友達付き合いに疲れる人の心理

友達付き合いに疲れるとは

友達と遊ぶのは楽しいけど、なぜか疲れる

学校で馴染みの友達としゃべったり遊んだりするのは楽しいがなぜか疲れる。
入学したばかりの頃や、クラス替えした直後など、休み時間に気軽に声をかけ合える友達がいないときは、なんだか居場所のない感じがして落ち着かない。

けっして人間嫌いなわけではない。
いや、むしろ何でも話せる親しい友達がほしいと思っている。
実際、友達と話していると、楽しくて時を忘れることさえある。

それなのに、学校からの帰り道、一緒の方向に帰る友達とおしゃべりで盛り上がった後、別れて一人になると、なぜかホッとする自分がいる。
ドッと疲れが出たりする。
そんなとき、自分は楽しくしゃべっているつもりでも、人と一緒にいると、どこか無理をしてるんだなあと気付く。

「それ、すごくわかる!」
「そういう感じ、自分にもある」
というひとがけっこう多いのではないだろうか。

それほど親しいわけではない友達と学校の行き帰りに一緒になったりすると、何をしゃべろうかと必死になって考えながら、何とか沈黙を埋めようとする。

そんなふうだから、人と一緒にいるとけっこう気疲れする。

自分は人付き合いにものすごく気をつかうから疲れるんだなと、その頃から漠然と感じる。

だから、それほど気を遣わずに誰とでも気軽に話せる友達をみると、とても羨ましく思ってしまう。

人の言葉や態度に過敏に反応する自分

学校でおしゃべりをしているときは楽しいのに、なぜそんなに疲れが溜まるのだろう。

そう思って、友達と一緒の場面を振り返ってみると、じつは無意識のうちに友達の反応をとても気にしている自分がいることに気付く。

友達が口にする言葉や口調。
表情や仕草。
何気なく見せる態度。
そういったものに非常に過敏になっており、常に相手の顔色をうかがっている。

自分が何か言う度に、
「今の発言、大丈夫かな」
「嫌な感じを与えてないかな」
などと、相手の反応を気にする。
ちょっと様子がおかしいと感じると、
「気分を害したのではないか」
「傷つけちゃったかも」
と気になってしまう。
相手のちょっとした言葉や態度にビクっとする。

そんな経験を始終しているものだから、傷つけないようにしなければ、反感をもたれないように気をつけなければと思うあまり、気軽に話しかけることができない。

友達の様子が気になるのは、傷つけないようにとか反感をもたれないようにと思うからだけではない。
自分の話がつまらないのではないか、相手は退屈しているのではないかといった不安もある。

いつもみんなの輪の中心になっている人気者の友達は、そんな不安を感じることなどないのだろうが、話術に長けているわけではなく、どちらかというと内気で口下手なため、自分といても楽しくないのではないかと思ってしまう。

とくに二人っきりでしゃべっているときなど、「つまらないヤツって思われてないかな」「うんざりしてないかな」
と気になってしまい、場を盛り上げようと、ついウケ狙いの言葉を発する。

そんなふうだから、僕は、けっして孤立していたわけではないし、つるむ友達もいたものの、友達とのおしゃべりを心から楽しむ余裕などなかった。

楽しいのは事実なのだが、たえず気を遣うことで神経をすり減らしていた。

友達をを傷つけないように、友達の反感を買わないようにと気を遣うだけでなく、友達の期待に応えようと無理して合わせてばかりで、「こんなのが友人関係なのだろうか」と苛立ったり、絶望的な気持ちになったりすると、心の中の葛藤を吐露する人もいる。

幼い頃から思いやりをもつようにと言われてきたせいか、心の中には、相手をガッカリさせたくない、相手を傷つけてはいけない、相手の期待に応えなければ、といった思いが強く刻まれている。

それはもちろん悪いことではないし、望ましいことのはずなのだが、それにとらわれすぎることが生きづらさにつながっていく。

無神経な友達にハラハラしたり、苛立ったり

友達や自分の言動にアンテナを貼り過ぎて疲れてしまう。
このように、神経過敏ゆえになかなか思うことをはっきり言えず、何か言った後も相手の反応が気になって仕方がないという人に対して、よく言われるのが「そんなの気にしすぎだよ」「気にするな」といったアドバイスだ。

でも、「気にし過ぎだ」「気にするな」と言われて気にしないようになれるなら、だれも苦労はしない。
気にしない方が楽だと頭ではわかっていても、どうしても気になってしまう。
だから疲れるのだ。

このように神経過敏で相手の反応を過度に気にするタイプは、気にせずにはいられない自分を持て余すだけでなく、気にしない人、言ってみれば無神経な人に対する違和感を抱えている。

周囲の反応をあまり気にせずにものを言う人物は、一緒にいる友達がきにしそうなことも平気で言うため、その友達の反応が気になり、
「今の発言、大丈夫かな。傷ついたんじゃないかな」とハラハラしたり、
「なんて無神経なことを言うんだ。もう少し気をつかえよ」
とイライラしたりする。

気にしないタイプと一緒にいると、どうしてあんなことを平気で言うんだ、何であんな失礼な態度がとれるんだ、と反発を感じることが多い。
相手の気持ちを考えずに言いたいことを言う自己中心的な態度に呆れる。

それでわかるのは、神経過敏で人に気を遣いすぎて疲れるタイプは、気にしなければ楽なことはわかっていても、気にしない自分になろうなどとは思っていない、ということだ。
むしろ、「あんな無神経な人間にはなりたくない」と思っている。

では、どうしたらよいのか。

友達付き合いに疲れる心理

「間がもたない」という感覚

学生の悩みで多いのは、やはり友達付き合いに疲れるという人間関係がうまくいかないというものだ。

アルバイト先での悩みを抱えてやってきた学生がいた。
せっかく慣れてきたアルバイトをやめようか続けようか迷っているという。

だが、そこでの仕事自体に不満があるわけではない。

仕事中はよいのだが、休み時間が苦痛なのだという。

休み時間になると休憩室でみんなでコーヒーを飲んだりしながら雑談をするのだが、そこで何を話したらよいかわからず緊張する。
間がもたず、逃げ出したくなる。
でも、仕事自体に不満はないため、やめるかどうか悩むのだ。

部活をやめるかどうか悩んでいる学生もいる。

このまま何もしないで卒業してしまうのではあまりに淋しい学生生活になってしまうと思い、部活に入った。
活動そのものは楽しいのだが、部室でみんなで雑談する時間が苦痛で仕方がない。
何をしゃべったらいいのだろうと思って緊張するばかりで、楽しいどころか苦痛なだけで、逃げ出したくなる。

でも、ここで逃げたら、ほんとうに淋しい学生生活になる。
それで悩んでいるというのだ。

授業に出られなくなったというある学生も、やはり休み時間が苦痛でたまらず、授業にでられなくなったのだという。
大学になると、高校までと違って、受ける授業も人によって異なり、教室の座席も決められていないため、前後や隣の席によく知らない学生が座っているのがふつうである。

まったく知らないなら、電車に乗っているときのように完全に無視できる。
でも、同じ学科の学生が同じ授業を受けるのはよくあることで、顔や名前を知っている場合は、あまり親しくないからといって無視するわけにもいかない。
そこで不安が頭をもたげてくる。

「何か話さなければ」「何を話せばいいんだろう」「もし話しかけてきたら、どうしよう」といった思いが渦巻き、先生が来て授業が始まるまで、そうした「間がもたない」感覚に苛まれる。

それが嫌で教室に入れなくなったのだという。

そこまで極端でなくても、人に気を遣うタイプは、休み時間のような自由におしゃべりを楽しむ場に弱い。

仲の良い友達ならよいが、顔見知り程度の友達と学校の行き帰りに一緒になると、どうにも気詰まりでしようがない。
そんな感覚を味わったことのある人も多いのではないだろうか。

新学期が近づくと、「気の合う子はいるかなあ」「よく知らない子ばかりだったら、どうしよう」と不安でたまらず、眠れなくなる。

そして、いざ新学期になって、親しい友達が同じクラスにいないと、「休み時間に何をしゃべったらいいんだろう」と気をつかって疲れてしまい、授業に集中できない。

そのような経験も、けっして珍しいことではないはずだ。

無理してはしゃぐ自分

人付き合いに気を遣うのは、べつに控え目で無口な人物に限らない。
みんなと一緒の場でいつもテンション高くはしゃいでいるムードメーカー的な人物にも、じつは気をつかいながら無理をしておちゃらけているタイプもいる。

友達と接する上で陽気で接した方が場が楽しくなると頑張りすぎ、疲れる。

教室で、場を盛り上げなければと思ってテンションを上げてはしゃぎ、帰り道で一人になって、「ちょっとやりすぎたかなあ」と振り返り、自己嫌悪に苛まれたりする。

ピエロを演じている人物を見て、周囲の人は、
「あんなにはしゃいじゃって、能天気な奴だなあ」と呆れたり、
「何だかいつも楽しそうで、お気楽でいいよな」
と羨んだりしがちだが、本人はけっして能天気でもお気楽でもない。
周囲に溶け込もうという一心でテンションを上げているのである。
何もしないでいると周囲に溶け込めるような気がしない。
うっかりすると浮いてしまう。
ゆえに、無理をしてはしゃぐことになる。

つぎの文章には、そのような人物がやや極端な形で描写されている。
「自分は隣人と、ほとんど会話画出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

そこで考え出したのは、道化でした。

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。

自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思いきれなかったらしいのです。
そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。

おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。」

「(前略)人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、アナヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

何でもいいから、笑わせておればいいのだ(以下、略)」(太宰治『人間失格』)

これは、お馴染みの太宰治の『人間失格』の一節である。
この作品は、太宰自身の内面性を忠実に描いた精神的な自叙伝とされている。

道化によって周囲に溶け込むことができた主人公は、やがてクラスの人気者になっていく。

「何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰な中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。(中略)
演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラスは大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。」(同書)

さらに、道化によって周囲に受け入れられようとしたということだけでなく、相手の気持ちを思いやってついほんとうのことを言えなくなってしまうという心理についても、『人間失格』の主人公は告白している。

「どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、恐ろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人たちが「嘘つき」と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行なった事はほとんど無く、ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の「必死の奉仕」、それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持ちから、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もする(以下、略)」

あとで自分が追い込まれることになるとわかっていても、目の前の相手と気まずくなるのが怖くて、サービス精神を発揮して、つい余分なことを言ってしまう。
そんな自分の哀しい性癖に気付いていながら、そうした行動パターンを捨てることができない。

この作品が若い人たちの心に響き、太宰治という作家がいつの時代も多くの若者たちに人気があるということは、若い頃には人とつながることに困難を感じがちだということをあらわしているのだろう。

それは、思春期から青年期にかけて自意識が高まり、人と自分を比べて自分がちっぽけに感じられて自己嫌悪に陥ったり、自分が人の目にどのように映るかを気にしたりするようになるという、青年心理学的知見とうまく符合する。

青年期的心性を生き続けた太宰であるが、その自意識の強さは、妻であった津島美知子の回想でも触れられている。

太宰のことを身近に見ていた津島は、太宰がいつも自分をみつめている人だったとし、つぎのように記している。

風景にもすれ違う人にも目を奪われず、自分の姿を絶えず意識しながら歩いてゆく人だった。
連れ立って歩きながら、この人は「見る人」でなく「見られる人」だと思った。
」(津島美知子『回想の太宰治』)

自分のキャラが窮屈に感じられる

若者はキャラという言葉をよく使うが、若者に限らず、だれもが場によって自分の出し方を調整している。

様々な友達と接する上でキャラというものに固執し過ぎると、疲れる。

こういう相手には、こんな自分を出し、ああいう相手には、また別の自分を出すというように、その場その場にふさわしい自分を出すように心がける。
まじめな自分で行くか、楽しくはしゃぐ自分で行くか、それはその場の雰囲気や日頃の人間関係をもとに判断する。

これが空気を読むということだが、場の空気を読み、それに合わせて自分の出し方を調整するのは、非常に気を遣う作業になる。

だが、もし自分のキャラが決まっていれば、それを出せばよいのだからとても楽だ。

もちろん、場によって微妙にキャラが違うというのがふつうだ。

ゆえに、教室でのキャラ、とくに親しい友達との間でのキャラ、近所の友達の間でのキャラ、塾の仲間の間でのキャラというように、複数のキャラを使い分けるのもよくあることだ。

実際、キャラがあることで集団の中での自分の立ち位置がはっきりするので、自分の出し方に頭を悩ます必要がないから便利だという声や、自分のキャラをもつことで友達とのコミュニケーションが取りやすくなるという声もある。

ある学生は、気を遣いすぎて、人付き合いに苦手意識をもっていたが、大学に入ってグループの中でキャラを設定されてから、友達付き合いが楽になったという。

「僕は、昔から場の空気を読むのが苦手で、こんなことを言ったら浮いちゃうかなと気にしすぎるところがありました。

それでなかなかしゃべれず、しゃべったとしても、あんなことを言って大丈夫だったかな、
場違いじゃなかったかなって、あとになってから気に病んだりして、高校時代は気を遣って、すごく疲れました。
でも、大学に入ってからできた仲間の間では、いつの間にかそれぞれのキャラが決まってきて、僕にも自分のキャラができました。
その仲間たちといるときは、そのキャラを出していればいい。
だから、以前みたいにどんなふうに自分を出そうかと迷わなくていいから、すごく楽になりました。」

自分の出し方をうまく調整する自信のない人物にとっては、キャラは強力な武器となる。
とりあえずキャラが決まっていれば、自分が人からどのように見られているか、どのように振る舞うことを期待されているかがはっきりするため、自分の出し方に迷うことがなくなる。

さらに、キャラに則って行動していれば、うっかり場違いなことを言ったとしても大目に見てもらえるという利点もある。
たとえば、「天然キャラ」なら、適当に話を聞いて勝手なことを言っても、「天然だから」と許される。
「辛口キャラ」なら、きついことを言ってストレス発散をしても、「辛口キャラだから」ということで、とくに目くじら立てられることはない。
「クールキャラ」なら、ちょっと気取った感じになった場合も、「クールキャラだから」と受け入れてもらえる。

その一方で、キャラに縛られ、自由に振る舞えないということが起こってくる。
キャラのイメージに沿った行動を取ることによって仲間から受け入れられる。
どんな行動がその場にふさわしいかにいちいち頭を悩ませずに済む。
そういったメリットがあるものの、キャラの拘束力はとても強力なため、窮屈な思いをさせられることがある。

たとえば、優等生キャラで通っている人も、ときにみんなと同じように思い切り羽目を外したい気分になることだってある。
いつもはもの静かで落ち着いたキャラなのに、大声ではしゃいだり、ふざけたりしたくなることもある。
でも、そんなことをしたら、「らしくない」ということで、周囲の仲間たちを驚かせてしまうので、衝動にブレーキをかけ、自分のキャラにふさわしく振る舞わなければならない。

キャラには便利な面があると同時に、そうした不自由さがつきまとう。

とくに周囲の反応に過敏なタイプは、環境の変化に弱い。
進学したり、新学期になってクラス替えがあったりすると、自分を抑えつつ周囲の様子を窺うことになる。
そのため、周囲からはまじめでおとなしいキャラとみなされやすい。
本来、遊び心が豊かで、ノリの良いタイプの場合などは、新たな環境に馴染まないうちにつくられたキャラのせいで、悪ふざけができず、ノリの良さを発揮することもできずに、非常に窮屈な思いをする。

逆に、周囲に溶け込もうとして道化役を演じた場合などは、まじめな自分を出せないきつさがある。
いつもみんなを笑わせている人物も、何か悩み事ができ、深刻な気分になることだってある。
そんなときも、教室に入ったとたんに、バカな冗談を連発してみんなを笑わせる。
そんな自分に嫌気がさすこともある。

いつも元気で明るいキャラとみなされてしまうと、内面をほとんど出せなくなる。
だれだって内面を振り返れば、不安があったり、迷いがあったりするものだ。
だが、そんな暗い面はおくびにも出せない。
無理して明るく振る舞っているうちにそれが自動化し、意識的に無理をしなくても、友達といるときは元気で明るいキャラになる。
そのおかげでみんなで楽しむ場には呼ばれるが、二人っきりで本音の話ができる友達ができない。
どんなに落ち込むことがあっても、いつも笑顔でおちゃらけて、周囲を笑わせ、場の盛り上げ役を引き受けいている。
そんな習性を身につけてしまった自分が悲しいという人もいる。

人付き合いをスムーズにしてくれるはずのキャラに首を絞められる。
ここにも自分をうまく出しながら周囲に溶け込むことの難しさがある。

自分の言動を振り返って自己嫌悪

このように人間関係というものは非常にややこしい。
大人の世界の人間関係には仕事上の利害が絡みややこしいなどと言われるが、子どもや若者の世界の人間関係もそれに劣らずややこしい。

後から友達とのやりとりを振り返り、どっと疲れてしまうのは、素の自分とはかけ離れ過ぎた自分で接した結果である。

だから、相手が友達であっても、人付き合いには神経をつかう。

夜、寝床にはいると、昼間友達に言われた言葉の意味をめぐってあれこれ考えたり、自分の言った言葉を思い出して「傷つけちゃったんじゃないか」「気分を害さなかったかな」と気に病んだり、友達の様子を思い出して「自分ばかり話しすぎたんじゃないか」「退屈していたんじゃないか」などと気にしたりしているうちに、なかなか眠れなくなる。
そんな経験は誰にもあるのではないか。

実際、夜寝る前に、昼間の出来事を反芻して、友達の言動や自分の言動、友達の様子をチェックするのが日課になっているという人も少なくない。

自分の言動を振り返れば、だれでも周りからどう思われただろうかと不安になるものだ。
後になってじっくり考えれば、「ああ言えば良かった」「こんなふうに言うべきだった」「ああいうことは言わない方が良かった」などと、より適切な反応の仕方を思いつくだろうが、その場では咄嗟に最善の反応ができるものではない。

思春期の自我の目覚め以来、自己意識をもち、たえず自分自身と向き合いながら生きるようになる我々人間にとって、昼間の自分の言動を振り返って自己嫌悪に陥るのは、まさに宿命のようなものだ。

でも、自己嫌悪する自分がいるということは、より良い自分になりたいという意思があることの証拠でもあるので、けっして悲観すべきことではない。

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友達付き合いで疲れる原因

「間柄の文化」だからこそ人に気を遣う

このように人付き合いに非常に気を遣うのは、けっして特殊なことではなく、日本文化のもとで自己形成してきた人にとってはごく自然なことと言える。
まさにそこに日本文化の特徴があらわれている。

日本人には他の国に比べ、内向的な人が多い傾向があり、内向的な人が外向的になろうと頑張り過ぎると、友達付き合いであっても疲れる。

日本人は自己主張ができないとか、ディベートが苦手だとか、まるでそれが欠点であるかのように言う人がいる。

だが、はっきりと自己主張できないのも、相手の気持ちや考えていることがわかるし、相手の立場がわかるから、一方的にこっちの言い分を押し付けるようなことができないからだとも言える。

相手が何を望んでいるか、どう感じているかばかりを気にするのも、相手の期待に応えたいから、つまり自分自身の満足よりも相手の満足を優先させようとするからだとみなすことができる。

言いたいことがあっても言えなかったり、要求があっても遠慮したりするのも、相手に負担をかけたくないし、相手からずうずうしい人物とみられたくないから、つまり良好な間柄の維持を意識してのこととも言える。

このように私たちは、常に相手との関係性を意識して行動している。
私たち日本人には、他者から独立した自己などというものはない。
相手があって自分がいる。
相手との関係を抜きにして自分というものをイメージすることなどできない。

そこで、欧米の文化を「自己中心の文化」、日本の文化を「間柄の文化」と名づけて対比させている。

それぞれの文化は、つぎのように特徴づけることができる。

「自己中心の文化」とは、自分の考えを思う存分主張すればよい、ある事柄を持ち出すかどうか、ある行動を取るかどうかは、自分の意見や立場を基準に判断すべき、とする文化のことである。
何ごとも自分自身の意見や立場に従って判断することになる。

欧米の文化は、まさに「自己中心の文化」と言える。

そのような文化のもとで自己形成してきた欧米人は、何事に関しても他者に影響されず自分を基準に判断し、個として独立しており、他者から切り離されている。
ゆえに、いつもマイペースなのだ。

一方、「間柄の文化」とは、一方的な自己主張で人を困らせたり嫌な思いにさせたりしてはいけない、ある事柄を持ち出すかどうか、ある行動を取るかどうかは、相手の気持ちや立場に配慮して判断すべき、とする文化のことである。
何ごとも相手の気持ちや立場に配慮しながら判断することになる。

日本の文化は、まさに「間柄の文化」と言える。
そのような文化のもとで自己形成してきた日本人は、何事に関しても自分だけを基準とするのではなく他者の気持ちや立場に配慮して判断するのであり、個として閉じておらず、他者に対して開かれている。

ゆえに、たえず相手の期待が気になり、できるだけそれに応えようとするのである。

「間柄の文化」で自己形成してきた日本人は、「自己中心の文化」の住人である欧米人のように「個」の世界を生きているのではなく、「間柄」の世界を生きているのである。

「I」が「YOU」に対して独立的に、つまり一方的に自分を出すというのが、「個」の世界のあり方の基本と言える。
自分の思う事を伝える際に、とりあえず相手に影響されずに自分の言いたいことを率直に主張する。
「個」の世界を生きるなら、それでよい。

だが、「間柄」の世界を生きるとなると、そう単純にはいかない。
相手のことを意識し、相手との関係にふさわしいように、相手を傷つけないように、気まずいことにならないように、相手が不満に思うようなことにならないようになどと相手に配慮しつつ、自分の思うところを伝えることになる。
「間柄」の世界を生きる日本人は、双方向の視点をもつわけだ。

私、僕、俺などの自称詞さえも相手との関係性によって変えなければならないように、持ち前の共感能力を発揮して、相手が何を思っているか、相手が何を望んでいるかなど相手のことに配慮しながら、双方が心地よさを失わないように、その場が気まずい雰囲気にならないように、ものの言い方を調整する。
思うことをそのまま言えばいいというように単純にはいかない。

このように間柄の文化の住人は常に相手を意識して行動しているのである。
ゆえに、自己主張が出来ず、ディベートが苦手なのには、文化的に十分な理由があるのだ。
僕たち日本人には、他者から独立した自己などというものはないわけだが、だからといって未熟なのではない。
日本文化においては、「間柄」のなかで自己のあり方が決まるのだから、他者から切り離された自己の方が、相手のことを配慮できないという意味で未熟ということになる。

学校でディベート教育が取り入れられ、自己主張的なコミュニケーションの練習をさせられている今どきの若者たちでさえ、話合いの場で自分の意見を主張するのが苦手なことが多い。

多くの授業で数人で話し合うグループワークが取り入れられているが、よく知らない人たちに対して自分の意見を言うのは難しくて、ごく一部の人が話しているだけで、あとは適当にお茶を濁している感じだという。

よく知らない人に意見を言うのがなぜ苦手なのか。
それは、相手の考えや感受性がよくわからないため、配慮するのに失敗するかもしれないからだ。

また、自己主張の教育を受けいている今どきの若者たちでさえ、若者特有の今風の婉曲表現を用いることで相手のことに配慮し、傷つけたり、衝突したりするのを避けようとしている。
友達相手の場合でさえ、日常的に相手に配慮して、ぼかした表現を使う。
たとえば、音楽の話をしてるときも、
「私、それ好き」
と言わずに、
私、それ好きかも
とぼかすような表現を使ったりするのも、それが嫌いだったり、別の曲やアーティストが好きだったりする友達に配慮してのことだ。

日曜に何をして遊ぼうかという話をしているときに、「映画を観たい」
とはっきり言わずに、
「映画を観たいかも」
と言ったりするのも、他のことをしたい友達がいるかもしれないからだ。

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「人の目」に縛られる苦しさ

友達付き合いにとくに気をつかうようになるのは中学生くらいからだ。
それには、認知能力の発達が関係している。

認知能力、すなわち他人や友達からの目を気にし過ぎて疲れることが思春期以降頻繁に出てくる。

思春期になると、自分自身を見つめる自分が強烈に機能するようになるため、「あの発言はまずかったんじゃないか」「どう思われただろう」と気になって仕方がない。
そして、周囲の反応を気にする。
できるだけ周囲から受け入れられるように、自分の言動を調節する。

このように自分自身の言動を調節するために周囲の反応をモニターすることを自己モニタリングという。
自己モニタリングを行なうことで周囲に受け入れられやすいように自分の言動を調整することができるわけだが、ともすると周囲の反応を気にし過ぎるあまり、自由に振る舞えないといったことになりがちである。

たえず周囲の視線を意識し、周囲の期待に応えるように振る舞っている。
それが多くの人の日常だ。
みんなと一緒におしゃべりしているとき、「今日は疲れているから、早く帰りたいな」と思っても、「じゃ、今日はちょっと疲れてるから、帰るね」
と言って自分だけ抜けるということもしにくい。
無理して付き合い、「いつまで喋ってるんだ」「いい加減、切り上げたいな」と、内心イライラしながらも、みんなに合わせて自分もテンションを上げてしゃべっている。

悩み事があって、大騒ぎするような気分ではないのに、無意味な冗談を言って笑っている。
そんな自分を突き放して見ている自分がいる。
みんなではしゃいでいるときも、なぜか醒めた自分がいる。

そんなあり方は、大いにストレスとなる。

そこで、「人の目」などあまり気にならずに無邪気でいられた小学校時代に戻りたいと思ったり、気の置けない部活の仲間がいた中学校時代に戻りたいと思ったり、不安に思うこととか何でも話し合うことができる親友がいた高校時代に戻りたいと思ったりする。
なかには、人と関わるのが面倒くさくなったという人まで出てくる。

それほどまでに「人の目」に縛られるのは苦しいことなのだ。

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欲求不満が感情の爆発を生む

「人の目」に縛られて自由に振る舞えない。
本音の部分を抑え込んで、周囲に合わせなければならない。
そのストレスによるイライラが、ときに感情の爆発を誘発する。

学校でみんなに無理して合わせ、言いたいことが言えず、内心イライラしているため、家に帰ると溜め込んだ思いが爆発して、つい家族に当たってしまうという人も少なくない。

または友達付き合いの疲れが攻撃性となって自分より弱い立場の人に向けられる。

ふだんはとても穏やかで、人に対する気配りができる人が、何かの拍子に突然キレて、周囲を驚かすことがある。
そのようなことが起こるのも、自分の思いを抑え込み、無理して周囲に合わせているからである。
「欲求不満―攻撃仮説」という心理学の理論がある。

欲求不満になると攻撃衝動が強まる。
このことは日常生活の場面でだれもが実感するところのはずだが、心理学の実験によっても証明されている。

最初に欲求不満―攻撃仮説を提唱したのは、心理学者ダラードたちである。
それは、目標に向けて遂行されていた行動が阻止されると欲求不満が生じ、その解消または低減のために攻撃行動が引き起こされるというものだ。
その後、ダラードたちの欲求不満―攻撃仮説に基づいた多くの実験や調査が行われ、その妥当性が支持されている。

たとえば、心理学者バーカーたちは、子どもを対象に、欲求不満が攻撃行動を生み出す心理メカニズムを明確に証明する実験を行っている。

その実験では、最初に子どもたちに部屋一杯のオモチャを見せたが、その際、子どもたちを二つのグループに分けた。

ひとつのグループでは、オモチャを見せた後、オモチャを手の届かないところに置いて欲求不満を起こさせた。

オモチャは金網越しに見えるものの、手が届かないため、子どもたちはそれを使って遊ぶことができなかった。
しばらくしてから、それらのオモチャで遊べるようになった。

もうひとつのグループでは、オモチャを見せた後、子どもたちはすぐにそれらで遊ぶことができた。

つまり、欲求不満を起こさせなかった。

両者のその後の行動を比べると、後者のグループの子どもたちは楽しそうにオモチャで遊んだのに対して、前者の子どもたちはきわめて破壊的で、オモチャを殴ったり、壁に投げつけたり、踏みつけたりといった攻撃行動を示す傾向がみられた。

子どもは、大人と違って衝動を素直にあらわしがちだが、このような実験結果は、欲求不満が攻撃行動を生じさせる端的な証拠と言える。
目の前に見えるオモチャですぐに遊べなかった子どもたちは、欲求不満によるイライラが募り、オモチャを殴ったり、投げたり、踏みつけたりというように、攻撃衝動を発散させたわけだ。

この場合は、欲求不満を起こさせたオモチャに攻撃が向けられているが、攻撃の対象が置き換えられることもある。

学校で友達に嫌な思いをさせられ、欲求不満状態にあるとき、帰宅途中の車内で大きな声で喋っている人に「うるさい!」と怒鳴ったり、家に帰ってからちょっとしたことで苛立って家族に怒鳴り散らしたりすることがある。
いつもは人に文句など言わないのに、コンビニのレジの前に並んでいる際に、手際の悪い店員に苛立ち、「何ノロノロやってるんだ」とつぶやいたりすることがある。
あるいは、自分の部屋に入ったとたんにカバンを床に投げつけたり、足下のゴミ箱を蹴飛ばしたりと、モノに当たったりすることもある。

そのような場合は、欲求不満を起こさせた人物と何の関係もない人物やモノに対して攻撃衝動をぶつけているわけで、まさに攻撃対象の置き換えが起こっていると言える。

このような置き換えが起こるようなときは、欲求不満によるイライラを発散させたいという攻撃的な衝動が強まっているため、認知の歪みが起こりやすい。

そのため、普段なら気にならない言葉に挑発性を感じ取って「人をバカにするな!」と怒鳴ったり、いつもと変わらないのに「なんでそんな言い方をするんだ!」と文句をつけたりするなど、あらゆる刺激に過剰に反応しがちとなる。

これが、「敵意帰属バイアス」という認知の歪みだ。

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SNSでつながっている「心強さ」と「鬱陶しさ」

「人の目」に縛られるという点に関しては、SNSの影響も非常に大きい。

SNSで四六時中、友達と心理的につながった状態でいると疲れる人も多い。

携帯電話が出始めた頃、外出先でも連絡がつくからとても便利だということで周囲の人たちがもつようになっても、携帯電話をもつことに抵抗があった人もいるであろう。
どこにいても人に捕まってしまう、一人でいるときの解放感が奪われてしまう。
そう思うと、なかなか携帯電話をもつ気になれない人もいる。

だが、時代の流れに抗うことはできず、いつの間にか携帯電話を便利に使いこなすようになった。
それでもSNSで多くの人たちとつながろうとは思わない人も多い。

今どきの若者は、子どもの頃から携帯電話やスマートフォンに馴染んでいる。
そればかりか、SNSの発達により、たえず友達とつながって生きている。

かつてなら、学校にいるときは友達に気を遣い、自分を抑えて友達に合わせなければならなくても、校門を出て、友達と別れて一人になれば解放され、自由になった。
自分らしく存在することができた。

ところが、今の若者は、学校を離れ、電車に乗っているときも、街に繰り出し一人で買い物をしているときも、家に帰ってからも、いつでもどこでも友達からのメッセージをきにしなければならない。

メッセージに反応しないと「無視したと思われるかもしれない」「学校で会ったとき、気まずい感じになるかもしれない」と気になる。

他の仲間が反応しているのに自分だけ反応しなかったりすれば、「グループから抜けたいと思ってるんじゃないか」と誤解され、仲間外れにされるかもしれないと不安になる。

それで、一人でいるときも、しょっちゅう友達からのメッセージをチェックし、急いで反応するようにしなければならない。

しかも、表情や声の調子が伝わらない文字によるやりとりゆえに、相手に嫌な印象を与えないように、自分が書き込む文が与えるかもしれない印象をじっくり吟味してから返信しなければならないため、非常に気を遣う。

買い物中も、公園や喫茶店でくつろいでいるときも、家で勉強をしているときも、ビデオで映画を楽しんでいるときも、しょっちゅう友達からメッセージが飛び込んでくるので、何をしていても集中できず、落ち着かない。

旅先でさえ、友達からのメッセージが次々に入り、反応しなければならず、解放感がないいだけでなく、その場の状況にどっぷり浸かることができない。
せっかく滅多に来られない非日常的な場所にいるのに、スマートフォンを気にするあまり、つい上の空になってしまい、周りの景色をじっくり楽しむことができない。

これでは勉強にも集中できないし、何をしても心からのめり込んで楽しむことができないということで、SNSでみんなとつながっている鬱陶しさを感じる人も多い。
SNS疲れ」という言葉が広まったのも、そのあらわれと言える。

そこで、思い切ってフェイスブックもツイッターもやめたという人も、必要な連絡事項がラインで回ってくるため、なかなかすべてやめるわけにいかないようだ。

また、SNSのつながりを鬱陶しく感じているにもかかわらず、誰からもメッセージが来ないと淋しい気持ちになり、かえって落ち着かず、しょっちゅうスマートフォンを気にしてしまうという人もいる。

SNSのせいで、たえず多くの「人の目」を意識していなければならず、鬱陶しく思いつつも、つながっていることによる心強さもどこかで感じている。

ゆえに、どんなに鬱陶しくてもやめることができない。

このようにSNSも人付き合いの疲れを助長する道具となっている。