声が出るのは、頭を働かせている証拠
しゃべらなければ、人間の思考は停止します。
日本人は四十代になると伸び悩みます。
この原因が「発言不足」にあると考えられます。
日本の会議などは水を打ったように静かで、参加者はあまり質問をしないし、しづらい雰囲気さえある。
「質問も意見も反論もない=みんなが納得した」と思い込んでいるわけです。
時には、やる気のある人が張り切って質問することもありますが、「俺に盾突く生意気なヤツだ」と言い出す人がいたりする。
だから、日本の会議などは「予定調和」で終わるのでしょう。
ビジネスの現場における会議や打ち合わせにも似た雰囲気があるようです。
発言は、真剣勝負の「他流試合」です。
自分の持ちうる知識を総動員して発言し、反論されたり論破されたりしても、また発言を繰り返す。
ところが、発言という他流試合を放棄して、不戦のまますごしていくとどうなるか。
戦わないので「負け」はありません。
そこで、大半の人が「不戦勝だ」と自分に都合よく解釈してしまうのです。
不戦勝のまま生きてきた人は、他者とぶつかった経験がないから成長しません。
自分に何が足らないのかわからないのです。
不戦勝と自分をごまかすくらいなら、ボロ負けしたほうがいい。
「発言しなきゃ」というプレッシャーがあれば、人の話を真剣に聞くようになりますし、恥をかかないように勉強するようにもなります。
発言は習慣ですから、年齢を重ねるにつれ、その差が歴然としてくるのです。
毎日、ほんの10分の運動を続けてきた人と、ただ食っちゃ寝を続けてきた人では、20年も経てば筋肉のつきかたに大きな差が出てきます。
そして、不戦を重ねてきた人が40代になっていよいよ人を束ねるマネジャーの立場になった時、初めて自分の薄っぺらさに気付くのです。
発言しない人の存在はゼロ
有名なジョークがあります。
「インド人を黙らせ、日本人をしゃべらせる。それが、国際会議の名議長だ」
残念ながら、これはかなり的を射た風刺だと言わざるをえません。
日本人は発言が下手。
誰かに促されるまで口を開かない人が多いようです。
日本は「雄弁は銀、沈黙は金」と見なす国です。
おしゃべりな人物は、軽薄で信用ならないとされ、無駄なことをペラペラ話す人より黙っている人のほうが、なにやら賢く見える。
世界では、そんな常識は通用しません。
言葉の行間を読み取り、相手の気持ちをおもんぱかる「以心伝心」や「阿吽の呼吸」は、日本人のあいだでだけ通用するのです。
文化的背景が違う人々に、その感覚を理解してもらうのは土台無理なのです。
ですから、日本以外の国では「雄弁は銀、沈黙は金」という発想はさっさと捨てる。
雄弁は銀かもしれませんが、沈黙は「無」なのです。
何も発言しないでいると、「あいつはしゃべらないから、何を考えているのかわからない」と、存在自体が「無」とみなされてしまいます。
国際会議やビジネスの場でも「しゃべらない人=存在感のないつまらない人」が普通の認識なのですね。
自分から声を発する習慣がないのは、日本が安全な国だからかもしれません。
たとえば、アメリカで、屈強な大男とエレベーターのなかで二人きりになってしまった場合の緊張感たるや、すごいものがあります。
大男でなくても、「知らない人」と乗り合わせると急に不安になる。
そういう時は先手必勝で「どこからいらっしゃったんですか?」というふうにとりあえず声をかけるのです。
単に「こんにちは」でも十分です。
声をかければ相手もこたえてくれます。
言葉を交わせば、少なくとも敵ではない、自分に危害を加える存在ではないとわかります。
もし、言葉を返してこなければ、さっさとエレベーターから降りたほうが身のためです。
日本人から見ると、アメリカ人は見ず知らずの人とも気さくに言葉を交わしているように思えるでしょう。
でも、それには声を発することで自分の身の安全を確認するという意味もあるわけです。
日本にいても「今日は暑いねえ」「そうですねえ」と一言交わすだけで、和やかな雰囲気になる。
「おはよう」「こんにちは」「さようなら」と、とにかくすれ違う職場の人全員に挨拶をします。
最初は返事をしてもらえなかったけれど、そのうちみんな笑顔で返してくれるようになりました。
ところが、残念なことに最近の日本人はびっくりするくらい声を出さない。
満員電車のなかで体がぶつかっても、ギロリと睨みつけるだけで「ごめんなさい」も「すみません」もない。
一言声をかければ、それだけで人間関係はずっと円滑になるのに、本当にもったいないと思います。
大人への気配りは侮辱か
1980年代に、NHKのアナウンサーの鈴木健二さんが書いた『気配りのすすめ』という本が、大ベストセラーになりました。
アメリカで、この本の内容を実践したら、おおごとになるだろうなと思いました。
なぜなら著者がすすめる「気配り」は、アメリカ人にとって最大の侮辱になりかねないからです。
事実、次のようなケースがあります。
ある時、日本人の研究者(男性)が、若いアメリカ人女性をポスドク(博士研究員)に採用し、その後まもなく彼女が妊娠しました。
日本人なら、そんな時はたいてい「無理しなくていいよ」と気遣い、仕事の負担を減らそうとします。
彼も彼女に対してそうしたところ、「妊娠を理由に職業上の差別を受けた」として大学の人事委員会に通告されてしまったのです。
アメリカでは、18歳を過ぎると「成熟した人格=大人」として社会で扱われます。
大人は、自分の感じたことや考えたことを言葉で表現できて当たり前で、それをたがいに尊重するのが社会通念。
だから、相手が意思表示をしてこない限り、手出しは無用なのです。
「気配り」と称して勝手に憶測したりしては、相手を子ども扱いすることになります。
だから、「気配り」はアメリカ人にとって侮辱と映るのです。
彼女にしてみれば、もし妊娠後つわりなどでつらければ、自分から上司に伝えます。
それが自立した大人の行動だからです。
それを他人が勝手な憶測で「個人の領域」に踏み込んできたものだから、問題になってしまった。
逆に日本において、こういう状況で「気配り」をしなければ、「身体がつらいのに、気付いてもらえなかった」「つらいと言わせない雰囲気があった」と言われかねないでしょう。
でも、これも今後は変わっていくだろうと思います。
今、職場で20代の若者が「ゆとり世代」なんて呼ばれて、上の世代には理解不能な宇宙人のように見られているそうですが、要はおたがいの発言が不足しているからでしょう。
四十代、五十代には普通に通じる「気遣い」が、今の若い人には通じないというだけの話なのかもしれません。
「宇宙人」なんて決めつけずに、毎日もっと柔軟にコミュニケーションをとりさえすれば、自然と解決していくだろうと思うのですが。
最初に発言すれば、自分の土俵で勝負できる
どうせ声を出すなら、一番に出したほうがいい。
そうすれば自分の土俵で会話を進められるようになるからです。
たとえば、パーティで出会った初対面のアメリカ人に、いきなりフットボールの話をされたって、ほとんどの日本人は会話に入っていけないでしょう。
バックが誰だとか、そんなことを言われたってわかりゃしないから、せいぜい頷くことしかできない。
でも、前に書いた通り、頷いているだけじゃ存在感ゼロ。
ですから、フットボールの話題を出される前に、自分から野球の話などを振って会話の主導権を握ってしまえばいいのです。
一度でも話したという実績があれば、存在感は示せます。
あとは話題についていけなくなっても、笑って聞いてりゃいい。
なぜ、東大生は無口なのか
どんな状況でも臆せず発言できるようになるには、若い頃にその習慣を身につけておくことです。
「習うより、慣れろ」の精神で、とにかく発言の癖をつけてしまいます。
ある東大教授は東大での授業でそれを実践しました。
その教授は初めて東大で教壇に立った時、ショックを受けたのです。
学生たちには覇気がなく、その目は死んでいるようでした。
教授があれこれ質問をぶつけても、隣の人を見るばかりで自分から口を開こうとしない。
教授は思わず「私は君に話しかけてるんだぞ!」と言ってしまったほどです。
これではいけない、東大生に口を開かせるにはどうすればいいか。
そこで教授は「プレゼンテーション・ディスカッション・アンド・リポーティング」というコミュニケーションをテーマにした授業を作りました。
学生全員の名前をカードに書き、シャッフルして抜き出たカードで回答者を指名していくのです。
発言することに対する心理的バリアをなくすために、最初は「今日は何日?」「今日の天気は?」といった質問を投げかける。
やがて歴史問題に入り、「鎌倉幕府は何年に作られた?」と問いかけていきます。
ただし、一つだけルールがあります。
「以下同文」はダメ。
前に出た発言と同じ発言をするのは禁止したのです。
実は、これがなかなか難しい。
最初の数人までは即答できても、10人を超えたあたりでみんな、音を挙げはじめます。
「ほら、最初に発言するほうが楽だろう?」と教授が言うと、学生たちはみんな納得したようでした。
他にも学生に講義をさせて、みんなで議論したりもしました。
教授は脇役であとから内容をちょこっと補足するだけ。
おかげでみんな自分からしゃべるようになりました。
日々の訓練次第で、発言のハードルはどんどん下がっていくのです。
考えてみれば、東大生が口を開こうとしないのは不思議なことでも何でもない。
東大に合格するくらいだから、みんな小学生の頃から勉強はできたはず。
ところが、日本の学校では、勉強のできる子ほど親や先生から「おまえは(授業の内容を)わかっているんだから、黙っていなさい」と言われますし、クラスメイトからは「ガリ勉、ガリ勉」と揶揄される。
となると、黙っていることが一番賢い選択になるわけです。
だから日本では、頭のいい人ほどしゃべらず、それが社会全体として大きな損失につながるのです。
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コミュニケーション能力が育つ「2:1の法則」
アメリカ人はみんな、とにかくよくしゃべる。
どうしてだろう?と考えてみたら、やっぱり教育に秘密があるようです。
アメリカの授業では、どれだけ生徒や学生をしゃべらせるかが重視されます。
日本でも以前話題になったマイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」のように、教員と学生、または学生同士のインタラクティブ(対話型)のやりとりが重視されます。
学生には事前にテーマを伝え、大量の文献を読み込ませます。
つまり、講義に参加する学生全員が議論をするための知識を共有していることが大前提。
だから、あれほど充実したやりとりができるのです。
さらに、学生にしゃべらせるには、それなりのテクニックが必要です。
教員は授業の前に頭のなかで学生と想定問答をするのです。
この質問をしたら、あの学生はどういう反応を返してくるだろう。
別の学生ならどういう反論をしてくるだろう。
そういうふうに何度もシミュレーションをします。
これには相当の時間をかける。
サンデル先生も同じ準備をしているはずです。
こうして一連の質問と想定される回答を用意してから講義に臨みます。
たいていの学生は予想通りの答えを返してくるけれど、なかには突拍子のない発言をする人もいます。
それはそれでいい。
「うん、おもしろい意見だ!」と褒めてから、「他に意見のある人は?反対意見はないかな?」と議論を軌道修正していきます。
そんなふうに巧みに誘導しながら、どんどん発言を促していく。
いい講義とはこういう講義です。
学生の側も発言して成績につなげるには、頭の中の知識を総動員しなきゃならない。
だから、講義のために読み込んできた大量の文献の内容が対話をするなかで定着していくわけです。
対話型の授業は、知識を定着させる復習の場なのです。
成長のプロセスにおいて、「しゃべること」は何より大切です。
しゃべると脳が発達します。
大切にしたいのは「2:1の法則」。
育てられる側に「2」話させて、教える側は「1」だけ話すということです。
これは子どもを育てる場合も同じで、子どもに話をさせて、自分は「うんうん」と耳を傾けること。
母語とはいえ、子どもが話をするのは、大人が外国語で話しているようなもの。
子どもにとってはまったく新しい言語なのです。
未知の言語を組み立てながら論理を展開していくので、いいトレーニングになる。
極論を言えば、しゃべらせておけば脳は育つのです。