カウンセリングの必要性
人とかかわるのを避けるとき
語り合う仲間がいないため、社会的承認を得た自己物語をもたない場合、どうしても人とのかかわりを避けがちとなる。
不登校の相談に来た大学生にも、人とのかかわりがスムーズにいかないために教室に入れなくなったというケースが少なくない。
たとえば、講義が始まれば、教壇にいる先生のほうを黙って向いていればよいから気が楽になるのだが、教室に入ってから先生が現れるまでの数分から十分くらいの間が窮屈でしようがない。
隣の席や前の席の人が急に話しかけてきたらどうしよう、と思うだけで、胸が苦しくなって、どうにも落ち着かないというのである。
語りの場を経験していないため、自分が生きている自己物語の妥当性に自信がない。
そのため、うっかり自分のものの見方・感じ方が漏れて、相手から変なやつだと思われることを気にするあまり、人とかかわりが生じることを極度に恐れ、そうした機会を避けることになる。
学校に通えないといったケースだけではない。
たとえば、海水浴に誘われ、友達ができそうでうれしいんだけど、誘いに乗ってよいものかどうか悩んでいるといった相談もある。
もともと友達ができないことを気に病んでいたのだから、しゃべる友達ができ始め、ついに海水浴に誘われ、親しくなるチャンスが訪れたわけだ。
それなら、誘いに乗ればいいということになる。
だが、そこで気になるのが、親密なかかわりになると内面を語らなければならなくなるが、そこでおかしなやつだと思われるのではないかということだ。
まだ自信をもって示すことができない自己物語を抱えているため、どうしても防衛的な構えをとってしまうのだ。
自己を語ることへの恐れ
経験の受けとめ方をチェックし、安定した自己物語を打ち立てるには、こちらの語りにつきあってくれる聞き手を得て、自己を語っていかなければならない。
だが、自分のものも見方に自信がないために語ることをつい躊躇してしまう。
これは引きこもりがちな無口なタイプにばかりあてはまる話ではない。
常に社交話の輪の中心にいる饒舌なタイプにも見られる。
そうしたタイプには、上滑りな話を面白おかしくすることはできても、自分の内面的な経験を持ち出すような深い話ができないといった傾向をもつ人がけっこういるものだ。
だれかに語りたいという気持ちは強くもっているのだが、うっかり語って笑いものにされたらどうしよう、変なヤツだと思われたらどうしようなどといった心配が頭をよぎる。
自信がないために、よけいに周囲の人の反応が気になる。
語ることで承認を得る必要があるわけだが、否認される不安ゆえに、なかなか自己を語り出せない。
このような心理は、引きこもりがちな若者に典型的に見られるものである。
相手の反応を過度に気にし、語ることを恐れるために、自分の抱える自己物語に対して社会的承認が得られない。
他者による承認の得られていない独りよがりの自己物語を語るのは、大きな不安がつきまとう。
こうした悪循環によって、語り合いの場からこぼれ落ち、引きこもってしまうのだ。
もっとも、自己を語ることの不安は、だれもが多かれ少なかれもつ気持ちであるようだ。
親しい相手に自分の考えや気持ちをさらけ出すのをためらわせるのはどんな思いかを尋ねた調査では、「話したことを他人に漏らされたりしたらいやだから」「へたに深入りして傷つけたり傷つけられたりというようなことになりたくないから」「改めて真剣に自分の胸の内を明かすような雰囲気ではないから」「相手がこちらの話を真剣に聞いてくれるかどうかわからないから」などあげる人が多く見られた。
やはり、自己を率直に語るというのは、相手がどんな反応をするかわからないといった不安を伴うものであり、勇気を要する行為であるといえる。
語り慣れている人は、相手の反応を恐れることなく語ることができ、ますます語りの場に積極的に乗り出すというように、よい循環が働く。
逆に、語り慣れない人は、相手の反応を過度に恐れるあまり、語りの場に乗り出していけないため、ますます相手の反応を気にするようになるといった悪循環に陥る。
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現代のカウンセリング・ブームの意味するもの
カウンセリングというのが、ここ数年で急速に社会に浸透してきた。
ちょっと前までは、カウンセリングとかカウンセラーとかいった言葉さえよく知らない人が圧倒的多数を占めていたはずである。
今も正確に理解している人は少ないかもしれないが、カウンセリングは日常会話においてだれもが気軽に使う言葉のひとつになっている。
注射をしてもらったり、薬をもらったりすれば、いかにも医療行為をしてもらったという気持ちになれるけれども、話を聞いてもらっただけで医療報酬を支払うのには抵抗があるだろうから、カウンセリングなど流行らないだろう、などと言われた時代があった。
だが、今や話を聞いてもらってお金を払うのがごく当然のこととして受け入れられる時代になってきつつある。
そうでなければカウンセリング・ブームと言われるほどに癒しビジネスが流行ったり、カウンセラーが高校生の間での将来つきたい人気職業になったりはしないだろう。
このことが意味しているのは、多くの人々が自分の現実に合った自己物語をもてずに不安定な心理状態に置かれているということ、そしてより自分にフィットした自己物語を探し求めているということである。
そのため語りの場を得ることが必要なのだが、身近によい聞き手が得られない。
どんな反応が返ってくるかが心配で、なかなか胸の内を語れない。
そこで、カウンセリングに救いを求めることになる。
自分が置かれている状況をうまく説明してくれる自己物語がもてないとき、日々の生活が意味のないものに思われてくる。
「自分の人生の意味がわからない」「自分が何のために生きているのかわからない」「そもそも自分がわからない」「だから、毎日が虚しく過ぎていくだけで苦しい」ということになる。
そこで、自分の日々の生活を構成する要素を秩序だて、意味づけてくれる物語的文脈を求めて、カウンセリングに頼ることになる。
カウンセリングの場で行われるのは、一般に自己の探求そして自己理解を促進するための語り合いである。
いわば、自分の過去から現在に至る経験に意味のある道筋をつけてくれる物語的文脈の探求である。
自己理解とは、納得のいく自分なりの物語を手に入れることだと言ってよいだろう。
カウンセラーはプロの聞き手
カウンセリングの場というのは、カウンセラーによる受容が一方的に保証されているという点で、通常の人間関係においてもたれる語り合いの場とは性質がまったく違うものとなっている。
自己を率直に語ることをためらわせる要因として、相手がどんな反応をするかわからないという不安、つまり笑われるかもしれないし、バカにされるかもしれない、変なやつだと思われるかもしれない、理解してもらえないかもしれない、他の人たちに漏らされるかもしれないなどといった不安がある。
通常の対等な人間関係においては、このような反応は十分あり得るものだ。
しかし、カウンセラーとクライエントとの関係は、通常の人間関係とは異なって対等な関係ではない。
カウンセラーというのは、プロの聞き手であって、一方的にクライエントを配慮し、その語りに受容的に耳を傾けてくれる。
そんなカウンセラーが相手なら、否定的な反応を恐れることなく、思い切って自らを語ることができる。
そのような安全が保障された語りの場に置かれてはじめて、人は自らを不安なしに語ることができる。
十分に語り、また何度も語り直すことによって、機能不全に陥っている自己物語の不適切な部分の点検が行われ、今置かれている現実に、よりふさわしい自己物語が模索される。
新たな文脈のもとに過去から現在に至る歴史を照らし出し、また未来へと向かう展望を照らし出す。
意味があると思われる経験素材を掘り起こし、それらに一定の意味の流れをつけていくうちに、現在の自分によりふさわしい自己物語が生成してくる。