打たれ弱い人が自信をもつための心理

打たれ弱い人とは

打たれ弱い人とは、小さな物事や人間関係などを大きくとらえてしまい、そのプレッシャーに萎縮してしまう人のことである。

例えば会社の上司から叱られたら他の人は軽く受け流しダメージも少ない、むしろ感謝するであろうことも打たれ弱い人は大きなダメージを受けてしまう。

ここではそんな打たれ弱い人がどうやったら自信を持つことができるのか記してみたい。

打たれ弱い人の心理

他人の些細な言動に動揺したり、傷ついたりしてしまう打たれ弱い人は、外化という心理過程を行なっている。

外化とは自分の心の中の願望を、現実を通して見ることである。

こちらの願望で相手を見てしまう。

もう一つは自分の自分に対する態度や感じ方を、他人の自分に対する態度と思い込んでしまうことである。

まず最初の定義について考えたい。

「私の夫は理想の夫、120点満点、浮気など決してしません」と言っていた奥さんが、夫の愛人に子どもがいたことを知って衝撃を受ける。

これが外化である。

まず自分の夫はこの打たれ弱い奥さんには、こうあって欲しいという願望がある。

その自らの願望を目の前の夫を通して見ている。

しかし奥さんは現実の夫を見ていると思っている。

ところが見ているのは自分の心の中の願望である。

現実の夫を愛していたのでも何でもない。

彼女は現実の夫とまったく接していなかったのである。

ということは、この夫婦には親しさがない。

人間にとってこの奥さんは極めて重要な、親しくなる能力が欠如している。

ある先生のことを女子高校生が「ただのおっさんじゃない」と仲間に言った。

そして皆が喜んでその先生をそう見なす。

その先生がその女子高校生にとっては「ただのおっさん」であれば、自分の劣等感が刺激されない。

自分の心の中の打たれ弱い彼女にとって傷つきたくないという願望を、先生を通して見ているだけである。

外化するということは、その人は現実の他人と接していないということである

心理的健康は現実と接することである。

非行に走った娘のことで悩んでいる打たれ弱い父親がいる。

三人の子どもを彼は育てている。

「これからどうなっていくんだろうな」と彼は将来が不安である。

彼の妻は感情が急に高ぶると怒鳴る。

悪口や陰口が凄い、スキャンダルを流す、利己主義や虚栄心が強いなどヒステリー性格である。

妻に殴られっぱなし。

それなのに「妻が悪い」とは彼は考えていない。

「でも妻は優しい人」と彼は言い張る。

「妻は、頭が良い、信じられる」と彼は言う。

そういう妻への怯えがある。

「一緒にいたい」という気持ちが彼は強いので妻の言いなりになる。

すべて妻の言うように彼はする。

彼は解決を求めていない。

彼は妻との関係さえ上手くいけばよい。

娘がどうなろうと彼はかまわない。

妻との関係が彼はおかしくなることが怖い。

現実と彼は向き合っていない。

「こうあって欲しい」という願望で、彼は現実を心の中に作ってしまう。

幻想の中で生きている

妻の現実を認めたらこの打たれ弱い人は生きていけない。

こうした状況で外化が起きる。

カルト集団の教祖と打たれ弱い信者の関係も同じである。

信者は教祖を「魔法の救助者」にしてしまう。

信者は教祖を見ていると思っているが、見てはいない。

彼らが見ていると思っているものは、教祖ではなく自分の心の中の願望である

打たれ弱い人はカレン・ホルナイの言う通り、相手にない能力を、こちらの心の必要性から相手に付与してしまう。

「彼は魔法の救助を必要としている。その必要性から相手に魔法の力を付与してしまう」

外化をしているということは現実と接していないということであるから、打たれ弱い人は次第に現実を生きる能力を失う。

現実を生きる能力を失った打たれ弱い人が、社会に不満をがなりたてたり、職場に不満をがなりたてることがある。

そういうときに叫ぶ不満は外化だと考えてよい。

人間関係において外化の深刻な問題は、外化を行なう打たれ弱い者がいつになっても人間関係を深められないという事である。

関連記事>>人付き合いが怖いを克服する方法

打たれ弱いナルシシストは相手と接していない

もっとも外化しやすいタイプはナルシシストである

ある人が自分の悩みの歴史を書いた後に「今の職場で、私の中にある本当の姿を見抜いてくれている人が一人いてうれしくて泣きたいくらいなのですが、この頭の中のショックは一生取り除けないものなのでしょうか。

教えて下さい」と書いている。

つまりこの人の手紙は打たれ弱い人が「生きるのが辛かった」、しかしある人と出会ったので救われたという主旨である。

この手紙のどこがおかしいか?

素晴らしい人に「巡り合えた」と言っているが、実は一方的な思いである。

巡り合っていれば悩み相談の手紙を書かない。

実はこの打たれ弱い人は「巡り合えた」と勝手に思っている。

その人に対して一方的な外化をしている

相手が打たれ弱い自分に恋していることを願っている。

その心の打たれ弱い自分の願いを外化してしまう。

そして自分の片思いを相思相愛の恋と思っている。

したがって、こういう心の打たれ弱い人の悩みの手紙を読んでいると相手の現実が感じられない。

別れたときにこういう心の打たれ弱い人は「裏切られた」と思う。

しかし相手はもともとこの人と恋愛関係にない。

自分のナルシシズムが原因でこういう打たれ弱い人は、恋愛ができないのに「私は男運がない」と嘆くタイプである。

自己陶酔しているからいつでも映画のシーンを体験している

「今ようやく情緒の成熟した本当の大人の方を見きわめることが出来るようになり、その人といるとホッとしている自分に気づきます」と言いながら、「甘えることのなかった私、依頼心のあった私、ありのままの自分を受け容れられなかった私は、今もまだびくびくしています。

まだ怖くて、自分を受け容れることが、いつもはできず、所有しています」と書く。

もし本当に「その人といるとホッとしていられる」人に巡り合っているなら、この悩みの手紙を書く必要はない。

もし書くならその手紙は「この人とどうしたら今後もうまくいくのか?」という手紙になるはず。

先にも記した通り巡り合えていれば、この悩み相談の手紙は書かない。

このタイプが結婚できない。

勝ってに恋をふくらましているからである。

同じことは他にも表れている

「今回は、このくらいでやめておきます」

これは先生が生徒に言う言葉である。

自分が相手と自分の関係を決めている。

相手という現実のない打たれ弱いナルシシストである。

相手の存在に現実感がない。

周りがない。

唯一の現実感を伴った存在が打たれ弱い自分の存在。

自分というイメージしか打たれ弱い人はない。

言葉としては「友達」「先生」「同僚」と言っているが、その「友達」「先生」「同僚」に現実感がない

この打たれ弱い人には仲間がいない。

長い、長い手紙の中に「こんなことができなかった、こんなことが辛かった」とかいう類のことは書かれていない。

彼女は神経症的自尊心が強く、打たれ弱くて、それが言えない。

実はそれが言えてこの打たれ弱い人は伸びる。

手紙の趣旨は「自分は本来凄い人なのだ。

しかし両親のためにこんなことになってしまったが、幸いにもある人と出会えて私は立ち直れた」ということである。

何となく不安

「この不安を取り除いてくれ」と、この打たれ弱い人は叫んでいる。

これが期待している打たれ弱い人への返事。

「あなたは頑張ってきたんですね。

あなたのように素晴らしい人はいない」

しかし「私はこんなに優れている」ではなく、反対に「私はこんなことができなかった」と言えるようになって、悩みの解決がつく

「私は学校時代には優等生でした。

小学校から高校まで学級委員や生徒会長を総なめで」と言う。

その「私は凄い人なんですよ」という意識が悩みの原点である。

学校を卒業してもまだ残っているエリート意識のせいで打たれ弱い彼女は心を開くことができない。

学級委員と社会に出てからの恋とは違うことが分かっていない

学級委員に選ばれる人が、社会でも選ばれると思っている。

「安心感のある、素直になれる、集中できる生き方がしたい」と打たれ弱い彼女は願っている。

もしこの人が言うような人に打たれ弱い彼女が巡り合えていれば、その生き方ができているはずである。

事実は巡り合っていないのに、「巡り合った」と思ってしまうことに、この人の問題がある

「私の夫は120点満点、理想の夫です」と言うのと同じである。

この人は「私は学校時代には優等生でした。

小学校から高校まで学級委員や生徒会役員を総なめ」だからすごい人なのではなく、「私は、愛情のない人間環境で育ったにもかかわらず、よくここまで頑張った、凄い忍耐力のあるだ。

この自分の強さを忘れてはいけない。

今は打たれ弱いナルシシストだから人との付き合いは上手くいかないけど、いつかきっと素晴らしい人に出会える」と思えれば、悩みは解決に向かう。

打たれ弱い人は、なぜ、頑張っても問題を解決できないのか

「この人には仲間がいない」と記したが、それは「人と親しくなれない」ということである

本当にほっとするためには打たれ弱い人は仲間がいればよい。

親しい人がいればよい。

人に優越することで、打たれ弱い人は人生の問題を解決しようとしても、それは解決できない。

人とコミュニケーションできるようになることで人生の問題は解決できる。

辛さに耐えてこの打たれ弱い人は頑張って生きてきたに違いない。

その点では打たれ弱い人は十分賞賛に値する。

悩みは解決しない

今の生き方を打たれ弱い人は続ける限り、悩みは解決しない。

どこかで生き方のギアーを打たれ弱い人は入れ替えて、ハンドルをきらなければならない。

社会的感情が欠如していては人生の問題を解決できないと言ったアドラーは、彼自身ウィーンの街の通りでその社会的感情を身につけ発展させたようである。

アドラーは病気がちであったが、いつも通りで遊んでいた。

そしてアドラーはいつも言っていた。

通りは自己教育の場、社会的感情を身につけ、そう振る舞う場であると

この通りの「はな垂れ小僧」の時代に彼はグループ意識を身につけた。

そうした仲間内では臆病はただちに罰せられる。

おそらくこの通りの「はな垂れ小僧」の時代に彼は、どうすれば仲間に信頼され、どうすると仲間から嫌われるのかというようなことを身につけたのであろう。

そうして身につけた社会的感情がその後の人生の問題を解決してくれる。

そうした社会的感情をこの打たれ弱い女性は身につける時代がないままに大きくなり、そして次々に人生の問題に直面していくが、解決できない。

今の日本の若者は、小さい頃に「悪ガキが遊ぶ通りの仲間」の中で、社会的感情を発展させる機会がない。

そうして次々に起きる人生の問題を打たれ弱い人は解決できない。

通りで仲間と遊ぶ中で、学校では教えてくれない社会性を身につける

それが人生の問題を解決する時に有効に機能する。

今の日本の若者は、子どもに無関心な親に育てられ、通りで仲間と遊ぶ中で社会的感情を身につける機会もない。

つまり人生の問題を打たれ弱い人は解決する武器がない。

考え方によれば、打たれ弱い人はそれでも何とか生きている。

たいしたものだといえばたいしたものである。

今、打たれ弱い人に生き方のギアーを切り替えてハンドルを切ることを勧めた。

ただ生き方のギアーは思うほどそう簡単に社会的感情へと切り替えられない。

簡単に切り替えられるものであれば、おそらく多くの悩んでいる人はすでに切り替えている。

そして人生の問題を自ら次々と解決している。

多くの打たれ弱い人は、今の自分の生き方を続けていたのでは幸せになれないと、心の底では気がついている。

でも自分でも、どうしようもないのである。

そこで必ずも打たれ弱い人は辛いのに「もっと、もっと」と努力してきた。

頑張って人生の問題を解決しようとしてきた打たれ弱い人は、すでに「頑張り依存症」になっている。

頑張るのは辛いけれど、頑張らないではいられない。

努力を打たれ弱い人は止めようと思っても止められない。

今の努力が決して自分に幸せをもたらさないと分かっても、その努力を止められない。

努力の方向を打たれ弱い人は変えようと思っても方向を変えられない。

アルコールを止めようと思ってもアルコールを止められないアルコール依存症と同じである

ギャンブルを止めようと思ってもギャンブルを止められないギャンブル依存症と同じである。

それが不幸になる打たれ弱い人の努力である。

頑張ること、努力すること、そのこと自体が間違っているのではない。

間違っているのは打たれ弱い人はギアーの位置である。

ハンドルの向きである。

問題は頑張り方である

努力のベクトルが打たれ弱い人は間違っている。

人生の問題は人と親しくなること、つまりコミュニケーション能力で解決する。

人と親しくなれない打たれ弱い限り、人は頑張っても、頑張っても、人生の悩みは解決しない。

だからエリート・コースを走りながら心を壊す人が出てくるのである。

心の中の願いを外化している限り、打たれ弱い人は頑張っても、頑張っても、悩みは解決しない。

どこまで頑張っても、「もっと、もっと」という焦りに苦しめられる。

焦りには打たれ弱い人の敵意が隠されている。

「もっと、もっと」と打たれ弱い人は頑張れば頑張るほど、むしろ悩みは深刻化する。

人生の問題を解決するためには、人とコミュニケーションして、現実と接する以外にはない。

アドラーに言わせれば社会的感情を豊かに発展させる以外にはない

劣等感の研究者アドラーは、コミュニティー意識を持つことなしに、人生の問題は解決しないと言うが、同じ言い方をすれば、打たれ弱い人は人と親しくなることなしに、人生の問題は解決しない。

フロイデンバーガーも「燃え尽き」を解決するためには人と親しくなることだと述べている。

他人や社会に打たれ弱い人が関心を持てないのは、心に葛藤があるからである。

同じように、人が人と親しくなれないのは、心に葛藤があり、それを外化することで解決しようとするからである。

打たれ弱い人は現実から目を背けると、生きるのが辛くなる

外化の結果、現実には無関心になる

打たれ弱い人は現実から目を背けているのだから、当たり前である。

両親が年老いて弱ってくれば、子どもは介護しなければならない。

そこで両親は元気だと思いたい。

その願いを外化する。

つまり年老いた両親を、ああして生きているのだから元気だと思う。

そうして現実に起きていることには打たれ弱い人は何も気がつかなくなる。

人々が現実にしていることには何も気がつかない。

たとえば人々がしている努力、ずるさ、誠実さ等々すべて気がつかなくなる

気がつく能力を打たれ弱い人は失う。

非言語的なことへの敏感さを打たれ弱い人は失う。

ずるい笑いも、明るい笑いも同じ笑いに見える。

自分が周囲の人を打たれ弱い人はどのくらい苦しめているかにも極端に鈍感になる。

眼の前の人がどんなに苦しんでいても、それには気がつかない。

相手の惨めさにも気がつかない。

相手をどんなに傷つけても、打たれ弱い人は自分が相手を傷つけているということに気がつかない。

ある現実を打たれ弱い自分が望むように歪めてしまうから、それ以外の現実も、そのままに見る能力も失う。

外化を始めた時には、現実とは関係のない、自分一人の幻想の世界に入る

だから周囲の人には、その打たれ弱い人が利己主義者、無責任、自己中心的に映る。

外化だけで人生を乗り越えようとすると、最後には訳がわからなくなる。

外化をする打たれ弱い人の言うことは、長く聞いていると理屈に合わないことがたくさん出てくる。

22歳の女性である、夫は25歳。

結婚して三年になる。

働いていない。

人が「簡単だ」と言う事が「自分には大変だ」とこぼす

不安ばかりで、何をしても集中できないと嘆く。

「こうすればよかった、ああすればよかったと、いつも後悔ばかりしている、一つのことを気にし出すとなかなか気持ちを切り替えられない」と言う。

嘆き続ける打たれ弱い女性である。

後悔とか不安だけだったと彼女は言う。

上手くいかなくなると彼女は、すぐに「どうでもよい」と思う。

彼女は何でもすぐに諦めてしまう

中学校のときに姉が亡くなって、その彼女は周囲の人に「嫌われないように」頑張ってきた。

そういう中で彼女は周りを気にし過ぎた。

心配性で、視線恐怖症で、彼女は人から視線を感じていづらくなる。

他の人といると彼女はいづらくなる。

それから一転して彼女は滔々と、周囲の人の説明を次のように言い続けた。

私の周囲の人は皆「よい人」。

夫といるときも彼女は気分は良好。

両親は電話をしてくれる。

実家に帰っても彼女はリラックスできる。

周囲の人は皆彼女を応援してくれる。

環境には彼女は凄く恵まれている。

そこで「周囲の人がそんなによい人なのに、あなたが心配性で視線恐怖症ということはあるか?」と聞くと、次のように言う。

よい人だから、彼女は「いなくなったらどうしよう」と不安でと言う。

恵まれているのに不安になる自分が嫌とまで付け加える。

彼女は会話をしていると「そのー、あのー」と言う事が異常に多い。

そういう打たれ弱い人は寂しい人である。

どうしてよいか分からないから彼女は「そのー、あのー」と言う。

「家族は、良い人なんです」と彼女は言って、笑う。

乾いた彼女の笑い。

深刻な悩みの相談をしているのに、彼女はここで笑うのはおかしい。

つまりこの女性は笑いで問題をはぐらかす。

話していても、彼女はその繰り返し。

自分を隠して、打たれ弱い自分を裏切って生きている。

形は恵まれて「皆仲良くして」いるが、彼女は本当は誰も信じていないし、誰も信じられない。

最後にポツリと彼女は「このまま死んでしまったほうがよいのではないかと思う」と言った。

周囲の人についての説明は「こういう人であって欲しい」という彼女の願望の外化である。

実際にはそんな「よい人」ではない。

打たれ弱い人は自分の心に都合のいいように現実を見る

今までの例はどちらかというと、現実は望ましくない人なのに、望ましい人であって欲しいので、「望ましい人」と思ってしまう例である。

しかし逆に「望ましい人」と思ってしまう例である。

しかし逆に「望ましい人」なのに、「望ましくない人」と見なしてしまうこともある。

いつも外化をしていると、打たれ弱い人は最後には「どうして生きてよいか分からない」ということになる。

外化をしていると打たれ弱い人は現実を生きられなくなる。

一年前に離婚している45歳の女性である。

新しく50歳のだんせいと同棲を始めた。

しかしこの同棲中の男性とも打たれ弱い彼女はうまくいっていない。

そこでどこにも彼女は行くところがなくなる。

人生に彼女は行き詰まっている

18歳の息子と16歳の娘は別れた夫と一緒に暮らしている。

離婚原因は夫の借金と言う。

借金したお金を何に使ったかを言わない。

娘が別れた夫の妻役をしている。

その娘に「もう無理」と言われた。

「なぜ子どもは、借金している夫と暮らすことになったのか?」と聞いたら、子どもが「このままでいたい、家を替わるのが嫌だ」と言ったと、この女性は言う。

もう一度「なぜ離婚したのか?」と聞いてみた。

夫は子育てに参加してくれなかったと彼女は言う。

でも子どもは今、その夫と暮らしている。

彼女は言う事に矛盾が多い。

今度は「二十年の結婚生活で、不満を蓄積していた」とこの女性は言う。

普通は、子どもがいて、夫が借金をしているときには、妻は夫を家から追い出す。

「子どもは置いてきた方が、子どもにとって楽だ」と彼女は思いたいから、そう思っている。

そう思えれば彼女は罪の意識がなくて自分が心理的に楽だから、「夫が借金をしたので別れた」と言う。

彼女はそう思いたいだけであるが、そう主張する。

自分に都合よく現実を解釈する

このような外化をしているから彼女は最後には、どこにも行くところがなくなる。

結婚当時「家族って何だろう」と思い出した。

本当はこの彼女は、この家族が嫌だった。

子どもと夫からこの彼女は、愛してもらいたかった。

妻と母親の責任という負担にこの彼女は耐えられない。

そのために、彼女は自分は何のために苦労をしてきたのかと思う

そう思うのは彼女は子どもが好きでないから、子どもが嫌いだからである。

まだ愛されることしかこの彼女は考えていない。

自分が人を愛することには彼女はまったく意識にはない。

「何で自分だけがやらなければいけないの」とこの女性は思う。

「子どもは勝手なことばかりやって」と彼女は子どもに不満になる。

この女性は母親になっていない。

社会的には彼女は母親だけれども、まだ心理的な幼児である。

子どもをこの彼女は可愛いと思ったことがない。

可愛いと思えないから、彼女は今はどこにも行くところがなくなる。

今、「おさんどん」をやらせている娘に申し訳ないと言う。

娘に窮屈にさせているのが彼女は可哀想と言う。

しかしこれをさせているのはこの女性自身である。

実はこの女性は今となってもう一度昔の夫のところに戻りたい。

それを正直に認めないで、彼女はまた「娘に窮屈にさせているのが可哀想」という都合のよい解釈で、元の夫のところに戻りたい。

別れるときも彼女は現実の解釈は外化、戻りたいときも現実の解釈は外化。

現実を直視しないで、彼女は自分の心に都合のよいように現実を見なす。

アドラーは「もし人生の困難に直面しないなら、その人は十分には満足しない」と述べている。