自己嫌悪に陥った人は人間嫌いなのに孤独に弱い
自己嫌悪に陥った人とは、自分のことが嫌になることをいう。
なんで、こんなことができないのか、なんでこんなことがスムーズにいかないのか、等。
こうした自己嫌悪に陥った人が自信を持つための心理を人間関係を軸に記してみたい。
自己嫌悪に陥った人とは
自己嫌悪に陥った人の心理として、
望ましくない人を望ましい人と思うにしろ、逆に望ましい人を望ましくない人と思うにしろ、外化をしていると、他人が重要になりすぎる。
外化とは自分の心の中の願望を、現実を通して見ることである。
このことには二つの意味がある。
一つは、人に気に入られることがことのほか大切になるということである。
したがって自己嫌悪に陥った人は人の言う一言がもの凄く重要になる。
人の言う事に自己嫌悪に陥った人は「不当な重要性」を付与してしまう。
他人のチョットした一言で心が動揺する。
他人の何気ない態度で心が動揺する
もう一つは、いつも側に人がいないと生きていけないということである。
つまり孤独に自己嫌悪に陥った人は弱い人間になる。
人との付き合いが異常に大切になる。
他人なしには自己嫌悪に陥った人は生きていけない。
それでいながら側にいる他人が嫌い。
だから近い人には自己嫌悪に陥った人はいつも不機嫌である。
近い人には気難しい
近い人といるときには自己嫌悪に陥った人はいつも苦虫を噛み潰したような顔をしている。
それは甘えの自己嫌悪に陥った欲求不満の歪んだ表現である。
間接的な表現と言ってもよい。
近い人には自己嫌悪に陥った人は甘えの欲求がでる。
しかしそれは満たされない。
そこで不機嫌になる。
遠い人には遠慮がある
自己嫌悪に陥った人は嫌われないようにいい顔をする。
気兼ねをして「よい人」を演じる。
ピーター・パン人間のように、自己嫌悪に陥った人はいつもパーティーを開いて騒いでいなければ気持ちが持たない。
パーティーに人を招待しながら、自己嫌悪に陥った人は招待する人と気持ちが触れていない。
そうなると数が大切になる。
人間嫌いなうえに自己嫌悪に陥った人は人にもてはやされたい。
多くの人を知っていることを得意になるうえに、人が嫌い
自己嫌悪に陥った人は人が怖い。
人を恐れる。
それでいながら、自己嫌悪に陥った人は人がいなければ生きていかれないほど人が大切。
人と親しくなれないのに人と付き合いたい。
人に怯えていながら自己嫌悪に陥った人は人にもてはやされることを必要とする。
その人が嫌いなのに、その人にしがみついていなければ気持ちが持たない。
「一人暮らしのわびしさ、二人暮らしの煩わしさ」と言った老人の心境である
このように言った自己嫌悪に陥った人は、長いこと現実を見ないで生きてきた。
つまり外化をして生きてきた。
自分の心が満足するように自己嫌悪に陥った人は現実を歪めて解釈してきた。
自分の傷ついた神経症的自尊心が、「あの人が軽蔑すべき人間である」ことを必要とする。
そこで「あいつはバカだ」と自己嫌悪に陥った人は決めつけて生きてきた。
その人を睥睨していなければ自分の心理的安全はない。
その人をバカにすることで自己嫌悪に陥った自分の存在がある。
もともと自分という存在があれば、人をバカにする必要はない
逆に自己嫌悪に陥った人は、傷ついた神経症的自尊心を癒やすために「この職業は素晴らしい」ことが必要な場合には、「この職業は素晴らしい」と決めた。
つまり外化によって彼は世界を見てきた。
「世界を見てきた」というよりも、自己嫌悪に陥った自分の心の傷を癒やすように「世界はこうだ」と決めつけて生きてきた。
そして最後にはカレン・ホルナイが言うように「その人を恐れ、敵対しているのに、その人を必要とする」ようになってしまった。
それが「一人暮らしのわびしさ、二人暮らしの煩わしさ」である。
1人でも生きられず、皆とも生きられない。
さまざまな心理的葛藤を抱えてしまう
心の中で自己嫌悪に陥った人は助けを求めて悲鳴をあげる。
誰かが自己嫌悪に陥った自分を守ってくれることを願っている。
しかし「あなたを守ってあげる」という人が現れれば、大人としての自分の面子が傷つけられる。
他人を自己嫌悪に陥った人は必要としている。
しかしその他人は彼を憎んでいると自己嫌悪に陥った彼は錯覚している。
あるいはその他人を彼は嫌いである。
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自己嫌悪に陥った人は被害妄想で大騒ぎをする
先に述べたように、外化とは自分の心の中の願望を、現実を通して見ることである
こちらの願望で相手を見てしまう。
もう一つは自分の自分に対する態度や感じ方を、他人の自分に対する態度と思い込んでしまうことである。
カレン・ホルナイの定義によれば、外化は、自分の内面の心理過程を、あたかも外で起きているかの如く経験する傾向である。
何か困難があると、自己嫌悪に陥った人は外の条件が自分の困難の原因だと思う。
つまり「あの上司がいるから、自分は能力を発揮できない。
あの人がいるから、自分は幸せになれない」等々である。
酷い人になれば、その人を攻撃する
たとえば自分が上司の負担になっているのに、自己嫌悪に陥った人は上司を非難する。
加害者が被害者の顔をして自己嫌悪に陥った人は騒ぐ。
自分が加害者なのに被害者意識を持って人を非難罵倒する。
カレン・ホルナイが言うように、「このような人」は自分が自分に対してどういう態度を取っているかに気がついていない。
自分が自分の弱点を許していないと、自己嫌悪に陥った人は他人が自分の弱点を許していないと感じる。
そして何となく自己嫌悪に陥った自分はこの状態では許されない存在であると感じる。
「自分が自分に怒っているのに、誰かが自分に怒っていると思う」
自分が会社の同僚に敵意を持っていたとする。
すると同僚は皆自己嫌悪に陥った自分に敵意を持っていると思う。
するとたとえば自己嫌悪に陥った人は自分の外国出張中に何かするのではないかと不安になる。
それが自分の心の中の敵意を外化するということである。
オルポートは「自身の内部の破壊的衝動に苦しむと、だれか他人の側にその衝動があるとみる」と述べている
カレン・ホルナイが言う「自分が付与した物に自分が反応していることを彼は知らない」とはこのようなことである。
だから相手の邪悪な部分に自己嫌悪に陥った人は気がつかないのである。
自分が勝手に相手の性質を決めて、それに自分が反応しているにすぎない。
自分が付与したものに自己嫌悪に陥った自分が反応しているということは、まったくの一人芝居ということである。
もっとも外化は基本的に一人芝居である。
期待されていないことを期待されていると思い、無理をして応えて、それに対する反応がないので、さらに不愉快になる
ではなぜ自己嫌悪に陥った人は期待されていないことを期待されていると錯覚するのであろうか。
それは自分が自己嫌悪に陥った自分に期待していることを相手に外化したからであろう。
相手の動機が自分の動機と同じだと解釈する動機混同と言ってもよいかもしれない。
期待されていないことを自己嫌悪に陥った人は期待されていると勝手に思い、それを実行することでさらに不愉快になる。
そうした体験の積み重ねで暗い性格になる。
自分で自己嫌悪に陥った自分を縛っておいて、「あの人に束縛されている」という。
自縄自縛であるのに、「あの人が私を束縛している」と騒ぐ。
それが外化である。
自分が自分を縛っているのに、それが外で起きていると感じる
自己嫌悪に陥った自分が自分を縛っているときには、いつも心理的に窮屈である。
窮屈でなくなるためには自己嫌悪に陥った自分が自分に対する態度を改めればよい。
しかし他人の自分に対する態度が窮屈の原因と考える。
自分が自己嫌悪に陥った自分を傷つけているのに、あの人に傷つけられたと言う。
ことに神経症的自尊心の強い自己嫌悪に陥った人はそうである。
人が何かを言うと神経症的自尊心が傷つく
しかしもともと自己嫌悪に陥っている人は傷ついている。
その言葉はその自己嫌悪に陥っている人の傷を意識させたにすぎない。
傷つくから不愉快になる。
何だか分からないけど自己嫌悪に陥っている人は面白くない。
生きるのが辛いと自己嫌悪に陥っている人は感じる。
不愉快になり何をするのも嫌になる
話をするのも自己嫌悪に陥った人は嫌になる。
何かをしようという気力を失う。
「誇りを傷つけられた」と言うときには、自己嫌悪に陥った人はだいたいにおいて、誰もその人を傷つけていない。
しかし1人で自己嫌悪に陥った人は勝手に傷つく。
そして「あの人に誇りを傷つけられた」と言う。
それはナルシシストも同じである。
ナルシシストはいつも誉められていたい。
極端に言えば誉め言葉でなければ傷ついてしまう
ナルシシストは何でもない言葉を聞いても急に自己嫌悪に陥り、不愉快になることが多い。
しかしそれは何も相手の言葉がナルシシストを傷つけたのではない。
その人のナルシシズムが原因で傷ついたのである。
しかし嫌われたくないから自己嫌悪に陥った人はその怒りを直接には表現しない。
自分のナルシシズムが原因で傷ついても、「傷つけられた」と感じて不愉快になる。
何か不愉快になったときに自己嫌悪に陥った人は「私は相手の態度で不愉快になったのではない、自分のナルシシズムで不愉快になったのだ」と思えば多少違ってくる。
「同じ態度に接しても他の人が同じように傷つくわけではない」と自分に言い聞かせるだけでも少しは違ってくる。
自己嫌悪に陥った人は信じたいことを信じてしまう
デマに等しい噂を信じる人が多い。
情報でも自己嫌悪に陥った人は自分が信じたいほうを信じてしまう。
それを信じたほうが自己嫌悪に陥った人は得するとなれば、強欲な人ほどそれを信じる。
酷い話と思うかもしれないが、それは噂話や、デマを信じる心理と同じである。
ときどきデマがなかなか消えないのは、自己嫌悪に陥った人がそれを信じることで人々が抑圧された欲求を満たしているからである。
デマが本当であったほうが面白い。
だからそのデマを自己嫌悪に陥った人は信じる。
人々がデマやスキャンダルを信じるのは外化の心理である。
外化するものは自分の小さな閉じ込められた世界で生きている
自己嫌悪に陥った人はその結果、内面は虚しい。
自分の内面の空虚さを、彼らは現実を通して感じている。
そこで自分の心が空虚なのに自己嫌悪に陥った彼は「この世の中は空虚である」と言ってしまった。
これは空虚さの外化である。
自分が自己嫌悪に陥った自分に不満なときに、学校に不満になる。
社会に不満になる。
自分に対する不満を、自己嫌悪に陥った人は外側のものを通して感じる。
日本の学生の学校に対する不満と諸外国の学生の不満は違う
「何となく不満」というような具体性のない日本の学生の不満は、だいたい自分に対する不満の外化である。
不満を持っている自己嫌悪に陥った人は、何に対しても不満であるが仕事にも不満である。
仕事を通して自己嫌悪に陥った人は、自分に対する不満を感じている。
怖い環境で、ある人の写真を見せて、その写真の人をやさしい人か怖い人かを判断させる。
するとその写真の人を「悪い人」と判断しがちであるという。
他人という鏡に映った「自分のこころの状態」を「実際の他人」と勘違いする。
自己嫌悪に陥って恋愛が出来ない人
合理化、正当化はいろいろな形で行われる
たとえば母親固着を親孝行と合理化している限り、自己嫌悪に陥った人はどんなに頑張っても生きる土台はできない。
母親固着をしている自己嫌悪に陥った人は、恋愛はできない。
もし好きな人ができればそれは母親への裏切りであるからである。
それにしても母親固着を親孝行と合理化している男性のなんと多いことか。
そして自己嫌悪に陥った人は、無益な努力を続ける。
あるいは無益な努力に自己嫌悪に陥った人は、疲れて無気力になる。
前向きのエネルギーがない。
外化をする自己嫌悪に陥った人は、「そう思いたい」ということで生きていく。
こうして外化をすると、自分の生き方ができなくなる
自己嫌悪に陥った人は、生きるエネルギーがなくなる。
恋人が自分の部屋に遊びに来てくれた。
そこで恋人に料理を作ってあげた。
彼女は「帰りたくないでしょう」と恋人に言う。
「ここが居心地いいなーと思うでしょう」とも自己嫌悪に陥った人は思う。
「彼は会社に行くのが嫌だ」と思いたい。
そう思いたい自分か、それとも本当に思っているか
本当に思っていると楽しくなる。
一緒にいる時間は濃縮した時間になる。
そして「この時間を次につなげたい」と思う。
さらに恋人が帰った後エネルギーが出る。
「彼が次に来る土曜日、どんな料理を作ろうかな」と思う。
しかし外化をすると、次につなげない。
「彼はいない、帰ってしまった」と彼を恨む。
外化をすると自己嫌悪に陥った人は次につなげられないから、心を壊していく。
自己嫌悪に陥った人の悩みの主な原因は「外化」である
心理的葛藤からくる緊張の解決のためにはいくつかの方法がある。
外化といわれる心理過程も、心理的葛藤の緊張から自己嫌悪に陥った自分を解放するための方法である。
現代人の悩みは人間関係についてのことが多い。
そしてこの人間関係の悩みの主要な原因の一つは外化である。
ある人と上手くいかない原因は自分の外化であるということが多いが、それに気がついていない。
たとえば自己嫌悪に陥ったBという人がAという人と付き合い始めたが上手くいかないと悩む。
それはBとAとのお互いの距離の取り方に違いがあるからである。
こちらをAとし相手を自己嫌悪に陥ったBとする。
たとえばある場所でAは自己嫌悪に陥ったBと接した。
AはBを単なる知人だとしか思っていない。
ところがBはAを友人だと思い出した。
そして友人として行動しだしたとする。
しかしAは自己嫌悪に陥ったBを単なる知人と思っている。
するとBの行動はAにとって不愉快なことが多くなる。
Aにとって自己嫌悪に陥ったBの言葉遣いが失礼である。
Bの態度がなれなれしい。
Aは不愉快だからBを避け出す。
そこで自己嫌悪に陥ったBは傷つく。
Bは悩みだす。
Bの悩みはBの外化が原因であることが多い。
Bは心の中で「Aが自分の友人であって欲しい」と思っている。
Bはその心の中の願いを、Aを通して見ているだけである。
Bは現実のAを見ているわけではない。
ここでお互いに人間関係の距離感が違ってくる。
もしBが現実のAと接して時間をかけて付き合っていれば、友人になり、最後は親友になったかもしれない。
外化の心理過程は、現代人の悩みを作り出している主要な原因の一つなのである
外化をしなければ人間関係の悩みがなくなることが想像以上に多い。
こちらから見た「自分と相手との距離」と、相手から見た「こちらと相手との距離」が違えば、人間関係のトラブルは避けられない。
これを同じにする努力があればあらゆる人間関係のトラブルは激減する。
この努力とは単に実際の相手に接するだけである。
外化は、相手から見た「自分と相手との距離」を無視する。
よく「近づけるとつけあがり、遠ざけると恨む」と言われる。
この原因が外化である。
外化をする自己嫌悪に陥った人は「遠ざけられる」と相手を恨むが、原因が自分の「つけあがり」であることに気がつかない。
「自分と相手との距離」を無視しなければ、自然な形で人間関係は維持発展するだろう
しかし自分が勝手に自分の心の中の「こうあって欲しい」という願望を実際の相手と見なして行動すれば、トラブルになる。
たとえば自己嫌悪に陥った人は急になれなれしくなる。
驚いて相手は引いてしまう
この場合外化をした人は拒否されたと思い傷つくが、決して拒否されたのではない。
「実際の相手」を自己嫌悪に陥った自分が無視したのである。
むしろ相手に拒否されたのではなく、自分が相手を拒否したのである。
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自己嫌悪に陥った人のトラブルの種は自分がまいている
親が息子と恋人の二人に仲良くあって欲しいと願っている
仲良くあって欲しいと願っていると、二人の話している姿を見て、「仲良くしている」と思ってしまう。
しかし実際はお互いに「嫌な奴」と思っていることがある。
ある人が相手に感謝をされたいと思っている。
するとこちらのしていることに対して相手が「ありがた迷惑」と思っているのに、「感謝している」と見てしまうことがある。
親が「自分はいい親である」と思いたい。
すると子どもを見て「親に感謝をしている」と思ってしまう。
実際には自己嫌悪に陥った子どもは無理をしている。
無理をして「よい子」を演じているが、その無理が見えない。
人のしている無理が見えなければ、つきあいは深まらない。
長くは続かない。
人の本質を見抜く力がなければトラブルは避けられない
騙そうとして近づいてきた人がいる。
しかし自己嫌悪に陥った人は騙そうとして近づいてきた人の心が見えない。
騙そうとする人は、人当たりがいい。
その人当たりのよさの裏にある「ずるさ」が自己嫌悪に陥った人には見えない。
この人がいい人であって欲しいという願望にしたがって相手を見てしまう。
その人を見ているのではなく、自分の心の中の願望を見ているだけである。
自分の心の中の願望をその人に外化しているだけである。
人間関係のトラブルが続いている自己嫌悪に陥った人は、「どうして自分はここまで人を見る目がないのか」ということを真剣に反省することである。
外化の酷い人は、トラブルの種をあちこちにまき散らしながら生きている
そして自己嫌悪に陥った人はトラブルの種を自分自身がまいたということに気がついていない。
相手から感謝されたいと思っている。
するとその気持ちを外化する。
相手がこちらを恨んでいるのに「感謝された」と思っている。
相手が「自分のことを恨んだ」ことが見えないのだから、後でトラブルが起きるのは当たり前である
自己嫌悪に陥って相手が辛い気持ちでいる。
しかしそれが分からない。
そして「楽しんでいる」と思う。
「楽しんでいる」と思いたいから。
そうなれば将来大きなトラブルになるのは当たり前である
どうしようもなく寂しい自己嫌悪に陥った人がいる。
寂しいということを意識していないほど自己嫌悪に陥って寂しい。
そういう人は、友達が欲しい。
親しい人が欲しい。
そうすると友達の「ふり」をする人を親友と思ってしまう。
「友達が欲しい」という願望に負けて、相手を友達と思ってしまう。
これが外化である。
「親しい人が欲しい」という自分の心の中の願望を、相手を通して見ている
自分の心の中の願望を見ているだけなのに、相手を親しい人と錯覚する。
その自己嫌悪に陥った人は相手を親友と思っているが、実は相手から苛められている。
人間の心は恐ろしい。
苛められているのに、自己嫌悪に陥った人は苛められているということが分からないことがある。
そしてその人を親友と思う。
トコトン搾取される。
あまりにも無意識の領域の願望が強すぎて、現実を見られない人は多い
これはなにも友人関係についてばかり言えることではない。
もちろん親子関係でも言えることである。
明らかに自己嫌悪に陥った人は親から苛められている。
見捨てられたり、無視されたり、虐待されたり、自己嫌悪に陥った子はひどい目に遭っている。
それなのに子どもは「私のお母さんはいいお母さん」と言い張ることがある。
驚いた例では、その自己嫌悪に陥った少年は肉体的に虐待をされている。
物を投げつけられている。
「僕のお父さんは立派な父親」と言っている
自己嫌悪に陥った彼は「僕のお父さんはやさしい父親」と言っている。
はじめはこういう言葉が自己嫌悪に陥った彼は信じられなくなった。
しかしそれは別に驚くことではなく、世の中にたくさんある例だと分かった。
「私の父親はいい父親」とその自己嫌悪に陥った少年は思わなければ生きていかれなかったのである。
彼はそこまで寂しかったということである。
そこまで自己嫌悪に陥った彼は優しい父親を求めていたということである。
あまりにも願望が強くて、現実が見られない
そうなると自己嫌悪に陥った人は心の底の願望を現実に外化してしまう。
そしてそれが自己嫌悪に陥った人は現実と思って生きている。
しかしそういう人達は幻想の中で生きている。
現実とは自己嫌悪に陥った人は接していない。
人間が正常であるためには現実と接している必要がある。
現実との接触を止めれば、自己嫌悪に陥った人の心はいつか破綻してくる。