人が怖い人が修羅場から逃げることは責任をとる場面から逃げるということである
人が怖いとは
人が怖い心理は次のようになる。
親としての責任、上司としての責任、子どもとしての責任、部下としての責任、夫としての責任、妻としての責任、恋人としての責任、いろいろな責任がある。
人が怖い人はその責任をとる場面から逃げるということである。
ある大物の政治家である。
彼には結婚以外のところでできた娘がいた。
その大物の政治家がその娘の結婚披露宴に出席した。
そして、堂々と父親の席に座っていた。
心中堂々としていたかどうかはべつにして、「彼は逃げていない」。
その席は普通の人ならまさに針のむしろである。
しかし、もし娘が出席して欲しいと言うなら父親として逃げてはいけない場所である。
もちろんその大物の政治家が普通の人と同じ感覚を持っていたかどうかはべつである。
普通の人がこの場所から逃げたら、やはり人目を気にするおびえた人になるであろう
このような場所から逃げたら、絶えず他人が自分をどう見ているかを気にする人が怖い人間になるであろう。
このような場所から逃げたら、人の好意をあてにして行動する頼りない人が怖い人間になるであろう。
絶えずイエスしか言えない人が怖い人間になるであろう。
もちろんここでイエスしか言えない人が怖い人間というのはノーと言いたくてイエスと言っているという意味である。
その人はいつも不満である。
だから絶えず人の悪口を言う人が怖い人間になる。
心からのやすらぎを手に入れたい人が怖いあなたへ
あるとき、タクシーに乗っていたらラジオにこんな女性が出ていた。
有名な女性である。
彼女は未婚の母親になった。
そこで日本よりアメリカで育てるほうが環境がいいだろうとニューヨークに行った。
彼女はどんな苦労でもするつもりであった。
しかし、刀折れ矢尽きて日本に帰ってきた。
そして仕事を探しているときに、一度だけ「彼に連絡したい」と思ったという。
彼のほうは彼女が頑張っているので表に出てこない。
彼女がつらい思いをしながら頑張ってくれていれば、自分にとっては都合がいい
彼女の父親の名前は言えませんと言っていてくれるから、彼はほおかむりができる。
彼女はつらい思いをするが、彼のほうは自分の世間体を保てる。
彼自身は幸せな家庭生活を送っている。
その生活は壊したくない。
彼女と連絡をとればそれぞれの場所で、やがて修羅場がはじまる。
その後はどうなったかわからないが、もし彼女が連絡をして彼が表面に出てこなければ、彼はいつも人の顔色を気にする怯えた人が怖い人間になるであろう。
修羅場を避けて、妻には内緒で仕送りをしたとしても幸せにはなれない
夜にぐっすりと眠れる人間にはなれない。
一生懸命働いて仕送りしたとしても人が怖い怯えはとれない。
もちろんそのラジオの主人公の場合は仕送りもしていなかったようである。
責任をとる場面から逃げて、どんなに真面目に努力しても人が怖い怯えはなくならない。
いつも人が怖い。
いつもおどおどした態度をしている。
ある六十歳をすぎた人が怖い男性である。
四十歳前後で二度目の結婚をした。
先妻には子どもがいた。
しかし離婚の原因になった女性は、その先妻の子どものことを受け入れていなかった。
その新しい奥さんは芸者さんで、心のやさしい人であった
だから受け入れなかったというよりも、人が怖い彼がひとりで勝手に恐れて自分の子どもとも会おうとせず、お金も送ろうとはしなかったのだ。
しかしそれにもかかわらず、人が怖い彼は「幸せな」二度目の結婚生活をしていた。
すべては、浮気者の人が怖い彼にとっては都合がよかった。
しかし人が怖い彼はいつも眼がキョロキョロしていて、話しているとこちらが落ち着かなくなる。
もし彼が二度目の奥さんとしっかりと正面から話し、子どもにはどんなことがあって
も養育費を送りたいと言い、それを実行していたら、彼は人が怖いことにはならなくてすんだのである。
修羅場を避けていた
子どもに対して養育費を送る、送らない以上にそのような話し合いの場所をつくるという修羅場を避けたことが、彼の人が怖い原因なのである。
その後、人が怖い彼は仕事がうまくいってお金ができたが、奥さんが怖くて送れなかった。
六十歳をすぎても、人が怖いので人の顔を気にして眼がキョロキョロしている。
それは不幸な一生である。
人が怖い人は修羅場を避けたあとでの真面目、勤勉、努力、善良、仕事熱心は幸せにとってなんの意味もない。
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修羅場が人が怖い心を克服できるかできないかの分かれ目
シーベリーは「トラブルは運命の強壮剤である」と言っている
トラブルは心を目覚めさせる。
彼は「他の方法で、人生に対する理解力や洞察力を得られたか」と質問している。
トラブルは私たちの性質にある卑しさを焼き払ってくれるという。
このトラブルという言葉を修羅場という言葉に変えてみればよくわかる。
先の例の人が怖い男性のように、自分の今の平穏な生活を守るために、前の妻との間の子ども会うことを避けていたら、そのシーベリーの言う卑しい性質は焼き払われない。
自分の今の生活の安全を危険にさらしても父親としての責任をとろうとすれば、もちろん修羅場は避けられない。
しかしそこで、彼の卑しい性質がいやがおうでも焼き払われる。
修羅場というのはそういうところである
もし彼が今の奥さんとじっくり話をしたり、前の子どもを守ろうとしたりすれば卑しい性質ではできない。
「そして、トラブルは人格的成長の妨げになっていた力を取り除いてくれる」。
これもまたシーベリーの言葉である。
修羅場を経てはじめて人は成長できる。
そこで人が怖い人は人格的成長の妨げになっていた力が取り除かれるのである。
彼にもう一度成長の機会がきた。
先の妻との間の子どもが亡くなったのである
人が怖い彼はここでも逃げた。
まわりがうまくやってくれるだろうという甘えである。
彼のずるさである。
このときこそ、彼の卑しい性質を焼き払って人格的成長の妨げになっていた力を取り除くチャンスだったのである。
しかし人が怖い彼は言い訳をした。
自分は仕事で忙しいという言い訳である
こんな言い訳をしても、それは言い訳であるということをその人が怖い人の心は知っている。
卑怯な言動は、その人が怖い人が意識するかどうかはべつにして、皆心に刻まれる。
人が怖い彼はその後、また会社で勤勉に働いたが、いつも眼がキョロキョロしていた。
彼がどんなに会社で勤勉に働いても、人が怖い彼の心は彼がまた逃げたことを知っている。
だからいつも自信がないのである。
人が怖いを克服する為、今こそ愛される自分、好かれる自分に変わるとき
ピーターパン人間がどのような家庭から生まれるかということについて、『ピータパン・シンドローム』の著者ダン・カイリ―は次のように述べている。
“They usually don’t experience gross disharmony.”
人が怖い人は大喧嘩はしない。
どたばたは人が怖い人はない。
正面から人が怖い人はぶつからない。
自分が本当に思っていることを人が怖い人は正面からぶつけ合わない。
それをすると離婚になってしまうかもしれないから、お互いに怖いのである。
しかしお互いの心の中には言いたいことは山ほどある。
隠している重大な感情も人が怖い人は心の中にはたくさんある。
離婚覚悟でぶつかるのが修羅場である。
ピーターパン家族は修羅場を避けている
だから大きな衝突はない。
表面は理想の家庭と他人には映りかねない。
しかし人が怖い人は心の交流もない。
お互いに用心深く相手に自分の実際の感情を隠して、そのうえでうまくやっている。
だから、つねに人が怖い人はなんとはなしの不愉快な緊張感がある。
外から見ればどうということのない夫婦である。
しかし心を隠し合いながらの近い関係である。
どうしてもよそよそしい
何かおかしい。
人が怖い人は近いのだけれど近くない。
むしろ遠い外の人に対してのほうが自分を出せる。
近い人には人が怖い人は自分をだせない。
それは近い人の関係の崩壊のほうが恐ろしいからである。
そこで次のようになる。
“Their problem centers on a failure to communicate.”
問題は経済的に大変だとか、隣のご主人が出世して悔しいと家で荒れているとかいうのではない
奥さんが不倫をして家中が大騒動になっているというのではない。
ご主人が酒を飲んでばかりいて仕事をきちんとしないというのではない。
休日にはパチンコばかりで家族団らんの時間を持たないとかいうことではない。
なんだかわからないのだけど、心が通い合っていない他人行儀な夫婦ということである。
夫婦が一緒にいても楽しくない。
実はこのほうが経済的困難よりも本質的には重大な問題である。
家は団らんの場になっていない。
人が怖いを克服したい人は思ってもいない幸せなふり、楽しいふりは今すぐやめること
『ピーターパン・シンドローム』の著者は”parental unhappiness”(両親の不和)がピーターパンの原因と述べている。
要するに楽しくない家庭ということである。
「貧しいながらも楽しいわが家」にはピーターパンは生まれない。
楽しくないのに楽しそうにする家庭に生まれる。
“they pretend to be happy.”
彼らは幸福ではないが、幸福な夫婦を演じる。
楽しくはないのに楽しい夫婦を演じる。
重苦しくて不愉快な感じで幸福な夫婦を演じる
喜劇でもあり、悲劇でもある。
人が怖いピーターパンが育つ家庭は嘘で固められている家庭である。
本人たちもどうしてこうなってしまったのか理解できない。
どうもがいても、人が怖い人はなぜか事態は悪いほうに悪いほうにといってしまう。
泥沼に入って抜け出そうともがけばもがくほど、ぶすぶすと深みにはまるようなものである。
そしてこのように冷たい偽善に満ちた「幸福な家庭」の悪影響は子どもの心に現れる
それが人が怖いピーターパンである。
この夫婦も一生懸命にやっている。
お互いに必死なのである。
お互いに真面目にやっている。
努力もしている。
それなのに事態は悪いほうにしか動かない。
これまた修羅場を避けたうえでの真面目、勤勉、正直なのである
嘘のうえにたった正直といったら妙な表現かもしれないが、人が怖い人は実際そうなのである。
無責任さのうえにたった責任感なのである。
いちばん底にあるものに人が怖い人は気がついていないから、「私は正直で、真面目で、責任感が強い」と思っている。
すると事態が悪くいったときには「それなのになぜ・・・」と不満になる。
そう思っても人が怖い人は不思議ではない。
「ピーターパン家庭から抜け出すには」
また、ピーターパン家庭にあっては「子どものために自分の人生を犠牲にする」が、母親の口癖だという
もちろん本当は逆である。
自己喪失した人が怖い母親がいる。
その自分を救うために子どもを犠牲にするというのが本当の姿である。
しかし口では、あなたさえ幸せになってくれればいいと言う。
“I never really wanted anything for myself except your happiness.”
ピーターパンの人が怖い母親は「あなたが幸せなら、お母さんはどうなってもいいと言う。
あなたの幸せ以外のものを望まないと言う。
始末が悪いのは、人が怖い本人は自分が嘘をついているということに気がついていないことである。
人が怖い母親は自己喪失をそのような言葉でごまかしているのである。
「私は自分を見失った」と認めれば事態は好転する
なぜなら「あなたが幸せなら、お母さんはどうなってもいい」というような嘘を言わなくなるからである。
真実は、自分を見失った人が怖い母親が子どもにしがみついているということである。
「私は子どもを犠牲にして自分を取り戻そうと必死になっている」と認めれば、事態は好転する。
「何かがおかしい」というときには、自分の嘘に気がついていないことが多い。
そして人が怖い人はそんなときには、人生の重荷を背負い込みすぎている。
背負い込む必要のない重荷を背負いこんでうなっている
頑張る必要のないことで人が怖い人は頑張っている。
人生の問題は、頑張れば解決できるというものではない。
原因をつきとめなければいつになっても人が怖い人は頑張りすぎる。
“Something was wrong with his parents’ marriage”
ピーターパンを生み出す結婚生活は何かがおかしい。
人が怖い夫婦ともども「この結婚生活は何かがおかしい」と思っている。
お互いに善人である
よき市民である。
そしてお互いに結婚生活を大切に思っている。
それなのに人が怖い夫は妻以外の人といたほうが気が楽である。
人が怖い妻は夫以外の人といたほうが楽しい。
お互いにこの結婚生活は何かがおかしいと漠然と思っている。
そう思いながらも、それが何であるかはわからない。
なぜわからないのか?
それは人が怖い人は嘘をついているからである。
「逃げない勇気」が人が怖いあなたをひとまわり成長させる。
第二次世界大戦中の日本について、よく精神主義ということが言われる
アメリカが原子爆弾を持っているのに日本は竹槍で戦うことである。
勝つ気になれば勝てるというのである。
そんな馬鹿なことはない。
しかし現実の日常生活で私達はこのような精神主義を平気で実行している。
人が怖い人は自分の嘘に気がつけば結婚生活の成功は向こうからやってくる。
修羅場を避けなければ結婚生活の成功は向こうからやってくる
何も離婚しないというのではない。
自分と相手が現在の状態を続けたほうがいいのか、続けないほうがいいのかがわかるということまで含めての成功である。
「多くの窮状は打ち負かすことによってではなく、私達がより大きく成長することによって乗り越えられるのです」とシーベリーは言っている。
つまり現在の地獄のような人が怖い状態も、心理的に成長すれば自然と解決しているのである。
それなのに、人が怖い人は心理的成長を拒否して単に頑張ることで解決しようとするからおかしくなる。
結婚生活の修羅場から会社に逃げる人が仕事中毒になる
人が怖い人は結婚生活の修羅場から逃げて、どんなに仕事で頑張ってもつらさは解消しない。
いや、人生はどんどんつらくなっていくだけである。
「こんなに自分は頑張っているのに」と思いつつ、人が怖い人は重苦しく不愉快な人生をどうすることもできない。
しかし心理的に成長して心が触れ合うようになれば、そんな問題は一挙に解決してしまう。
あるいは離婚して新しい生活がはじまれば、一挙に解決してしまう。
私達は勤勉、努力、善良、真面目、頑張るなどのことに価値を置きすぎる。
「逃げない勇気」がなければ、そんなものは、ときに百害あって一利なしということさえある。
「逃げない勇気」があってこそ勤勉、努力、善良、真面目、頑張るなどのことは生きてくる。
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人が怖い人が自分の弱さを受け入れることは、新しい自分への第一歩を踏みだすこと
「自分の弱さを受け入れれば、失敗は少なくなるはずです。
完全であろうとあがくとかえって失敗します」とシーベリーは言っている。
失敗を恐れるのは、失敗したらどうしようと思うからである
失敗を成功のもととして、失敗してもそこから何かを学ぼうとする人は失敗を恐れない。
災いを転じて福となすことが生きるエネルギーなのである。
それがたくましさである。
また、シーベリーは、「心配するのに大きく分けて三種類の人がいる」と言っている。
第一は、自分のトラブルを解決する道はないかもしれないと感じつつ、激しく揺れ動き運命を呪うタイプ
第二は、ただ祈るのみ、神が答えを出してくれるのを待つタイプ
第三は、指針を求め、喜んで努力するタイプ
最後のタイプは失敗を恐れない。
人が怖い人は失敗したら生きていかれないように感じるから失敗を恐れるのである。
どうなっても生きていける自信のある人は失敗を恐れない。
逆境は、ある意味では飛躍のチャンスなのである。
実は人が怖いを克服したい人は絶望しているときこそ、別の視点から見れば、一段の飛躍のときなのである。
「何があなたにそこまで無理をさせているのか」
困難に耐える力、困難と戦う力は心理的成長のひとつの特徴である
それは生きるエネルギーであり、たくましさである。
神経症的野心を持った人が怖い人は、困難に耐える力を持っているわけではない。
案外困難には人が怖い人はもろい。
成績優秀な子どもが必ずしもたくましいわけではない。
よい子は努力するが、その子を動かしているのは不安である。
よい子は不安がなくなれば努力しなくなる。
人が怖いよい子は気力と思われていたのは不安の仮面にしかすぎない。
よい子は本当のたくましさがない。
本当のたくましさとは逆境にへこたれない心である
逆境にあっても否定的な考え方にとらわれないことである。
たくましさのない人が怖い人は、不安から努力し、頑張って消耗すれば燃え尽きるしかない。
あとに残るのは情緒的未成熟、わがまま、恨み、自己中心性、忍耐力のなさ、人が怖い、無気力である。
よい子に見えたときも、実態は同じだったのである。
人が怖い人は忍耐力は普通の子どもほどなかったし、気力も普通の子どもほどなかった。
しかしよい子は普通の子どもより不安だった。
だからよい子は普通の子どもより頑張った。
よい子はただそれだけのことである。
よい子は普通の子どもより特別立派であったわけではない。
よい子は心の底には恨みを宿していた。
自分の内面のわがまま、自己中心性、忍耐力のなさ、怨恨、不安などに正面から向き合うことが修羅場である
それを逃げて努力しているのが人が怖い人である。
だからどんなに努力しても人生は開けてこないのである。
彼らは一つ一つのことに始末をつけていない。
人が怖い彼らは一つ一つのことにけじめをつけていない。
親とのことも、友達とのことも、恋愛も、仕事も、人が怖い人は自分がかかわったことに一つ一つけじめをつけて生きてこなかった。
そのまま放っておけば、その日その日は過ぎていくようなものを人が怖い人はそのまま放っておいた。
たとえば恋愛をして、失恋をして、また恋愛をする
それはそれでいい。
しかし人が怖い人は前の恋愛にけじめをつけないままつぎの恋愛に入っていった。
そして、自分がほおかむりしてしまえばすんでしまうものはそのままほおかむりして何もしなかった。
仕事でも同じである。
放っておいてもそのときにはすぎてしまうものは放っておいた。
あやまることがあっても人が怖い人はあやまらないですませてしまった。
つぎの仕事に移るのにけじめをつけていない
人が怖い人は同じように心の問題にしてもすべていい加減にすませてきた。
そのときそのときに人が怖い人はもっとも心理的に楽な方法を選んで生きてきてしまったのである。
しだいしだいに人が怖い彼らの人生が行き詰ってくるのは、そのツケがたまってきたのである。
お金を払わないで飲食をし過ぎた。
そのときにはお金を払わないでも食べられる、そこが問題であったのである。
人生は最後にはツケを払わなければならない
人が怖い彼らが努力していても、内面のアパシー(無気力)は変わりない。
その内面のアパシーと不安と、どちらが強くその人を動かしていたかということである。
親を喜ばすことばかり人が怖いよい子は考えて頑張って努力したが、もともとその子はアパシーであった。
真面目で仕事熱心の適応過剰な病前性格は自然の気力ではなく、人が怖い人は不安のしからしめた性格であり、その本質はアパシーである。
それだけに本人はつらい。
人が怖い人はいつも自分に鞭打って人付き合いをしているのである。
もともと気力があったり、興味があったりして人付き合いをしているのなら、つらいことはない。
しかし人が怖い人は自然の気力も、興味も何もない。
あるのは無気力だけである
それにもかかわらず人が怖い人は人一倍人付き合いする。
人が怖い本人にとって、内面の不安は鞭である。
肉体的な鞭が肉体にとってつらく苦しいように、人が怖い不安という心の鞭はやはり心にとってつらく苦しいものである。
肉体的に歩けなくなった人を鞭打って歩かせる。
それと同じに心理的に何もできなくなった人を、人が怖い不安という鞭がひっぱたいて人付き合いに駆り立ててきた。
しかし限界にきて、人が怖い人はもはや不安という鞭も効かなくなった。
それがアパシーという挫折現象であろう。
「内づらと外づらの心理」
もともと気力も、思いやりも、やさしさも、頑張りも何もなかったのである
気力に見えたものも、やさしさに見えたものも、思いやりに見えたものも、そのような仮面をつけた人が怖い不安であった。
だからこそ病前性格という適応過剰に見えた人が怖い人が、あるときから社会的にきわめて自己中心的としか考えられない言動をとるようになる。
社会的に良好な適応をしていると見えた人が怖い人の内面にあるのは神経症的要求であり、無気力だったのである。
現象としては良好な適応であるが、本質は人が怖いという神経症であった。
せいぜいその人の内面にあるのはフロイトがイドと呼んだ衝動ぐらいである。
社会的に良好な適応をしていると見えたが、その人が怖い人にはもともと人間性とか社会性とか、自主性とか、愛情とかそのようなものは育っていたわけではなく、性と暴力の衝動ぐらいがあっただけなのである。
不安がその人が怖い人に鞭の役割を果たさなくなれば、その人を動かすものはないか、あるとすれば衝動だけである。
社会的に良好な適応をしていた人が、あるときからきわめて衝動的な行動しかしなくなるという挫折は、考えてみればうなずけるのではなかろうか。
人が怖い人は内づらと外づらが違う。
神経症的要求を人が怖い人は内づらとして現わす。
だから人が怖い人は家の人とか、結婚すると奥さんとかにはひどく自己中心的でわがままなのである。
そして外の人には自己消滅したところの過剰適応の面を現わす
人が怖い人には神経症的要求と、人に気に入られるために自分を犠牲にする自己消滅の面しかない。
心の中に神経症的要求を持ちつつ、人が怖い不安から自己消滅した八方美人となるか、あるいは不安がとれて神経症的要求を現わすわがままな人間になるかである。
内づらが悪く、外づらがいいというのは神経症的な人が怖い人の特徴である。
そして内づらとは必ずしも家の中を意味しない。
よい子にとっては家が「外」である。
内づらというときの「内」の意味は不安がないということである。
外づらは不安な場所という意味である。
したがって外でわがまま、内でよい子という現象も出てくる。
しかし、いずれにしても真の人間性は育っていない。
人間性とは神経症的要求でもなければ、内面の必要を犠牲にした過剰なる適応でもない
能動性、積極性、愛情、自主性等である。
自分の内面を犠牲にすることなく成長することのできた人は、自然に能動性、社会性、積極性、自主性が備わるものである。
そしてそれがいわゆる人間性と言われているものの内容である。
人が怖い人は自分から明るい人を求めていくこと
情緒的に成熟した人々に囲まれて成長できるという、幸運な星のもとに生まれた人が大人になったときには、思いやり、温かさ、精神的強さを備えている
経済的には苦しくても、情緒的に成熟した両親を持った人は、人間性を備える点では恵まれている。
そしてそのような人間性が備わった人には、人が怖いといった神経症的要求も自己消滅した適応もない。
神経症的要求と自己消滅した過剰適応という現象的分裂はない。
内面的に統合されているし、現象的にも内と外でまったく矛盾した言動をするということはない。
人が怖い人とは、情緒的に未成熟な人に囲まれて成長したため、人間性を獲得することに失敗した人である。
したがって、人が怖い人は冷たく無気力で、生きることに対する興味も失っている。
どのような名門の家に生まれても両親が情緒的に未成熟なら、残念ながら人間性の獲得は無理である
人が怖い人は家から離れ、愛情豊かな人と暮らすことでしか人間性は獲得できないのではなかろうか。
そこで今までのツケを人が怖い人は払うしかない。
一つ一つのことをきちんとけじめをつけて生きていくという習慣を人が怖い人は身につけるのである。
今までのように、人が怖い人はお礼を言うべき人にお礼を言わない、喧嘩をすべき人と喧嘩をしない、ずるずるとその場その場でもっとも生きやすいように生きていく生き方をやめることである。
一つ一つに後始末をつける。
それが弱い人が怖い人にはできない。
一つ一つに人が怖い人が後始末をつけることはいやなことでもきちんとするということである。
人が喜びそうなことばかりして、人が怖い人は皆にいい顔をすることではない。
「こう考えれば、明日を迎えることがずっと楽しくなる」
相手が喜ぶようなことを言う
人が怖い人はそのときはいい。
その一時は心理的に安定する。
しかしそれがやがて二人を破滅に向かわせるということがある。
いわゆる「よい子」は親の喜ぶようなことを言う。
よい子は親の喜ぶようなことをする。
しかし、これは実は長期的に見れば親にとっても子どもにとってもよくない。
その破滅がたとえば家庭内暴力である
人が怖いよい子は反抗期がない。
それは親にとって喜ばしいことである。
しかしこれは、人が怖いよい子が親に嘘をついているということである。
そのとき、人が怖いよい人はその場の問題を解決するために、もっとも安易な方法が迎合である。
しかし実は人が怖い人の迎合は、問題を解決しないばかりではなく、問題を深刻化させるだけである。
親と子どもが正面から向き合い、ぶつかり合うことは双方にとってつらいことである
エネルギーのいることである。
だから人々は問題解決の方法として迎合に頼る。
人が怖い人は迎合という「逃げ」がもっとも安易なその場の解決方法だからである。
迎合ばかりではなく、人が怖い人は自閉もそうである。
逃げることが人が怖い人のもっとも安易な問題解決の方法である。
家庭内暴力を起こされるような親は、もっとも安易な子どもの愛し方をしていたのである
子どもを愛するということは時間がかかるであろう。
エネルギーもいるであろう。
延々と話し合うこともあるだろう。
子どものいやがることを力で教えなければならないこともあるだろう。
もっとも安易なのは、自分が子どもを気に入ったときに、「よい子だな」と言って頭をなでていることである。
自分の劣等感をいやすようなことを子どもが言ったときに、「よい子だな」と言って頭をなでていることが、もっとも安易な愛する方法である。
子どもにとっても、親の気に入りそうなことを言って親に気に入られているのが、もっとも安易な親孝行である
双方とももっとも安易な方法をとっていたから、その関係は破滅したのである。
恋愛でも同じである。
お互いに相手を喜ばせるようなことを言っているときがある。
恋人に都合のいいことを言う人が怖い女性がいる。
まず信用できない。
そのような人が怖い女性は男性を駄目にする。
彼女は彼に嘘をつくことで、彼自身も駄目にしているのである。
男性でも女性でも恋人を失いたくないと思えば、相手の喜ぶようなことを言う
人が怖い人は相手の喜ぶようなことをする。
それでその場の恋愛関係は続くかもしれないが、最後にはやはり破滅するであろう。
生きるとは明日を迎えることである
今日つらくても、それに耐えてよりよい明日を迎える努力をすることが生きることなのである。