原始人メカニズムが抱かせる、警戒心と敵意
まさか、とあなたは思うかもしれない。
では今度は、頭の中を、とあるセミナーの会場にしてみてほしい。
あなたは有能な企業戦士で、専門家としてそのセミナーの講師をお願いされた。
何日もかけて用意したスライドを使って、時にジョークを交えながら、50人の聴衆に対して、上手く話すことができた。
我ながら会心の出来。
その場にいた50人中48人が「とても良かった、内容に満足」とアンケートに回答してくれた。
ところが、中に2人だけ「セミナーの内容に不満足」と答えた人がいた。
「え?どういうことだろう?」。
あなたは、その2人が気になって仕方がない。
どんな人かを必死に思い出したり、アンケートの内容をしつこいほど読み返した。
48人が満足したのだから、セミナーは客観的にも成功だったのだ。
なのに、どうしてこの2人がこんなに気になるのだろう。
もう少し身近な例も挙げよう。
後輩が社内での打ち合わせに遅刻してきた。
あなたは、一言軽く注意した。
その後輩は「すみません」と言いつつも、明らかに不服そうだった。
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打ち合わせは無事に済んだ。
でも、あなたは、後輩の態度が引っかかる。
そういえば、あの後輩は、普段からルーズなところがある。
「次回、何かあったら、その時こそ、ガツンと言ってやらなければ」。
そう考えて、後輩の言動をついチェックしてしまう・・・。
これこそが、「原始人メカニズム」である。
私たちは、「あの人は、自分を嫌っているのではないか」「悪意を持たれているのではないか」と思ったら、理屈抜きに、その人に注意が集中してしまう。
なぜなら、原始人の世界では、自分を脅かす人は「殺しにくるかもしれない人」だからだ。
50人中の2人は、客観的に理解すると、「自分のニーズに、セミナーの内容があっていなかった」だけの人だ。
ところが、原始人的感覚だと、「自分の敵」に位置付けられる。
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敵は自分を殺すかもしれない存在。
だからその真意、行動、背景が気になる・・・。
一方48人の大多数は、原始人的にはあなたの味方。
自分を殺す可能性のない人なので、それほど注意を向けなくてもいい。
ビジネスで考えれば、当然これから顧客となりお付き合いをする可能性が高い48人のほうを、もっと注目しなければならないのに、現実は2人が気になって仕方がない。
打ち合わせに遅刻してきた後輩の件だって、明らかに立場が強いのはあなたのほうだ。
なのに、対人関係スキルが未熟で少し不満なそぶりを隠せなかっただけの後輩に対し、あなたは過剰な警戒と敵意を持ってしまっている。
これまたビジネスでいえば、あなたはチームワークを保つ立場にいるはずなのに、それができていない。
このように人は、理想どおりに反応しないのだ。
人は人が怖い。
スーツを着ていても、私たちの中身は、原始人そのものなのである。
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ネットが「原始人メカニズム」に与えた三つの影響
「原始人メカニズム」により立ち上がる、人への恐怖感。
これに、さらなる影響を及ぼしているのが、インターネットだ。
私たちの中にある「原始人メカニズム」の、どの部分が、どのように現代人のマインドに影響しているのだろう。
三つのことが挙げられる。
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ネットの影響1:原始人は「回数と時間」で物事を決める→偏った見方が強化されてしまう
「原始人メカニズム」では、「理屈」よりも「回数・時間」で、物事が決まっていく。
どういうことか。
再び、頭を原始人時代に戻してほしい。
そこには、本やテレビがあるわけでもない。
飲み水のありか、洞窟の状態、森に猛獣がいるかいないか・・・など、安全や生存に関わる情報のすべては、直接見聞きするか、口伝えである。
その情報が確かで一貫性のあるものかどうかは、「回数と時間」が決める。
例えばある水を飲んで1人が死んだとする。
しかし、貴重な水源のことを、簡単にあきらめることはできず、その後もその水を飲む人は出てくる。
そうやって飲んだ人の中から、また2人の死者が出たとする。
合計で3人だ。
そこで初めて「その水は飲まないでおこう」とあきらめることになる。
また、例えば、ある洞窟の周辺にはかつてクマが出たという目撃情報があったとする。
でも、ある日、思い切って洞窟周辺の果実を採取に出た人たちがいたが、クマには遭遇しなかった。
次の日も、その次の日も、またその次の日もクマは現れない。
「洞窟の周りの果実を女子どもで採りに行っても大丈夫そうだ」とわかる。
このように、原始人の心はある情報の「回数」や、その情報に触れている「時間」に大きな影響を受けるのだ。
ネット社会になって、この「原始人のクセ」が大いに刺激されている。
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インターネットの情報は、無尽蔵だ。
関心のあるテーマを、その気になれば、1日中検索して閲覧することができる。
これが新聞や雑誌、テレビならば、記事の大きさや放映時間、報道される回数などで、客観的な重要度を推し量ることができるし、そもそも紙の媒体には、スペースや字数の制限がある。
しかし、ネットには制限がない。
比較的近くで発生した凶悪事件のことをネットで調べた人のことだ。
犯人は現場で逮捕されている。
地元にまつわることなので、沢山のキーワードを思いついてしまう。
検索を続けていると気になる関連情報がどんどん出てくる。
気が付いたら夜中過ぎまで、その事件の情報に触れていた。
原始人的感覚では「回数と時間」で物事が決まる。
事件の関連テーマに触れ続けているうち、いつのまにか「犯人はあそこに住み、あのあたりによく出没していたのだ」「こんな兆候に気を付けなければならない」という思いに頭が支配され、不安と緊張で眠れなくなってしまうということが起こった。
すでに犯人はその町にはいないのに原始人的警戒が立ち上がってしまったのだ。
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ネットの影響2:原始人は「口コミや本音に重きをおく」→ネガティブ情報にのせられやすい
先の凶悪事件に関するネットサーフィンの例でもそうだが、原始人は危険な臭いのする情報からは、どうしても目が離せなくなる。
特に特定の相手に「敵意」がありそうな場合は、あの行動の本心はどうなのか、何を考えているのか、どう感じているのか、などの「相手の内面に関する情報(いわゆるホンネ情報)」に、強い関心を抱く。
人は人を暗黙のうちに恐れ警戒しており、そのためどんな人に対しても、その内面情報に関心がある。
だからテレビなどで誰か、例えば政治家が顔を真っ赤にして怒っていたり、不祥事を起こした芸能人が記者会見で涙を流したりすると、思わず目を奪われてしまう。
喜怒哀楽がはっきり示されると、その人の本音情報が読み取れるからだ。
商品のコマーシャルなどで「クチコミ」や「個人の体験談」に説得力があるのも、こうした背景がある。
口コミや個人の体験談には本音情報があると思うのだ。
インターネットの世界には、この口コミ系の情報が溢れている。
商品比較サイトだけでなく、SNSで個人がさまざまに自分の意見、感情、価値観を発信している。
ネットの口コミ情報が強烈な拡散力を持つのは周知の通りだ。
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さらに、「自分が攻撃されるのではないか」「危険な目に遭うのではないか」という危惧が根底にある場合は、ネガティブな情報ほど、伝達力を持ってしまう。
すると前述した「回数と時間」の効果も加わり、「人は危険だ」「社会は危険だ」という雰囲気が広がりやすい。
東日本大震災と福島第一原発事故の後に起こった、放射能パニックは、その一例として挙げられるだろう。
ネットの影響3:原始人は「期待と比較」で危険回避→自分を憐れんでしまう傾向に
最近すっかり定着したフェイスブックやLINE、インスタグラムなどのSNSも、現代人の心の疲れに拍車をかける要因の一つだ。
原始人メカニズムには「期待と比較」というプログラムが備わっている。
SNSは、このプログラムを過剰に刺激してしまう面を持っている。
原始人のあなたが、仲間と一緒に狩りに出て、奮闘の末、大きな獲物をとらえたとしよう。
あなたは、自ら猛獣の前に出ておとりになり、それが功を奏して捕獲に成功した。
仲間うちで肉が振る舞われる時、あなたは何を思うだろうか。
まず、「他の人よりも危険を冒して成果があったのだから、その分報酬は多くてもいい」という「期待」だ。
でも、実際に肉が分けられたら、特に多いわけではなかった。
それどころか、他の人の取り分をチェックしていたら、なんと他の人のほうが大きい。
「自分の分け前はあいつと比べて少ないじゃないか」と腹が立つ。
これが「比較」である。
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集団で生きることを選択した原始人にとって、命がけの作業への正当な見返りを確保する「期待と比較」というプログラムは、まさに、生きるためになくてはならない機能だったのだ。
命がけの作業をすることもなく、食料に困らなくなった現代人でも、この「期待と比較」は、しっかり機能してしまう。
それも、例のごとく命がけレベルのこだわりで。
例えば、毎日頑張っている自分に対しては、これぐらいの報酬で、この程度の生活を送りたいという「期待」がある。
ところが、SNSで友人が「おしゃれなレストランで食事中」といった写真をアップしているのを見ただけで、友人と自分の生活を「比較」して、気持ちが暗くなってしまう。
自分の理想(期待)の生活と現実とのギャップを、友人と比較することで強く感じて落ち込んでしまうのだ。
そして、頑張っても報われていない哀れな自分というように、「自分を憐れむ」感情を持ちやすい。
さらに、そんなことで落ち込んでいる自分自身の心にダメ出しする気持ちも働き、その結果、ますます心が疲れてしまうのだ。
SNSはみんなやっているし、楽しいから、と軽く考えがちではある。
しかし、他愛ない投稿であっても、「回数と時間」が積み上がれば説得力を持ち、ますます他人の「口コミ系情報」から目を話せなくなってしまう。
カウンセラーは立場から、クライアントがうつ状態にある時や疲労が強い時は、SNSからは意識的に離れることを強くおすすめしている。