ひきこもりの克服を日常生活の中で

ひきこもり克服の第一歩は声をかけることから

ひきこもり事例の約半数で、家族との会話がきわめて乏しくなっています。

このような場合、まず家族と本人の会話を復活させることが最優先課題です。

ここでは、そのための具体的なテクニックについてふれておきます。

ほとんど口も利かず、それどころか家族ですら、もう何カ月も本人の顔をみたことがないという事例も珍しくありません。

しかし、どれほど徹底して家族を避けているようなケースでも、息をひそめつつ、家族の動静を細大漏らさずうかがっているのは確かです。

両親が急に話しかけるようになると、本人はすぐに気付きます。

「おや、また何かはじまったぞ」それから、彼(女)はさまざまに推測するでしょう。

「今度はどこの入れ知恵だろう。また新聞で『ひきこもり特集』でも読んだんだろう。

どのくらいもつか、ひとつみていてやろう」。

だいたいそのような視線がむけられていることを意識しつつ、両親は働きかけをはじめることになります。

手はじめはまず、「挨拶」からです。

おはよう、行ってきます、ただいま、おかえり、いただきます、ありがとう、おやすみ、そういった程度の声掛けからはじめてみること。

これはけっして、本人に対してのみならず、家族みんなができるだけ挨拶を交わすようにすれば、なおよい影響があるでしょう。

もちろん本人は挨拶を無視するでしょうし、時には迷惑そうな態度すらみせるかもしれません。

しかし、挨拶することで本人が深く傷つくことはありません。

少々押し付けがましくとも、挨拶を励行することが第一歩です。

そして、くどいようですが、一度はじめた挨拶は、けっして自然消滅などしないように、配慮されるべきです。

しばらく挨拶だけの働きかけを続けていると、本人のほうから声をかけてくることもあります。

貴重な会話のいとぐちですから、その機を逃すべきではありません。

何でもないやりとりでも、できるだけたくさん、「口を利く」機会を設けましょう。

まだ会話と呼べるものはなくとも、こうした機会が増えるにつれて、本人の家族への警戒心は、確実に薄れていくからです。

どうしても挨拶一つ返さないという場合は、メモを併用してみましょう。

こちらも、内容はささいな、なんでもない言葉を一言か二言書いてあれば十分でしょう。

「ごはんのおかずは何がよいか」とか、「出かけるついでに買ってきてほしいものがあるか」といったものが無難でしょう。

「庭の花がきれいだよ」といった、時候の挨拶のようなものでも構いません。

本人を刺激しないためには、むしろできるだけ些細な、平凡な内容のものが望ましいでしょう。

しばしば会話が不自然になるとか、どうも緊張してうまく話せないという親がいます。

しかし、長年ひきこもって話もしなかった子どもに話しかける時、ぎこちなく不自然にならないほうがどうかしています。

わざとらしくても、不自然でも構わない。

要は本人に、親が自分とはなしたがっていること、またそのために大変な努力を試みていること、そうしたことが伝わればいいのです。

声をかける際に、注意しなければならないのは、本人が自分の部屋にこもっている場合、必ず部屋の外から声をかけるようにするということです。

信じがたいことですが世の中には、ノックもせずに息子の部屋のドアを開けたり、あるいはノックしても返事も待たずにドアを開ける親もいるようなのです。

こうした行為は治療的でないばかりか、常識的ですらありません。

まだ会話が成立してない段階なら、本人のプライバシーを最大限に尊重するという姿勢を、はっきり示す必要があります。

そのためにも声掛けは、ドアを開けずに部屋の外からするのが望ましいのです。

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ひきこもり青年と会話をどのようにして続けるか

よく会話はキャッチボールにたとえられます。

つまり相互性のあるやりとりということです。

相互性のないやりとりは、単なる独り言と大して変わりません。

その意味で、上から見下ろすような話し方、やたら決めつけるような断定的なものの言い方は好ましくありません。

むしろできるだけぼかした、ソフトな言い方が望ましいのです。

「それは〇〇に決まっている!」とか、「世間では××があたりまえなんだ」という言い方ではなく、「どうもそれは〇〇なんじゃないかなあ」とか、「お父さんは、××がいいように思うけど、あなたはどうか」という言い方です。

これが板についてくれば、コミュニケーションはずっと深まりやすくなるでしょう。

ちなみに、本人への呼びかけは、「お前」や「君」では反発を買いやすい。

私は本人の名前(呼び捨てないし「さん」づけ、「君」は不可)か「あなた」と呼びかけることを勧めています。

話題として、将来のことや同世代の友人の話は避けるべきであることがらです。

しかし本当は、避けるべき話題の細目を網羅するより、ひきこもっている本人の身になって考えてみることが大切です。

自分の人生は失敗であり、すっかり出遅れてしまったと考えている人に、将来の話、仕事の話、結婚の話などを持ち出すことの残酷さ。

過去の楽しかった頃の思い出話すら、本人は忌避します。

同じくらいの年齢のタレントの話題なども、少しずつ本人を傷つけています。

話題としては、時事的、社会的なことがらあたりが、もっとも無難でしょう。

事実、世界情勢にはかなり関心の高いひきこもり青年も少なくありません。

これに限らず本人に何か趣味がある場合は、それについていろいろと尋ねてみることも悪くないでしょう。

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ひきこもり青年の金銭に関する三原則

思春期問題において、「お金」は、大変重要な位置を占めています。

ひきこもりに限らず、思春期事例の克服への試みにおいて、お金の扱い方には原則があります。

それはまとめると、次の三つほどの原則になります。

  • 小遣いは、十分に与える
  • 金額は必ず、一定にする
  • その額については、本人と相談して決める

この最初の項目をみただけで、もう不安に駆られる家族も少なくないでしょう。

小遣いを十分に与えたりしたら、仕事をする気がなくなってしまう、と危惧する人もいるでしょう。

しかし、ほんとうに共感が成立していれば、このような発想は出てきません。

本人がひきこもっているのは、けっして「働きたくないから」ではなくて、「働きたいのにはたらけないから」なのです。

ほとんどのケースで、なんとなく「欲しい時に欲しいだけ」という、あいまいな形でお金がやりとりされています。

これは二重の意味で危険です。

一つは、激しい浪費につながりやすいため。

もう一つは、だんだんお金を欲しがらなくなってしまうことがあるためです。

「とくに欲しいものもないから、お金は要らない」などといいはじめたら、これは大変危険な兆候です。

ひきこもり事例では、意欲のみが乏しくなるわけではありません。

しばしば性欲や物欲などといった、さまざまな欲望が全般的に少なくなることがあります。

精神分析によるなら「欲望は常に他人の欲望」ということです。

つまり私たちがほしがるものは、多かれ少なかれ他人がほしがるものなのです。

物の価値は他人の欲望の度合いによって決まり、私たちはおおむね、その価値にしたがった欲望を持つのです。

捨てるつもりのものが、他人にねだられた途端に惜しくなったりするのも、このためです。

逆にいえば、社会との接点が希薄になり、距離が離れるほど、欲望も薄れていきます。

こうした欲望の衰えが進んでしまうと、そこから戻ってくるのが非常に大変になります。

物欲を刺激し、消費活動というかたちでの社会参加を促すためにも、小遣いは十分にあげるべきことを、もう一度、強調しておきます。

そう、消費もまた社会参加の一つの形であり、ほとんどのひきこもり事例にとって、社会と接するための唯一の砦なのです。

それを奪うべきでないことは、当然のことです。

ある程度十分なコミュニケーションが成立するようになったら、本人の生活費がどれほどかかっているか、その点を常に明確にすべきであると考えています。

これは、本人の嗜好品や趣味、ファッションなどにかけられる金額すべてを指しています。

逆にいえば、食費や光熱費以外に本人が必要とする金額です。

こうした金額をすべて明らかにしたうえで、それら一切を小遣いとしてまかなわせることが理想です。

実際に本人に尋ねてみると、とても足りないような少額を申し出ることが案外多いものです。

これはやはり、本人の引け目や申し訳なさのあらわれと考えるべきでしょう。

本人に決めさせてとんでもない高額に決定した、という事例はほぼありません。

月に数十万円も消費するようなケースでは、ほぼ例外なく、欲しい時に欲しいだけ渡すというやり方がとられていました。

まずお金を計画的に使えるようにすることが目標ですから、「何のためにどれくらいのお金が必要であるか」という、細目にわたるリストを話し合いながら作り、それをもとに決められれば申し分ありません。

なかなか決めづらい時は、過去半年から一年間の月平均の額を計算し、それに準じて決定するのが、もっとも現実的で、説得力があるでしょう。

こうして金額が決定したら、あとはその枠組みを守らせることです。

使い過ぎたら我慢させるか、あるいは「前借り」を認める方法もあります。

逆に本人がアルバイトをはじめた場合などでも、当分は小遣いを渡し続けたほうがよい。

「一定にする」とは、そういうことです。

お金は人を狂わせることもありますが、そのぶん適切に用いれば、人を正気づけることもできると、考えています。

お金は使えばなくなる。

あるいは、使わなければ貯まる。

このあたりまえの感覚すら十分に身に付いていない事例が、いかに多いことでしょうか。

金銭についての原則を守ることは、こうした感覚を身に付けることで、自分の経済的なポジションへの自覚を促すことになるでしょう。

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ひきこもり青年の子ども返りのとらえ方

数年前、思春期の問題を扱ったTVドラマをみて、次のようなシーンに出くわしました。

一つのテーマとして、家庭内暴力を振るう息子と母親の葛藤が描かれるのですが、その結末で、母親は中学生とおぼしい息子の気持ちを受け入れ、なんと赤ん坊のように抱きかかえて乳房を含ませるのです。

どうやらこれはハッピーエンドとして理解すべきシーンだったようですが、むしろ、この母子の行く末を思って暗澹としてしまいました。

ここにはいかなる治療論もなく、ただやみくもに癒されたがっている、誰かのはしたない欲望が吐露されているだけではないか。

脚本家なしい演出家の無知は致し方ないとして、問題はおそらく、このような解決を望むかのような社会的状況がありはしないか、ということです。

もし本人の状態が「退行」、すなわち「子ども返り」のような状態であるとしたら、こうした対応は勧められません。

これに関連していえば、ひきこもり事例の「治療」として、時に退行を促すように勧める治療者もいるようですが、反対です。

退行を促す側の論理は、おおむね次のようなものです。

-子どもたちは、小さい頃から「いい子」でいることを強いられてきた。

そのため彼らは、いままで一度も、子どもらしく親に甘えることができなかった。

これは、子どもの甘えを受容できなかった親の側にも責任がある。

ひきこもり状態は、こうした甘えたい気持ちのサインなのだから、そうした気持ちは、しっかり受けとめる必要がある。

「治療」とはつまるところ、「育てなおし」なのだから、まずスキンシップなどを通じて、十分に甘やかすところからスタートすべきである。

もちろん、こうした理解がすべて誤りというわけではありません。

前思春期の問題の一部や、不登校・ひきこもりがはじまった初期段階の一部においては、このような理解がそれなりに有効でありえます。

しかし実際の臨床場面では、こうした理解はむしろ、弊害のほうが多いように思われます。

受容に枠組みが必要でありますが、ここでの「枠組み」は、スキンシップの禁止です。

甘えの受容は言葉のレベルにとどめ、身体接触をともなう甘えの要求は、原則として退けなければならないのです。

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ひきこもり青年の強迫との向き合い方

強迫症状の問題は、家庭内暴力のそれとよく似ています。

いずれも母親が巻き込まれ、被害者になりやすい。

とりわけ確認強迫といった症状では、本人が納得するまで確認行為をさせられ、本人も母親もくたくたになります。

ある事例では「火葬場」のイメージに対する恐怖が強く、たまたま母親とドライブの帰りに斎場の近くを通ったことを気に病んで、同じルートを何十回も車で往復させ、疲れ切った母親は危うく接触事故を起こしそうになりました。

このような事例でも、対応は非常に難しいように思えます。

その強迫症状が、強迫神経症による症状であるなら、まずそちらの治療を優先することになります。

しかし、ひきこもり状態から二次的に起こった強迫症状の場合は、事情が異なってくるでしょう。

私の印象では、この二次的な強迫症状はしばしば、コミュニケーションに問題ありというサインであることが多い。

この場合、両親がともに治療に参加しつつ、コミュニケーションのあり方を適正化することで強迫症状は改善できます。

しかし、むしろ問題なのは、強迫症状を訴える本人も頑固ですが、家族がまたそれに輪を掛けて融通が利かないことが多い点です。

まず説得と交渉を重ねて、家族に本人の症状を十分に納得させる作業が必要となります。

ひきこもり本人が単身生活の場合

本人が大学生の場合など、長期間家族と別居したままひきこもる事例が、時にみられます。

なかには「自立のため」という名目で、かなり強引に単身生活をさせられている事例もあります。

しかし特殊な例外を除き、ひきこもり状態での単身生活はまったく「自立」の役には立ちません。

多くはそのまま、アパートでひきこもってしまうからです。

むしろ家族との接点が持ちにくかったり、治療の導入が難しくなるなど、問題点のほうが多いのです。

物理的にも心理的にも家族との接点が失われ、「ひきこもりシステム」の解除が、ほとんどできなくなります。

このような場合、本人と交渉しつつ一度は同居生活に戻すのが原則です。

ただし、あまり強引に交渉すると、突然行方をくらましてしまう場合もあるため、交渉は時間をかけつつ、何度でも重ねる必要があります。

本人が「どうしても家族とは住みたくない」と主張するなら、せめて近所のアパートに住まわせるなどして、少しでも接点を増やすようにします。

通信環境も重要です。

電話は当然として、FAXや電子メールも使用できれば申し分ありません。

こうして家族が定期的に電話を掛けたり、直接アパートを訪問したり、本人が応ずるようならときどき家に泊めるなどして、徐々に同居へ向けて交渉していくことになります。

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ひきこもり生活のだらしなさを受容する

ひきこもり事例ではしばしば、生活全般にだらしなさが目立つようになります。

まず昼夜逆転のように、生活のリズムがきわめて不規則なものになります。

またこもっている部屋の中は、きわめて乱雑で、物やごみが散乱し、足の踏み場もないほどの状態になっていることがあります。

時には本人は自分の部屋の環境が悪化しすぎると、茶の間や台所を占拠して、そこにも自分のゲームソフトやビデオ、雑誌を山のように積み上げるようになります。

あるいはまた「自室でTVばかりみている」「いつもゲームばかりしている」といった不満もしばしば聞かれます。

自分の興味ある対象にのみ関心を示して社会と関わろうとしない、いわゆる「おたく」的な自閉傾向は、どうしても病的なものとして、悪く捉えられがちです。

しかしひきこもり事例に関しては、たとえTVやパソコンに溺れることが対人困難を助長するという意見も根強いようですが、はっきり根拠があることではありません。

むやみに危機感を抱くよりは、親も一緒になって楽しむ方がよいでしょう。

「一緒に楽しむ」という行為それ自体が、立派なコミュニケーションであるからです。

いずれにせよ「生活態度」のような表面的な部分にとらわれたままでは、ひきこもり事例の本質がみえてこないのも事実です。

まず一度は、本人のだらしなさも含めて、現状をまるごと受け入れるところからはじめる。

これが基本的姿勢となります。

このような「だらしなさ」は、いずれもひきこもり状態から二次的に起こった症状なので、それだけ正すのは無意味なのです。

「だらしなさ」の受容は、本人のプライバシーを尊重することとつながります。

まず「本人の部屋」というテリトリーをみだりに侵さないこと。

おおげさにいえば、部屋は本人の城であり聖域なのです。

どれほど乱雑で汚い部屋であっても、勝手に入り込んで掃除したり、ゴミを勝手に捨ててしまったりすることは感心しません。

両親はまず、本人の部屋の空間的価値を尊重するという姿勢を明らかにすべきです。

これはたとえば、ドアを断りもなしに開けないとか、声をかける時は必ずドア越しにかけるとか、部屋の掃除をする時は必ず本人に確認するとか、そういった些細な努力です。

同時に、プライバシーの境界をはっきりさせるためにも、お茶の間のような共有の場には、できるだけ本人のものを置かせないことです。

すでにそうなっている場合でも、じっくり交渉して撤去させるべきです。

これもまた、「受容するための枠組み」を明らかにするうえで欠かせないことです。

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基本は現状維持

ひきこもりの治療中は、本人の所属や家族の生活環境などの大きな変化は、できるだけ避けるようにすべきです。

具体的には、退学、退職、転職、転居、家の新築などは、できる限り避けるか、引き延ばすことになります。

とくに学校や就職での挫折感が強い事例では、ひきこもりはじめると、退学や退職を強く希望することがあります。

しかし、本人のいうがままに手続きをした結果、急に元気がなくなって落ち込んだりすることもよくみられます。

学校や職場に籍があることは、こもっている本人にとっては、つねに暗黙のプレッシャーやストレスを与えます。

だからこそ本人は、そうした所属をかなぐり捨てて、早く楽になりたいと望むのです。

しかし実際にやめてみると、今度は「社会のどこにも自分の籍がない」という事実が、いっそう重くのしかかってきます。

たとえ学校に戻る気はないにしても、学生証はないよりあったほうがいい。

もしこのような要求が出たら、多少は説明してでも籍を残すようにしておくほうがいいでしょう。

転居についても同様です。

近所の視線がきになるといった理由で本人が転居を要求し、やむをえず転居に踏み切ってはみたものの、本人のひきこもり状況はちっとも変わらず、かえって悪くなったというケースもあります。

これにもいくつかの理由があります。

しばしば本人は「環境が悪いせいでこうなっている」と考えがちです。

しかし実際には、ひきこもった生活によって対人関係や視線などに過敏になっているわけですから、引っ越してもそうは事情は変わらないのです。

さらにはまた、本人の中にも「家族に無用の負担をかけてしまった」という、強い後悔の念が出てきます。

これが家族への引け目となって、いっそうコミュニケーションを塞いでしまうのです。

ただし転居には、成功例もないわけではありません。

本人だけのためではなく、家族全員の総意にもとづいて転居するような形にできれば、うまくいく可能性もあるでしょう。