人間は本来、一人ぼっちである
青年期になって、この世のあらゆる存在、もちろん児童期までは心理的に一体化していた両親からも切り離された固有な存在としての自分を発見することは、強烈な孤独感を生じさせます。
自分の内的世界ができはじめ、親の分身として動くロボットではなく、独自な人間としての生き方を模索するとき、親をはじめとする大人によってつくられてきた過去の自分から脱皮しようとあがき、もう大人から干渉されたくないという意識を強くもつようになります。
こうして、しだいに自己を閉ざしていきます。
しかし、同時に、この孤独な課題に取り組んでいる自分の気持ちを誰かに分かってほしい、支えてほしいという意識もしだいに強まっていきます。
生まれ直すことに伴う孤独や不安をやわらげ、一緒になって悩んでくれる身近な存在を必要とするのです。
そこで求められるのは、数多くの遊び友達でも、学業・仕事上のライバルでもなく、自分の内面で起こっていることを何でも話し合えるたった一人の、あるいは何人かの親友です。
でも、不安と動揺のなかで自己評価がぐらついているため、他人に心の中をのぞかれることに非常に過敏になり、素直に心を開くことに対しては過度に慎重になりがちです。
それゆえに、孤独感にさいなまれ、理解者を切に求めていながら、他者を拒絶し、容易に近づけないという姿勢をとったりするのです。
素直に心を開きにくい理由に、相手の反応に対する不安があります。
学生の多くは、「相手が興味をもって聞いてくれるかどうかわからないから」「相手も同じように感じたり考えたりしているかどうかわからないから」、なかなか自己を開きにくいといいます。
反対に、親友に何でも話せるようになったきっかけとして、「相手も自分と同じような気持ちをもっていることがわかった」ことをあげる者がたくさんいました。
たとえば、ある学生はつぎのように話しています。
「先生の授業で、自己を誰に、どの程度開いているかというテーマに接して、ちょっと自分を振り返ってみたのがきっかけでした。
自分の悩みについても、性格についても、将来就きたい職業についても、勉強に関することも、自分のどんな面も一番よく知っているのは母親だったのです。
青年期には自己を開く主な対象が母親から親友に、やがては恋人に移行していくということですが、私の中では依然として母親が圧倒的な地位を占めていたのです。
これではいけないって思って、冗談や楽しい話だけでなく、悩みや真剣なことも友達に思い切って話してみました。
母親に話す場合と違って、どんな反応が返ってくるかと不安でした。
そんなつまらない話はやめましょう、といった反応が返ってきたらもう立ち直れません。
でも、その友達も同じような悩みをもっていることがわかって安心しました。
それからわかったことですが、いつも明るくふざけているような友達でも、けっこう私と同じような真剣な思いや深刻な悩みをもっていたりするんです。
考えてみれば、同じ歳で同じような境遇にあるのですから、親より友達のほうが自分と似た思いを抱えていて当然ですよね」
いずれにしても、親離れすることでこの世に一人切り離された存在としての自分を強烈に意識することによって、同世代の仲間との強い絆が求められ、つくられていくのです。
十代を対象とした専門機関の調査によると、「人間は本来、一人ぼっちだと思う」とか「結局人間は一人で生きるように運命づけられていると思う」と感じるという者は、年齢の上昇とともに増えていきます。
そして、孤独を知ることによって、同じ立場の仲間を、支え合い励まし合って共に生きる仲間を激しく求めるようになるのです。
他人の前に自分を投げだせるか
人間は最終的には一人だという個別性の自覚による孤独感を究極までつきつめていくと、この世に生まれたことの寂しさ、生の原点からしだいに離れていかざるをえないことの寂しさに行き着くのではないでしょうか。
いわゆる胎内回帰願望を生じさせるのも、この種の孤独感なのではないでしょうか。
孤独で弱い存在だからこそ、人は親密な絆を求めるのです。
心理的離乳ができず、親との一体感の幻想から脱却できないために孤独を意識せずにいる者は、同世代の仲間に自分を投げ出すことができません。
と同時に、自分の人生の第一歩を踏み出すこともできません。