人間関係が怖い人が自分を守るべきとき、心を開くべきとき
人間関係が怖い人とは他人からの批判を恐れて、気を遣いすぎて心を消耗してしまった人である。
すると日常生活や仕事などで辛い影響を及ぼしてしまう。
そこで、人間関係が怖いから気を楽にする心理を述べてみたい。
人間関係が怖い人の心理
シャイな人がシャイであるのは外に対してである
シャイな人が過度に内気であり引っ込み思案であるのは外づらの面である。
シャイな人の内づらというのは逆である。
シャイな人が控えめ、謙虚といっても、それは本当に控えめであったり謙虚であったりするのではない。
人間関係が怖い人は他人からの攻撃を避けるために控えめであったり謙虚であったりするのではない。
他人からの攻撃を避けるために人間関係が怖い人は控えめであらねばならないから控えめであるにすぎない。
謙虚でありたくて彼らは謙虚であるわけではない。
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他人からの称賛を求めて謙虚であるにすぎない
それらの欲求不満があらわれるのが人間関係が怖い内づらなのである。
人間関係が怖い人は攻撃性や性的欲求が抑圧されることで心に葛藤がある。
その葛藤の苦しみがストレートに表現されるのが内づらのわるさである。
したがって人間関係が怖い人は外づらとしては控えめ、謙虚でありながら、内づらとしては不機嫌になる。
これらの人々は、たしかに正直で仕事熱心で他人に迷惑をかけないが、決して人々と心のふれあいを持ってはいない。
これらの性格はあくまでも「ある危険を避けるため」のものである
人間関係が怖い人は他人の評価によって自分が傷つくのを避けようとしてそのようにふるまっているのであって、他人に対して心を開いてはいない。
自我防衛の結果がこれらの性格なのである。
外づらがよくて内づらのわるい人間関係が怖い人というのは他人と心のふれあいを持てない人なのである。
内づらがわるくて外づらがよい人は、他人とかかわりながらいきているのではない。
自己中心的に人間関係が怖い人は生きている。
他者の存在がない。
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他人に対し対抗意識があると、何かを一緒にやっていても、気持ちは「一緒にやろう」とはしていない
人間関係が怖い人は対抗意識があるとなかなかコミュニケーションができない。
対抗意識があると、何かを一緒にやろうという気持ちになった場合、人間関係が怖い人は自分の自尊の感情が維持できないような気がしてくるのである。
この場合、他人とは、何かを一緒にやるべき存在ではなくて、常に自分を軽蔑する可能性を持っている存在である。
したがって、人間関係が怖い人は対抗意識の強い人はたえず他人をコントロールして自分を尊敬するように仕向けようとする。
他人を恐れると同時に人間関係が怖い人は他人をさげすんでいるから、他人と”一緒に”なると自分の尊厳が保てないような気がする。
つまり、他人は「気を許せない」存在なのである。
だから、他人が”一緒に”という姿勢を示すと、人間関係が怖い人は親しみを感じるどころか不快を感じてしまう。
外づらがよく内づらがわるい人間関係が怖い不機嫌人間も同じである。
内側の人というのは常に”一緒”の存在である。
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外の人のように評価したりされたり、という人間ではない
仕事のことで外の人に評価されたとしても、それは内側の人間関係が怖い人にとってはたいして大切なことではない。
内側の人間関係が怖い人にとって、たとえば男は職業人ではなく、夫であり、父である。
夫とか父とかいうことは”一緒”の存在である。
男として外で失敗したとしても、それは妻と子にとってはさして問題ではない。
たとえ失敗して外で評価を下げたとしても、妻にとってはよい夫、子どもにとってはよい父であればいいのだ。
だが、外の世界で傷ついた自尊心を家の中で回復しようとしている人間関係が怖い人にとっては、これはおもしろくない世界観である。
外の世界で何か失敗しても、内の世界で心が癒されるという人は、もともと自尊心の高い人なのである。
人間関係が怖い人は対抗意識が強い場合、他人を圧倒して支配できれば、自分の優勢と自分の価値を信じられる。
しかし逆に他人に圧倒されて軽蔑される場合には、他人は自分の価値を貶める可能性もある。
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人間関係が怖い人は他人を卑しめるか、他人に卑しめられるか、そのどちらしかない
ところが内側の世界は”一緒”という世界である。
勝ち負けのない世界である。
人間関係が怖い対抗意識の強い人間にとって”一緒”とはとりもなおさず自分を卑しめることでしかない。
しかし内側の世界の人間は外の世界の人間のように戦うべき存在ではない。
したがって勝つ可能性もまたない存在である。
つまり、自分の低い自尊の感情を高める可能性のない存在なのである。
そこで内の人間に対しては、かえって心を閉ざすことになる。
簡単にいえば、共同体では優劣は問題にならない。
それに対して機能集団的人間関係では優劣は問題になる。
機能集団的人間関係では、役割を通して人と人とが関係する。
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共同体では、役割を通して相手とかかわっているのではない
人は人としてかかわる。
近親いびりはこの典型である。
人間関係が怖い内の人間は自分を不安にさせ、不快にさせ、何をやっても癪にさわる。
対抗意識が強くて外づらのいい人間関係が怖い人は、別に外の人間に心を開いているわけではない。
外の人間とは心を開かなくてもつきあえる。
しかし内側の人間とは、心を開かなければつきあいづらい。
心をひらかなければならないところで心を開けないという人間関係が怖いということは不快なことであろう。
抑圧の強い人にとって、心を開くということは、身を危険にさらすことである。
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人間関係が怖い人は自我防衛をなくすということである
他人に傷つけられまい、自分が傷つくまいとしてたえず自我を防衛してきた
その防衛をやめるということであるから、人間関係が怖い人が心を開くということは大変なことである。
人間関係が怖い外づらのよい人というのは、自我防衛なしに他人に会えない人である。
外の人に対してはそれでよい。
しかし内の人に対して、自我防衛というのはそもそも場違いなのである。
また外側の人間に対しては、役割アイデンティティだけで自分を維持できる。
外での自分と他人との交流は、役割の確認というチャンネルを通じて行われる。
しかし封建時代でもない現在の家庭にあって、父という役割と子という役割との確認というチャンネルを通じてだけ交流するわけにもいかない。
どうしても、人はそこには「我と汝」という生の人間同志の相互関係が求められてくる。
そう考えてくると、不機嫌な人間関係が怖い人間というのが明治時代からあらわれてきたというのがよくわかる。
封建時代は、すべて人と人との交流を役割の確認というチャンネルを通じて行おうとすれば行なえたからである。
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役割関係を通じて人と交流する
そしてその役割の中に自分の価値を見出す。
人間関係が怖い人の中には部長と課長という役割を超えて心のふれあいを持てる人と持てない人がいる。
自分が課長としてのみ行動し、課長という中にしか自分の存在理由を確認できない人間関係が怖い人は、他人を部長としてのみしか見ない。
そしてこのような役割関係においては常に外づらである。
したがって、企業の中で一生懸命働いていても人間関係が怖い人は親密さを育てることができない。
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他人と”一緒”という気持ちができてこないどころか、対抗意識が心の底にある。
心のふれあいを持てない人間関係が怖い人は、部長と課長という役割の確認ということを通してしか、他人と交流ができない。
まず人間関係が怖い人は情緒的に成熟した人と付き合い、内づらと外づらが結局同じだということを学ぶことである。