親が自分の葛藤や欲求不満を埋めるためのものとして子どもに接すると、子どもの自立能力の発達を妨害してしまいます。

この自立能力の欠如が、人と接するこわさをもたらす一因となります。

子どもはやがて家を出て、この社会を自分の力で生きていかねばなりません。

このために必要な心を子どもに育ててあげるのが親の役目なのです。

それは次の二つです。

1.自己と外界への基本的な信頼感を発展させてあげること。

2.自分でやっていける自立能力を育ててあげること。

2.について述べれば、親は子どもを囲い込み、無力化させてしまうことがあるのです。

その第一の方法は、甘やかしです。

子どもを甘やかす親は、甘える子どもを必要としているのです。

子どもから甘えられること、すなわち無力な者から依存されることは、親にとって自分に価値があるという感情を満足させられるので心地よいのです。

依存させることで、親は無意識のうちに自分の心の欠損を埋めようとしているのです。

子どもに甘えさせるためには、子どもが自立能力を持つことは好ましくありません。

このために、こうした親は子どもが能力を発達させる機会を奪ってしまいます。

子どもが自分で自分の欲求を満たそうとすると、それを先回りして満たしてあげてしまったり、本来、子どもの課題なのに、それを親が代わってやってしまうなどです。

子どもの自立能力を妨げる第二の方法は、厳しい養育です。

厳しいスパルタ的な養育では、表面上、子どもに自立能力を獲得させようとしているように見えます。

しかし、じっさいには服従する心と服従能力をつけるにすぎません。

ですから反抗という自立への傾向が見えると、親は有無を言わせず罰して、これをおさえつけるのです。

子どもに厳しく服従を求めることによって、親は自分自身の無力感を補っているのです。

たとえ意識の上では子どものためと理屈づけていても、じっさいには無力な者を支配する快感を求めているのです。

第三に、過度に「良い子」を強いることが自立能力の発達を妨害します。

過度に「良い子である子どもとは、本来の自分をおさえた姿であり、親にとらわれ、親の期待を生きている姿なのです。

子どもは、親から離れ、子ども独自の世界を体験することによって、自立能力が発達します。

このときに多かれ少なかれ親の期待にそむかざるをえません。

たとえば、幼い子どもでいえば、仲間とうまくやっていくために、親がいやがる危険な行動や、親に言ったら叱られそうないたずらなどを行うこともあるでしょう。

仲間との信義のためには、親に嘘をつかざるを得ないこともあるでしょう。

さらに、思春期になれば、異性とうまく付き合うために、親には言えない性的な行為を、ある程度、受け入れなければならないこともあるでしょう。

このように子どもが自分の世界を持ち始め、ぞれが親の期待とぶつかり合う時期が、第一反抗期や第二反抗期と呼ばれる時期なのです。

そもそも「反抗期」という言葉は親の側からみた言葉で、子どもの側からいえば「第一自立期」「第二自立期」ということになるのです。

ともあれ、過度に「良い子」である人達にはこうした反抗期が出現せず、親の世界を生き続けてしまいます。

そのために自分独自の自我を形成できず、自分自身が空虚に感じられます。

自立能力が獲得できず、外界がおそろしく感じられます。

こうした人は、いつでも従順な「良い子」であることによって場面をきりぬけようとし、過度の依存傾向と過度の献身という心理傾向を固定化してしまいます。

しかし、同年齢の友達との交際においては、相手に依存し、献身するだけではやっていけません。

相互に依存する関係がなければ、相手が満足してくれません。

このために、こうした人は、同年齢の人との交際が苦手で、年長の人とか、ずっと年下の子とは安心して付き合えるという心理を持つ傾向があります。

さらに、思春期になると、人に触れられたくない内面を持つために、人に接することを恐れる傾向が強くなります。

触れられたくない内面とは、性に関することであったり、容貌や能力など、劣等感を刺激されることであったりします。

この自己が傷つくおそれは、<I am OK>という心理的構えを十分獲得できなかったことに根源があります。

人前でひどく恥ずかしい失敗をしても、それを軽く笑い飛ばせる人と、深く傷ついてしまう人とがいます。

身体的魅力に劣ることで劣等感を強く持ってしまう人と、ほとんどきにせず開放的にふるまえる人がいます。

という基本的な心理が形成されていれば、失敗や身体的魅力などで自己の存在そのものの価値が揺らぐことはありません。

このために、自我が傷つかずにいられるのです。

人をおそれることなくいられるのです。

という心理的構えの人は、失敗が自我全体の価値の喪失と直結していまいます。

容貌という自分の一つの側面での欠点が、自分という存在自体の無価値感情と直結してしまいます。

このために、こうした事態を引き起こしそうな人間関係をおそれるのです。