自分を愛することで他人を愛することができる
権威主義的な親の場合には子どもは、親の歪んだ期待を深く内面化してしまう。
その内面化された親の期待から抜け出すことが難しい。
どうしても親の期待した人間になろうとする力が働く。
親に喜んでもらうことが生きている意味になってしまう。
親ばかリでなく、その人の友人をはじめとする人間関係が、そういう歪んだ人間関係になっている。
「私が成長した集団と、カルト集団と、本質的にどこが違うのか?」
そう考えることができれば、歪んだ人間関係から逃れる第一歩である。
子どもにとって失敗が大きな打撃となるのは、親が子どもの失敗を望まないからである。
親の期待した人間になることが大きなプレッシャーになる。
大企業に就職してうつ病になる、あるいはエリート官僚になってうつ病になるなどの人たちは、おそらく彼らの性質としてはそのようなコースが適していなかったのだろう。
自分の不得意領域で、頑張っていることに気がつかないで、無意識の劣等感に支配されて生きてきた。
つまり、まったく心理的に自立できていなかったことに気がつかないままに頑張った。
無意識の依存心に気がついていないままで生きてきた。
しかし、どんなに自分の適性に反しているとはいえ、それが親をはじめ周囲の人の期待するコースであり、そのコースを進むことが彼らの「人生の意味」であり、「喜び」になってしまっていた。
それが無意識の依存心の恐ろしさである。
しかしもちろん疑似成長であるから、夢の中では怯えている。
夢の中では知っている場所の住所がなぜか書けなかったり、よく行く場所にどうしても行けなかったりする。
現実の世界では自分でコントロールしている感覚はないし、自律神経失調症気味であるし、なによりも孤独に弱い。
「人生の意味」「喜び」と書いたが、根底には焦りがある。
なぜか、いつもこんなことをしてはいられないという焦りがある。
なぜか焦りがある人は、自分は無意識に問題を抱えていると認めることである。
意識していないが無意識になにか矛盾を抱えている。
親の期待に添うため、あるいは親への反発等から自分を見失う。
自己喪失する。
夢の中ではいつも道に迷っている。
つまり自己実現できないことで自己疎外になり、さらに神経症になっていく。
そうして最終的に、頑張って、頑張って、頑張ったあげくに挫折していった人は多い。
無意識に振り回された人生に違いない。
生きていく上で、大切なのは社会的成長ではなく、心理的成長である。
心理的成長は、ひとりで祝う。
社会的成長は他の人が祝ってくれる。
「オイディプスコンプレックスが神経症の核である。」というフロムの言葉を借りれば、彼らはオイディプスコンプレックスを乗り越えられなかったのであろう。
なによりも、最初の人生の課題である親を乗り越えられなかった。
親を乗り越えられなかったことに気がつかないままで、無意識に振り回された。
親からの自立の失敗に気がつかないままに、自己疎外となり、神経症的症状へと発展していった。
その過程がすべて無意識である。
自分が自己疎外されていく過程も、いま、自己疎外されていることに気がついていない。
いま、自分が自分ではないことに気がついていない。
彼らは、社会的には見事な適応をしていても、かなり早い段階から人生が行き詰まっていたに違いない。
心から楽しいという体験がなかったに違いない。
なにか焦っていたに違いない。
早い段階から自分でない自分で生きていたに違いない。
そのことに気がついていない。
心から楽しいという体験がないから、そのことになかなか気がつかない。
心から楽しいという体験があって、はじめて「いま、自分は心から楽しい」と感じていないということが分かる。
「あらゆる神経症の発展において自己疎外は核にある問題である。」
よって、自分を愛することで他人を愛することができる。
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「自分自身でない人」は付き合う人を間違える
社会的に望ましい人間なのだが、その行動の動機に問題がある人は多い。
アメリカのABCニュースが1997年3月6日に薬に関する特集番組を放映した。
そのときにキャスターのDiane Sawyerが、薬で調子を崩した少年について次のように話した。
彼は学校で最も人気があった少年のひとりである。
薬の服薬過剰で調子を崩した少年について親友の少女が次のように言う。
「彼は誰にでも優しかった。彼は特別よ」
彼は八方美人だった。
誰にでも好かれたかった。
彼は「自分は誰に好かれたいのか?」が分からない。
「この人に好かれたい」という人がない。
そして彼の親切は、自分が人に好かれたいための親切である。
相手を愛することから出てくる親切ではない。
友達を見分けられない人は滅びる。
味覚が分からない人を考えてみよう。
すっぱいも、にがいも分からない。
腐ったものを食べても分からない。
そしてお腹を壊す。
神経症的傾向が強い人は自分を選べない。
相手を選べない。
選択ができない。
だから生きるのがつらい。
神経症的傾向が強い人は、どちらも捨てられないから悩む。
人との関係で自分を見失った人が薬物に手を出す。
「誰にでも優しかった」彼がこのような問題を起こすということから考えれば、彼の親切心には問題があったと思われる。
彼の行動は、本当はなにを意味しているのか?
社会的に見れば立派な少年だったかもしれないが、心理的成長に失敗している。
ほめてもらいたいために生きてきた少年。
ほめてあげたいという気持ちをなくした少年。
人と心が触れ合う体験をできなくなった少年。
缶切りがある、皆が「わー、すごい」と言う。
するとそれが欲しい。
ナイフがある、皆が「いいなー」と言う。
するとそれが欲しい。
神経症的傾向が強い人は自分が欲しい道具がない。
料理をしていて、切れる包丁を持っている人がいる。
すると「いいなー、切れる包丁があって」とうらやましがる。
その切れる包丁を手に入れても、「わー」と言ってくれる人がいないと、持っていても空しい。
アメリカのティーンエージャーのメンタルヘルスでは、学業に問題のある人は11%しかいない。
自分を抑えて無理をして模範生でいるが、彼らの心の中は不安だった。
模範生になって、さらに模範生になっても喉の渇きが増すばかりである。
理由のない焦りが消えない。
人は「ノー」のときに、なぜ「イエス」と言うのか。
それは「ノー」と言って嫌われることが恐いからである。
人は「ノー」のときに、なぜ「イエス」と言うのか。
それは「ノー」と言って嫌われることが恐いからである。
人は、色々な「ふり」をする。
「ふり」をする方が受け入れられると思うからである。
シーベリーは、「私が私自身ならなにを恐れることがあろう。
恐れているなら、私自身ではないのだ。」と述べている。
薬で調子を崩した彼は「誰にでも優しかった」。
しかし、彼は彼自身として生きることはなかった。
だからいつも恐れていた。
自分自身でない人は、対象無差別に愛を求めている。
愛を求めて、好きな「ふり」。
嫌いな「ふり」。
満足している「ふり」。
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他人の人生を生きてしまう理由
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他人のことが気になる心理は無意識にあり
「無理のない人」は強い
「ふり」をしてもなにも解決しないのだから、やめればよい。
でもやめられない。
無意識に「内なる障害」を持っている人である。
「ふり」をしてもなにも解決しないと分かって、やめられる人もいる。
それは無意識に深刻な問題を抱えていることに気がついた人である。
自分自身であるときには、安心感がある。
くつろいでいる、警戒心がない。
無防備になっている。
自分自身であるときには、コミュニケーションできる心理状態になっている。
やりたいことがあるけれど、ストレスがない。
薬で調子を崩した彼は、無理をして自分の欲求を抑えれば抑えるほど絶望感と憎しみが無意識の領域に堆積した。
無理のない人は強い。
無理を重ねている人は弱い。
彼らは仲間と仲良くしなければいけないという規範的圧力や、ひとりになるさみしさから人と仲良くするだけで、生の感情を体験していない。
自発的な感情から人とかかわっていない。
皆から軽く扱われていると無意識で分かりながら、孤独が怖くて仲間を求める。
軽く扱われているという不愉快な感情を抑圧する。
親友ではない人と親友のふりをする。
親友として仲良くしなければならないという規範に縛られていた。
嫌いという感情を無意識に追いやる。
それからの解放ができない。
友人を嫌ってはいけないという規範意識から、道に迷い出す。
元々友人という名前の「冷たい人」に過ぎない。
彼らの心には”手錠”がかけられている。
その心の手錠を外して、本当の感情を体験する。
神経症的感情ではない。
元々の本源的な自分の感情である。
残念ながら「ああ、これが楽しいということなんだ」という体験を、意図的にすることは難しい。
その体験さえできれば、自分の無意識の世界の歪みに気がつくきっかけになる。
その体験をするには、いままわりにいる人とは違った人を探すしかない。
違った人と接するしかない。