仲良く平和にゆずる人の裏側にはさまざまな事情や感情がひしめき合っている
なにかにつけて「ゆずる」人がいる。
そしてなにかにつけてゆずる人のまわりにいる人は、その人がゆずるのを当然のように振る舞いはじめる。
小さい頃の家族の中での関係から学生時代の仲間、そして会社での人間関係にいたるまで、いつもいつも、生まれてからずっとゆずりつづけて生きている人がいる。
そしてそのまわりにいる人は、そのなかにつけてゆずる人が、心の底でどのくらい傷ついているかを知らない。
いや、たいていゆずっている本人する、自分の心の中の怒りに気づいていない。
だからこそ、そういう人は神経質になったり、抑うつ状態になったりして、破綻していくのである。
誰だって小さい頃から好きこのんでゆずっているわけではない。
三歳の子どもが、七歳の子どもが、十歳の子どもがどうして好きこのんでゆずるであろうか。
なんでもゆずる子は、親や兄弟にとって都合のよい存在なのである。
また、なんでもゆずる友人は仲間にとって都合のよい存在なのである。
なんでもゆずるサラリーマンは、会社や上司、同僚、部下にとって都合のよい存在なのである。
しかしその人は、お人好し以外の何者でもない。
「お人好し」といわれている人には、二種類ある。
一つのタイプは無力性性格、あるいは弱力性性格といわれているものであり、もう一つはクレッチマーのいう敏感性性格的な人である。
二つのタイプとも心の中は傷つき、怒りに燃えているかもしれないが、後者のタイプのほうがやはり心の底の怒りと憎しみは激しい。
それは敏感性性格の者は、無力性の中核にトゲのように強力性が刺さっているからである。
一つの錠を二人の兄弟がとりあうとする。
二人ともその錠でドアを開けたい。
そのとき、ゆずる子と、自分がその錠でドアを開けられなければ騒ぐ子とがいる。
必ず騒ぐ子が勝つ。
大人になっても騒いでわめく人間のわがままが通っていく。
日本の社会にある恐ろしい言葉、それは「ごねどく」という言葉である。
私はずっと、ごねどくの人間を許せない。
ごねたり、騒いだりすることでその人間の利己的要求は通るが、それだけどこかで「おとなしい」人間が犠牲になっているのである。
上に立つ者はよくおとなしい人間を犠牲にする。
それはその場をおさめていくのになによりも安易なやり方が、おとなしい人間を犠牲にして、ごねる人間、騒ぐ人間、泣く人間の「わがまま」を通すことであるからだろう。
政治はもちろんそうであるが、家の中だってそうである。
先にもいったとおり、兄弟が一つのものをとりあったとき、必ず騒ぐほうのわがままが通る。
姉と弟であれ、兄と妹であれ、とにかく泣いて騒ぐほうが得する。
「黙ってじっと我慢するおとなしい子」のほうが損する。
それは親にとって、「だまってじっと我慢するおとなしい子」を犠牲にして、泣いたり、わめいたり、騒ぐ子のわがままを通してしまうほうが、その場をおさめやすいからである。
しかし、泣いたり、わめいたり、騒ぐ子も、そのわがままを通すことでその場をおさめる親も、「だまってじっと我慢するおとなしい子」がどれだけのことに耐えているか、まったく気づいていないのである。
どれだけの怒りに耐えて、じっと我慢しつづけておとなしく生きているのか、泣いてわめく兄弟や親などに決してわかるものではない。
いや先にも書いたとおり、本人すら気付いていないこともあるのである。
しかし、その人が心の底の底で味わう「くやしさ」は、すさまじいまでの感情である。
いや一生それに気付くことなく、じっと怒りに耐えておとなしく生きて、神経質になったまま人生を閉じていく人がなんとこの世に多いことだろうか。
そして他方ではそのように「おとなしい」人を搾取し、犠牲にし、血を吸って、自分の思いあがった利己的要求を通し、やりたい放題で生きていく人のまたなんと多いことだろうか。
片方は生涯にわたって自分のわがままを通し、他方は生涯にわたって心の底で「くやしさ」を味わいつつ、自分のわがままを抑えて生きる。
ひとくちに、生涯にわたって自分のわがままを抑えて生きるといっても、それは〇歳からはじまって、ただただ耐えるだけで生きるということである。
こんな人が神経質になったり反応性うつ病になったりして、自分の人生を悲観したり自分に失望したりしたって、それは無理ないことなのである。
私は勝者というのは楽観的な努力家だと思う。
敗者というのは悲観的なくせにあまり努力しない人であると思う。
「おとなしい」人というのは、なかなか勝者にはなれない。
ここで勝者といっているのは、生きる喜びを実感できる人のことである。
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平和で仲良くの裏で私がゆずってばかりの悲劇
泣いてわめく人、騒ぐ人、ごねる人、それらの人は、ゆずった相手もまた自分と同じ人間だということを忘れているのである。
人の顔を土足で踏みつけながら、踏みつけていることにさえ気がつかない。
私自身は「おとなしい」人のほうであった。
したがって、いつもゆずりつつ生きている敏感性性格的な人が、どれほど傷つき、怒りに耐えて「くやしさ」を味わっているか知っているつもりでいる。
そして私自身二十代の神経質の時代、自分がどれほどの怒りにうちふるえているか知らなかった。
まただからこそ、神経質にならざるを得なかったのである。
しかし幸いにも、私は自分の心の中にある怒りに気がつき、神経質から抜け出すことができた。
そのとき、私は自分で自分の心の中の怒りと憎しみのものすごさに圧倒されて、どう振る舞っていいかわからなかった。
小さい頃から抑えに抑えてきた怒りと憎しみの激しさに、ただ自分でどうしていいかわからず、とまどってしまった。
その怒りと憎しみにくらべたら、道徳などは風の前のチリほどの重さもなかった。
というより、人を平気で踏みにじり、気が狂うまでに追い込んでおいて、自分はのうのうといい生活をしている人間を叩くことのほうが、道徳的なことなのかもしれないとまで思った。
その憎しみと怒りの対象は、親兄姉からはじまって、高校時代に「あいつはあるかいやすい」と公言していた友人にいたるまで、広範にわたていた。
それまで主人と奴隷という関係で生きてきたすべての関係について、怒りは向けられていた。
私はなんでもいうことをよく聞く「おとなしい」奴隷であった。
怒ることを禁じられた奴隷であったばかりでなく、怒っていることに気づくことも禁じられていた。
私に許された感情は、「相手を好きになること」「相手を愛すること」であった。
どんなにひどい侮辱を受けても、家族のあいだでそのことを怒ることは禁じられていた。
私は自分の中の怒りに気づいた当時、「仲良く」とか「平和」とかいう言葉を見ると、それだけでカーッとなった。
自分はどれほどこの言葉に痛めつけられてきたのかと思ったからである。
小さい頃から親の「仲良くしなさい」という言葉で常に犠牲をしいられた。
一つのものを二人がほしがれば、必ず自分が譲らねばならなかった。
自分がほしがれば、必ずケンカになり、叱られるのはなぜか決まって自分であった。
一つのものを二人がほしがる。
必ず騒ぐほうが得する。
「あげなさい」というのが親の命令である。
自分はいつも黙ってゆずった。
心の底の底の叫びを意識することは禁じられた。
「仲良くしなければいけない」という倫理から私はこの「それじゃ、僕はどうなるんだ」という心の底の叫びに耳を傾けることは、固く固く禁じられていたのである。
それだけに自分の抑圧がとれたとき、「仲良く」とか「平和」とかいう言葉を見たり聞いたりすると、この昔の心の底の絶叫が聞こえてきてカーッとなってくるのである。
「仲良く」とか「平和」とかいうことで、どれだけ多くの弱い立場の者がひきつづき虐げられ、踏みにじられてきているかわからないのである。
主人と奴隷という立場をあらかじめ決められて、仲良いことを求められたとき、どれほどの屈辱を奴隷が味わうかということを、この「仲良く」「平和」を唱える人は考えたことがあるのであろうか。
主人と奴隷という立場など、いまの世の中にはないなどと言う人は、他人の血の犠牲のうえで甘い汁を吸い続けてきた人なのである。
家の中から会社まで、なんとなく「ゆずる」ことをはじめから期待されている人というのはいるのではないだろうか。
そしてそのような人の犠牲によって、その集団の平和が保たれていることはないだろうか。
「あいつはうるさいから」ということで、なんとなくその人のわがままが通っていることはないだろうか。
あらかじめ「ゆずる」ことを期待されている人だって、ゆずらない人と同じように、そのことがやりたい、それがほしいという気持ちはあるのではなかろうか。
それを我慢してゆずっているだけの話である。
しかもそのゆずる人が尊敬されるかというと、決してそうではない。
軽く見られるだけである。
「仲間だから」「兄弟だから」ということで、ゆずることを要求される側はいつも決まっている。
「仲間だから」「兄弟だから」という言葉がその人の有利なように使われることは、一度もない。
決まってその人に不利益を耐えさせるためにのみ使われる。
「仲間だから」「兄弟だから」ゆずり「あう」というのではない。
必ず一方が他方に、いつも一方的にゆずるためにのみ使われる。
まとめ
平和に仲良くゆずる人の裏側には奴隷になるような犠牲が隠されている。
仲間だから、兄弟だからゆずりあうということではなく、ただゆずっているだけのことである。
だからくやしさが蓄積する。