自分を受け入れるとは
自分を受け入れるために
自分を受け入れるとは、背伸びしない等身大の自分で人と接することである。
神経質な自分を受け入れられない人は「私は悩まされるべきではない、困らせられるべきではない」のだから、自分が悩んだとき、困ったときには、周りの関係者を許せない。
自分の人生に責任をとるとは、自分の運命を受け入れるということである。
人は自分の人生を選べるわけではない。
その与えられた運命を受け入れるときに、自分の人生に責任をとったということになる。
呪われたような人生もあれば、恵まれた人生もある。
「偉人の伝記を読むと、天才は炎の中で生まれたことに気づかずには居られません」
炎の中で焼かれるような人生もあれば、穏やかな人生もある。
とにかく自らの宿命としての人生を受け入れる。
そして最終的には、それが最も生きがいのある人生になる。
親に愛されなかった自分を受け入れられない人は、林の中を歩いていたら、自分は神に愛されたと思うこと。
天からの贈り物とは、逆境を耐えたときに心の中に残るものである。
そのつかむものは大きなものである。
生きることの深い意味を感じる。
「こんな人生は嫌だ、嫌だ!」と叫んでいても、どうなるわけでもない。
「嫌だ、嫌だ!」と叫んでいるだけでは、最後はカルト集団のような仲間に入るしかなくなる。
「つらい!」「悔しい!」「痛い!」等々の自分の言葉で自分の依存性やナルシシズムや神経症的要求に気がつかなければならない。
それに気がつけば、そのときのマイナスの感情は、その後の人生で生産的役割を果たしたことになる。
現実の自分を受容する
自分の目標がある。
絵を描きたい、あの大学に受かりたい、野鳥を見に行きたい、こんな家をつくりたい、あそこに旅行に行きたい、早くあの課の課長になりたい、何でもよい。
その目標が妨害されるときに人は欲求不満になる。
しかしその目標が、そもそもその自分を受け入れられない人に適していない場合がある。
幸せな自分を受け入れられる人は適切な目的を持っている。
自分を受け入れられられる青年期の課題を解決している。
つまり現実に対する興味と関心が覚醒されている。
現実に対する興味と関心が覚醒されていない自分を受け入れられない人は、自分の給料ではとても買えないような高級車を買いたいという目標を持ってしまう。
ところが高級車を買えない。
この自分を受け入れられない人は欲求不満になる。
自分を受け入れられない人は虚栄心が強い。
つまり自分の潜在的可能性の開発がなされていない。
自分を受け入れられない人は「私はこうしたい」がなくて、他人がどうしているかが気になる。
自分を受け入れられない人は他人と自分の比較が激しい。
さらにもう一つ。自分を受け入れられない人は「私はこうしたい」がなくて、「私はこう見えたい」が大切になる。
これが消費社会が持つ本質的問題である。
自分を受け入れられない人は自分が車が好きではなくても「わあ、すごい」という高級車が欲しくなる。
すると高級車に乗っている人を攻撃したくなる。
自分を受け入れられない人はその人のあら探しをする。
そしてそのあらを誇張して、近所の人に言いふらす等々のことをする。
ビジネスパーソンで言えば、身の程を知らないほどの出世を望む。
しかし自分を受け入れられない人はそのような出世はしょせん無理である。
すると、早く出世する人や上司の失脚を狙ってスキャンダルを言いふらす。
隣の家の人の方が豊かである。
それはもともと、その自分を受け入れられない人と自分のそれまでの努力の履歴の違いなのであるが、それが受け入れられない。
そして隣の家に嫌がらせをする。
要するに自分を受け入れられない人は現実を受け入れられない。
その結果自分を見失って、他人が不当な重要性を持ってしまう。
童話風に言えば、次のようなことである。
次郎は「なんで自分は太郎のように何の障害もなくまっすぐに海に行けないんだ」と、自分の不運をなげいた。
自分を受け入れられない次郎には、周囲の人の眼と釣竿しかない。
海に行って釣りをしたいという目的」がない。
だから太郎のように海に行けない。
それなのに、「何で俺ばかりがいつもこうなんだ」と不満を抱く。
他人の悪口を言ってしまいたくなる
「人を失望させる」「相手をやっつける」「人を悲しませる」「人の行動を邪魔する」といった表現は、いずれも、他人に欲求不満を押し付けるという意味である。
そうなると自己喪失して、自己疎外の道を歩み出すしかない。
外側がどうであれ自分を受け入れられない人は「私ばかりつらい目にあう」ということになる。
心の支えがないと、どのような人生であれ、自分を受け入れられない人は「私ばかりつらい目にあう」という気持ちになる。
「攻撃は欲求不満に対する第一次的な特徴的な反作用であるから、なにかがそれに干渉を与えなければ、攻撃は起こるはずである」
潜在的可能性の開発がない結果、自分を受け入れられない人は身の程を知らない目標を持った場合には、どうしてもトラブルメーカーになる。
自分を受け入れられない人はあっちにもこっちにも攻撃をする。
自分を受け入れられない人はあっちの人の悪口を言い、こっちの人のあら探し、四六時中不満をまき散らしている。
人の悪口を言いたくなったときには、まずそもそも自分の欲求不満の元になっている目標が適切な目標なのかどうかを考えることである。
そもそも自分を受け入れられない人は自分がこのような生活ができること自体を感謝しなければならないのに、それを不満に感じている人は多い。
自分を受け入れられない人は自分のしている労働を考えれば、そもそも今の給料でも多すぎるのに、それを人と比較して少なすぎると不満になる。
公平に扱われているのに、不公平感を持っているビジネスパーソンがいる。
そういう自分を受け入れられない人は、同僚にも上司にも部下にも会社にも不満である。
自分を受け入れられない人は自分に不満なことに気がついていない。
自分を受け入れられない人は健康なのに健康に感謝しないで、職場に不満を持っている。
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あなたの今いる場所は、戦場じゃない
問題は自分の近くにいる人との関係である。
「恩を仇で返す」という人もいる。
しかしそれは周囲の人がそう思うので、本人は案外そうは思っていない。
つまり現実に恩を受けているのに、本人は恩を受けていると感じていない。
そもそも恩を受けているということが理解できない。
それは自分の立場を理解できないからである。
自分を受け入れられない人は自分は一方的に与えられる立場だと一人で勝手に思い込んでいる。
自分を受け入れられない人は現実に自分は恩を受けているのに、「もっと恩を受けてよい」と思っている。
カレン・ホルナイによれば神経症的要求を持つ者は、例えば「世界は私に奉仕するべきである」と考えると言う。
これは幼児なら不思議ではない。
しかし社会的、肉体的には大人になっているから、とんでもない態度なのである。
神経質的なプライドを持っているということは、大人になった幼児である。
神経質な人であれば、恩を仇で返す。
「恩を仇で返す」というのは客観的な表現で、自分を受け入れられない本人は不当に扱われたと思っているかもしれない。
自分を受け入れられない人は恩を受けた人を恨む。
それは、相手はもっと自分に尽くすべきだと思っているからである。
神経質な人が世の中を恨んでいるのは神経質的プライドのためである。
要するに自分を受け入れられない人は非現実的なほど高い要求を持っている。
そういう人の身近にいる人はたまらない。
一方、神経質的プライドを持つ人はどうしたらよいのか。
それは簡単である。
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答えは明白で、「愛されたことがない」である。
愛されたことがないから、自分を受け入れられない人は神経質的プライドを持つ人になった。
だから、「私は、私自身で、ありのままの自分を愛してみよう」と決心する。
自分を受け入れられない人は心の世界で言えば、小さい頃から戦場にいた。
自分を受け入れられない人は心の世界で言えば、戦場に生まれ、戦場で育った。
しかし大人になって、そこはもう戦場ではない。
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解決は、自分を変えて、受け入れることである。