青少年の無気力化
スチューデント・アパシーが登場したのは、1980年頃のことになります。
当時は「三無主義」「シラケ世代」といった言葉で、青少年の無気力化が指摘されはじめていました。
スチューデント・アパシーもまた、こうした時代背景との関連において、語られることが多かったようです。
青少年の無気力化は、それ以後、変化したでしょうか。
どうも変化は無いようです。
それでは、青少年は、いまもって無気力なままなのでしょうか?
それとも「青少年の無気力化」という現象は、実は幻だったのでしょうか?
「青少年の無気力化」は世代間の価値観の葛藤であるように思えます。
たしかに私たちは、政治や社会参加といった大義に燃えて行動することはなかったかもしれません。
しかしどの世代も、前の世代からみればせいぜい「副業」にしかみえないものに、ひどく熱中したり打ち込んだりするものではないでしょうか。
「全共闘」よりも「おたく」が無気力であるとは、けっしていえません。
ある世代がまるごと無気力化するといった現象が可能になるのは、「世代論」という内輪話の中だけではないかと、疑っています。
スチューデント・アパシーの増加に関していえば、戦後、大学への進学率がいちじるしく高まったことにも一因があると思います。
学生の数が増えれば、ドロップアウトするものも増加するという、そっけない見方も十分に可能でしょう。
ここではよくいわれるような「価値観の多様化・相対化」とは逆の要因すら考えられます。
誰しもが大学に入学する時代には、大学に入ることが、何か当然のような価値観として共有されてしまいます。
これはむしろ、価値観の均一化につながるものでしょう。
のみならず、受験につぐ受験という関門をくぐることが、社会参加の暫定的免除ということのほかには、何の特権も保証してくれないという現実があります。
このような過程において、一度たりとも「無気力」に陥らずに過ごすことは、ひどく困難なことではないでしょうか。
また、社会的ひきこもり事例からいいうることとして、「学校」と「社会」との間で、適応の基準がかなり異なっているという事実があります。
大学卒業までは何ら問題なく経過した人が、就労の段階でつまずくことが、いかに多いことか。
また、社会的ひきこもりの事例中、まとまった期間の就労経験のあるものは皆無でした。
この事実は、学歴については中卒から一流大学卒まで、実に幅があることと対比して考える時、学校と社会との価値基準のずれが、きわめて深刻なものであることを示唆しています。
それは単に、学校で学んだことが社会では役に立たないとか、そのような意味だけではありません。
端的にいって、この二つの社会において、人付き合いのありようがかなり異なっている、ということです。
その違いとは、一言でいうなら「役割意識の違い」ということになります。
「社会人」には、自らのさまざまな可能性を断念して、組織内で期待される一定の役割を引き受けることが義務づけられます。
この「断念し、引き受けること」こそが、わが国の教育システムにおいてはけっして学習できない行為なのです。
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去勢を否認させる教育の仕組み
社会的ひきこもりが、思春期の病理であるということ。
それは、とりもなおさず、この問題が現代の教育システムの問題と、深く関連していることを意味しています。
たしかにそこには、さまざまな社会病理的なものが反映しているかもしれません。
しかし、子どもにとっての社会が、まず家庭であり学校である以上は、「教育システム」のあり方それ自体を問題にしないわけにはいきません。
端的にいって、現在の教育システムは、「去勢を否認させる」方向に作用します。
どういうことでしょうか。
まず「去勢」について簡単に説明しておきます。
去勢とはご存知のように、ペニスを取り除くことです。
精神分析では、この「去勢」が、非常に重要な概念として扱われます。
なぜでしょうか。
「去勢」は、男女を問わず、すべての人間の成長に関わることだからです。
精神分析において「ペニス」は、「万能であること」の象徴とされます。
しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。
この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。
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人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。
さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性にかけていることが多いことも、この「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。
これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。
成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。
成長の痛みは虚勢の痛みですが、難しいのは、虚勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。
みずから望んで去勢されることは、できないのです。
このように「去勢」を理解したうえで、学校がどのような場所であるかを考えてみましょう。
そこには、明らかに二面性があります。
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「平等」「多数決」「個性」が重視される「均質化」の局面と、「内申書」と「偏差値」が重視される「差異化」の局面です。
子どもはあらゆる意味で集団として均質化され、その均質性を前提として、差異化がなされます。
均質であることを前提とした差異化は、嫉妬やいじめの温床となりますが、それはまた別の話です。
さらにまた教育システム全体が、「その中にいれば社会参加が猶予されるもの」あるいは「自己決定を遅らせるためのモラトリアム装置」として作用している点も重要です。
学校は、このような保護を与えることとひきかえに、学校独自の価値観を強要してきます。
まず問題とされるべきは、子ども達が学校において「誰もが無限の可能性を秘めている」という幻想を強要されることです。
これが問題となるのは、すでに去勢の過程を済ませつつある子どもたちにとって、このような幻想が、あたかも「誘惑」として強いられることです。
つまりこれが、虚勢の否認です。
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ひきこもり的性差
この「去勢否認の誘惑」が問題化するのは、例えば社会的ひきこもり事例の性差という点においてです。
社会的ひきこもりの事例は、圧倒的に男性に多い。
スチューデント・アパシーについても、ほぼ定説として、男子学生に特有の問題とされてきました。
これはなぜでしょうか。
その理由としてまず、現代日本の社会状況において、一般に男性に対する期待度が女性にくらべて高いことが挙げられます。
男性の場合、青年期までには就業、就学などなんらかの社会活動に関わっていなければ社会的に非難されやすい。
一方、女性の場合はいわゆる「家事手伝い」といった形で、かならずしも社会参加をせずに、自宅での生活を続けることが部分的には可能です。
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また結婚後は家庭の主婦としての役割が、一般には期待されがちでもあります。
したがって女性の場合は、ひきこもり状態がそれほど問題視されにくく、その分周囲からの期待によるストレスも少ないといえます。
このような旧来の社会的役割分担の構造は、近年急速に変化しつつありますが、それでもいまだ根強く残っています。
これをいい換えると、わが国において、とくに女性に関しては、社会システム全体が「去勢」を成功させるように働くので、女性のほうが速やかに成熟しやすいのかもしれません。
女性は人生の早期から、「女の子」として扱われることを通じて「あきらめ」を受容させられるのです。
このため思春期においては、同年齢なら、たいがい女子のほうが大人びていますし、そうでなくとも女性の打算やリアリズムには、男性は到底、太刀打ちできません。
ですから教育システムにおける去勢否認の強制も、「あきらめ」を知った女性に対しては、それほど強く作用しないのです。
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受け入れても拒んでも結果は一緒
教育システムによって押し付けられる「去勢否認の強制」が何をもたらすか。
このシステムがやっかいであるのは、システムに従順であっても、システムに真っ向から反対しても、それが同じ結果をもたらすという点です。
どういうことでしょうか。
つまり、いずれの態度を貫いても、社会的には未成熟な人間になってしまうということです。
例えば「私に甘えなさい」と誘惑する母親は、まさに「去勢否認」を強制していることになります。
その強制を受け入れて甘えたとしても、強制に逆らって母親を拒んだとしても、いずれの態度もつまるところ、母親への依存を前提とせざるをえません。
つまり「去勢否認」の誘惑は、それを受け入れても拒んでも、その誘惑へと引き寄せられてしまうしくみになっているのです。
あえていいますが、典型的な偏差値エリートと、一部の「登校拒否」児たちは、不適応のあり方において共通しています。
その共通点とは「価値観の狭さ」と「自己中心性」です。
ここで、彼らを非難しようというのではありません。
彼らが彼らなりに懸命に行動した結果が似通ってしまうという悲劇を通じて、現在の教育システムのありかたに疑問を呈しているのです。
ひきこもる若者たちの多くは、かつて学校で強要された「平等幻想」を呪詛してやみません。
ここに彼らの「去勢否認への抵抗」の痕跡を認めることは、さほど難しくないでしょう。
ひきこもる若者たちこそは、まさに強制された「去勢否認」の犠牲者として、終わらない思春期に呪縛されているのではないか。
ここで「ひきこもり」の側から社会をみるなら、私は(「この国」ならぬ)この時代においてはいまだ「自由」が正しく認識されていないのではないか、という実感を持っています。
ひきこもり状態とは、一切の社会的束縛を免れているという点からみて、きわめて自由な立場とみることもできます。
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しかるに、もっとも自由な立場の人間が、もっとも不自由な状況に甘んじている。
この一点に、いまだ本来的な意味での「自由」を享受し損ねている、この時代の病理を感じます。
「自由であること」それ自体が葛藤の原因となるような時代を、「思春期の時代」とかりに呼びうるなら、「社会的ひきこもり」とはまさに、そのような時代を象徴するような病理ではないでしょうか。