「人間関係が苦手」な人に贈るアドバイス

人間関係が苦手とは

人間関係が苦手の心理

人とコミュニケーションする上で大切なのは、人間関係の距離感である。

「はやく食べて」という同じ言葉でも、言っていいときもあるし言って悪いときもある。

「この親しさでは言っていい」というときと、「この近さでも言ってはいけない」というときがある。

人間関係が苦手な人のコミュニケーションの第一歩は、相手を見ること。

人間関係が苦手な人はコミュニケーションで次に大切なのは、関係。

こういう言葉を言っていいとか、言って悪いとかいうのではない。

人間関係が苦手な人は、この関係の中で言っていけない言葉というのがわからない。

よく「使ってはいけない」といわれる言葉があるが、本当は、どんな言葉でも使っていい。

しかし逆にまた、どんな言葉でも使ってはいけない。

その言葉を使っていいか、いけないかは関係の中で決まる。

つまり自分と相手の関係がわからないと、コミュニケーションできない。

さらに人間関係で大切なことは、自分の位置がわかっていることである。

それらがわかると、その人との距離感や位置関係に応じたマナーができる。

したがって社会生活がうまくいく。

遠い人には遠い人にふさわしいマナーがある。

近い人には近い人に相応しいマナーがある。

先輩には先輩に対する態度がある。

同僚とは違うマナーがある。

それがわからないと、人間関係が苦手な人はこちらは善意のつもりでも、相手にとっては不快な人間になることがある。

人間関係が苦手な人はたとえばこちらが善意のつもりでも、「厚かましい人」と思われる。

事実、人間関係の距離感がわからなければ「厚かましい人」になる。

「親しいことはいいことだ」といっても、それは人間関係の距離感を考慮してのことである。

人間関係が苦手な人は自分と相手の立場がわからなければ、好意のつもりでも「なれなれしい人」になってしまう。

人間関係が苦手な本人は相手のためにしたつもりでも、ときにはおせっかいな人と思われ、好意は迷惑になる。

「親しい人」と「なれなれしい人」とは違う。

なれなれしい人間関係が苦手な人にはけじめがない。

それぞれ言葉は違うが、人間が心理的に成長してはじめて、対象との距離ができるということである。

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”けじめ”をつけることを心がける。

幼なじみと、会社の同僚との人間関係の距離感は違う。

会社の同僚と、学生時代の仲間とは人間関係の距離が違う。

学生時代のクラブの仲間と、昨日知り合った人とは人間関係の距離は違う。

同じ教授と学生でも、講義の始まる四月と講義の終わる二月では人間関係の距離感は違う。

著者と編集者でも同じことである。

十年一緒に仕事をしている著者と編集者の人間関係の距離感と、はじめて一緒に仕事をする著者と編集者の人間関係の距離感では違う。

それは、お互いに意識しているものではない。

ところが悩んでいる人間関係が苦手な人の多くは、この人間関係の距離感がわからない。

人間関係の距離感のない人間関係が苦手な人は、すぐに”お友達”になってしまう。

そこで相手が不快に感じる。

人間関係とはあくまでも相互性である。

なれなれしさと親しさとは違う。

とにかく”けじめ”をつける。

つい「うわべ」だけで、相手を見てしまうのは・・・

人間関係の距離感がわからない人間関係が苦手な人は、誰ともコミットしていない。

悩んでいる人間関係が苦手な人は、現実とコミットしていない。

自分にとって大切な親友が一人でもいる人は、相手にとって自分が親友でない場合の、相手から見た自分の位置が理解できるはずなのである。

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独りよがりな人間関係が苦手な人にとって、他人はそれぞれ個性を持った一人の人格者なのではなく、皆同じ人間にしか過ぎない。

あの人は誠意がある人だし、あの人は自分とは肌が合わないし、あの人の生き方には自分はついていかれないけど、あの人には何となく親しみを感じる、そのような人と人との違いは、独りよがりな想像の世界で生きている人間関係が苦手な人にはない。

独りよがりな人間関係が苦手な人は、「あの人の利己主義はかなわない、あの人の思いやりは嬉しい」とかいうことはなく、ただただ「相手が自分をどのように評価するか」ということにしか関心がない。

人間関係が苦手な人はそういうことに関しての他人しかいない。

自分の側に、人間関係の親しさに違いがあれば、相手の側から見ても親しさの違いがあるということが理解できるはずである。

その相手の人間関係の中で、自分がどのような位置にいるかは理解できる。

動物の好きな人は、犬と一緒にいるほうが見知らぬ人と時を過ごすより充実しているかもしれない。

動物が好きであればそれが理解できる。

だから、相手が犬と過ごす時間を大切にする。

独りよがりな想像の世界にいる人間関係が苦手な人は、相手が自分にどのようなことを要求しているかが理解できない。

しかしもし現実を敵視するなら、人間関係の距離感はなくなる。

だから人間関係が苦手な神経症者は人間関係の距離感がない。

敵にもいろいろな色があるのだが、人間関係が苦手な神経症者にとってはすべて同じ色である。

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人間関係が苦手な人は相手との「ちょうどいい距離感」は、こうしてつかむ

悩んでいる人間関係が苦手な人は、人間関係の距離感がわからない。

人間関係が苦手な人はそんなことを頼んだら、誰だって断られるというようなことを頼んでいる。

なのに人間関係が苦手な人は「私は」あるいは「私が」断られたと思っている。

しかし人間関係が苦手な人は「私が」断られたのではない。

だれでも断られる。

人間関係が苦手な人はだれでも嫌がられることをして「私は」嫌がられたと思っている。

人間関係が苦手な人はさらに望ましくないことが起きると、それを「自分の弱点」と結び付けて解釈する。

断られたのは「私」ではなく、その行為である。

その言葉である。

たとえば親しくない人に愚痴をこぼす。

近くない人に不満を言う。

悩んでいる人間関係が苦手な人は、近くない人に心の中の深刻な問題を話す。

人間関係が苦手な人は昨日知り合ったような人に、自分の親族の問題を話す。

人間関係が苦手な人は「私はこんなひどい目に遭った」と言う。

人間関係が苦手な人は近い関係でない人に、いきなり「暗いだろー、オレの顔」と言ってしまう。

人間関係が苦手な人は誰だって逃げるようなことをして、「あの人は”私だから”逃げた」と解釈する。

恥ずかしがり屋の人間関係が苦手な人は、人に気軽にものを頼めない。

そこで恥ずかしがり屋の人間関係が苦手な人に「もっと、気軽に人に頼んでもいいんだよ」とアドバイスしたとする。

すると人間関係が苦手な彼らはどうするか。

人間関係が苦手な人はぞんざいな頼み方になってしまう。

人間関係が苦手な人は気軽とぞんざいの違いがわからない。

人間関係が苦手な人は気軽も、ぞんざいも、失礼も、無礼も、無神経も皆、一緒になってしまう。

人間関係が苦手な人はあまり関係のない人に「おい、これ頼むよ」という無神経な頼み方が、気軽に頼むことと受け取ってしまう。

人間関係が苦手な人は人にものを頼むということは、「関係の中」で依頼するということなのだと理解できない。

どんなに親しい人でも、頼めば頼んだで、それに対する感謝の気持ちがあるのが正常である。

礼儀である。

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なぜ、人間関係が苦手な人は気軽も、ぞんざいも、失礼も、無礼も、無神経も皆、一緒になってしまうのだろうか。

それは、人間関係が苦手な人は相手とコミットしていないからである。

人間関係が苦手な人は「こうした頼み方をしたら相手はどう感じるだろう」とは、まったく考えていないからである。

人間関係が苦手な人は「もし見知らぬ人からこうした態度をとられたら、相手は気味が悪くなるのではないか」とはまったく考えていない。

人間関係が苦手な人は相手とコミットしていないということは、自己執着が強いということでもある。

コミュニケーションに大切な「二つの質問」

「相手がどういう人か」ということと、もう一つ、「相手がこちらをどう見ているか」ということが重要である。

もちろんこの二つは深く関係しているが、コミュニケーションで大切なことは、「相手がこちらをどう見ているか」を理解することである。

相手がこちらを尊敬しているのか、バカにしているのか?こちらにおびえているのか、こちらをなめているのか?

利用しようとしているのか、親切をしようとしているのか?騙そうとしているのか、親しくなりたいと思っているのか?

ただお世辞を言ってこちらを操作しようとしているだけか?

それとも本当にほめているのか?

それらのことをまったく考えない人間関係が苦手な人達がいる。

それは自己執着の強い人とか、自己防衛の強い人とか、愛情飢餓感の強い人とか、自己無価値感に苦しむ人とか、幼児的願望が解消していない人とか、劣等感が深刻な人とか、恥ずかしがり屋の人とか、対人恐怖症といわれるような人間関係が苦手な人達である。

要するに人間関係が苦手な人は現実にコミットしていないで、独りよがりの想像の世界にいる人である。

こういう人間関係が苦手な人達は、先に書いたように相手を見ない。

そして人間関係が苦手な人は相手が自分をほめてくれれば、その人が”いい人”になってしまう。

わかりやすくいえば、人間関係が苦手な人は人と接するときに「私をほめてくれる―非難する」という軸しかない。

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自分の心の問題で精一杯な人間関係が苦手な人は、相手が見えない。

人間関係が苦手な人は相手の気持ちをくみ取れない。

シーベリーは「注意に注意せよ」といっているが、この人間関係が苦手な人達の注意はつねに、自分に向いている。

人間関係が苦手な人は相手に注意が向いていないから、相手とコミュニケーションはできない。

人間関係が苦手な人は「有能な人」とか「可愛い女」とかで、必死で自分を売り込んでいる。

そういう人間関係が苦手な人は、すべての心の通路が閉まっている。

人間関係が苦手な人は相手とコミュニケーションできない。

自分を売り込むことに精一杯な人間関係が苦手な人は、相手を見ていない。

自分を売り込む人間関係が苦手な人は、愛されることを求めている。

それは愛する能力がないということである。

人間関係が苦手な人は注意が自分に向いている。

自分を「いい女」と売り込んでいる人間関係が苦手な人は、コミュニケーションはできない。

自分の悲しみを誇示する人間関係が苦手な人も、相手を見ていない。

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人間関係が苦手な人は「不完全な人」ほど、実は好かれる

相手を見ていない人間関係が苦手な人達は、人間関係の位置や距離感がわからない。

そこで人間関係が苦手な人は近い人に向かってさえも、ありのままの自分を隠して、たとえば無理をして「完全な自分」を演じようとする。

だから、人間関係が苦手な人は誰といても辛い。

人間関係が苦手な人は誰といてもリラックスできない。

人間関係が苦手な人は誰といても疲れる。

人間関係が苦手な人は「周囲の世界は、完全ではない自分を受け入れてくれる」という安心感がない。

人間関係が苦手な人は周囲の人への信頼感がない。

「弱点があっても自分は受け入れられる」という安心感があって、人は心を開くし、はじめてコミュニケーションもできるし、自己実現もできる。

親しい人には弱点をあらわしても許される。

それが「親しい」ということである。

しかし遠い関係の人には、弱点を出していいというものではない。

それがマナーである。

人間関係の距離感がわからない人間関係が苦手な人は、逆に遠い人に向かって延々と愚痴を言ったりする。

親しい人にこぼすべき愚痴を、遠い人に言ってしまう。

悩んでいる人間関係が苦手な人の手紙を読んでいると、つくづくとそれを感じる。

悩んでいる人間関係が苦手な人は、悩みの原点がわかっていない。

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こうすれば、悩みの90%は氷解する

人間関係の距離感がわからないということが、彼らの悩みの原点なのである。

それがわからないから、悩んでいる人間関係が苦手な人は自分がなんで手紙を書いているかを忘れる。

会ったこともない人間関係が苦手な人に向かって、ダラダラと愚痴を書いている。

ダラダラと愚痴を言うのが悪いのではない。

ダラダラと愚痴を言うのは、近い人に対してすることである。

遠い人に対して、してはいけない。

悩んでいる人間関係が苦手な人は基準がわからない。

自分はこういう人間である、相手はこういう人間である、そして自分と相手はこういう関係である、ということがわからない。

要するに、悩んでいる人間関係が苦手な人は、何をするにも座標軸がない。

人間関係が苦手な彼らの悩みを解決するためには、彼らの考え方の原点を”人間関係の距離”ということに戻さないといけない。

人間関係が苦手な人は自分は今まで怠けて生きてきているのに、「あー、こんなことができない」と言う。

誠実に生きてこなければ誠実な友達はできない。

悩んでいる人間関係が苦手な人は、自分の過去を忘れる。

原点に戻る人は、悩みを解決しようとしている。

原点に戻ろうとしない人間関係が苦手な人は、悩みを解決しようとは思っていない。

自分の過去を振り返るということは、自分がしてきたことを考えるということと同時に、自分を取り巻いていた人のことを考えるということである。

悩んで、あまり親しくない人に愚痴を言う人間関係が苦手な人は、愛されなかった人達。

幼児期からありのままの自分を受け入れてもらえなかった人間関係が苦手な人達。

どんなに働いても、その努力を認めてもらえなかった人間関係が苦手な人達。

愛されないで逆にいろいろなことを期待され、要求されてきた人間関係が苦手な人達。

どんなに傷ついても誰も慰めてはくれなかったけれども、逆に周囲の人の慰み者としてしか生きてこられなかった人間関係が苦手な人達である。