アダルトチルドレンと秘密が持つ破壊力

秘密が力をふるうのは、それが人をコントロールするからです。

非常に多くの場合、問題は秘密にしようとする意図そのものではなく、隠し続けるためにとらなければいけない行動なのです。

秘密とはクローゼットに隠された骸骨のようなもので、誰か他人がその扉に近づきすぎないよう、家族全員が監視の役目を負わされるのです。

秘密がそっと伝えられるものであれ、あるいは皆で示し合わせて隠しているのであれ、こどもだったあなたには選択権がありませんでした。

多かれ少なかれ、家族の秘密を守るよう強制されたのです。

そしておとなになってからは、隠し続けることを自分に強要しているのです。

あなたは意識していないでしょうが、今ではあなたが特定の情報を人々の詮索から遠のけておくという選択をしています。

秘密自体は単なる情報にすぎず、それを話すか、事実として認めるか、それとも隠しておくかという選択は、あなたにかかっているのです。

事実をありのままに認めることで、秘密の破壊力はしぼみます。

飲んで忘れようとしても、身体を動かして忘れようとしても、食べまくって忘れようとしても、仕事で忘れようとしても、その他どんな努力をして理屈をつけて忘れようとしても、秘密の力は衰えません。

ただひとつの方法は、否認を終わらせ、認め、クローゼットの扉を開くこと―それが秘密から自由になる唯一の道なのです。

アダルトチルドレンと秘密の影の中で暮らすこと

恥辱と自己否定が土台にある家庭で育つということは、秘密が存在すること自体への否認に支配されて育つということです。

秘密の中身が特別に恐ろしいものだったり、とてもひどいことに見える場合もあるし、あるいは秘密を守ろうとしている当人が、外見に非常にこだわっている場合もあります。

理由がなんであれ、家族の暮らしはまるで暗雲に覆われたかのようになります。

否認は真実の光をさえぎり、その影のもとでは恥辱感の樹木が生い茂るからです。

ケヴィンやマールの母親はたった一人で家族の秘密を守り続けていましたが、秘密が目に見える形で共有されている家族で育った人もいます。

アダルトチルドレンを抱えているローレンスの場合もそうでした。

「父は時々精神科の病院に入院しないとなりませんでした。

躁うつ病だったんです。

今ではそれを知っていますが、子どものときにはわかりませんでした。

父が入院するたび、私達子どもは誰にも言ってはダメだと言い聞かされたものです。

誰かがお父さんはどこへ行ったのと聞いたら、西部の故郷へ親戚の病気見舞いに行っていると話すことになっていました」

アダルトチルドレンを抱えているシンディはこんなことを覚えています。
「私の姉は二度妊娠して、二度とも私達家族はその間の数ヵ月間、姉がどこへ行っているのかについて嘘をこしらえました。

いったん作り話ができると、私達はもう決して、姉がまた『やってしまった』ことについては話しませんでした」

これらは家族が積極的に秘密を守ろうと共謀している例です。

けれど、知らないうちに秘密とともに暮らしてきた人も多いのです。

たとえばアルコール依存症という秘密を抱えて、その病気の本当の正体を知らないまま生きてきた人もいます。

アダルトチルドレンを抱えたロビンはこう言います。

「父は頭がおかしいんだと思っていました。

しょっちゅう異常人格みたいになっていましたから。

父が飲み過ぎだとは知っていたけど、周りにも飲みすぎの人はたくさんいたし。
父が依存症だったなんてしりませんでした」

問題を秘密にしていると、私達は理不尽な行動に理屈をつけて耐えることにすっかり慣れていきます。

アダルトチルドレンを抱えたジェラルドのこんな話のように。

「僕はふつうの家庭でそだったんだと思っていましたよ。

昔のことをあれこれ振り返るようになったのは、酒をやめて三年たってからです。

子どもがトイレの水でいたずらしているのを見つけたからといって、罰として便器から水を飲ませるのは親としてふつうのことじゃないと気づき始めました。

どちらの子どもが悪いことをしたのか見つけるのに、『連帯責任』と称して二人をさんざんぶって、悪いほうが音をあげるのを待つやり方がふつうじゃないということもね」

ジェラルドのような状況では、何かを秘密にしようという明らかな意図はありません。

その代わり、家の中のことに関しては口をつぐませるような雰囲気があるのです。

子どもは他のやり方があるというのを知りません。

自分の家族だけが体験のすべてなのです。

何が「ふつう」だかわからない状態で、子どもたちは理不尽な仕打ちに耐えることを身につけます。

体験したことを表現する言葉を持たないとき、私達はそれについて話すことができず、その体験は秘密のままになるのです。

たとえば、身体的な虐待とはげんこつで殴られたり平手打ちされることだと思っていて、自分が虐待されていることに気付かない子どもがいます。

髪の毛を持って引きずりまわされるのが虐待だとは知らないのです。

壁際に押しやられるのが虐待だなんてわからないのです。

それに、虐待というのは毎日のように起こるものと思い込んでいて、月に一度だけの出来事には何かそれらしい理由をみつけ、秘密のままにしておくのです。

感情を表わせる雰囲気が家族の中にないと、私達は痛みを否認し、本来の傷つきやすい自分を盾で防御することを学びます。

やがて、苦痛な体験もふつうのことだと思い込むようになります。

「たった一度だけのことだし」「親にはそんなつもりはなかったんだ」と。

家族の仕打ちから物理的に身を守る手段がないために、それを乗り切るには否認によって身を守るしかないのです。

こうやって、私達は結局秘密を守ることになり、そこに秘密があるということさえ意識しないのです。

秘密という言葉に後ろ暗い響きを感じる人もいます。

秘密が知られたら、自分があたかも欠陥品のようにみなされ、「人より劣った」者としてみられてしまうと思いこんでいるのです。

そんなふうに信じているとしたら、真実を明かしてありのまま認めるのは難しくなります。

自分が秘密を抱えて生きているかどうか、どうやってわかるのでしょう?

一つの方法は自分にこう聞いてみることです。

「私のことや、家族のことで、人に知られたら怖いと思うことがあるだろうか?

知られたら好きでいてもらえないとか、友達がいなくなるとか、仕事を失うのではと不安になるようなことは?」。

こんな聞き方もあります。

「相手の否定的な反応が怖くて誰にも言えずにいることが、私には何かあるだろうか?」。

もしあなたが特定の情報を漏らすことにこうした怖れを感じるのなら、その情報はあなたの人生を縛っているのです。

●あなたが育った家族の中に存在していた秘密をあげてください。