自己物語の心理と行動の繋がり
言葉が心の現象に形を与える
たとえば、中年期の危機という現象がある。
就職して仕事に慣れ、できることがどんどん増え、世界が広がり、地位が上がったり、給料が上がったり、といった上昇基調できたのが、頭打ちとなって水平飛行に移行する。
あるいは、子育て中心の生活だったのが、子どもが大きくなり、親離れしていくにつれて、子育て以外のことを中心に捉えた生活へと移行する。
それが中年期である。
体力的にも限界を感じたり、衰えが見えはじめ、無理がきかなくなる。
これまでのようなやり方がもはや通じなくなる人生の後半に向けて、どのように態勢を組み立て直すか。
それが人生の大きな転換期としての中年期に課せられた課題となる。
このように生き方の大きな転換を迫られる時期であることから、中年期の危機などということが言われる。
しかし、このような見方がなされるようになったのは、ごく最近のことである。
ちょっと前までは、親に保護されて生きる児童期と自立して生きる成人期の間にあって、子どもの生き方から大人の生き方への転換を迫られる青年期が危機であるとの見方はあっても、成人期中期、つまり中年期の危機などということは言われなかった。
中年期の危機などと言っている余裕がなかったのかもしれない。
だが、中年期の危機などという見方が広まることによって、「若い頃と違うのだし、このままではいけないんだろうなあ」「子どもが自立していったら私には何が残るのだろう」などといった不安が頭をよぎるようになる。
中年期には不安定になりがちなのだと思うことで、生活状況に含まれる不安定要因に目がいくようになり、自覚症状が出やすくなる。
いじめとかストーカーとかの流行にも似た面があるのではないだろうか。
いじめという言葉が流行っていなかったなら、ちょっと喧嘩したとかいじわるされたくらいですんだことがらが、「いじめた―いじめられた」という枠組みが意識されることによって、深刻な対立の図式ができあがってしまうということが、多分にあるように思われてならない。
ストーカーも同様だ。
しつこい気持ち、あきらめきれない気持ち、どうにも我慢できない気持ちがこみ上げてくるというようなことは、昔から多くの人が経験することがあったはずである。
だが、ストーカーという言葉がなかったなら、自分はちょっとしつこすぎるかなあ、これ以上しつこくしちゃいけないだろうなと思ったりしてブレーキがかかったであろう気持ちも、ストーカーという枠組みが意識されることによって、相手に対する一方的なしつこさを行動に移しやすくなるといったことがあるはずだ。
このように、自分の中のもやもやしたものに社会的に認知されたある形を与えることで、その形にふさわしい態度・行動が出やすくなるのである。
自己物語が心理や行動を導く
自分はストーカーだと自己定義することで、ストーカーらしく振る舞うことへの抵抗をなくしていく。
ストーカーとしての自己物語を堂々と生き、自分の中のもやもやした衝動や気持ちをことごとくストーカー的行動をとることで発散させることができる。
こうしたメカニズムは、けっして特殊なものではない。
だれもが人生はどうあるか、どうあるべきか、自分はどう生きるべきか、どう生きるしかないかに関する物語をもっている。
そうした物語が強力な自己定義として機能しており、僕たちの日々の心理や行動を導いている。
精神医学者レインは、自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを自己に語って聞かせる説話だと言っているが、まさにその通りである。
「自分とは何者か」という問いは、人々の頭を離れることのない問いとして、古くから宗教、哲学、あるいは文学の領域で扱われてきた。
学問上の扱いはともかくとして、一般の人々は、自分とは何者でありどう生きるべきであるかについては、その民族なり部族なりのもつ物語の形で了解し、それに則って態度や行動を決めてきた。
人は、このように社会的・文化的に保持されてきた物語をもとに、自分の物語をつくりあげる。
そうしてつくった自分の物語を何度も反芻する。
そのうちにその物語が自分のものとして定着し、そこからそれた行動はとりにくくなる。
人のアイデンティティは、自分の物語として、つまり自己物語として保たれているのである。
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自己物語というアイデンティティの構築
アイデンティティを支える
自己物語の作られ方
心配性の人はわかりたがり
心配性の人は、わかりたいという欲求を強くもっている。
その背後には、わからないもの、つまり得体の知れない現象に対する不安がある。
僕たちには、なんとか不安を解消しようとする習性がある。
そのためには、目の前の現象を理解することが必要となる。
他人なら他人の、自分なら自分の正体を知ることが必要になる。
学問というのも、自分たちの生きている世界を理解したいという欲求のあらわれとして登場し、発展してきたものである。
学問といわず、もっと身近なところでも、なぜあんなものが流行るのか、なぜああいう子が人気があるのか、あの人はなぜあんな行動をとるのか、といった具合に、目の前のあらゆる現象に「なぜ?」を突きつけ、その仕組みをわかろうとする。
ほんとうのところはだれにもわからないにしても、わかったつもりになろうとする。
自分についても同じだ。
なぜ自分は人から何か頼まれると嫌と言えないのだろう。
それでいて後になって断ればよかったと悔やむのだから嫌になっちゃう。
こんなふうに嘆く人は、そのうちに、自分は人から嫌われたくない、人とうまくやっていきたいという気持ちが人一倍強いから嫌と言えないのだといった答えを見つける。
そうすると、自分の日頃の行動の説明がついて、一応はスッキリする。
それで損したり、苦しんだりすることはあっても、自分の行動に関する説明がついて、自分が何者であるかのヒントが少しでも得られると、それだけで気持ちが落ち着く。
損得でなしに、わかるということそのこと自体が大切なのだ。
自己物語は硬直化する
いったん採用された物語は、あらゆる行動の解釈の指針として機能するようになる。
たとえば、ある人から感じの悪い態度をとられた際に、あの人はライバルである自分の成功に嫉妬してこちらに敵意をもっているのだという物語を採用すると、その後、その人のとる言動のいずれもが、その物語筋に沿って解釈される。
こうなると、両者の間には大きな亀裂が入ることになる。
一定の文脈が機能することによって、関係は良くも悪くも安定する、つまり固定化するのだ。
もっと好意的な物語の文脈のもとであればとくに問題とならない言動でも、敵対的な物語筋に沿って解釈されると、ことごとく悪意のあるものとなってしまう。
いったんこじれた人間関係の修復の難しさはここにあると言ってよいだろう。
自分についても同じだ。
なぜ自分はみんなとうまくやっていくというタイプじゃないんだろう。
だれとでもうまくやっている人がいるけど、どうも自分には苦手な相手とか、どうしても気にくわない相手というのがいて、そういう人には適当に合わせるということができない。
なぜなんだろう、と疑問に思う中で、自分にははっきりとした価値観があって、どうしても妥協できない一線があって、そういった主義主張をもたずに長いものには巻かれろ式にしっぽを振って生きているいい加減な人物を見ると嫌悪感をもつのだ、といった回答を得たとする。
そうすると、この骨のある自分といった自己物語が機能し始める。
こうなると、それ以降、いい加減な妥協はますますしづらくなってくる。
適当に合わせたほうがずっと楽なのにとの思いが頭をもたげそうになっても、それは自分らしくないという声がそうした安易な思いを打ち消してしまう。
いったんある物語を採用すると、他の物語的視点に立つのは困難となる。
目の前の出来事をことごとくその物語的文脈に則って意味づけていく。
ある自己物語を身にまとうと、その物語の主人公として行動するしかなくなるのだ。
よっぽどのことがないかぎり、その自己物語から抜け出すことはできなくなる。
それにより、自分の行動に一貫性が保たれるようになり、アイデンティティが保証される。