ある官庁に勤めていた人が、「自分は役所で字が書けなくなってしまったので、辞めようと考えているのですが」という相談に病院を訪れました。
話を聞くうちに、つぎのようなことがわかってきました。
彼は有能な官吏でしたが、ある日、上司の前で字を書く仕事をしました。
そのとき、ふとそのときの状況を意識してしまい、手が震えてしまったのです。
以来、彼は上司の前で字を書くことが苦痛になり、いつしか上司の前では字が書けなくなってしまいました。
さらにそれが高じ、一般の事務をとるときでも、同僚の目が気になり一字も書くことができなくなってしまったのです。
そのうちに彼は左手なら書けるのではと考え、訓練を重ね、ついに左手で書けるようになりました。
はじめのうちは、それでなんとか仕事ができたのですが、そのうち左手で書いても、震えるようになってしまったのです。
彼は絶望的になり、上司に理由を説明して辞意を表明しました。
それに対して上司の答えは「君に字を書くための女性をつけよう」でした。
彼は悩み、この時点で相談にきたのです。
医師はその上司に会ってみました。
上司のほうは、「字がふるえてもかまわないから、とにかく辞めてもらっては困るのです」といいました。
さらに聞くと、法律の分野に専門知識をもっている彼は、省内での重要な戦力だというのです。
このケースの場合、辞めたくなった理由はたいへんはっきりしています。
彼は「手が震えたらおかしい」と考え、そのことばかりを思い悩んでいたので、ますます事態が悪化したのです。
すなわち彼は、本来神経を使わなければならない仕事に対して「非神経質」であったわけで、自分の法律知識を生かすことが大切だということを失念してしまっていたのです。
「字さえうまく書ければ何事もうまくいく」-こう考えた結果、「字が書けないという事態」が、より重くのしかかってきたのです。
そこで医師は「字が書けなくてよいのだ」「震えて当然なのだ」というあるがままの心で生活するようにいいました。
同時に、本来の目的に神経質であればあるほどよいこと、つまり震えない字を書くことに神経を使うより、専門知識を生かすのに神経を使うことのほうが大切であり、上司もそれを望んでいるともいいました。
また左手で書くことを禁じ、どんなに震えてもよいのだから、右手で書くように指示しました。
彼はこれに素直に従い、手が震えるのは当然と受け止めて震えを直そうとしなくなったため、本来の仕事に集中するようになり、その結果、問題の症状はいつのまにか消えてなくなりました。