男と女は結局、恋愛感情抜きには付き合えない
「男と女の間に果たして友情が成り立つか」
今どきこんな青くさい議論は中学生だってしない、といわれるかもしれません。
でも、ばかばかしい話題だと心から笑いとばせる人は、そう多くはないと思います。
ロブ・ライナー監督の映画「恋人たちの予感」で次のような話が展開されています。
ことごとく意見が対立するハリーとサリーの間には、何も起こらないまま年月が過ぎます。
大学卒業時に初めてしゃべってから五年後に偶然出会って、また議論になりますが、ただそれだけのことです。
さらに5年後、またまた偶然出会います。
なつかしさも手伝って、それぞれの身の上を話すうちに、友達になれそうだということになります。
「男と女はセックスが邪魔をして友達になれない」という信念をもっていたハリーですが、何の遠慮もなく議論したり悩みを打ち明けたりできるサリーとの友情を大切に育てていこうとします。
ハリーは妻と離婚した心の痛手を、サリーは恋人と別れた心の傷を抱え、互いに悩みや寂しさを語り合い、慰め合います。
やがて、深夜、寂しさに負けそうなとき、それぞれ自宅の寝室で同じテレビ番組をみながら電話でしゃべったりするほどに仲よくなります。
それでも二人は友情を大切にし、恋愛に進もうとはしません。
友情を守るために、互いの親友を相手に紹介したりして付き合わせようとまでするのですが、うまくいきません。
しかし、この映画では、残念なことに、というより期待どおりにといったほうがよいのかもしれませんが、二人は自分たちの愛情の絆に気付き、結局結ばれるのです。
ハッピー・エンドではありますが、ハリーの言っていたように、男女の間の友情は成り立たなかった、いつのまにか異性愛に変容していたのです。
男女間の友情を価値あるものにするために
男女間の友情というのは、ほんとうに不可能なのでしょうか。
異性の友達がいるという人はけっして少なくないと思います。
そういう人は自分を偽っているのでしょうか。
危ない綱渡りをしているのでしょうか。
人と人の心理的な距離は、お互いの心の内側に関する情報の共有量で測ることができます。
自分を飾ったり突っ張ったりすることなく、ありのままに気持ちをぶつけたり悩みを話したりできる相手は、最もよき理解者といえるでしょう。
自分の恋人に、あるいは夫に、彼のことを自分よりも深く理解している女性の友達がいたとしたら、心穏やかではないはずです。
男女が深く理解しあったら、恋愛関係へと発展していくのが自然なのでしょう。
それでは、深く理解しあいながら恋愛関係には至らなかったという男女の間では、なぜ友情から恋愛へという変容が生じなかったのでしょうか。
それは、残酷なようですが、恋という情熱に火をつけるような種類の魅力を、少なくともどちらかがもっていなかったからです。
もし、二人ともが相手に異性としての魅力を感じていたとしたら、そこまで深く理解し合っている二人なのですから、互いに相手を求めあい、大恋愛に発展する条件が充分整ってしまいます。
二人が出会う前に、どちらかにすでに将来を約束した人がいたというケースのように、外的要因に妨げられて恋愛感情を抑制しているとしたら、それはいつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えているようなものです。
「彼との間にあるのは美しい友情であって、恋愛感情ではない」などと爆弾を抱えたままでいては、やがて感動的かつ悲劇的なラブ・ストーリーを演じてしまう危険充分です。
つまり、異性としての魅力を感じないときに限って、男女間の友情が成立するのです。
それは、少なくとも一方が異性としての魅力をもたないときという意味ではありません。
どんなところに異性としての魅力を感じるかは人それぞれに異なります。
多分に生理的に感受するもので、なかなか理屈で説明できるものではありませんが、自分が求める性的魅力を相手がもっていないときということです。
あるいは相手が求める性的魅力を自分がもっていないときです。
男女間の友情がうまくいっているケースの多くは、一方が恋愛に似た感情を抱きながら挫折した経験をもっているのではないでしょうか。
はっきり拒絶されたにしろ、それとなく察して抑制をきかせたにしろ。