語ることと聞くことで自己物語をつくる

語り手と聞き手の条件

妄想は、聞き手に納得されない経験

いつもだれかに見張られている、誰かが自分の後を尾行している―、そんな訴えをする人に出会うと、たいていの人は妄想に違いないと判断するだろう。
もちろん、その訴えを聞いた人が、実際に尾行者がいることを確認できた場合には、その訴えは妄想どころか事実とみなされる。
だが、現実にはそうした訴えは妄想であることが多い。

でも、事実じゃないから何も問題ない、と否定してすませられるかというと、そんな単純なことでもない。
人は、物理的世界に生きているだけではなくて、心理的世界にも生きている。
だれも尾行者はいないというのが物理的世界の現実であっても、誰かにつけられているような気がするという心理的世界の現実があることを無視するわけにはいかない。
問題は、そうした心理的な現実をわかってもらうには、どのように説明したらよいかということだ。

そこで大切なのは、だれかにつけられているような切迫した気持ち、他者の視線を過剰に意識する気持ちに対して、人から共感し、納得してもらえるような説明をつけることである。
だれかが尾行しているといった説明でなく、もっと信憑性のある説明、なるほどと共感しやすい説明をつけることである。
だれかが尾行しているなどという説明ではわかってもらえなくても、説明の仕方しだいでは、切迫した気持ち、人の視線を過剰に意識せざるを得ない気持ちをわかってもらうことができるかもしれない。

だれでも自分の中にモヤモヤしたものを感じることがある。
それは、焦りのようなものであったり、怒りのようなものであったり、恥ずかしさのようなものであったり、恋心のようなものであったりする。

そうしたものを自分の中に感じ取ったとき、その感情なり衝動なりにどんな名前をつけ、その発生メカニズムをどのように説明するかが重要となる。
聞き手に納得のいく説明ができれば、そのモヤモヤ経験はうまく社会化されたことになる。
納得のいく説明ができないとき、その経験は社会化されず、たとえば妄想とみなされたりする。

自分の中の経験は、他者の承認によって社会化されないかぎり、モヤモヤしたまま溜め込まれたり、表現されたとしても単なる妄想にすぎないということになったりする。
自分の経験を他者に承認してもらい、共有してもらうことで、世界の中に自分の経験を位置づけることができる。
つまり、世界の中に自分の存立基盤を得ることができる。

聞き手の納得する語り方を身につけていないとき

説得力のある物語筋のもとに自己の諸経験を配置して、語り聞かせる。
その語り口に対して、聞き手の承認が得られ、共感が得られると、その自己物語が社会的に認められたことになり、安定した物語の主人公としての地位が保障されたことになる。

では、どんな語り方をしたら聞き手の承認が得られるのか。
大事なのは、なるほどと思えるような、いかにもありそうな説明によって構成された語りをするということである。
それをうまくするためには、人が一般にどんなふうに自己の経験を語るかということを熟知している必要がある。

小さい頃から友達と一緒に遊ぶことがほとんどなく、ゲームを相手に一人遊びしていたような子が、自己の経験を社会化するのに失敗し、妄想的な世界の住人となるようなケースがある。
そのようなケースでは、経験を社会化するための語り方を体得していないというところに問題があるのだ。
周囲の人たちに納得してもらえるような語り方ができるようになれば、自己の経験はすっきりと整理され、社会の中に安定した居場所を築くことができるに違いない。

大切なのは、身近な人たちとの語り合いを十分に経験することを通して、自己の経験を社会化するための語り方を体得することである。
その意味で、近所に遊び集団というのがあまり見られなくなり、いろんな友達とかかわりながら育つということがなくなった最近の若者たちの間で、「自分がわからない」といった訴えが急増しているのも、当然予想されたことと言える。

自己物語の原型は、家族の語り合い

子どもが社会化していく過程で、もっとも影響力があるのは、家族関係ではないだろうか。
自己物語の構築についても、それはあてはまる。
親は、とくに母親は、まだ物心つかない乳児に対してさえ、いろいろなことを囁き、話しかける。
ましてや、わが子が言葉を理解し、さらにはしゃべれるようになると、親はますますいろんなことをわが子に話すようになる。

子どもたちを取り囲んでの一家団欒の会話の場では、子どもたちの幼い頃の微笑ましいエピソードが語られる。
それに対して、子どもが質問し、親がうれしそうにコメントする。
そうした親による語りを通して、僕たちは自分の幼い頃の経験を整理し、自己物語を過去に向けて拡張していくことができる。
子どもは、自分自身の幼い頃のことなど記憶にないので、親が語ってくれる自分の幼い頃のエピソードを聞くのをとくに好むものだ。

アルバムをめくりながらの家族語りというのが典型だが、最近ではビデオを見ながらの家族語りのほうが一般的になってきたかもしれない。
いずれにしても、子どもが自分の姿や周囲の状況を眺めながら、その場面の意味するものに関する親による説明による説明に耳を傾ける。
それを聞いて、子どもは記憶の彼方にほのかに浮遊する幼い頃の断片的な記憶を汲み上げ、親の語りの文脈に合わせてそれを語る。
これに対して、親が修正を加えたり、補足説明をしたりする。
こうしたやりとりを繰り返すうちに、子どもは自分自身で幼い頃のエピソードや自分の特徴を語ることができるようになる。

こうして安定化する幼い頃のエピソードを中心とした自分についての語り方が、その後の人生を方向づける自己物語の原型となる。

やさしい子のエピソード、がんばり屋のエピソード、冒険家のエピソード、繊細で臆病な子のエピソード、誰にでもすぐなつく社交家のエピソード、いつもみんなを笑わせる明るいひょうきん者のエピソード。
そうしたエピソードが生き生きと描写され、そこから読み取れる本人の性格についてのコメントが加えられたりする。
そうした経験を重ねるうちに、自分はこんな子だったのだ、といったアイデンティティが形成されていく。
逆にいえば、アイデンティティの中核には、家族の語りの場で繰り返し語られてきた幼い頃の自分をめぐるエピソード群が凝縮されているのだ。

ためしに振り返ってみよう。
自分の幼い頃のエピソードが自分の中に定着したプロセスを。
ひとつひとつのエピソードについて、それがどのような場でどんなふうに語られたかを、できるかぎり詳細に思い出してみよう。
そうしたエピソードは、どのようにして自分自身の記憶となったのだろうか。
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自己物語というアイデンティティの構築

自己開示による自己物語の作成

価値があると思えるエピソードが個人の記憶となる

生まれる前のことを記憶していると主張する人もいる。
そこまでいくと眉唾ものではないかと疑いたくもなるが、ふつうは覚えていないはずの一歳とか二歳の頃の自分のエピソードを記憶していると言う人については、もしかしたらほんとうに覚えているのかなと思ったりもする。
それについて語らせると、かなり詳細にわたって、その場面の様子を描写できる。

だが、そのようなケースでさえも、本人が実際に保持しつづけてきた記憶である保証はない。
本人がそのときのことを直接記憶していたのではなく、後に親からそのときの様子を繰り返し聞かされることによって、いつのまにか自分が体験し、直接記憶していることのような気がしてきただけかもしれない。

たとえば、ヨチヨチ歩きの頃の自分が、蝶々を追いかけて草原をうれしそうに歩き回っていたときに、子猫が目の前にひょっこり現れ、お互いにびっくりしてしばし見つめ合っていたが、突然泣き出して、猫もびっくりして逃げていったというエピソードを記憶していたとする。
このエピソードを思い出す際に、ヨチヨチぎこちなく歩き回っている自分の愛らしい姿や猫と見つめ合っているときの自分のキョトンとした表情、しばらくして泣き顔に移行するときの表情の変化などについてのイメージが浮かぶとする。

そこまではっきりしたイメージがあるのだから、ほんとうの記憶だと信じるのがふつうかもしれない。
だが、ここでちょっと考えてみよう。
自分自身のぎこちないヨチヨチ歩きの姿やキョトンとした表情、あるいは泣き顔に移行する表情の変化などは、いったい誰の視点から見られたものなのだろうか。
自分自身の視点ではあり得ない。

そうなると、そのイメージは、自分を観察している他者の視点から構成されていることになる。
したがって、これは、本来自分自身が保持していた記憶ではなく、親などの自分を観察していた他者による語りをもとに再構築された記憶なのではないかと考えざるを得ない。
何度も聞いているうちに、そのイメージが定着し、自分自身の記憶と勘違いするほど身近なものとなっていく。

こうしてみると、自分の過去についての記憶には、個人の所有物というよりも、家族などの集団の構成員の共有物といった側面があるのかもしれない。
一家団欒の場のような共同想起の場で持ち出され語られた個々の構成員の想起内容が、その場に居合わせた人たちの間で共有され、いつのまにか個々の構成員に自分自身が直接経験したものとして取り入れられ、その後の各個人の想起を方向づける。
家族のような一体感を強く持ちがちな集団では、こうしたことが頻繁に起こっていると推測される。

でも、そうだからといって、その種の記憶に価値がないわけではない。
問題なのは、本人が自分のエピソードとして保持しているということである。
ほんとうに自分が体験し直接記憶しているものでなくてもかまわないし、さらには実際にそんなエピソードがじつは存在しなかったということでもかまわない。
本人が、とくにそのエピソードを自分のエピソードと信じ込み、記憶しているということが重要なのだ。

ライフ・スタイルというものを重視する個人心理学を提唱したアドラーは、人が自分自身と人生に与える意味を的確に理解するための最大の助けとなるのは記憶だという。
記憶というのは、どんなささいなことがらと思われるものであっても、本人にとって何か記憶する価値のあるものなのである。
自分にまつわるエピソードが想起され、語られるとき、重要なのは、エピソードそのものの事実性ではなく、そのエピソードがとくに記憶され、想起され、語られたということなのだ。

事実よりも物語としての真実さ

自分のものとして語られるエピソードには、本人の自己観や世界観が縮約されている。
本人が、そのエピソードが自分の人生の流れにおいて重要な位置を占め、人生の意味を暗示していると信じているからこそ、わざわざ記憶されたり、想起されたり、語られたりするのだ。

そうしたエピソードを素材として散りばめて綴られる自己物語は、それが事実かどうかを糾弾される必要はない。
説得力ある文脈の流れをもち、現実の出来事や自己の経験を意味のある形で解釈する力を与えてくれればよいのである。
現実に起こった出来事を忠実に反映している必要もないし、そもそも親をはじめとする身近な人たちとの語りの場で創作されたものがその中核をなしているものだ。
事実かどうかは問題ではない。

精神分析家スペンスは、物語を重視する立場から精神分析について考察しているが、その中で歴史的事実と物語的真実の区別を強調している。
その区別に即して言えば、自己物語にとって重要なのは、歴史的事実性ではなくて、物語的真実性なのである。

スペンスも指摘するように、心理療法家は、相談に訪れたクライエントを援助するために過去の葛藤の歴史的事実を見抜く必要はない。
重要なのは、クライエントの語りにあらわれる物語的真実のほうだ。
そして、心理療法家は、クライエントが自分自身の過去の物語をより矛盾のない一貫したものへのと語り直していくのを促進することによって、クライエントを援助することができるのだ。
たとえその改訂された自己物語が歴史的事実に厳密に一致しなくてもかまわない。
本人が納得できる物語であり、社会的にも受け入れられる物語であればよいのである。
もちろん、本人が生きる勇気を汲み取ることができるような物語であるのが望ましい。

人は行き詰まったとき、聞き手を求める

人は、人生に行き詰まったとき、だれかにその窮状を語る必要に迫られる。
こちらの語りに耳を傾けてくれる聞き手を必要とする。
人生に行き詰まるというほど大袈裟なものでなくても、ちょっと深刻な悩みをもったときや迷いを感じたとき、悩んでいることや迷っていることをだれかに語らずにはいられない。

そこでは、聞き手に対して自己を語ることによる自己物語の書き換えが行われる。
目の前の現実に対して無力になってしまった自己物語を、今の現実により即した有効な自己物語へと書き換えていくことが課題となっている。

悩みや迷いを語る人を前にするといった状況に慣れない人は、自分が何か解決策を授けてあげなければいけない、何らかの方向づけをしてやらなければならないと考えがちである。
だが、そんなことは必要ない。
本人がなかなか答えを出せないような難問に、他人がそう簡単に答えを出せるわけがない。

じっくり耳を傾けてあげること、それだけで十分に助けになってやれるのだ。
大事なのは、悩んでいる本人、迷っている本人が、考えつつ語る、自分の心のうちに問いかけ、そこから何かを引き出しつつ語る機会を十分もつことなのである。
そうした場をもたせてあげることができれば、それで十分役に立っているのだ。

語る中で何かが見えてくる。
語るということは、まだ意味をもたない解釈以前の経験に対して、語ることのできる意味を与えていくことだ。
そこに、モヤモヤとしたものが形をとってくる。
意味のあるまとまりが見えてくる。
人は、自分の経験をだれかに語るとき、語りながら意味を生み出し、自分の経験を整理しているのだ。
自分でも意味がわからない、どう解釈したらよいのかがわからない出来事や経験を人に語ろうとするとき、大きな困難を感じざるを得ない。

この「語ることのできる意味」ということには、それこそ多様な意味が含まれる。
自分なりに語る価値があると感じる意味、語りたいと思う意味を生み出すということでもあるし、聞き手が価値があると感じる意味、なるほどと共感してくれる意味を生み出すということでもある。

語ることで立ち直れる

たとえば、自然災害や事故あるいは犯罪によって、家や財産を失ったり、家族を失うなど、重大な喪失体験をした人の立ち直りの過程では、じっくりつきあってくれる聞き手を前にしての語りのもつ意義はとても大きい。
そうした語りを通して、無効化してしまった自己物語の再構築、あるいは自己物語の中に収めにくい納得のいかない出来事を包み込めるようなより大きな自己物語の再構築が行わなければならない。

そこでは、こちらの語りにじっと耳を傾けてくれる人の存在意義がきわめて大きい。
「なぜ、よりによって自分がこんな目にあわなければならないんだ」「あのとき、ああしていればよかったのに」「あんなことしなければ、あの子は犠牲にならずにすんだのに」というように、やり場のない怒り、納得のいかない気持ちや、後悔と自責の念を交えて、責任の所在や運命をめぐって、自分自身との対話を繰り返す。

聞き手を前にして語ってはいるものの、そこで行われているのは、自分にとって納得のいく自己物語、しかも新たな現実に対しても有効に機能する自己物語の綴り方の模索である。
何度も何度も語り直す中で、納得のいく適切な文脈が生み出されていく。

そんな被災者に対して、「悪いことは早く忘れてしまおう」「いつまでもくよくよしていたってしようがない」「そんなことばかり考えていても何も変わらない」「もっと前向きに考えていこう」のように叱咤激励して、整理のつかない気持ちの吐露を抑えてしまうのは、何の援助にもならない。
何の生産性もないと思われる単なる愚痴やひねくれた考えにも無批判に耳を傾け、何度も繰り返す堂々巡りの話にもじっくり付き合うことこそが、何といっても大切なのだ。

カウンセリングにおいて、積極的傾聴と無条件の受容が必要条件であるように、被災者の立ち直りの過程でも、無批判に耳を傾けてくれる聞き手の存在が不可欠といえる。
そうした聞き手を前にして、自己の体験や思いを十分に語りつくすことによって、自己物語に新たな展望が開けてくる。
つまり、悲惨な体験を取り込みながらも、前向きの流れを維持することのできる新たな自己物語が徐々に生み出されてくる。

よく「吹っ切れた」などと言うが、それは今の現実を取り込むことができ、それを前提とした前向きの将来展望をもつことを可能にするような、新たな自己物語を手に入れたことを意味するといってよいだろう。

自己開示の三つの効用

自己の体験を披露し、それをめぐるさまざまな思いを吐露するような語りには、カタルシス効果、自己洞察効果、不安定低減効果という自己開示の三つの機能が働いている。
自己開示というのは、自分について他者に知らせること、つまり自分の考えていることや感じていること、過去の経験や将来展望など、自分がどんな人間であるかがわかるような情報を他者に伝えることである。

カタルシス効果というのは、胸の奥深く押し込められていたものをだれかにぶちまけることによって、気持ちがスッキリし、ストレスが軽減されることをさす。
自己洞察効果とは、自分の体験や思いをありのままに何度も繰り返し語ることによって、自己の内面に対する洞察が促進され、考えがまとまったり、気持ちの整理がついたりすることをさす。

不安低減効果とは、同じような体験をした者同士が自己の内面を打ち明けあうことによって、他の人も同じような思いや悩み、症状をもっていることを知り、それによって自分の反応が正常なものであることが確認され、不安が低減することをさす。

このような自己開示がうまく機能するためには、くどい話や愚痴にもじっと無批判に耳を傾けてくれる聞き手の存在が必要であり、また同じような体験をもつ被災者同士が語り合う場が必要である。

語ることで、新しい自己物語が生まれる

そうした語りの場において、「人生って何だろう」「自分はこれまで何のためにがんばってきたんだろう」「崩れてしまった人生設計をどうすればよいのだろう」「この先いったいどうしたらよいというのだろう」などの問いに直面し、被災という自分にとっての大事件をめぐる自分なりの物語を作り上げては書き直すといった作業を何度も何度も繰り返していく。
納得のいく物語に到達するまで、修正に修正を重ねていく。
新たな文脈のもとに個々の体験や登場人物、仕事など生活の諸要素を配置し、それぞれの意味づけを変えてみることで、新たな自己物語の可能性を模索する。

そうこうするうちに、今自分が置かれている状況に対処するのにふさわしい自己物語、これから生きていく上で力を与えてくれる自己物語が生み出されていく。
もちろん、すべてにおいて満足のいく物語を打ち立てることなど期待できない。
あきらめたり、要求水準を下げたり、方向転換を試みたりと、いろんな点で折り合いをつけたあげくに、ようやくそこそこに納得のできる物語に到達するのである。

自分の置かれた現実に対処する力とならない従来の自己物語に代わって、現実を肯定的に受けとめることができる新たな自己物語を獲得し、その中に自己の悲惨な体験を位置づけることができると、気持ちが落ち着くとともに、未来に対する明るい展望が開かれてくる。

折り合いがつかないうちは、思い出したくない気持ちや話したくない気持ちと、話さずにいられない気持ちやだれかに聞いてもらいたい気持ちとの間を揺れ動き、焦りや怒り、悲しみや不安が渦巻いて、人間関係や仕事など生活全般が不安定となる。

回想や内省をしょっちゅう行い、何度も繰り返し語ることによって、崩壊し無効化してしまった自己物語に代わるものが徐々に形を取り始める。
1人で回想や内省をするのでは、自己物語の社会性が保証されない。
先にも指摘したように、自己物語は聞き手が納得するものでなければならない。
聞き手が納得できない物語は、妄想に似た歪んだ解釈とみなされ、社会的承認が得られない。

聞き手の共感や承認を得ることによって、自己物語は単に一人だけの思い込みなどではなく正当なものとみなされるようになる。
そのためにも、聞き手を得て十分に語ることが必要なのだ。
こうして進行する有効な自己物語の構築が、いわば立ち直りを意味するのである。

聞き手の重要さ

聞き手は語り口を左右する

このように自己物語の構築には、語りにつきあってくれる他者が大きく関与している。
人は、身近にかかわっている相手から突きつけられる期待に沿った態度を示すことによって、その相手にとっての自己物語の登場人物として、その相手の生きている物語を部分的に自己物語に取り込むことになる。

人と語り合っているときのことを思い出してみよう。
人は、よほどひねくれていないかぎり、語り合っている相手の期待を極力裏切らないように、相手の同意が得られるような方向に、自己を語るものだ。
突然に自己を語るように言われたら、だれもが「さて、どんなふうに語ろうか」と迷うはずだ。
なぜ迷うのか。
それは、同じ自分を語るにしても、いろんな語り方があるからだ。
そのとき参照するのが相手の示す反応だ。

つまり、人が自己を語るとき、自己物語の語り方の多くのバージョンのうちどれを採用するかは、聞き手の反応を見ながら決めているのである。
人は、自分の過去についてさまざまなことを想起することができるが、思い出すことのできる記憶のストックの中からどれを引き出してくるかは、そのときどきの聞き手の反応をモニターしながら判断する。

聞き手の反応を見て、これはどうもよくないなと感じたら、話の詳細を省いたり、話の枠組みや内容に変更を加えるなど、語り口を変えていく。
聞き手の反応がよいと感じた場合には、自信をもって話の詳細を生き生きと語るだろうし、勢い余ってアドリブで話に起伏をつけたりするに違いない。

聞き手の反応が語りを導くというのは、なにも自己物語を語る場にかぎらない。
たとえば、授業や講演もそうだ。
聴衆を前に話し始めてしばらくたつと、非常に話しやすい場であるか、どうにも話しにくい場であるかがはっきりする。

教員同士の会話でも、ノリの良いクラス、ノリの悪いクラスといった言い方がある。
ノリの良いクラスというのは、こちらにじっと視線を向けるだけでなく、ときどき頷いたりして興味を引かれている、納得しつつ聞いているといった信号を発する聞き手が何人かいるクラスである。
そういった反応があると、話す側も気持ちが乗ってきて、わかりやすく例をあげる努力をいつも以上にしたり、予定外の雑談までしたりする。
それによって、聞き手の反応はますます好意的・共感的なものになっていく。

それに対して、頷く様子もなく、ボーッとしたうつろな表情が目立ち、反応が極度に乏しいクラスもある。
そうしたクラスでは、反応の悪さに気持ちが滅入ってきて、めんどくささや早く終わりにしたいといった気持ちが先に立ち、予定していた説明も省きがちとなり、雑談などする気力も失せ、淡々とただ義務的に話すことになる。
そうなると、聞き手の反応もますます鈍くなっていく。

このように聞き手の反応は、語り手の気分を左右し、その結果として話し方ばかりでなく話す内容さえ変えてしまうほどの力を持っている。

これは、自己物語の語りにも通じることだ。
自己物語を語る際に、想起する内容も、その語り方も、聞き手の反応をモニターしつつ、できるかぎり聞き手の共感や承認が得られそうなもの、効果的なものが選ばれる。

こうして聞き手は自己物語の語り方を大きく左右しているのである。

聞き手が新たな視点を誘発する

思い悩んでいるとき、なかなか解決策が見つからないとき、僕たちは誰かにその思いを語りたくなる。
ただし、だれかが答えを出してくれることを期待しているわけではない。
ここが、カウンセリングに関して多くの人たちが誤解している点だ。

カウンセラーは、悩みを抱えて話しにくるクライエントに対して、どうしたらよいのかをアドバイスするものだと思われがちだ。
そこで、こんな悩みをもつ人にはどんなアドバイスをしたらよいのかと尋ねられたりする。
しかし、悩みを抱えてやってきた人の相手をするというのはそういうことではない。

人からよく相談される人というのは、じっくり相手の話に耳を傾けてくれる人であるはずだ。
相談者は、答えをすぐに出してほしいのではなく、まずはじっくり話を聞いてほしいのだ。
語りたいのだ。

相談に行って、親切にもこちらに代わって即座に答を出してくれる人がいたとして、それは助かったと素直にその回答を採用するほど、僕たちは単純素朴ではない。
だいいち、本人がいくら考えてもわからない難問に対して、事情もよくわからない他人からそんなに簡単に答を出されてはたまらない。

だからといって、人に話すことが役に立たないというのではない。
いや、むしろ大いに役立つのである。
あんなに悩んでいたのに、いろいろ迷うばかりでどうにも答が出なかったのに、人に話してみたら案外簡単に建設的な解決策が見つかった。
そんなことも珍しくない。
やっぱり盲点ってあるもんなんだなあ、と改めて感心する。
事の大小はともかくとして、そうした経験はだれにもあるのではないだろうか。

そうしたケースでは、悩みや迷いを話した相手が答を出してくれたわけではない。
相手に事情がわかるように話して聞かせているうちに、これまでと違った視点からの回答がふと思い浮かんだのである。
これまでいくら考えても思い浮かばなかったことが、別の構図のもとに突然浮かび上がってくる。

迷いが吹っ切れる瞬間というのも、そのようにして訪れるのだろう。

では、どうした別の構図をもたらす新たな視点は、いったいどこからやってくるのか。
それは、語り合いの中からというしかない。
聞き手がいることで、聞き手にわかるように事情や自分の悩める思いを説明しようとする。
聞き手がわかってくれないことには話が進まないので、聞き手に理解してもらうにはどう説明するのがよいかを工夫しながら話すことになる。

そこで意識されるのが、聞き手の理解の枠組み、つまり聞き手がものごとを理解するのに主として用いている枠組みである。
聞き手の理解の枠組みを意識しながら、事情を説明し、自分の悩める思いを説明しているうちに、自分の理解の枠組みと聞き手の理解の枠組みが交錯しつつ融合し、そこに自分ひとりで考えていたときとは違った視点がもたらされる。

そんな感じなのではないだろうか。
その新たな視点を採用してみると、これまでの経験も違った意味をもってくる。
目の前の現実の見え方も一変する。
これは、過去の経験や目の前の現実を解釈する文脈として機能する自己物語に変化が生じつつあるということ、つまり新たな自己物語が生成しつつあることを意味する。

文化的文脈の力

自己物語の変化というのは、いわば経験を解釈する枠組みとして働く文脈の変化のことだ。
文脈がものの見方を決定する。
同じ出来事も、文脈によって違った見え方になる。
同じ経験も、文脈が違えば違った意味をもつ経験となる。

文脈のもつ力の威力を思い知らされるのは、異文化のもとに身を置くときだ。
自分が育った文化的文脈のもとでは非常に失礼な行動とみなされたり、無能の証拠とみなされたりする。

たとえば、発達心理学の東洋・柏木恵子氏たちの、子に対する母親の発達期待に関する日米比較研究でも確認されたように、一般に日本の母親はわが子に素直さ・従順さを身につけることを期待する傾向が強く、アメリカの母親はわが子に自己主張性や指導性を身につけることを期待する傾向が強い。

そうした文化的圧力のもとで育つわけだから、日本人は人の言うことに素直に従い、周囲に合わせる協調的な人間になっていく。
それが望ましい人物像でもある。
ところが、そのような人物がアメリカに渡ったとすると、とたんに行き詰まる。
どこまでも強く自己主張をして自分の意思を貫くのが望ましいとされるアメリカ文化のもとでは、人の言うことに素直に従い自己主張を極力避ける人物は、模範的どころかいかにも無能で情けない人物とみなされかねない。

逆に、アメリカ文化のもとで、しっかり自己主張し、自分の思うように周囲の人たちをコントロールすることのできる人物像を目指して自己形成してきた人は、アメリカ文化のもとでは有能な人物として肯定的な評価を得ることができるはずだ。
ところが、そういう人が日本にやって来ると、利己的で協調性のないわがままな人物として否定的に評価されかねない。

ところで、日本文化のもとで育った人が、アメリカ文化の中に身を移すことによって、自分には人に合わせる従順さや協調性があることや、自己主張が苦手なことが改めて意識される。
異文化のもとに身を置くことで、日頃意識していなかった自分の一面に気づくことができる。

これは、文化的な文脈の違いがもたらす自己発見といえる。
つまり、文化的文脈の違いが別の視点を与えてくれるために、自分の見え方もふだんと違ったものとなり、そこに新たな自己の発見があるというわけだ。

文化の違いというのは、何も別々の国同士の間に見られる大がかりなものに限らない。
小さな範囲でいえば、家庭というのも独自な文化的文脈をもっている。
結婚した二人が戸惑うのは、自分は当然と思っている生活習慣が相手にとって違和感があるものだったり、相手が当たり前のようにすることがこちらにとっては意外なことだったりするからだ。

これは、お互いの育った家庭がもつ文化的文脈の違いによるものである。
そこで、自分あるいは自分の家庭がもっているものの見方の特徴、言い換えれば文脈の偏りに気づく。
これは、一種の自己の再発見でもある。
結婚して最初の数年間に夫婦の衝突が多いというのも、お互いが知らず知らずのうちに身につけてきた文化的文脈の調整に手間取るからと考えることができるだろう。

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語り合いの効果

深いかかわりから新しい自己は発見される

自己に出会うためには、二つの相反する方向に行き来することが必要となる。
それは、他者に向かうという方向と自分自身に向かうという方向である。
この両方向の動きの循環の中で、自己のあり方が点検され、自己の創造が行われていく。

それは、ひとり自分を見つめるだけでは成り立たない、自分を見つめるだけで自己の創造の動きが生じるということもあるが、それは前もって他者との深いかかわりを十分経験している場合に起こることだろう。

他者と向き合うというのは、心を開き合うこと、単なる世間話をするようなかかわりではなく、自己をさらけ出して付き合うことをさす。
そこでは、自分の考えていること、感じていることが率直に語られ、お互いの思いが共有される。
しかし、人と人はあくまでも他人同士だ。
ものの見方が違うし、感受性が違う。
同じ出来事に対しても、それぞれの受け止め方に多少なりともズレがあるのがふつうだ。
自己への気づきを得るためには、そうしたズレを実感することが必要なのだ。

それには、お互いの生きている文脈のズレがクローズアップされるような深いかかわりをもつことが前提となる。
付き合い始めの頃は、お互いに遠慮がちなところがある。

相手の様子をうかがいつつ、できるかぎり相手のものの見方・考え方を尊重しようとする。
自分を抑えて、相手に合わせようとする。
自分の文脈、つまり自分のものの見方・考え方を相手に強引にぶつけることがないため、相手のものの見方・考え方と真っ向から衝突するようなことはない。

だが、つきあいが進んで親密な間柄になると、お互いに自分の文脈を相手に遠慮なくぶつけるようになるため、相手の思いがけない反応に呆れたり腹を立てたり、ちょっとしたことで口論になるなど、相手のもつ文脈との間のズレが鮮明化してくる。

心理的距離が縮まると、ちょっとしたズレも気になってくる。
心理的距離が遠かった頃にはまったく気にならなかったズレがクローズアップされ、なんとかその溝を埋めようという試みが始まる。
そうしたことの背後には、わかりあいたいという強い欲求が働いているのだ。

こうして、親しい間柄では、なぜそんな考え方をするのだろう、どうしてわかってくれないんだろう、との思いが強く働き、わかりあいに向けての交渉が行われる。

最初の頃はおおらかにかまえていてくれたのに、親しくなるにしたがって口うるさくなったとか、議論を仕掛けてくるようになったとかこぼす人がいるが、深くかかわるとどうしてもそういった感じになりがちである。

それぞれの価値観や感受性がぶつかり合うような深いかかわりの中では、自分の思いを相手にわかってもらえるように語るということがしつこく行われる。
相手が「何を言っているのかわからない」「どうも納得がいかない」などと言いたげな反応を示したら、言葉を換え、また論理や筋立てを変えて語り直すことになる。

人との語り合いの場で、相手にすぐに通じないからといって簡単にあきらめたりはしない。
自分のものの見方・感じ方と他人のそれとの間に大きな溝があるということは、いろいろなかかわりの中で、十分に体験済みである。
そこで、相手になかなか通じないときには、何とかわかってもらおうと語り直すことになる。

相手のものの見方・感じ方の見当をつけ、相手の視点に立って受け入れやすい論理や筋立てを考え直しつつ、語っていく

そうしたやりとりを繰り返すうちに、相手の視点が知らず知らずのうちに自分の中に取り入れられていく。
相手にわかってもらえるように自己の体験を語り直すということは、相手の視点に立って自己の体験を見つめ直すこと、つまりこれまでとは違った視点で自己の体験を見直し、語り直すことを意味する。
そこに自己についての新たな発見があるのだ。
深いかかわりの中で自己が発見されるというのは、そういうことだと考えてよいだろう。

語り合いが新たな意味を生み出す

このように、深いかかわりの中で新たな自己が発見されるというのは、自己の経験を振り返り、その意味を解釈する新たな視点が獲得されることを意味する。
そこでは、深く関わり合っている目の前の相手の視点を部分的に取り込んだ、新たな自己物語の文脈が動き始めることになる。

新たな物語的文脈をもって過去の経験や目の前の出来事に向き合ってみると、以前とは違った見え方になってくる。
1人で深刻に悩んでいたことを、何かのきっかけで親友に思い切って話してみることで救われるというのは、よくあることだ。
これには、胸の内に秘めていた苦しい思いを打ち明けることで、気持ちがスッキリするということももちろんある。
だが、それだけでなく、一人で考えていたときには八方ふさがりと思えたのに、意外な解決策が見つかるということもよくある。

そこでは、相手の視点を取り入れた新たな文脈のもとに過去の経験や現在の状況を置いてみることで、それらが違った意味をもったものに見えてくるということが起こっているのだ。
ひとつひとつの出来事そのものに意味があるのではなくて、それを見る側がもつ文脈が意味を与えるのである。
同じような経験をしても、人によって受け止め方が違うのも、それぞれが経験を解釈する枠組みとして用いている物語的文脈が違うからだ。
同じ人物であっても、新たな文脈を獲得すれば、同じ過去経験も違った意味をもつものとして振り返れるようになる。

こうした事情があるからこそ、自己発見のためにはお互いの価値観をぶつけ合うような深い交わりをもつことが大切だと言われたりするのだ。

親友との遠慮のない率直な語り合いの中で、恋人とのだれにも見せたことのないプライベートな部分の交わりの中で、過去の経験が違って見えたり、自分自身の長所や短所に対する評価が一変したりする。

語ることは経験を整理すること

本音で相手に向き合う深い語り合いの中で、自分のもともと身につけていた視点に相手の視点が融合した、新たな文脈が自分の中に生成してくる。
それによって、自分の経験の意味づけや周囲の出来事や置かれた状況の見え方が一変する。
それは、深い語り合いによって、新たな意味の世界が目の前に開けてくるということである。

経験のまわりには、あらゆる意味が漂っている。
目の前で起こっている出来事の周囲にも、たくさんの意味が漂っている。
見る側が用いる文脈によって、可能性として漂っている無数の意味の中から、ひとつの意味が引き出される。
語るというとき、人は意味のあることを語らなければならないのだから、自分の採用する文脈をあてはめたときに引き出される意味を語る。

つまり、語るということは、語られる以前には確定していなかった意味をその対象に与えることだと言うこともできる。
語られる以前には存在しなかった意味が、目の前に広がってくる。
だが、現実には、語られない意味が、まだまだ可能性として背景に漂っている。
語るということは、そうしたモヤモヤした背景から、自分のもつ文脈にしたがって、ある有意味なまとまりを切り取ってくることなのだ。

過去経験も、現在進行中の日々の経験も、受けとめ方によって、自分を奮い立たせ支えてくれる経験にもなれば、自分を落ち込ませ力を萎えさせる経験にもなる。
さまざまな意味づけが可能な多義性をもった経験、それだけ取り出されても何を意味するものであるかがわからない僕たちの経験に、特定の意味を与えていくためには、語るということが必要なのだ。

語ることによって、無数の可能性の中からひとつの意味が確定する。
それによって、形のないモヤモヤした経験に特定の形が与えられる。
語ることで経験がスッキリ整理されるというのも、モヤモヤしたものに何らかのはっきりした形を与えないかぎり語ることができないからなのだ。

さらに、そうして自分が経験に与えた意味が間違っていないことを確認したいと思ったら、しっかりと聞いてくれる相手を前に語ることが必要になる。
聞き手をもつことによって、僕たちは自分の意味づけの妥当性の仕方をチェックすることができる。

語り合いを通して経験の意味が明確になる

これは面白い、きっとバカ受けに違いない、と思ってしゃべったところが、相手の反応が思いのほか冷めていて、がっかりすることがある。
名案を思い付いたと感動し、勇んで仕事のパートナーのところに行って話したのに、そんなのは現実的じゃないと一蹴され、落ち込むことがある。
ものごとを解釈する枠組みとして抱えている文脈が違えば、面白さを感じる基準も違うし、それは名案だと感動する基準も違ってくる。

だからこそ、自分の経験に対する意味づけの仕方が妥当なものかどうかをたえずチェックする必要があるし、そのためには、だれかに語ることが必要なのである。

語り場で、聞き手により共感的な反応が得られれば、その受け止め方は妥当とみなされたことになる。
聞き手によりその受けとめ方の正しさが保証された経験は、自信をもって人に語ることができる。

もし、聞き手が、その受けとめ方はちょっとおかしいんじゃないかとでも言いたげな反応を示した場合は、自分の受けとめ方の偏りをチェックし、聞き手の視点を取り入れることで、より妥当な受けとめ方へと修正していくことになる。

語り合いの中で相互に納得のいく受けとめ方が模索され、しだいに独りよがりの意味づけから社会化された意味づけへと移行していく。
ひとつひとつの経験がチェックされ、社会化されていくと、それらの素材を織りなして築かれている自己物語も社会化されていく。

こうして語り合いの場で相互承認が得られた自己物語は、社会的な根をもつ安定したものとなっていく。

それに対して、語る相手をもたず、他者からの承認が得られないままの、独りよがりの自己物語は安定感に乏しい。
社会的承認が得られていない自己物語を抱える者は、自信をもってその物語を生きることができない。
人から見たらおかしな生き方をしているんじゃないか、自分のものの見方や感受性は歪んでるんじゃないかといった不安に支配され、現実に背を向けることにもなりがちだ。