学校が自己価値感をおびやかす

自己価値感を奪う学校

子どもたちの自己有能感を育てるべき学校もまた、自己価値感を低減する作用を果たしています。

このために、子どもたちの自己価値感は、小、中、高校と学校生活が長くなるほど低下する傾向があります。

米国でのある調査によれば、小学校入学時には80%の子どもが高い自尊心を持っていたのですが、5年生では20%に落ち、高校卒業後ではたった5%しかいなかったということです。

また、全米大学女性協会の報告(1991年)によれば、「いまの自分に満足している」と回答した比率は、九歳女子で67%、男子で60%ですが、高校生になると、女子29%、男子46%に減少してしまいます(グロリア・スタイネム著 道下匡子訳『ほんとうの自分を求めて―自尊心と愛の革命』中央公論社 1994年)。

日本の調査でも、この傾向はほぼ一貫して示されています。

そればかりではなく、先の国際比較調査で成績は良くても自己価値感が低いということに示されたように、とりわけ日本では、成績が良くても自己価値感が育たないのが特徴的なのです。

学生相談に携わるカウンセラーは、偏差値の高い大学ほど精神的疾患を持つ学生の比率が高いといいます。

偏差値の高い学生とは、それまで学校という制度によく適応してきた子たちです。

そうした精神的疾患は、多かれ少なかれ自己無価値感と関係しています。

ですから、このこともまた、学校が自己無価値感をもたらすことを示唆しているといえます。

学校は子どもを仕事と社会へ向けて準備させる機関です。

まじめにがんばれば、相応のことができるというしっかりした自己価値感を与えるべきところです。

ところが逆に、成績の良い子どもにさえ、学校は自己価値感を低下させてしまう機能を果たしている可能性があるのです。

なぜ、学校が不利に働くのか

1.学校は服従を強いる

それでは、なぜ学校が子どもの自己価値感に不利に働くのでしょうか。

じつは、そもそも学校という制度が、自己無価値感をもたらしやすい性質を含んでいるのです。

その一つは、学校が画一化への服従を求めることです。

学校制度は、そもそも子どもの要求に基づいて作られたものではありません。

わが国では富国強兵策の一環として、国家的見地、社会的な必要性から始められたものです。

ですから、学校では子どもの内的欲求によって活動が決められるのではなく、学校教育の目的を達成するために必要とされるあらかじめ決められた活動をおこなうことになります。

すなわち、「英数国理社音美体」など教科の学習と、学級活動や全校活動など教科外の活動です。

しかも、これらをつねに集団的な規律に従っておこなわなければなりません。

子どもの側からすれば、学校とは自分を抑制して、こうした要請に服従しなければならない場所なのです。

決まった時間に登校し、決められた時間割に従って、決められた内容を学習しなければならないのです。

違反すると、辱められ、叱られ、罰せられ、それでも反抗すれば、親まで巻き込んで屈服を迫られます。

とりわけ日本の学校では、行動の抑制や禁止事項が多数あります。

服装、髪型、髪の色から、装飾品やカバンにいたるまで、さまざまな規制が加えられます。

こうした規制、画一化の最たるものは、じつは時間割なのです。

時間割とは、すべての子どもの関心を時間区切りで次々と強制的に移行させるものです。

個々の子どもの関心や思い、感情、欲求などを切り捨てる制度なのです。

このように大勢のなかで画一化を求められ、外的強制への服従を強いられるので、子どもたちは自分に価値を実感することが困難です。

自分を抑えて服従せざるを得ないことで、無力感や無価値感覚を持たざるを得ないのです。

2.学校は無意味さの受け入れを強要する

学校でおこなう諸活動は、学習指導要領により大枠を定められています。

子どもたちが希望したから実施するというものではありません。

そのために、子どもたちには意義がわからず、興味を持てない多くの内容を学ばなければなりません。

漢字の筆順、小数のかけ算や割り算、分数のかけ算や割り算、素数、根、三角関数、歴史における年号、体育の跳び箱、逆上がりなどなど。

また、学習においては、言葉だけに終わることが大部分です。

たとえば、「鎌倉幕府が開かれた年号」を答えられても、「幕府が開かれたとは具体的にはどのようなことなのか」を知りません。

いや、そもそも「幕府とは何か」がわかりません。

これでは学習は自信に結びつきません。

学んだことで自分が一歩成長したという実感は、なんらかの実体験と結びついていなければ得られないものなのです。

具体的に何かを操作したり、実際に作り上げたり、ワクワクするような感情をともなったり、なるほどと納得するような体験がなければなりません。

そうでなければ、ただ無意味さを学ばせられる自分という感覚を持たされるだけです。

意味のわからない徒労という努力を強いられる無価値な自分という感覚を強めるだけです。

学校は競争を強いる場所

学校では、同じことを同じ時間で達成することが求められます。

このために、いやでも優劣が明確になり、その上、達成が評価されるので、競争的色彩が濃くなります。

日本では、偏差値による確固とした高校間格差が存在します。

このために、比較的優劣への敏感さを持たない子どもでも、高校へと進学する段階で、自分の優劣上の位置をいやというほど意識させられます。

競争では大多数が負け組にならざるを得ません。

なぜなら、どんなにがんばってもトップの人以外は、自分の上にだれかがいることになるからです。

また、たとえクラスでトップになっても、学校全体ではさらにその上の人がいます。

学校でトップでも、他校にはさらにその上の人がいます。

だから、競争とは、今の自分に満足することを大多数の人に許さないシステムなのであり、すべての人にとっての自己価値感を脅かす関係のあり方なのです。

自分より上の者に対する劣等感と、下の者に対する優越感の混在という形での、いびつな自己価値感を形成させる制度なのです。

4.学校ではその他大勢であること

新入学時に、たった一人で見ず知らずの者のなかに投げ込まれた心細さ。

同級生がちょっとこわそうに感じられたり、妙に大人びて感じられたりします。

家では親の関心と愛が自分だけに注がれてきましたが、教師の関心と愛はクラスのみんなに分散しています。

制服という同じ服を着せられ、ときには名前でなく番号で呼ばれることさえあります。

自分が尊重されているという感覚を得にくい場なのです。

学校では、つねに集団のなかの自分であり、その他大勢としての自分です。

そのなかで目立った活躍ができなければ、自己価値感は薄められてしまいます。

こうしたことから、大規模校であるだけで、学校は子どもの無価値感を強化してしまう作用をするのです。

仲間関係の希薄化

友人関係が築かれ、学校になれると、しだいに自分を発揮できるようになります。

友だちとの関係のなかで、自己無価値感を獲得する多くの機会に出会うようになります。

自己価値感への学校の否定的な影響に抗して、子どもたちはその影響のない時間と場所で、自己価値感を獲得してきたものです。

その一つは、自分たちの主体性による部活動や生徒会活動、学級活動でした。

ここでは、もっぱら教師に服従する生徒ではなく、自分たちで活動のルールを作り、リーダーシップをとりあいます。

とりわけ、部活の運営と、部活のなかで形成される能力の高まり、この両者によって生徒たちは大人へと成長しつつある自分を感じ、自信を獲得してきました。

二つめは、休み時間や放課後、さらに学校内外での友達との付き合いです。

とりわけ、先輩を交えての交流は、自分を一歩越えたかのような自信を与えてくれます。

年長のガキ大将に率いられた集団のなかで、小さい子どもたちは、年長の子どもの力を自分の力の延長として感じることができるのです。

さらにいえば、しばしば、こうした遊びや活動は、学校から禁止されたり、社会的批判を浴びるようなものなので、それだけにまた子どもたちは、自分の世界の枠を越え、自分の力を体感し、自信を獲得してきたのです。

子どもたちの仲間集団は、学校と大人という圧倒的な力で迫る社会に対する自分たちの無力感をはね返す機能を持っていたのです。

ところが現在、子どもたちの仲間関係は希薄になり、集団としての力を自らの力として実感する機会が少なくなりました。

子どもたちは、自分一人の力で学校や社会の圧倒的な力に対抗せねばならず、それゆえに、自分の力への確信が獲得しにくい状況にあります。

仮面性の強まり

人間関係の希薄化にとどまりません。

いじめなど、その子の自己価値感を徹底的に破壊するような行動も頻発するようになりました。

ある中学生の女子は次のように語っています。

「放課後同じクラスの子、4人でしゃべってたとき、4人とも自分のことを二重人格だと思うって言った。

学校の門をくぐるとそこから『えんぎ』がはじまるって。

ヨーイ、スタートでパッと表情をかえて学校用に顔を作るって。

家にいる自分と学校にいる自分は全然ちがう」(進研ゼミ中学講座編『学校で起こっていること―中学生たちが語る、いじめの「ホント」』ベネッセコーポレーション 1997年)。

たしかに学校は、むかしから楽しい反面つらいところでもありました。

少なからず傷つけられる場所でもありました。

しかし、現在の学校は、この性質を極度に強めており、子どもたちにとってむかし以上につらい場所になっています。

傷つくことを恐れ、素直な自分を抑え、演技により適応すべき場となってしまっています。

こうした状態では、いくら上手に適応できるようになっても、自己価値感の強化にはつながりません。

逆に、演技によってうまく適応すればするほど、本来の自分を生きていないという自分の弱さや欺瞞性を実感させられ、無価値感を強めてしまうことになります。

自己価値感を高める学校に

わが国において、子どもや学校のいろいろな問題が指摘されていますが、そうした諸問題の解決と、自己価値感をもたらす学校にかえていくこととは別のものではありません。

たとえば女性活動家のスタイネムは、カリフォルニア州議会が設置した自尊心(=自己価値感)についての特別調査委員会の紹介をしています。

この調査委員会の報告書では、自己価値感が「犯罪と暴力、アルコールの弊害、薬の弊害、十代の妊娠、子どもと配偶者の虐待、長期の福祉依存、学校での成績不良」すべての領域で原因として考えられる第一の要因であった、と結論しているというのです。

そして、その後、実際に自己価値感を高めるプログラムを実施して、その影響を調べていますが、その効果は驚くほどでありました。

十代少女の望まない妊娠は、三年間で145件から20件に減り、生徒の非行は75%も減少しました。

退職したいという教師の数は、一年のうちに45%から5%に減少しました。

それでは、いかにすれば、学校が自己価値感を高める組織に変わるのでしょうか。

学校が肯定的機能をいっそう発揮するためには、次のような点を強化する必要があります。

1.自発性の感覚が持てるように工夫すること

学校とは、一定の年齢になると強制的に全員を特定の場所に収容して、国策に沿う人格的改造をはかる精度です。

そうした意味で、刺激的な表現を使えば、子どもの徴兵制度とでもいうべきものです。

学校に行くのは当たり前。

大多数の人が持つこの暗黙のルールにより、学校の強制的性格は、秘匿されています。

しかし、多くの子どもたちは感覚的にこのことを感じています。

この被強制感を越えて、主体的に取り組んでいるという実感を子どもたちに持たせることが求められます。

そのためには、教える内容を精選し、わかる授業を創造し、参加型の授業を追求することです。

そうした点で、総合的学習の時間の可能性は大きいのです。

また、学級活動において、主体的・自治的活動の仕方を教え、子ども自らの自主的活動を豊富に取り入れることです。

2.競争でなく、協同を基本とすること

健全な自己価値感は、競争で他者に勝つことから生まれるものではありません。

「わかった!」「できるようになった!」という嬉しさ、やり遂げることができたという達成感、新しい世界を経験したという高揚感。

みんなと協力し、みんなの役に立つことができたという喜び。

みんなとの連帯感や、仲間から評価される嬉しさ。

そして、何よりも、努力し続ける過程で、自分が成長しているという実感。

こうしたことが自己価値感を育てるのです。

社会に出れば競争。

だから、学校では競争に勝ち抜く力を育てることが必要という主張がなされますが、これは間違いです。

社会は競争ではなく、協同(協働)こそ基本です。

自分の職場を振り返ってみていただきたい。

同僚とは競争関係ですか?

協力しあって働いているではありませんか。

地域は競争関係ですか?

自治会役員を順番にやったり、一斉清掃をみんなでやったり、お祭りをみんなで盛り上げたり、まさに協同ではありませんか。

企業と企業との間など、組織間の競争はあります。

しかし、そのなかで働く一人ひとりに求められるのは、お互いに協力する姿勢です。

個人にとっては、学校や会社に入るほんの入り口のみが競争であるに過ぎないのであって、不断の競争などではありません。

競争する力よりも、協同して働ける力をこそ学校教育は育てることが求められます。

「社会に出れば競争」という意識そのものを改める必要があります。

にもかかわらず、学校でもっと競争させるべきだと、主張する人がいます。

そうした主張をする人は、他の人をもっぱら敵としか見ない強固な競争意識が染みついてしまった人です。

他の人を蹴落としても、自らを高い位置に置こうとする意識に固まった人です。

3.仲間関係を構築すること

基本を競争ではなく、協同に置くこと。

すなわち、支え合い、協力し合うことで為し遂げられる活動を豊富におこなうこと。

こうしたなかで、学校での人間関係が深まり、共感し合う仲間としての関係が強固になります。

仲間としての力を発揮することで、一人ひとりの子どもが、仲間の力と自分の力を実感できます。

たとえば、自分たちでやり遂げた大規模な学校祭、その中心を担ったのは役員だとしても、その後夜祭では参加者一人ひとりが祭事の成功を自分たちの力によるものとして感動することができます。

4.一人ひとりが大事にされているという感覚を与えること

学校や教師が主役になるのではなく、子ども一人ひとりが主役となるように学校を組織し、活動することです。

日本の教師たちは、生活綴り方運動、生活教育運動、学級集団づくり、全校集団づくりなど、他国には見られない優れた実践を蓄積してきました。

この蓄積をいっそう発展させる条件整備をこそ、教育行政はおこなうべきです。

このために、少人数学級を求めることは必然です。

ゆとり教育を求めることは必然です。

他の先進諸国並みにGDPに対する公教育費の割合を上げるべきです。

これをするだけでいじめや不登校など学校での問題のかなりの部分は解決されるでしょう。

しかし、現在、政府や地方教育行政はこれに逆行する方向に動きつつあることは誠に憂うべきであります。