隠された「憎しみ」が「正義」の仮面をかぶって登場する
神経症的非利己主義とはどういうことか?
あまり親しくもない人に「君に幸せになってほしい」とオーバーに言う人がいる。
そういう人はきっと冷たい人である。
その人は「私は幸せだ」と言外に言っている。
「君は幸せでない」と言外に言っている。
この人は、相手を利用して、自分の立派さを売り込んでいる。
相手に与えているふりをして、自分自身を救っている人がいる。
生への憎しみが、徳という仮面をかぶって登場したのが神経症的非利己主義である。
生きることへの憎しみが美徳という仮面をかぶって登場したのがうつ病者の義務責任感である。
彼らは意識の領域では非利己主義であるにもかかわらず、最も親しい人との関係さえもうまくいっていない。
安売り依存症という言葉がある。
孤独に耐えられないでマゾヒズムになる人達である。
そこまで自分を安売りする必要はないと普通の人は思う。
しかし心の底のそのまた底では孤独だから人とつながっていたい。
その人がどんなに自分では正義と思って主張しても、その表向きの主張の裏には、隠された真の動機は憎しみということがある。
つまりその人は正義を盾に自分の憎しみを放出している。
正義や愛を主張することで、心の底の敵意を放出している。
隠された真の動機を意識化することが、人間の心の成長には必要である。
臆病や恐怖心が、道徳の仮面をかぶって登場することも多い。
しかしなかなか隠された真の動機を意識するのには勇気がいる。
いじめている側からすれば、それは意識的には正義であり、徳であるが、相手の側からするとモラル・ハラスメントといわれるものである。
表はモラルを持ち出して、相手を痛めつける。
相手は抵抗が難しい。
■関連記事
心の触れ合いがある関係、心の触れ合いがない関係
「相手のため」にしたことは実は「自分のため」
真面目で責任感が強い人がうつになりやすい理由
神経症的非利己主義の母親の隠された憎しみ。
love addictsと言われる恋愛依存症者には裏に隠された憎しみがある。
ここが大切なところである。
表面的には愛の言葉を並べ、相手のために時間と労力を使うが、尽くしているその人の無意識には憎しみがあり、その憎しみが、相手の気持ちに影響する。
本人は自分の無意識にある憎しみに気がついていない。
うつ病者もパーソナリティーに矛盾を含んでいる。
新型うつ病という、新型でもなんでもないうつ病に対して新型うつ病という名前が流行ったことがあるが、新型うつ病という名前だけは新型でも従来型のうつ病も同じパーソナリティの表と裏にしか過ぎない。
パーソナリティに矛盾を含んだ人の義務・責任感と、パーソナリティが統合化されている人の義務・責任感を同じに考えることは本質的に間違っている。
たとえ社会的に同じであったとしても、心理的には全く違うものである。
矛盾を含んだパーソナリティの人の義務・責任感は疑似成長した人の義務・責任感であり、他者に対する関心を持った生産的エネルギーではない。
共同体に対する帰属意識を持った人の義務・責任感ではない。
つまりうつ病者の義務・責任感は、裏に冷酷なまでの利己主義を含んだものである。
それはカレン・ホルナイが神経症者は冷酷なまでに利己主義か、あまりにも非利己主義であると言ったことにも通じる。
だからこそ最終的にうつ病という形で心理的に破綻することが出てくる。
人生を切り開くためには、欠乏動機からの義務責任感と、成長動機からの義務責任感では全く違うことをしっかりと自覚することである。
もちろん本人は自分は義務・責任感があると思っている。
欠乏動機からの義務・責任感の後ろに隠された真の動機を明らかにすることが、心理的に病んだ人の心の救済のためには大切である。
運命の病前性格と言われる執着性格者の義務・責任感は、隠された真の動機が憎しみだから、頑張っても最後にはうつ病になる。
うつ病の義務・責任感、真面目、仕事熱心などは憎しみの変装した姿である。
だから義務・責任感が強くて仕事熱心な真面目なビジネスパーソンがうつ病になる。
つまり真面目で仕事熱心な努力の果てに消耗し、挫折する。
これらの美徳はまさにフロムの言う神経症的非利己主義である。
まさに報われない努力をする人たちである。
自己実現としての義務・責任感を持ち、仕事熱心な人は、努力すればするほどますますエネルギッシュになる。
抑うつ状態に向かう義務・責任感と、エネルギッシュに向かう義務・責任感の違いである。
抑うつ状態に向かう義務・責任感は自己消滅型の人の義務・責任感である。
迎合的性格の人の義務・責任感である。
決して社会に対する帰属意識の強い人の義務・責任感ではない。
新型うつ病の人に義務・責任感がないということは別に驚くべきことではない。
「うつ病の義務・責任感とは何か?」という根本的な問いかけがないままに議論をしているから、義務・責任感がないと言って驚いて新型うつ病者と呼び出しただけである。
そしてそれは新型うつ病と言っているだけである。
新型でもなんでもない。
■関連記事
なぜ人間関係がうまくいかないのか?
同じ悩みばかりを繰り返してしまう
モラハラ親の「愛という名の支配」
自分は素晴らしいことをしているつもりで、実は相手を殴っている。
自分の中の衝動を満足させつつ、自分は聖人だと思っている。
この母親は手抜きではあるが一応努力はしている。
そこが分かりにくいところなのである。
もしこの母親が完全に怠け者で、子どもの世話を何もしないで毎晩友達とカラオケに行っているなら分かりやすい。
子どものためになっていないということは誰にでも分かる。
本人も自分は立派な母親でないと思っている。
最悪の親の場合には、子どもの思っていることと母親自身が思っていることと周囲の人が思っていることと一致している。
しかしこの子どものために努力する母親の場合には大きな食い違いがある。
「あなたさえ幸せなら、お母さんはどうなってもいい」と言う母親が理解できないことは何か。
それは努力するのだけれども子どもが成長するために必要とするものを与える努力になっていないということである。
そこを母親が理解できていない。
最悪の親は分かりやすいが、モラル・ハラスメントをする親は分かりにくい。
それが最低の親である。
この母親は子どもが心理的に挫折したときに「どうして子どもが挫折したか?」を理解できない。
自分が本気でそこまで努力しているからである。
ここまで子どものためにつくして、何でこのような結果になるのか分からない。
自分がカラオケばかり行っているなら、子どもが心理的に挫折したときに「あー、いけなかった」と素直に反省できる。
自分がエステばかり行っていたなら、子どもが心理的に挫折したときに「あー、きれいになりたいとばかり思って自分のためにお金を使って、自分はなんてことをしたのか」と素直に反省できる。
しかしモラル・ハラスメントの母親は自分のためにお金を使っているわけではない。
子どものためにお金を使っているのである。
この母親がどうしても理解できないのはカレン・ホルナイの言うサディズム的愛である。
自分が「愛」と思い込んでいたのは、サディズムが変装した姿であると理解できない。
自分は子どもを愛していたのではなく、子どもをサディズムで支配していたのだということが理解できない。
自分は努力したけど、それでも子どもの求めているものを与えられなかったのだと分からない限り、今度は子どもを責めだす。
私がこんなに苦労しているのにという恨みである。
母親にしろ、父親にしろ、実は自分が自分自身に絶望して子どもを強迫的に理想の人間に変えようとしたのである。
教育などという生やさしい心理ではない。
親の側も生きるか死ぬかの必死さで、子どもに絡んでいる。
■関連記事
恵まれているのに幸せを実感できない心理
頑張らずにはいられない理由
本音はかまってもらいたい
嫌がらせをしたり、絡んだりすることでかかわる。
人を困らせることでかかわる。
子どもがよく親を困らせる心理である。
人に優越することで人生の問題を解決しようとしていた人が挫折すると、人を困らせることでかかわろうとする。
原点はかまってもらいたい。
誰からも相手にされない淋しさ、「なぜだろう?」と考えれば道は拓けるのに、敵意から「けしからん」とか「許せない」という言葉で周囲の人に絡んでくる。
その結果、努力するのだけれども皆から嫌がられる。
さらに淋しくなる。
他者とのかかわりを否定しながら、他者とかかわろうとする。
本質的に他者とのかかわりを否定していることに気がつかない。
嫌がらせをしたり、絡んだりする人間とかかわると「何とも言えない不快感」に襲われる。
それは言葉で表現できない不快感である。
その不快感はどこから生まれてくるのだろうか?
それは嫌がらせをしたり、絡んだりする人が、根本的に世界とのかかわり拒否しているからである。
嫌なことを言いながら絡んでくるのだが、一方でその自身がかかわりを拒否している。
無意識に敵意がある。
その無意識の敵意が相手に何とも言えない不快感を与えるのである。
何とも言えない奇妙な雰囲気を持っている人がいる。
その人のパチンコの矛盾が、その人の雰囲気として表現されてきている。
雰囲気は五感の対象として捉えられない。
正しいことを言うと煙たがれる意外な理由
なぜその人は「正しいことを主張するのか?」
見知らぬ人に、公園でいきなり「そういうことをするのはいけません、植え込みに入ってはいけません」と言う。
動機は人とかかわりたいである。
憎しみの反動形成として、正しいことを主張する。
その憎しみの動機に人々は反応する。
周囲の人はその人から離れたい。
正しいことを主張している本人は、自分が無意識に憎しみを抱え込んでいるとは気がついていない。
そして周囲の人がその無意識に反応していると思っていない。
ふれている人間関係とは相互性が条件である。
助ける人が、助けてあげたいと思い、助けられる人が「この人に助けてほしい」という欲求がある。
その相互性があって、お互いの人間関係が成立する。
それがお互いに心が触れ合っている関係である。
親が好きな子どもの親孝行である。
親孝行と介護される親との間に相互性がある。
この人に介護されたい、この人を介護したい、それが相互性である。
神経症的非利己主義の人の場合では、本人がどう思っていようとも相手が自分のすることを望んでいないということを理解できない。
相手が助けられることを望んでいないということを理解できない。
恩着せがましい人は周囲の人との関係が破綻している。
神経症的非利己主義の人には、この相互性が理解できていない。
そこで「こんなにしてあげているのに」という不満になる。
まさに報われない努力である。
本当の非利己主義とは、「相手との関係の中で」の非利己主義である。
相互性の反対が自己中心性であり、ナルシシズムである。
世話する側は「世話をしたい」と思っている。
相互性の欠如の場合は、世話されていることを相手から喜ばれていると思わない。
神経症的非利己主義とは愛情から「尽くしたい、尽くされたい」の相互性ではない。
愛情から相手に尽くしたい、相手は「この人」から尽くされたい。
それが相互性である。
■関連記事
自分の無意識に気付き認めれば、生きるのが楽になる
自分は変えることができる
「あなたさえ幸せなら・・・」の裏メッセージ
ある女性の相談者の話である。
彼女の夫は、もう就職をして立派な社会人になっていた。
その人の両親は教師であった。
彼は高校入試に失敗して、全ての自信を失う。
彼が成長した家ではそれだけ入試が重要な価値であった。
彼はそういう人間関係の中で成長した。
姑は「あの子の気持ちは、あの子より私のほうがよく知っているの」「あの子のことは何でも私に話してね」「あの子はあなたに差し上げます」と嫁に言う。
姑はいつも、「主人の写真を持ち歩いていて、私に見せてくれた」という。
もちろんこの「主人」というのは自分の主人ではなく、息子のことである。
この相談者の女性から見て主人ということである。
姑の口癖は「私の気持ちを分かってね」。
「私たちはどうなってもいいの、あなた達さえ幸福になってくれれば」という例の言葉をいつも言う。
「私は困っている人達を見るとほっておけないの」、そう言って身障者の方達から品物を買ってきた。
家の中にはちり一つない。
高価なものをくれる。
返すと、「あなた達の喜ぶ顔が見たいの、それが私の喜びだから」と押し返す。
「どうか受け取って、どうぞ私のために」と猫なで声で話す。
時に嫁をお姫様のように扱う。
しかし姑のいないところで食事をしたり、嬉しそうに笑うと姑は不機嫌になる。
その相談者の女性は「しかし、なぜかこの家にいるとご飯が喉に詰まる」と言う。
姑は自分の不幸な生い立ちを延々と話す。
自分の心の傷をペラペラと話す。
これは普通に考えれば不思議である。
普通は不幸な生い立ちを、こちらから進んで話さない。
不幸を売り物にする。
この不幸な身の上話は賄賂のようなものである。
これだけあなたに尽くしたのだから、「私にこれだけのことをしてね」という賄賂である。
不幸な身の上話のあとには請求書が来る。
自分のほうから「あれをして欲しい、これがしたい」と言ったことはない。
姑は息子に、従順でいつも感謝をして、弱い自分に同情することを要求している。
朝ゴミ箱を探さない。
片付けに入ってこない。
息子の子どもなど、あなたに産ませない。
性生活を営むのを嫌っている。
姑の嫉妬は女の嫉妬である。
■関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法
自分の人生を決めるのは「今、ここに生きる自分」
他人をけなすことで自分を上げようとする人達
彼女は、自分は非利己主義の無欲の人であると思っている。
フロムの言う神経症的非利己主義である。
神経症的非利己主義は、人の悪口を言う。
人のあら探しをする。
平気で人を傷つけることを言う。
悪口の質が悪い。
「あの人がお手洗いを使うと、とてもにおうんですって」というような不愉快な悪口である。
人への嫌がらせの悪口を言う人にはこのタイプが多い。
人の悪口を言っている間に、自分のすることをしていればいいと思うが、とにかく人を不愉快にさせる悪口を言う。
それは、人が立派な人であることが許せないという敵意と同時に、人の立派さが、自分の価値を貶めると感じるからである。
ネット上にいろいろと悪口を書いている人がこの種の人である。
人を貶めることで、自分の心を癒やす。
まさに報われない努力である。
そんな悪口を言っても、自己肯定感は上がらない。
いくら人の悪口を言っても、それで自分が幸せになれるわけではない。
その悪口を言っている瞬間は、心の傷は癒されるかもしれないが、結果としてもっと心の力を失い、人生はもっと行き詰まっていく。
どんどん心の矛盾は深刻になっていく。
そして質のいい人が周りにいなくなる。
悪口集団に入り、皆で人の悪口を言っているだけで、成長欲求は衰えていく。
神経症的非利己主義は、他人に迎合するための非利己主義であって、相手を「愛するため」の非利己主義ではない。
神経症的非利己主義が自己の内なる力を弱化する。
相手から嫌われるのが怖いから、無理をして親切にする。
そうなれば親切をしたことで相手が嫌いになる。
神経症的非利己主義は、自分のない自我喪失した非利己主義と言ってもいいし、自己執着の人の非利己主義と言ってもよい。
自分が利己主義者と思われるのではないかと不安になり、利己主義者と思われないようにオーバーな非利己主義的行動をする。
自分が赤面することを変に思うのではないかと恐れる。
人から悪く思われることを恐れる対人恐怖症のようなものである。
■関連記事
自分を信じられないを克服する方法
いつもビクビクしてしまう心理と対処法
不安に駆られて頑張る人は燃え尽きやすい
神経症的非利己主義者の中には、燃え尽き症候群の人もいる。
燃え尽き症候群の人の中には看護師、医師、警察官、教師など、社会奉仕を目的とする社会的に立派な職業の人もいる。
残念ながら神経症的非利己主義としての燃え尽き症候群である。
愛する能力のない母親。
しかし本人は自分を「愛の人」と思っている。
「神経症的非利己主義の人は、人を愛する能力、楽しむ能力が麻痺している。
このような人達は、心の底が生への憎しみによって満たされていることと、そして非利己主義という正面像の陰には、巧妙にではあるが、強い自己中心性が隠されているということが示されるのである。」
動機が不安であっても、外から見るとエネルギッシュに見える行動がある。
しかし自己実現のエネルギーではない。
邪気の元気と正気の元気がある。
神経症者のエネルギーと心理的健康な人のエネルギーは違う。
神経症者のエネルギーは復讐のエネルギーである。
しかも自分が復讐のために頑張っていることに気がついていない。
弱点を隠すのがうまい人がいる。
自分の弱点があることを認められない。
いつも不機嫌な顔をしている。
興味と関心で動いている人は、それほど自分の弱点にこだわらない。
興味と関心で動いている人は、まず非現実的なほど高い期待を自分にかけない。
もっと地に足のついた生き方になる。
自分がコントロールできないほどのところまで、生活の範囲を広げない。
何よりも他人に振り回されない。
対象への関心が勝つか、他人から評価されたいという欲求が勝つかで、生きる辛さは決まる。
欠乏動機の場合には自分が評価されるために頑張る。
だから努力しながらも報われない努力になる。
人間関係で大切なのは、相手を理解し、ほめること。
しかし「ほめる」ように見えることで、ほめる動機はたくさんある。
操作する人、心に葛藤を抱えている人は、ほめているのではなくお世辞を言っている。
したがって同じ行動は同じ反応をもたらさない。
こうすれば恋愛を成功する、上司とはこう挨拶する、同じことをしても失敗する人と成功する人がいる。
ベラン・ウルフが言うように人は相手の無意識に反応する。
ほめることとお世辞を言うことの違い。
ほめる、それは相手への関心。
「おまえ、去年の今頃、頑張って成功したな」、何度でも繰り返す。
これはほめている。
相手に関心がなければ忘れている。
「去年の今頃」という類の言葉は出ない。
■関連記事
失望されるのが怖いを克服する方法
負い目を感じる心理と対処法
自分の弱点を隠してはいけない
弱点がないから自信が持てるのではなく、自信が出てくるから弱点を認めることができる。
燃え尽き症候群の人は、人から理想の人と思ってもらいたい。
スーパーマンであるためには弱点があってはならない。
しかし無意識では自分に弱点があることを知っている。
そこで自分に弱点があることを隠す。
抑圧する。
それにつき動かされて猛烈に働く。
弱点を隠すために生きるエネルギーを消耗してしまう。
多くの真面目な彼らは、心の底では知っている自分の弱点を認められないままに燃え尽きるまで頑張る。
普通の人には、燃え尽きるまで働くということは考えられない。
その前に休む。
なぜ彼らはそこまで身体にむち打って欲張るのかといえば、不安で孤独だからである。
理想の人になれば周囲の人から受け入れられて、不安の感情から逃げていられる。
小さい頃から安心感がない。
普通の人は欠点、弱点があっても自分は受け入れられると感じている。
少なくともそういう人が周囲にいる。
しかし燃え尽き症候群の人は、小さい頃から欠点があれば受け入れられないと感じている。
そうなれば欠点を隠すことに緊張してエネルギーを消耗する。
フロイデンバーガーが言うように、燃え尽きる人は弱点を隠すのが上手い。
自分の弱点を認められない。
小さい頃からその必要性がその人の心の中にビルトインされている。
燃え尽きる人は「気持ちが不安定で、人をけなし、怒りっぽく、頑固で他人の忠告に耳を傾けようとしない」という。
しかし興味と関心で動いている人は、それほど弱点にこだわらない。
興味と関心で動いている人は、認められなくてもエネルギーは続く。
逆に自己疎外された人が頑張る。
成果が上がっても心はいよいよ病んでいく。
■関連記事
つい「よい子」を演じてしまう
他人の目を活かし対人不安を克服
人に好かれるために無理をして生きてきた人へ
神経症的非利己主義の人は、意識の領域で非利己主義であるにもかかわらず不幸である。
最も親しい人との関係さえうまくいかない。
「嫌われるのが怖いから」「人に評価されたいから」無理をして自分でない自分で生きてきた。
欠点を隠して生きてきた。
神経症的非利己主義で、燃え尽き症候群の人は、周囲の人が怖い。
普通の人は周囲の人が怖くない。
人に好かれるために無理をして生きてきた。
人に評価されるために無理をして生きてきた。
その間の努力は普通の人には想像を絶するものがあるだろう。
人に好かれるために生きているうちに、生きる意味を見失った。
人生を楽しむ能力を失った。
生への憎しみは増して、より自己中心的になり、ますます生きづらくなる。
周囲の人が自分にとって脅威だから、毎日ネットに向かって人の悪口を書くという無意味な人生になるまでいる。
神経症的非利己主義の人とか燃え尽き症候群の人は、表面的な主張と、その裏に隠された真の動機の違いの典型的な例である。
行動は非利己主義的に見えるが、動機は神経症的で自己執着的対人配慮である。
受け入れてもらいたいから人に配慮する。
でもそのまわりは嫌い。
周りが怖いけれども周りに受け入れてもらいたいという矛盾。
この矛盾で自己執着の強い人は人と会って疲れる。
「いえ、けっこうです」と言う。
それは虚栄心が控えめという仮面をかぶって登場している。
自己執着の強い人の会話である。
いえ、けっこうです。
嫌われることが怖い。
いただきます。
動機は同じ。
嫌われることが怖い。
目的は自分の面子を守ること。
神経症的非利己主義の人がよく言う例として、「あなたさえ幸せなら私はどうでもいい」という例を今までにも何回か挙げてきた。
本当に、あなたさえ幸せなら、私はどうでもよければ、そんなことは言わない。
人の悪口は言わない。
ネットに悪口を言うような時間の無駄使いをすることはない。
夕食の話題はいつも人の悪口であれば、その人の非利己主義は神経症的非利己主義である。
また本当に非利己主義であれば、自分の世話をしないと言って人を恨まない。
ドイルの偉大な精神医学者テレンバッハは病的正常性という言葉を使っている。
社会的には正常に見えても、心に病的な問題を抱えている。
心理的には正常ではない。
「社会的にどんなに立派にやっている人でも、自己に対して合わせる顔がない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。」
社会的適応と心理的適応は違う。
日本とアメリカの家族の満足度は違う。
もちろんアメリカの家族の満足度のほうが高い。
しかしよく知られているようにアメリカのほうが離婚は多い。
「疎外された世界の範疇では、健康だと考えられている人間自体が、人間主義の立場から見れば重病人だと思われるのだ。」