこから心身を病んでいく人はすくなくありません。

また、自己肯定感の低い人は、過労状態を指摘されたときにも、「でも誰でもつらいことには耐えているのだから」などと言って状況を改善しようとしないこともあります。

つねに「自分の頑張りが足りない」「自分の我慢が足りない」といった目で自分を見てしまっているので、自分が、改善しないといけないような、きつい状況にいることを自覚できないのです。

ポイント:無理をしていても、やめられないやめられない

他人に自分が振り回されてしまう

自己肯定感が低いと、対人関係にも支障をきたします。

隣席の同僚がやたらと話しかけてくるので仕事が中断されて困っている。話しかけられると、「今度はどのくらい続くのだろう」とうんざりする。

これをさらりと読めば、「そんな同僚が隣だったら、嫌だろうな」という話です。

しかし、この例に含まれているもっと大きな問題は、「話しかけてくる=聴かなければならない」「話をどこでやめるかは相手が決める」という、「相手中心主義」とも言えるもの。

自己肯定感が低い人は、自分を中心に考えることができないので、相手の不規則な行動にそのまま振り回されてしまうことが少なくありません。

「私は集中力が低いから、話してしまうと、なかなか仕事に戻れない」「ちょっと仕事が間に合いそうにないから、ここまでにするね」などと言って自分を守ることができないのです。

私の気持ちをわかってくれない彼氏に、いつも腹が立つ。

自己肯定感が低いと、「自分はこうしたい」となかなか言えません。

にもかかわらず、人が自分の気持ちを読んでくれないとストレスに感じたりします。

自己肯定感の低い人は、他人にあまり期待をしないのでは、と思うかもしれませんが、このあたりはそうしたイメージとは全く逆で、自分を肯定していない人ほど、人に気持ちを読んでほしがることが多いのです。

「自分の気持ちなんてとても伝えられない」という無力感が、「相手に気持ちを読んでほしい」という依存的な期待につながってしまうのだと言えます。

朝、上司の機嫌がすごく悪かった。「私が昨日出した報告書がダメだったのかしら?」と不安でたまらない。

自己肯定感が低いと、自分とは全く関係のない他人の言動を、「自分のせい?」と感じやすくなります。

ただ機嫌が悪いだけの人を見て、「自分が怒らせた?」と感じたり、疲れている人を見て、「自分が疲れさせた?」と思ったりしてしまうのです。

「つねに反省して、何が悪いの?」と思われるかもしれません。

実際、「人の機嫌が悪いときは、自分が何かしたのではないかと考えるように」と育てられた人もいるでしょう。

しかし、人が不機嫌になる理由は様々です。

単に体調が悪いのかもしれません。

私生活で何か問題があるのかもしれません。

それらすべての可能性を「自分のせい?」と引き受けていたら、不要なストレスまで抱え込むことになります。

そもそも、社会人として求められることは、機嫌が悪くなったら、そのまま当たり散らすのではなく、改善できることは改善する、という姿勢でしょう。

報告書に問題があるのであれば、それは上司がきちんと伝えるべき問題で、そうできていない上司は「社会人として機能していない」という見方もできるのです。

また、上司の立場に立って考えれば、少しでも機嫌悪そうにすると「自分のせい?」とびくびくする人の存在は、かなりの重荷でしょう。

上司だって人間ですから、機嫌が悪かったり疲れていたりすることもあるのです。

常に上機嫌でいることは難しいでしょう。

自己肯定感の低さは、そんな「相手の事情」すら考えてあげることができない余裕のなさを作ってしまうと言えます。

ポイント:自分を大事にしないと、あいての事情に気づけない

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人と親しくなれない

「自己肯定感が高すぎたら、周りから嫌われるのでは?」と思ってしまう。

「謙遜」という言葉がありますが、「自分なんて・・・」という感覚があれば、相手を相対的に高い位置に持ち上げることができるため、自己肯定感は低いほうがよいと思い込んでいる人も多いかも知れません。

つまり、「自分なんて・・・」と立場を低めることによって、結果として相手を大切にできる、という考え方です。

しかし、たとえば次の例を見て下さい。

ほめられるのが苦手。「その服いいね」と言われると、「そんなことないよ」と否定してしまう。

自己肯定感が低い人は、「自分なんて、ほめられるに値しない」という感覚を持っていることがあり、人から軽くほめられたときでも「ありがとう」と返すことに抵抗を感じてしまいがちです。

「ありがとう」と言うと、自分でも服の良さを認めているような気になってしまうからです。

あるいは、相手がこんな自分のことを本気で褒めているわけがないから、調子に乗って「ありがとう」と言うのは恥ずかしい、という場合もあります。

そして「そんなことないよ」と否定して、相手のささやかな優しさを台無しにしてしまうのです。

もちろん、自己肯定感の低い人のすべてが、ほめられ下手なわけではありません。

自己肯定感の低さと向き合っていない人は、逆に、おべんちゃらを言ってくれない人に腹を立てて根に持ったりすることもあります。

自己肯定感の低さからくる「満たされない感じ」を、おべんちゃらを言ってもらうことで、なんとかカバーして生きているからです。

相談事のメールをもらったので、長い時間を費やし親身になって返事を書いてあげたのに、その後何も言ってこない。

これも、自己肯定感の低さを読み解く、わかりやすい例です。

何かをしてもらったらお礼を言うのが当たり前、という感覚からすると、理解に苦しむ現象だとも言えます。

「礼儀知らず」「利用された」というふうに受け取られても仕方がないでしょう。

しかし、お礼のメールをしない当人に聞いてみると、別の側面が見えてきます。

それは、「自分なんかからお礼を言われても嬉しくないだろう」「返事を書くのに時間を使ってもらったのに、お礼のメールを読むのにさらに時間をとらせるのが申し訳ない」などと言う考えです。

これは、自己肯定感の低さからくる、ひとつの「症状」とも言えるものです。

「お礼を言えば、相手は喜ぶだろう」という感覚は、自己肯定感が一定程度ある人にしか持てないものだと言えます。

自分という存在に価値がないと思っている人にとっては、そんな自分のお礼に価値があるとも思えないし、そのことでさらに人を煩わせるのは抵抗があるのです。

しかし、親身になって返事を書いた人の立場に立って見てみれば、「なんの返事もないなんて、失礼な人だな」と感じるのも当然でしょう。

それなりの時間と労力を費やし、思いやりを持って行ったことが、尊重されるどころか、完全に無視されているような形になっているからです。

「対人関係が苦手」と言う人には、自己肯定感が低いケースが少なくないのですが、もちろんその理由の一つは、じしんがないために自己主張が苦手、というものです。

しかし、それだけでなく、この例に見られるように、「こんな私なんかが何を言ったって、何をしたって、相手は嬉しくないだろう」という思い込みが問題である場合も少なくありません。

つまり、自分が人間として、相手を喜ばせる、安心させるなど、「ポジティブな影響を与えられる」ということに気づいていないのです。

対人関係は、双方向のやりとりがあってはじめて人間らしく生きてくるもの。

どれほどの人気者でも、忙しい人であっても、人からお礼を言われれば嬉しいのです。

もしもお礼を言われたときに冷たくはねつけるような相手なのであれば、それはこちら側の自己肯定感の話ではなく、相手側の人間性の問題です。

好きになる人がいつもDV男で悩んでいる

自己肯定感が低いと、異性から告白されたときに、「こんな私を好きになってくれるの!?」「こんな私でいいの!?」という思いから、相手をよく見ずに深い関係になってしまうこともあります。

しかし、強引に口説いてくる男性や、「君しか見えない」みたいな雰囲気になる男性の中には、DV気質を持つ人も少なくなく、気づけば相手に支配されている、ということにもなりかねません。

結局は自分がのびのびとできない関係に陥ってしまう、というパターンのある人は、自己肯定感の問題を振り返ってみたほうがよいでしょう。

ポイント:どんな人も他人にポジティブな影響を与えられる

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人に嫌われてしまう

「あなたは恵まれているからいいよね」「私はどうせ」といじけたことばかり言う友人が面倒くさい。

この「友人」のように、自虐的なことばかり言う人も、自己肯定感の低い人の中には見られます。

自虐だけでなく、「きっとうまくいかない」などと、ネガティブなコメントばかりする人もいます。

これは「自分が相手にネガティブな影響を与えられることに気づいていない」と言えるでしょう。

「自分ごときが」という気持ちが強すぎて、自分と相手がお互いに影響を与え合う存在であることがわかっていないのです。

自分は相手の言葉に傷つくけれども、相手は自分が何を言っても大丈夫だろう、というような非対等な感覚もあります。

それほどに、自分は無力な存在だと思っているのです。

結果として、「あなたは恵まれているからいいよね」「私はどうせ」に対して相手はいちいち「そんなことないよ」とケアしなければならず、この例のように、面倒くさい、ということにもなるでしょう。

自虐もその一つなのですが、自己肯定感が低い人は、物事を決めつけやすい傾向にあります。

「決めつけ」が強ければ強いほど、自己肯定感は低くなってしまうのです。

人にすごく気を使って接しているのに、人間関係がうまくいかない。

前の例とは異なり、この例では、相手にネガティブな影響を与えないように、と必死で気を使っています。

それなのに人間関係がうまくいかないのはなぜでしょうか。

気を使いすぎてうまくいかないという場合、よく見られるのが、気遣いが相手の求めるものとずれている、というケースです。

たとえば、相手は本当は放っておいてほしいのにいろいろと気を使われて面倒、などという状況があるでしょう。

これも、「決めつけ」の問題と言うことができます。

「人はこうすれば喜ぶはず」という「決めつけ」に基づいて行動してしまうと、「実際に相手が何をしてほしいか」ということに気づけなくなってしまうのです。

急な雨で、友達にビニール傘を貸してあげたら、翌日、ビニール傘を返しに来て、ブランドものの傘までプレゼントしてくれた。なんだか負担・・・。

この例のように、何かをしてもらったことに対して、過剰に感謝したり謝罪したりする人がいます。

やってあげたほうが、「それほどのことをしたつもりはないのに・・・」「当たり前のことだからやっただけなのに・・・」と戸惑ったり不快に感じてしまったりするほどに、です。

こうやって「過剰に感謝する」「過剰に謝る」人も、往々にして自己肯定感が低い人です。

「自分ごときにやってもらったなんて」

「自分は本来そんな扱いに値しないのに」

という気持ちが強いのです。

人間はお互い様。

やってもらうときもあれば、やってあげるときもあります。

誰かになにかをやってもらったら、温かい謝意を伝え、ねぎらい、自分はまた別の機会に、あるいは別の人に、何かをしてあげればよいのです。

しかし、過剰な感謝や過剰な謝罪は、むしろ「自己肯定感の低い私」アピール。

相手に対する感謝を離れてしまって、「自分がどれほど自己肯定感の低い人間か」ばかりを伝えてしまっていると言えます。

ポイント:自虐アピールが相手を疲れさせる

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他人の言動に腹が立ってしまう

他人を攻撃してしまう裏にも、実は自己肯定感の低さが関係しています。

そもそもひとはなぜ他人を攻撃するのでしょうか。

攻撃というのは、動物が脅威を感じたときの反応パターンのひとつです。

人間を含め、動物は脅威を感じると、「fight or flight(闘争か逃避か)」反応を起こします。

逃げられる状況であれば逃げるし、逃げられないとなると闘うのです。

後者が、「攻撃」ということになります。

一般には逃げるほうが楽ですし合理的なので、たとえば、熊なども突然出くわさない限りは、熊のほうが人間からうまく逃げてくれるものです(だから、人間という脅威に余裕を持って気づいてもらうために、「熊よけの鈴」というものがあるのですね)。

しかし、人間の場合、社会的なメンツなどもありますから、いつもいつも逃げてばかりというわけにもいかない、と考える人も多いものです。

逃げられないなら、攻撃するしかない。

ですから、攻撃や反撃は、案外あちこちに見られます。

さて、ここで改めて認識しておきたいのは、「攻撃は脅威を感じたときの反応」ということです。

「やられた」「やられそうだ」と身の危険を感じてしまうから、人は攻撃をしかけるのです。

しかし、何を脅威と感じるかは、人によってかなり異なります。

とくに対人関係的な文脈では、何を脅威と感じるかは、その人の人生を反映するようなところもあります。

誰かと意見が対立しているとき、友人から「でも向こうの言い分もわかるよね」などと言われると、すごく腹が立ってしまう。

よく知られているのは、自分の言動を否定ばかりされながら育った人は、多様な意見を受け入れにくいということ。

人それぞれ、いろいろな意見があってよいのですが、否定ばかりされながら逆境の中で育った人は、自分と違う意見を持つ他人を見ると、「自分が否定された!」と感じやすいのです。

これは当然のことで、意見を否定されながら育ったということは、つねに「お前の言うことは間違っている」と言われながら育ったということ。

そこには、「正しい考え」という絶対的なものがあって、それ以外は間違っている、というメッセージがあります(本当は、いろいろな意見があってよく、それぞれが「正しい」と言えるのに、です)。

ですから、そうやって育てられた人が、自分と違う意見を言う他人を見たときに自分が否定されたように感じるのも当然です。

「それは間違っている!」と相手を攻撃しなければ、自分が間違っていることになってしまう、と思うのでしょう。

この例のように、対立する相手に友人が理解を示したりすると、「裏切られた!」という思いになってしまうのも、そのためです。

つまり、「単なる他人のひとつの意見」が、否定されて育った人にとっては、「脅威」になってしまうのです。

ただ、このような人の自己肯定感はかなり低いと言えます。

自分の意見について「まあ、これが自分の意見だから、なんとでも言って」と思えたり、狭量な相手に対して「まあ、この人は実際に苦労している人のことを知らないから、こんなことを言うのも仕方がないな」と思えたりする人はかなり自己肯定感が高いと言えるのですが、自分の意見について他人がどう思うかをピリピリ気にするのは相当自己肯定感が低い証拠です。

自分の意見と異なる相手を攻撃ばかりしている人、というのは、言い換えれば、「つねに自分が正しくなければ気がすまない人」です。

少しでも自分と違う意見を言われると屈辱を感じてしまうのでしょう。

でも実際には、それぞれの人には事情があり、それを反映した「正しさ」があるもの。

ある人から見ると正しくないように見えることでも、別の人の事情を考えれば、それが「正しい」ということになるのです。

もう5年も里帰りしていないという友達。思わず、「親不孝ね」と言ってしまった。

一般に「親は大切に」という考え方をする人は多いと思いますが、親からひどい虐待を受けて育った、という人にその考え方を押しつけるのは酷でしょう。

「つねに自分が正しくなければ気がすまない人」というのは、そのようなものの見方ができません。

少しでも自分と違う考えを認めてしまうと自分が否定されるような不安感にとりつかれているからです。

このような人は、一見強そうに見えて、案外心が折れやすいもの。

自分の考える「正しさ」がなぜ実現しないのかとイライラを抱え込んだりしやすいですし、「許せない!」という怒りで自分をボロボロにしたりします。

そして、なんと言っても人間関係の質が悪くなります。

この例でも、いろいろな事情があって里帰りしていない人を「親不孝」と決めつけることによって、相手を傷つけたり怒らせたりしてしまう可能性は高いです。

少なくとも、「なんでも話せる親しい相手」とは思われにくいでしょう。

人間関係の質と心の病にはかなり深い関連がありますので、「つねに自分が正しくなければ気がすまない人」は、健康上もかなりのリスクを抱えていると言えます。

ここまで見てきたように、自己肯定感とは、自分らしくのびのびと、そして他人ともよい関係を保ちながら生きていくための栄養のようなもので、自己肯定感が低いと様々な「生きづらさ」につながっていきます。

程度がひどければ、心を病むことにもなります。

自己肯定感が低いことをもともと自覚していた方、あるいはここまでを読んで「自分も当てはまる」と思った方は少なくないでしょう。

でも、「ではどうすれば自己肯定感を高められるの?」というところで行き詰まってしまうのではないでしょうか。

いろいろな本を読むと、自己肯定感の基本は幼少期の育て方による、とか、子ども時代に受けたいじめによって徹底的に自己肯定感が下がってしまう、などと書かれています。

それはもちろん嘘ではありません。

でも、この記事を読まれている方は、それらの時代を過ぎているでしょうから、別のやり方が必要ですね。

心配しなくても大丈夫です。

幼少期からやり直さなくても、今からでも自己肯定感を高めていくことはできます。

ポイント:自己肯定感が低いと「正しさ」を相手に押し付ける