人間関係の距離感は心地よさのポイント
人間関係の距離感は家族であっても六分くらいがちょうどいい
人間関係の距離感で人間が生き方を間違えるのは、苦しみや怒りのようなマイナスの感情を処理する仕方である。
人間関係の距離感で苦しみへの態度を間違えると、苦しみは解放と救済に通じることはない。
そして苦しい人生を何とか生き抜くためには、常に「なぜ?」という問題意識を持ち続けることである。
「なぜあの人達は、自分と違って、幸せなのだろう」と疑問に思って、その問題を自分の中で突き詰める。
人間関係の距離感で苦しみを乗り越えた人生が幸せな人生で、苦しみのない人生が幸せな人生ではない。
人間関係の距離感で運んだ荷物の「量と距離」という結果は小さくても、努力という過程の点では、蟻の努力が象の努力に勝る。
自分は蟻に生まれたのか、象に生まれたのかを間違えてはいけない。
つまり愛に恵まれた環境に生まれたのか、愛に恵まれない環境に生まれたのかを間違えてはいけない。
そこを間違えると自分の偉大さに気がつかないで、人間関係の距離感で妬みと嫉妬の不幸な生涯を終える。
愛に恵まれた環境で成長した人と、虐待されて成長した人間関係の距離感がない人では、心を見れば同じ人間ではない。
人生に行き詰った人間関係の距離感がない人は、成功した人も失敗した人も、結果ばかりにこだわった。
結果だけを見て、毎日なげいていても、人間関係の距離感では何も起こらない。
「誰も私のことをわかってくれない」とすねているだけでは、何も起こらない。
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本音には節度をもつ
幸せになるのに決定的に重要な人間関係の距離感がないというのは、どういうことだろうか。
あまり親しくない人に、「俺、死にたいよ」といきなり言ったらどうなるか。
親しい人ではないのに、いきなり「あいつ、頭に来た」と言ったらどうなるか。
食べかけのアイスクリームを、「はい、あげる」といきなり言ったらどうなるか。
「親しいことはいいことだ」と言っても、人間関係の距離感がない人は会うのが二回目なのに、いきなり「よう」と言って肩を叩いたらどうなるか。
人間関係の距離によって本音の出し方は違う。
人間関係の距離によっては、建前を出す方が社会性があるということもある。
人と親しくなれないで悩んでいる人は、人間関係の距離感がわからない人である。
別の言い方をすれば、人間関係の距離感がない本音にも節度があることがわからない。
本音はストレートである。
しかし人間関係の距離感がない人は本音が雨であるとすれば、雨で川があふれることがある。
酒に酔って本音を言うのは危ない。
本音は正常なときに言うのがよい。
人間の存在は矛盾している以上、だれにも表と裏がある。
その人の前で、ほどよい人間関係の距離感で自分を出せるなら、その人はリラックスできる人。
そんな人は多くないのは当たり前である。
とげとげの本音、三角の本音、本音にもいろいろな形と色がある。
その繰り返しの中で、人間関係の丸い本音が言えるようになる。
土居健郎氏が「表と裏の精神病理」という論文で、「社会生活を営む上で是非とも必要である適宜な対人的距離を保つことは、表と裏の二本立てないし二段構えができて、はじめて可能であると考えられる」と述べている。
相手の言動で大きな心理的影響を被るのは、その適切な対人的距離感がないということである。
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表と裏がない
同氏は同論文で表と裏がない人間関係の距離感がない人は脆いと述べている。
「したがっていったんストレスが加わると、精神は容易に挫折し、非常な混乱が現出することが想像される」と言う。
人間関係の距離感で表と裏がないとストレスに弱いとは、まさにそのとおりである。
そして表と裏がないと、相手の言うことも表と裏がないものとして受け取ってしまう。
相手の言うことを、人間関係の距離感で相手の言う真剣度の程度において受け取れない。
人間関係の距離感で相手は建前として言っているに過ぎないことを、本音として受け取ってしまう。
つまり人間関係の距離感で真剣に対応しなくていいことと、真剣に対応しなければいけないこととの区別がつかない。
対人的距離がないから相手の言うことが心を直撃してしまう。
よく「夫と話ができない」と悩んでいる妻がいる。
つまり夫はすぐに怒りだして話にならないというのである。
配偶者の単なる愚痴を、単なる愚痴と聞き流せばいいものを聞き流せないで、相手の考え方の基本にまで言及して相手を説諭しようとしたり、ものすごく怒りだしたりする。
相手が建前として尊敬の言葉を言っても、それを本音として受け取ってしまう人間関係の距離感がない人もいる。
学校の先生で自我機能の確立していない人間関係の距離感がない人は、本気で「皆が自分を尊敬している」と思い込んでいたりする。
「この場はこうしておいた方がいい」というような人間関係の距離感がない対処の仕方が理解できない。
心から尊敬されていると思い込んで幸せになっているだけならいいが、逆のことも起きる。
例えば、あまり親しくもないのに、そこまでその人に親切を求めても無理だろうというような親切を、親しくもない人に要求したりする。
人間関係の距離感がない人はそのような要求をして期待がかなえられないと、「自分が断わられた」と思う。
人間関係の距離感がない人は自分は親切にしてもらえなかったと思う。
人間関係の距離感がない人は自分が断わられたのではなくても、「自分が断わられた」と思う。
そんなことを頼めば誰だって断られるというようなことを頼んで、断られると、人間関係の距離感がない人は「自分が断わられた」と思って落ち込んだり、恨んだりする。
長い間の心のふれあいがないのに、人間関係の距離感がない人はそこまでその人に理解を求めても無理だろうというような深い理解を相手に求める。
そのような要求をして期待がかなえられないと、人間関係の距離感がない人は「誰も私のことをわかってくれない」と言う。
人間関係の距離感がない人は自分は理解してもらえないと思う。
断られるのが当たり前である。
誰だって断られる。
ところが、人間関係の距離感がない人は断られたことで悩む。
本音そのものは、悪いわけでもなく善いわけでもない。
本音の善し悪しは相手との人間関係によって決まる。
本音は人間関係の距離によってつかいわけなければいけない。
それでないと相手を傷つける。
人間関係の距離感のわかっている人は、本音を人間関係を深めるために使える。
誰にでも本音を言っていいものではない。
自我の機能が健全であるということは、対人的距離が適切に取れるということである。
対人的距離が取れないということは、二つのことを意味する。
一つは、他人からの被影響性が極めて高いということである。
二つは、気持ちの切り替えが難しいということである。
「気持ちの切り替えが難しい」というのは、その感情に囚われてしまうからである。
大人になった幼児は、「自分は被影響性が極めて高く、感情に囚われてしまう」ということに気がついていない。
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他人との心理的距離の近さ遠さ
親子の役割逆転
あの人とは「遠い距離」とか、「近い距離」とかということが言われる。もちろんこれは心理的距離である。
では物理的な距離ではないとすれば、心理的な遠い距離とはどういうことであろうか。
10年一緒に仕事をしていても、心のふれあいがないままの人もいる。
あるいは血縁関係があっても、心理的な距離が遠い人もいる。
フーベルトゥ・テレンバッハは「身近な人との内的遠さ」という言葉を使っている。
それは相手の心の中に、その人間関係の距離感がない人が気がついていない領域が大きいときである。
そういうときには、コミュニケーションができていない。
あるいはこちらに「自分が気がついていない心の中の領域」が大きいのである。
つまり人間関係の距離感がない人は無意識の領域が大きい。
自分のことがはっきり明確に分かっていない人間関係の距離感がない人は、相手にとってはたまらない。
ことに親子のような近い関係では子どもは神経質になる。
人間関係の距離感がない親が子どもに甘える。
人間関係の距離感がない親は「自分が子どもに甘えている」ということがわかっていない。
イギリスの医学者精神科医、ジョン・ボウルビィの言う「親子の役割逆転」である。
人間関係の距離感がない。これは子どもにとって最も耐えられない関係である。
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「親子の役割逆転」をされたら子どもは神経質になる。
親子ともども「自分が気がついていない領域」が圧倒的に大きい、親子ともども無意識の領域が圧倒的に大きい場合がある。
そういう場合には、親子でも心理的距離は月と地球ほど遠い。
では心理的に近い距離とは、具体的にどういうことであろうか?
それは、相手の気持ちをくみ取れるということである。
相手が何を求めているかがわかるということである。
そういう場合には、お互いに自分に気がついている心の領域が多いし、相手のこともわかっている心の領域が大きいということである。
相手が何を求めているかがわからないというときには、心理的には遠い距離である。
自己執着が強ければ、何年つきあっていても心理的距離は遠い。
人間関係の距離感がない自己執着が強いということは、相手を理解する気持ちがないということである。
人間関係の距離感がない自己執着が強い人は、自分を守ることしかない。
人間関係の距離感がない自分を守るということにしか関心がない。
人間関係の距離感がない人は相手に関心がない。
親子が、お互いの間に「ずれ」がある。
何もかも人間関係がうまくいかない場合には、もう一度鏡を見て、自分の心の中心が相手にあるのか、自分を守ることにあるのかを考えることである。
人は、こうしていろいろとトラブルを起こしながら理解していくのに、すぐに「あー、わかった」と簡単に言う人がいる。
そういう人を人間関係の距離感がない人はいい人と思ってしまう。
現実が深刻でなくても、人間関係の距離感がないその人が深刻と感じることがある。
寝るときに、人間関係の距離感がない人が深刻と感じることは、「これがなんで深刻なのかな?」と普通の人は思う。
人間関係の距離感がない人はヒマラヤやサハラ砂漠やアマゾン川に探検に行かなくても、自分の心の中に探検に行ってみる。
そうすればいろいろなものが見つかる。
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実際の自分を見ていない
「私ばかりつらい目にあう」という人間関係の距離感がない人は、相手を見ていない。
「犬だと思って育てていたら、猫だった」というのでは、猫育てに失敗する。
しかし育てた親の方は苦労している。
猫を猫だと思って育てている親よりも苦労している。
人間関係の距離感がないナルシシストの親の子育ての失敗にはこれが多い。
じっと見れば相手は猫だとわかる。
しかし相手をじっと見ないで、勝手に犬だと思い込む。
人間関係の距離感がない親の方は子どもが犬であってほしいと思っているのである。
犬の方が人間関係の距離感がない親には都合がいいと、親は「この子は犬だ」と思ってしまう。
これは人間関係の距離感がない自分の願望の外化である。
カルト集団の人間関係の距離感がない成員は教祖を見ているのではない。
教祖を通して自分の心の中の願望を見ているのである。
悩んでいる人間関係の距離感がない人は、常に栄光化された自己像の実現に向けて努力してきたかもしれない。
しかし「実際の自分」の可能性を人間関係の距離感がない人は実現することにエネルギーを使っていない。
人間関係の距離感がない人は自分の能力、適性、環境等々、「実際の自分」を見ていない。
人間関係の距離感がない人は現実の自分を見るのではなく、自分の心の必要性にしたがって自分を見る。
つまり人間関係の距離感がない人は自分の心の必要性を外化しているのである。
カレン・ホルナイの「外化」という心理過程の説明に次のような文章が載っている。
「彼が人から称賛してもらう必要があると、人々を自分の称賛者に『変えてしまう』」。
人間関係の距離感がない人は自分のしていることが、どれほど相手に迷惑なことであるかが理解できない。
それは相手と自分とが何の関係もないのだという「人間関係の距離」が、理解できないからである。
相手から見て人間関係の距離感がない自分は赤の他人であるということが、どうしても理解できない。
とにかく深刻に悩んでいる人には、人間関係の距離感が全くない。
人間関係の距離感がない人は自分の悩み以外のことは、何も見えなくなっている。
自分が称賛されたいと願うと、人間関係の距離感がない人は周囲の人を自分の称賛者と見なしてしまう。
人間関係の距離感がない人は相手がけしからんから相手を変えようとする人は多い。
それを執拗に迫るのはやはり神経質な人間関係の距離感がない人であろう。
ある人を「けしからん」と執拗に怒っている人の話を聞いていると、よく次のようなことがある。
単に相手が、自分の心理的必要性を満足させていないというだけのことなのである。
おそらくその神経質な人間関係の距離感がない人に絡まれた人からすれば、とんだ迷惑で「かなわない」であろう。
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自己中心的な人
自己中心性には相互性がない。
自己中心的な人間関係の距離感がない人は、母親との分離はできているが、自分自身の個性化ができていない。
その結果、人間関係の距離感がない人は、人との間に相互性が生じない。
相互性とは、自分以外に中心がいくつもあるということである。
自己中心的な人間関係の距離感がない人は、自分1人が中心で、ほかに中心がない。
人間関係の距離感がない人は自分から見た世界と、相手から見た世界は違うということがわからない。
人間関係の距離感がない人は自分が寒いと、相手も寒いということに関心がいかない。
自分が寒くて何かを着ようとする。
そのときに人間関係の距離感がない人は「相手も寒いから何かを着たいかな」ということに気持ちがいかない。
人間関係の距離感がない人は自分は多くの中の一人であるということが、どうしても理解できない。
だから悩んでいる人間関係の距離感がない人は、自分一人が悩んでいるのである。
自己中心性の反対は、共同体感情である。
「私ばかりつらい目にあう」と嘆いている人間関係の距離感がない人は、自分が何を相手に求めているかに気がついていない。
もともと無理なことを頼んでいるということに気がついていないで、人間関係の距離感がない人は「私は断られた」「僕は拒絶された」となげき悲しんでいる。
このような無理解は、外化による心理的不安定からくるものであるとカレン・ホルナイは言う。
これがまさに自己中心性である。
自己中心性と心理過程としての外化は深く関係している。
カレン・ホルナイは、「その人は自分が相手との関係でどこに立っているかがわからない。
また相手が自分との関係でどこにいるのかもわからない」と言う。
いま話している「手紙を読んでもいいです」というようなことを言う人は、自分は相手にとって何なのかということも理解できていないのである。
人間関係の距離感がない人が「自分がどこに立っているのか」を知らないとはまさにそのとおりである。
人間関係の距離感がない人は社会の中で自分の位置がわからない。
そこで人間関係の距離感がない人は相手に期待し過ぎたり、逆に期待していいことまで期待しなかったりする。
相手からすれば「そこまで言われてもできないよ」と言いたくなるような無理な要求を神経質な人は当たり前のようにしてくる。
頼まれた方からすれば「そんなことはお前の親友に頼んでくれ」とか「そんなことは奥さんと相談してくれ」と言いたくなるようなことを、神経質な人間関係の距離感がない人は行きずりの他人に要求してくる。
そして、人間関係の距離感がない人は自分がいろいろな助けを期待してもいいはずの親とか、友人とか、自分の先生とか、恋人には期待しない。
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人間関係の心地よい距離感の取り方
悩んでいる人は皆自己中心的である
「ねー、先生」といきなり言う。
その後「飲みに行きませんか」となる。
人間関係の距離感がない。
近くない人に何かを訴える話をする。
そして人間関係の距離感がない人は「可哀想ね」と言ってくれることを期待する。
人間関係の距離感がない人はとにかくそう言われることが嬉しい。
愛情飢餓感の強い人である。
人間関係の距離感がない人はその言葉で慰められる。
人間関係の距離感がない人は「可哀想ね」と言ってほしい欲求で、他人との距離が見えない。
人間関係の距離感がない人は、相手を引きずり込む。
ナルシシストがそうである。
人間関係の距離感がない人は自分が相手を好きになると、相手も自分を好きだと思い込むのがナルシシストである。
こちらが見知らぬ人でも、相手が一方的に「あなたと私の関係はこうです」と決めてくる。
これが人間関係の距離感がない人はナルシシストである。
人間関係の距離感がない人は初めての人に「あーら、元気?」と言ってしまう。
人間関係の距離感がない人はそういう関係に相手をしてしまう。
悩んでいる人間関係の距離感がない人は、相手が自分との関係に納得していないということが理解できない。
悩みを解決する基本原則の一つは、関係を見つめることだと思っている。
自分と相手との関係はどういうものであるかを意識することだと思っている。
自分と相手との関係を自覚するということは、あくまでも相手が「いる」のである。
関係とは、あくまでも相手と自分との関係である。
自分一人では関係は決められない。
相手と関係しようとすれば、どうしても相手のことを考えなければならない。
そこで自己中心性を脱却する機会が得られる。
「悩んでいる人は皆自己中心的である」という。
関係を見つめることで自己中心性を脱却するチャンスが生まれてくる。
人間関係の距離感がない人はナルシシストは褒められても自信につながらない。
人間関係の距離感がない人は相手に関心がないから。
素敵な人に愛を誓われても自信にならない。
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親しい態度に違和感があるかないか
「あの人はけしからん、この人には真心がない、その人は誠実ではない」と言うのだが、それらの人間関係の距離感がない人は自分の悩みとは何の関係もないということが、どうしても悩んでいる人には理解できない。
つまり「私ばかりつらい目にあう」と悩んでいる人間関係の距離感がない人は、周囲の人が「私の母親」ではないということが許せないのである。
心の病んだ人は心の病んだ人と近くなる、心の病んだ人は心の病んだ人と関係する、というのはお互いの関係の取り方に違和感がないからである。
心理的に健康な人なら、今までの関係からすると「そんなこと私に相談されても」という違和感が出る。
しかし心の病んだ人間関係の距離感がない人は、客観的にはまだ親しくない関係でも、「親しい態度」に違和感がないから、その関係を続けられる。
心理的に健康な人からすると「たかがまだ〇〇なのに」という人間関係の距離でも、心の病んだ人は「たかがまだ〇〇なのに」とは感じない。
心の病んだ人と心理的に健康な人との違いは、それまでの人生での自然なコミュニケーションの体験の違いである。
自然なコミュニケーションの中で成長した人は、急に親しくなったりすることはあまりない。
自然なコミュニケーションの中で成長した人は、何事にも「時間をかける」。
よく自分が変われば相手も変わると言われる。
実際にそのように相手が変わる場合もあるだろうが、実は相手は何も変わっていないということも多い。
相手が変わるという場合にも2種類ある。
一つはこちらが実際に変わることで、相手も実際に変わる。
次には、実際には相手が変わっていない。
それなら何も変わっていないのになぜ「変わった」と思うのか。
それは人間関係の距離感がない人は自分の側が心理的な外化をやめたことで、同じ人間が違って見えるということである。
実は元々はじめからその人を見ながら、その人を見ていなかったのである。
自分の心の必要性を相手に外化していた。
こちらが相手と思っていた人は、実際の相手ではない。
人間関係の距離感がない人は単に相手を通して自分の心の中の願望や必要性を見ていたにすぎない。
「変わった」というのは、相手を通して自分の心の中を見ていた人が、実際の相手を見ただけの話である。
今まではそれを同じものと思っていた。
これが、自分が変われば相手も変わるということである。
自分の心の中を見ているのに、相手を見ていると思い込んでいる人の何と多いことか。
これが人間関係の距離感がない人である。