親はいつまで面倒を見たらよいか
息子はもう三十歳。
世間で言えば立派な大人です。
それなのに、治療はいやだと言って拒否し、食事や洗濯などはすべて親任せで、当然のようにお小遣いも要求してきます。
単純に考えて、こういう姿勢は「アンフェア」なのではないでしょうか?
親はそこまでする義務があるのでしょうか?
親自身が納得して面倒を見るために、どんな考え方をすればいいのでしょうか?
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治療場面でもっとも大切にしたいことのひとつは「何がフェア(公正)であるか?」を問い続ける姿勢です。
「フェア」とはどういうことでしょうか。
ここではたとえば、社会学者の宮台真司氏が「子どもの自己責任」についてたびたび指摘していることが参考になります。
つまり、少年犯罪の重罰化と、自己責任の問題はセットで考える必要があるということです。
もし重罰化を論じたいなら、まず、子どもの自己決定権を自明の前提にする必要があります。
逆に言えば、子どもの自己決定権をあくまで認めないなら、少年犯罪への刑罰も減免する必要がある。
これが「公正」な発想のよい例となります。
しばしば保守派は「子どもの権利を制限し刑罰は大人と同等に」と主張しがちですし、人権派は「権利は同等にして刑罰は軽くせよ」という主張に流されやすい。
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しかし、どちらも感情的なだけで、論理的には破綻しているのです。
「何がフェアか?」
という問いは、このように、権利と責任のバランスを論理的に問い続けるということを意味しています。
「ひきこもり」を巡っても、これと同様の議論が繰り返されてきました。
この点について『社会的ひきこもり』の時点での主張をまとめると、次のようになります。
「ひきこもる青年たちは、その状態が病理的なものであるということを自覚的に受け入れる、すなわち治療を受ける(権利の制限)限りにおいて、労働や納税をはじめとする社会的な義務を免除(自己責任の解除)される」というものです。
これを逆に言えば、「ハンデを認めたくないなら、自己責任原則をまっとうすべし」という単純な発想です。
こういう論理的な考え方が、いちばんフェアであると思われるのです。
情緒的理由から「ひきこもったままでよい」とする議論には、少なくとも論理的な一貫性はありません。
なぜならその種の議論は「ひきこもりは病気でもハンデでもない、でも自己責任は問うな」という、きわめて矛盾した結論になるからです。
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もちろん逆の議論もあります。
こちらは「ひきこもりは異常者だ、責任をまっとうしないダメ人間は許し難い」といった論調でしょうか。
でも、矛盾という点では、こちらも一緒です。
まず「異常者」呼ばわりで社会の埒外の存在というレッテルを貼っておきながら、自己責任という社会的ルールに従わせようとする姿勢。
こうした議論は、単なる「好きー嫌い」の素朴な二元論に陥っていて、とても理性的な判断とは言えないのです。
医学的根拠を明示できない現在、両者ともに言葉を届かせようとするなら、論理的な一貫性のみが、唯一の拠り所ではないでしょうか。
「ひきこもり」は、いろいろな意味で境界線上の問題を多く含んでいます。
年齢的には成人が多いのに、問題の性質は思春期・青年期そのままです。
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病気であるとも、病気ではないとも決められない曖昧さを持っています。
医学的問題であると同時に、教育学、社会学など、複数の視点を持たなければ理解が困難です。
こういう事例に対して医師として向き合うとき、対応の指針は次のような順で決定されます。
- その対応には医学的根拠があるか
- 医学的根拠がないような事例ならば、医師個人の経験的な根拠があるか
- 医学的な正当性のみによって、患者さんのQOL(生活の質)を圧迫しすぎてはいないか
そして、以上のそれぞれについて、患者さんにも説明可能な論理的一貫性があるか否かが問われるわけです。
これは、専門家の説明責任(アカウンタビリティ)という点からも当然のことでしょう。
残念ながら、ひきこもりについては、まだ参照できるような医学的根拠がきわめて乏しい。
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いきおい、こうした事例やその家族の双方を納得させるには、こちらもできるだけフェアな発想で向き合うしかありません。
どちらかに肩入れしていたのでは、克服への試みにならないと思うからです(と言いつつ、私は常にご本人のほうに感情移入しすぎてしまうのですが)。
たとえば私は、ご質問のような「病気ではないから治療も支援も受けたくない」と主張しつつ、当然のようにご両親に保護・扶養してもらっているひきこもり事例については、少なくとも「それはアンフェアだ」と感じます。
だから、ただちに治療せよ、というのではありません。
ただ、少なくともご両親には、そういうアンフェアな状況に耐えつづける義務はない。
そのことをまずご両親にしっかりと伝えておきます。
ご両親は1.ご本人をいますぐ追い出すこともできるし、2.治療を促してもいい、3.「生きてさえいてくれれば、そのままでいい」と、ひきこもりを全肯定することもあっていいわけです。
少なくとも三通りの、そうした選択肢が目の前にありながら、いずれも選ばなかったとすれば、それはご両親の自己責任と言われても仕方ないでしょう。
克服への試み的視点から対応を考えるところなら、追い出すのも全肯定も克服への試みではありません。
しかし公正を期すべく、私はまず最初に、ご両親の自己責任において「克服への試み」を選択し直してもらいます。
このうえで、ご両親がご本人に対して克服への試みを促す権利を認め、引き続き「克服への試みとはなにか」について、ご両親と相談を重ねていくことになります。
たとえば叱咤激励が禁物であるのは、克服への試みの妨げである以上に、それがアンフェアな行為であるからです。
克服への試みを選択するということは、ご本人のハンデを認めることにほかなりません。
そして、ハンデを認めた以上は、ご本人が自己責任を果たすことを性急に期待すべきではない。
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克服への試みと叱咤激励は、その意味で著しく矛盾した対応ということになります。
叱咤激励をするからには、ご本人の自己責任を徹底して追求するのが筋でしょう。
その論理的帰結は「家から追い出す」にならざるをえない。
しかし肉親として、どうしてもそれができないならば、せめてご家庭内でも公正さを忘れないでいただきたいと思います。
もしあなたがここまで考えたうえで「克服への試み」を選択されるなら、とりあえずは叱咤激励をやめて、ご本人への適切な対応と、克服への試みへの誘導をこころがけることをお勧めします。