ひきこもりの克服には「そこにある」ことに納得する
ひきこもりの状態にある人と、きちんと向き合うことは、きわめて困難なことです。
なぜなら、私たちには基本的に「働かざるもの食うべからず」という価値観が、骨がらみに染み付いているからです。
このため私たちがとってしまいがちな態度は、社会的ひきこもりを「否認」する態度です。
つまり、まさにそこにいるにもかかわらず、何もないふりをすることです。
その結果のひとつが、彼らに対する「叱咤激励」ということになります。しまいそう
しばしば「お説教」や「議論」の誘惑に負けてしまいそうになります。
それどころか、時には「彼らは甘えている」「怠けている」「権利を主張しつつ責任を回避している」「両親に責任転嫁している」などといった、どこかで聞いたような紋切り型が、ふと頭をよぎることすらあります。
ひきこもり事例と向き合うためには、まずこうした社会通念、言い換えれば「ひきこもりを否認したい衝動」と戦わなければなりません。
そのために重要なことは、「社会的ひきこもり」という状態が、ともかくそこにある、という事実を認めることです。
言い換えるなら、彼らが「人として間違ったあり方をしている」という見方をしてはならないのです。
そうではなくて、彼らが何らかの形で援助や保護を必要としている、という視点を受け入れることです。
お説教や議論、時には暴力などによってそれを「否認」するやりかたは、失敗する可能性がきわめて高いことを、ここであらためて強調しておきましょう。
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努力と叱咤激励の限界
ひきこもり状態が数年以上続いて慢性化したものは、家族による十分な保護と、専門家による治療なしでは立ち直ることができません。
この点については、断言しておきます。
そのような援助なしに改善した事例の話を、これまで聞いたことがないということ。
専門家の事例でも、濃密な治療的関与なしに立ち直っていった事例は皆無であること。
それだけではありません。
何よりも、家族がひきこもり事例を抱え込もうとする態度を警戒しています。
抱え込ませないために、あえて挑発的に「慢性化したひきこもりは、本人ひとりの努力や家族の叱咤激励だけではけっして治らない」ということを、これほど強調しているのです。
長期化したひきこもり状態にとっては、このような個人システムあるいは家族システム内部だけの努力では、どうしても限界があるからです。
なるほど、「ひきこもり」のごく初期段階では、努力や激励によって立ち直っていく可能性もまったくないとはいえません。
ただし、いずれの時期にも親の権威によって一方的に押さえ込むこと、過度に感情的な態度をとること、本人の意見を封じてしまうこと、なかば暴力的に従わせること、これらが問題外なのはもちろんです。
こうしたやり方は単なる外傷体験にしかならないでしょう。
このような方法でいっとき「立ち直った」かにみえたとしても、それは問題を先送りしただけのことで、「再発」は時間の問題です。
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一方方向的な受容の弊害
努力と激励が無効であると宣言されると、それでは何でも受容していけばいいのか、ということになります。
しかし、こちらも極論です。
受容を基本姿勢にしなければ治療にならないのは当然ですが、しばしば忘れられているのは、「受容するためには枠組みが必要である」という常識です。
相手のすべてを受容しようとする人は、相手を所有したがっているのでなければ、みずからの万能に酔っているだけです。
治療の場面でも、どのように受容の限界を設定するかは、たいへん重要なテーマです。
「一方的な受容」は、一方的なお説教と同じくらい、有害であると考えます。
いずれの場合も、そこに十分なコミュニケーションが成立していないからです。
相手が不可解な行動を取り、そのために周囲が困惑する。
そのような状況が起こったとき、私たちはまず、その相手との対話を通じて、理解と共感を試みるでしょう。
これは「治療的」というよりはむしろ「常識」です。
あらゆる「ひきこもり」の事例が、最初から理解と保護の手だけを待ち受けているわけではないのです。
親からの必死の説得によって、社会参加に向かう事例も皆無とはいえません。
そのようなやり方が、つねに有害であり、信頼関係をそこなうとは限らないのです。
なんといっても、一番社会復帰を切望しているのが、当の本人たちなのですから。
わが子が社会を避けてひきこもりはじめたら、まずその理由を尋ねてみましょう。
そして、少なくとも一度は、じっくりと説得を試みてほしい。
そのような試みによって、果たして本人がどんなことを悩んでいたのか、初めて明らかにされることもあります。
対等にちかい立場でお互いの意見を述べあうことは、たとえ反発を買うにしても、よいコミュニケーションのきっかけになりうるでしょう。
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外傷体験の回復
ひきこもりの克服の過程でよく、「ひきこもり」の治療を成熟の問題と結びつけます。
しかし「成熟とは何か」とあらためて問われると、これはまたきわめて難しい問題です。
精神医学、とりわけ精神分析の分野では、まさに「成熟」は一大テーマです。
しかしここでは、ごく実用的な視点から、成熟のありようをごく簡単に述べておきたいと思います。
「成熟のイメージ」は、次のようなものになります。
「社会的な存在としての自分の位置づけについての安定したイメージを獲得し、他者との出会いによって過度に傷つけられない人」。
それでは「成熟」は、いかにして可能になるか。
それが「外傷への免疫の獲得」という過程ではないかと考えています。
「心が傷つき、そこから回復する」ことは、「感染症にかかり、回復する」ことと似ています。
つまり、あとに「免疫」に似た変化が残るという点です。
できれば感染症にはかかりたくないのは誰にとっても当然ですが、しかしある程度雑菌にさらされたり、時には軽い感染症などを経験しなければ、細菌に対する免疫機能は発達しません。
ここで重要なことは、何らかのかたちで感染を経験すること、そしてその感染から確実に回復させること、の二点になります。
免疫と外傷が似ているのは、それが他者との出会いによって生ずるという点です。
もちろん、他者との出会いがすべて外傷になるわけではない。
しかし本当の意味で重要な他者との出会いは、どこか必然的に外傷性を帯びてしまうのではないでしょうか。
それは暴力的な他者かもしれない。
「死」や「喪失」といった、抽象的な他者かもしれない。
あるいは人を魅了してから見捨てるような他者かもしれません。
そのように予測を超え、コントロールできない存在としての他者をどう受け入れ、乗り越えていくか。
人は「成熟」に際して、いやおうなしに外傷を体験します。
ただし、それだけでは足りません。
もう一つの重要なことは、外傷を体験した人は、外傷から回復する機会を十分に与えられる権利があるということです。
「成熟」の過程で欠かせないのは、この「外傷の体験と回復」というセットなのです。
そしてこのセットを可能にするのが、まさに「他者との出会い」にほかなりません。
ただ傷つけられる一方では、他者の外傷的な恐ろしいイメージしか残りません。
しかし、他者の支持によって癒されることを経験すると、「ただ恐ろしいだけのものではない」という、より正確な他者イメージが獲得されるでしょう。
その意味で「外傷への免疫の獲得」とは、「有効な他者のイメージ」を学習する過程でもあります。
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ひきこもりにおける他人との出会いの欠如
一般に、ひきこもっている青年たちは、傷つけられることを非常に恐れます。
心ない一言で、みずからの存在自体が否定されてしまいかねないことをよく知っているからです。
もちろん、彼らのこうした恐れは、十分に尊重されるべきです。
しかし、ひきこもり続けている限り精神的な成長が起こらないこともまた、一つの現実なのです。
その理由はもうお判りでしょう。
ひきこもった生活には、もはや他者との出会いもなく、したがってリアルな外傷も、そこからの回復も、一切ありえないからです。
言い換えるなら、彼らにとっての他者のイメージは、たんに外傷をもたらすだけの、迫害的なイメージにとどまっているのです。
それでは家族は他者ではないのか。
もっともな疑問ですが、あえていえばその通りです。
ひきこもり事例においては、もはや家族は、他者ではありません。
彼らにとって家族は、あたかも自分の身体の一部のようなものとみなされます。
家庭内暴力が可能となるのは、家族をあたかも自分の一部のように取り扱うからです。
コミュニケーションの回復をしきりに強調するのは、まさに家族の他者性の回復のためです。
独り言がコミュニケーションではないように、あたかも自分の一部のような家族とのやりとりは、コミュニケーションからはほど遠い。
たとえ肉親であろうと、自律的な判断と行動の権利を持つ個人であるという認識があって、はじめてコミュニケーションの可能性が開かれるのです。
さきほど述べたように、他者との出会いのない「ひきこもり」状態においては、リアルな外傷はありにくい。
しかし彼らは現実に傷ついており、また「自分がひどく傷つけられてきた」というイメージに打ちのめされています。
とりわけ隠れた外傷体験としての「いじめ」については、休養と同時に周囲からの全面的な理解と、心理的支えが不可欠です。
「いじめ」が深刻な外傷体験として、数十年を経た後も癒えにくいのは、そこから回復するためのルートが徹底して塞がれているためでもあります。
初期の「ひきこもり」における休養としての異議は、ここにあります。
彼らがひきこもる理由を理解すると同時に、外傷からの回復のために十分な休養の機会を与えること。
これによって、一部の事例は自らの力で立ち直っていくことが可能になります。
しかし、長期のひきこもり事例では事情が異なってきます。
長期化すればするほど、それはあたかも自分で自分を傷つける行為に近づいていくのです。
ひきこもりを放置すべきではない理由はここにあります。
自傷行為の悪循環(=「ひきこもりシステム」)から抜け出すためには、他者による介入が不可欠だからです。
したがって長期ひきこもり事例の治療において重要なのは、「他者による介入をいかに有効に行うか」ということになります。
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どうして治療が必要か
それでは、すべての「社会的ひきこもり」は、本人の意向にかかわらず、治療されるべきものなのでしょうか。
結論からいえば、「治療されるべきである」と考えています。
ただしそのさい、精神科病棟への強制的な収容というイメージに代表されるような、いかなる強制もなされるべきではありません。
しかし同時に、本人が治療を拒否する場合でも、両親には治療的環境を整えつつ、本人を治療へと誘導する権利はあります。
その根拠として、治療相談の開始は早いほどよいという、実際的な理由がまず挙げられるでしょう。
本人を病院に連れて行こうかどうしようかと迷い続けるうちにも、みるみる時間は空費されます。
時とともにひきこもり状態がこじれてしまい、結局は強引に病院で受診させるはめになったという事例も少なくありません。
こうした迷いやためらいは、明らかに無意味であり、しばしば有害でさえあります。
本人はともかくとして、両親だけでも迷わずに治療へと踏み出し、本人への働きかけを開始すること。
この一歩を迷う必要はまったくありません。
ひきこもり事例の治療は、なぜなされなければならないのでしょうか。
社会学者のタルコット・パーソンズという人が、病者の権利について、次のようなことを述べているそうです。
「病者は労働を免除され、治療を受ける権利がある。また病者の義務とは、治ろうとする意志を持ち、治療者に協力することである」。
そう、健康な成人の義務が労働であるとするなら、病気にかかった成人の義務は「治療努力をすること」なのです。
このように断定することで、素朴でしっかりした「臨床の視点」を定めることが可能になります。
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「治療主義」との批判はもとより覚悟の上です。
思春期問題については、治療もさることながら、家族の対応が半分以上を占めるといっても過言ではありません。
つまり適切な対応法さえ心得ていれば、それだけでも本人の苦しみを相当程度、やわらげることが可能になるのです。
家族への電話相談や手紙相談をおこなうのも、まさにこの点に思い至ったことがきっかけになることがベースとなっています。
多くの家族が、まず何をどう対処してよいか判らずに苦しんでいる。
対処法がはっきり示されれば、まず家族が安定する。
家族が協力し合って、専門家と連携しつつねばり強く問題に取り組むことで、この種の問題は半ば近くまで解決しうるのです。
もしここに書かれていることが十分に実行されれば、それだけで事態が好転する可能性が多いにあります。