生きるエネルギーを取り戻すには
子どものころ焦っているのには、それなりの原因があったに違いない。
周囲の人からの「早くこれをしろ、すぐにあれをしろ」というプレッシャーをかけられる。
でもそんなときに言われた通りにはできない。
そこで焦っていたかもしれない。
「お前はこんなこともできないのか」という親からのプレッシャーがあったに違いない。
しかし大人になって、立派な社会人になっても、まだ小さいころと同じように心は焦っている。
それはもう外からのプレッシャーではない。
内面化した親に自分が支配されているだけである。
そのままの自分でいるのが怖くて焦っているだけである。
本当の自分に気がつくのが怖くて焦っているだけである。
カレン・ホルナイの言葉を借りれば「内なるプレッシャー」である。
大人になって違った人間関係の中にいるのに、感じ方は小さいころと同じである。
小さい頃と同じように焦っている。
体は現在にいるけれども、心は過去にいる。
それを解決するには、やはりいまの自分のプレッシャーは「内なるプレッシャー」であると考えることである。
そうして、対処し解決しようと工夫することである。
「同じ刺激が異なるコンテクストでは異なる感情になることに気づかないと、私たちはみずから作り出した感情連想の犠牲となる。」
つまり、私たちは不愉快な感情に苦しめられているときに、もうどうしようもないと思う。
しかし、実は他の感じ方がある。
エレン・ランガー教授はさらに「感情はとらわれに基づいている」と言う。
小さい頃からの心理的に未解決な問題を、腰を据えて整理することである。
「我々の大人になってからの人間関係の困難さは、小さいころの人間関係の点から理解されなければならない。
我々の大人になってからの人間関係は、小さい頃の重要な他者との人間関係における未解決の困難が転移したものである。」
つまり大人になったいま、対人的困難をいろいろと抱えているのは、幼児期に重要であった人からの束縛から未だに逃れられないということである。
とにかく自分の幼児期に重要であった人からの心理的束縛から逃れることが死活問題である。
小さいころから親を信じられない人が、大人になっていきなり「人を信じよう」としても無理である。
無理がある。
したがって最大の心理的課題は、人を信じられるようになることである。
解決方法は、「信じられる人を探せ!」である。
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難しく言えば「他人のなかに自己同一性を求める」ことを止めることである。
他人に「不当な重要性」を与えるなということである。
人間として挫折するのは、テレンバッハの言葉を借りれば、「自己同一性の供給源として他人」が重要になり過ぎていることである。
相手に気に入られると安心する。
心理的に安定する。
その生き方を自覚し、その生き方を止めることである。
いま悩んでいることの裏になにがあるのか?
いま悩んでいることの裏にある本質は何か?
悩んでいる人は、いま悩んでいることが問題だと思っていることが多い。
悩んでいる人は、過去にとらわれているのである。
そのことを理解しない限り、救いはない。
しかしそのことを理解すれば、救いの道は見えてくる。
つまり悩んでいる人は、自分はいま、なににしがみついているのかを理解しようとすることである。
「いかなる反応も完全に過去から自由であることは期待できません。」
たとえばいま主張していることは、自分が本当に主張していることだろうか?
本当にそう思っているのだろうか?
いま、「こうあるべきだ」と言っていることが、本当にいま、「こうあるべきだ」と思っているのかどうかである。
「こうあるべきだ」といま言っていることが、「自分の無意識にある絶望感」から自分を護ろうとして言っていることかもしれない。
「自分の無意識にある絶望感」が本質であるかもしれない。
そのことが理解できるか、理解できないかである。
我々は、楽観主義になったり、悲観主義になったりする。
しかし悲観主義になっているときに、本当に悲観主義になっているのだろうか?
悲観主義は巧妙に偽装された攻撃性であるとアドラーは言う。
もしかすると、悲観主義的なことを言っているときに、本当のところは、誰かを批判しているのかもしれない。
誰かを攻撃しているのかもしれない。
目の前にいる人を批判しているのかもしれない。
そしてその批判も、その人の「本当の気持ち」だろうか?
「あなたが嫌い!」と相手に言えないときに、「どうして、ここに水をこぼしたんだ」というように相手を責める。
周囲を敵と思っている人は、このようにして相手を責めることで「あなたが嫌い」という自分の感情をすり替える。
アメリカの精神科医サリバンは、「パラタクシス」という言葉を導入した。
パラタクシックな対人関係とは、人々の現在の対人関係における「歪み」である。
一般的に「パラタクシス的歪曲」とは、表向きの課題の他に、裏に真の課題があり、その真の課題が表向きの課題に強力に影響しているということである。
どのようなトラブルであっても、それを解決するためには「この問題の核心はなにか?」ということをつかまなければならない。
ことが起きたときには、「この本質はなにか?」と考える。
起きたことは本質ではない。それは現象である。
現象と本質は違う。
だからことが起きたときには、それが何事であれ「この本質はなにか?」と考えることが大切なのである。
「パラタクシス的歪曲」が起きるときにはすでに、それ以前からお互いの関係がうまくいっていないことが多い。
批判の後ろにあるその人の本質は、無意識にある恐怖感から自分の価値を護ろうとしているのかもしれない。
その本質を理解できてはじめて、自分の人生の迷路から抜け出せる道が見えてくる。
自分の本質に気がつき、それを認めたとき、人は豊かな人生を歩き始める準備ができた。
意味ある人生を送る鍵、それは自分の本質に気がつくことである。
自分の本当の感情に気がつくことである。
そこではじめて、いま、付き合っている人の本質も理解できる。
そして人は、自分の本質に気がつき、自分の本当の感情に気がついたときには、確かな自分を感じる。
自己疎外された人は、どんなに偉そうなことを言っても、確かな自分を感じていない。
どんなに偉いポストについても、「これが自分だ」という確かな自分の存在を確認できていない。
自己疎外された人は、要するに自分を騙しているだけのことである。
「人生が行き詰っているということ」は、もう自分を騙しきれないということである。
不安をだますことはできても、想像力の喪失という尊い犠牲を払っているのである。」
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マインドフルネスな人は、不愉快なことは、楽しい人生への過程とみる。
そしてなにか困難なことがあると、「いま、気がついてよかった」と思う。
マインドレスネスな人は、いまの不愉快な気持ちにとらわれてしまう。
マインドレスネスな親は、子どもを見るときでも、たとえば不登校になったという結果だけを見る。
子どもが「学校に行きたくない」と言うと、すごいことが起きたと思ってしまう。
マインドフルネスな親は過程を重視する。
我が家が抱えている問題を目に見える形で表現してくれたのが子どもの不登校である。
それは我が家が幸せになっていく過程で避けて通れない道である。
子どもの不登校、それは視点を変えれば「よかった」ことである。
「我が家の真の問題を解決するため」という視点に立てば、それは成功である。
人生ではトラブルは必ず起きる。
そのとき、「どうして?」と考える。
そしてそれを乗り越える。
努力をしない人達に、人生のハッピーエンドはない。
起きた問題を楽に解決しようとすると、どんどんと生きるのが困難になる。
現実否認で、生きることがどんどんつらくなる。
カレン・ホルナイが神経症的傾向が強い人は苦しむことが好きであるというのは、その意味である。
神経症的傾向が強い人は苦しむことを通して無意識に蓄積された怒りを表現している。
だから、隠されて怒りを表現できているときが一番心理的に楽なのである。
そのときだけを取れば悩むことが救いになる。
しかしもっと人生が行き詰まる。
エレン・ランガー教授はマインドフルネスというが、ロロ・メイは意識領域の拡大と言う。
意識領域の拡大をするにはいろいろな方法がある。
その中の一つは、難しいことではあるが、相手の立場に立って考えてみることである。
そう簡単にできることではないが、それが相手を理解する努力である。
夫婦関係で言えば、夫は問題が起きたときに、妻の立場に立ってこの問題はどう見えるかと考えてみる。
交通事故の加害者になってしまったら、被害者の立場に立ってこの事故はどう見えるかを考えてみる。
これまた極めて難しいことではあるが、若者が高齢者の立場に立って考えてみる。
いずれにしろ相手の立場に立ってみるということは難しいことであるが、意識領域の拡大には大切な方法である。
ある整形外科の医師に聞いた話である。
相手の立場に立って考えられる人は、治りが早い。
自分が交通事故の被害者なのに、「加害者の方の保険はちゃんと払われましたか?」と加害者のことまで考えられる人は事故の傷の治りが早いという。
それに対して一方的に相手方を非難している人の治療はなかなか難しいという。
意識領域の拡大の最も困難な人は、いったん被害者の立場に立つと正義を盾に、いままでの抑えていた憎しみを、つまり隠された怒りを吐き出す人である。
マインドフルネスな人というのは生きる知恵がある人のことである。
次の例はエレン・ランガ―教授が書いていることである。
ニューイングランド地方の冬はものすごく寒い。
その寒さが嫌で、ニューイングランド地方の大学の教授をやめたいという人もいるくらいである。
そういうニューイングランド地方の冬が嫌いだという人を考えてみよう。
もし彼が、その嫌いだという感じ方をもっと細かく分けて探ってみれば、自分が本当に嫌いなのは冬そのものではなく、重い冬着をきなければならず、そうしたものを着ると体が自由でなくなるように感じるからかもしれない。
もっと防寒の完全なジャケットと、もっと暖かい車があれば、彼の考え方も変わるかもしれない。
ニューイングランドの冬の何が嫌いなのか?
ニューイングランド地方の冬は美しい。
その美しい冬に憧れてニューイングランド地方の大学を受験する若者もいる。
美しさばかりでなく、冬にスキーを思う存分にできるということでニューイングランド地方の大学を選ぶ学生もいる。
同じ冬を嫌いでそこから引越したいという人もいればその冬が好きでやってくる人もいる。
「嫌いだ、嫌いだ」と言っているばかりでなく、「なぜ嫌いなのだろう?」と考える。
「なぜ?」と考えることで、視点が増えてくる。
視点を増やすことは幸運の扉を開く。
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心の視野が広がるマインドフルネスな生き方
自己肯定感より自己受容感を高める
人の幸せを決めるのは、その人の「無意識」
事実と幸せには決定的な関係はない。
些細な失敗で会社を解雇される可能性はないのに、些細な失敗をした後に「解雇されるのではないか」と心配している。
中にはなにも失敗をしていないのにいつも会社を解雇されることを心配している人がいる。
あるいは具体的に考えればたいした仕事ではないのに「仕事がはたしてうまくいくかどうか」心配する。
自分の実力を考えればそれほど困難な仕事ではないのに、「大変だ、大変だ」と考えている。
その仕事をする前の日はそれを心配して眠れない。
具体的に考えれば多少体調が悪くてもその仕事をこなせないという仕事ではない。
それなのに彼らは体調を気にし過ぎてかえって不眠症になったりする。
「なんとかなるさ」という安心感がない。
ようするに「あること」が心配で、心配でいられない人は、そのこと自体が心配というよりも、もっと基本的に自分の存在が依拠している世界に対して不安を抱いているのである。
人の幸せと相関関係があるのは、その人の無意識である。
いま自分はあることで心配している。
それが問題だと思っている。
ある人が自分の悪口を言いふらすのではないかと心配している。
そしてその話が自分の好きな人の耳にも入るのではないかと心配している。
あるいは職場にも、その話は届くと心配している。
自分の心配事は理に適っていると思っている。
そして毎日、不安で消耗している。
しかしその人は「なぜ自分は、こんなに心配しているのか?この心配している不安の裏に隠されている本質はないか?」と考えない。
シーベリーの本を読んでいたら次のような文章が出てきた。
心配は勝利せず。
そして次のように言っている。
「なぜこうも終始心配事で心を煩わせていなければならないのか。」
それは自分であることを放棄したからである。
つまり、いま自分が心配事で悩んでいるのは、自分が「自己疎外」された人だからである。
「自己喪失」しているからである。
朝から心配して、なにも手につかない。
それは自分が自分の無意識にある絶望感や恐怖感から眼をそらしているからである。
シーベリーは、自分自身でありえないのなら悪魔になった方がましであると述べている。
「なぜこうも終始心配事で心を煩わせていなければならないのか」という問いかけは、意識領域の拡大を促し、視野を広げる姿勢である。
心配事を解決する姿勢である。
自己疎外された人がいくら心配しても、心配事は解決しない。
なぜならその人が心配していることの真の原因は、そこにないからである。
すべての神経症者には、抑圧がある。
「ある真実を見たくないというのはすべての神経症にある」というのは、ジョージ・ウェインバーグの考えである。
つまりあなたはなにか重大な感情を自分に隠している。
その真実とは多くの場合、無意識にある絶望感と恐怖感である。
一生懸命にして、それでも明日が心配で眠れないときには、「実は自分は絶望しているのだな、その絶望感から目を背けるために神経症的に名声追求をしているな」と気がつくことである。
自分の力以上のことをしようとしている。
だから明日が不安なのである。
もしそう考えられれば、大きく意識領域の拡大があった。
視野が広がった。
自分が自分自身に近づいた。
一生懸命にしてできないことは、できないこと。
自分が自分自身で生きていれば、明日を煩うことはない。
あす、調子が悪ければ調子悪いのが「現実の自分」なのである。
シーベリーは「私が私自身ならなにを恐れることがあろう。恐れているなら、私自身ではないのだ」と述べている。
いま、心配していることが問題ではない。
自分が自分自身でないことが問題なのである。
そういうときに、恐ろしい幽霊の夢で目が覚める。
それは、なにか真実が自分自身に直面しようとしているのである。
その夢は、無意識のなにを表現しているのか。
得体のしれないお化けと必死で戦っている。
意識の領域ではどうであれ、無意識では得体の知れないものと戦っている。
こういうときこそ、自分自身に直面する勇気を持つときである。
そして本当の自分を知るときである。
その人といると、いままで気がつかなかった自分の感情、願望、欲望に気がつくことがある。
たまたま自由な雰囲気の場所にいるときに、人は成長する。
それは貧しい部屋かもしれない。
小さくて、薄暗い部屋かもしれない。
豪華な場所にいるときに、心が成長するというものではない。
どういう人といると、心は成長するのか?
いま、一緒にいる相手が、なにを言っても自分を責めないということを自分が知っている、自分の弱点を出しても相手から責められないことを自分は知っている、そういう相手である。
この人とここにいるときには、この自分の弱点を恥ずかしいと思わない。
自分はこんなに頑張った。
でもできなかった。
そのできなかったことを大きな声で言える。
そういうときが「本当の自分の感情」でいるときである。
精神科医が「心に浮かぶことをなんでも言いなさい」と言っても、患者は言えない。
「ことに完全主義者は、言えない。」
完全主義は、なにかに対する防衛である。
完全であろうとする努力は、自己蔑視、自己憎悪に対する防衛である。
そしてそれは外からの批判に対する自己防衛である。
「完全であるべき」という基準は、ずっと災いのもとですとシーベーリーは言う。
自分は生きづらい、生きるのがつらいと思ったら、とにかく、それを言える人を探す。
言える場所を探す。
この木の下にいると、気持ちがリラックスする。
そういう木でいい。
あるいは犬で良い。
この犬となら感情を共有できる。
そういう犬が最高の友である。
友だちは人間でなければならないということはない。
あなたの生きる道は、ひとつじゃない
「本当の自分」を自分自身で完全に否定して、「違う」と言い張る人もいるが、多くの人は、なんとなく、ただなんとなく漠然と、自分を知っている。
しかしそれを認めたくないから、そのことから目を背けているだけである。
ことに神経症的傾向の強い人は、自分についての本当のことから目を背けて、本当のことは認めない。
自分が生きるのが辛い人は、その「認めない」ことに、生きるのがつらいことの内的な原因がある。
しかし、この人の前ではなぜか言える、という人がいれば、その人は、神経症者にとって救世主の存在である。
いつも無口な人が、ある人の前では自然とおしゃべりになる。
その人の前では、ありのままの自分は「許される」という感覚になっているからである。
社会的には許されないことが、その人の前では言える。
規範意識から許されないことが、その人の前では許される。
小さい頃から相手との対決がないから、心理的成長がない。
そういう人は、自分は誰かを傷つけるのではないかと、いつも恐れている。
それなのに、その人の前ではそういうことを言う恐怖感はない。
いつもこんな軽率なことを言って、軽蔑されるのではないかと恐れているのに、その人といるときには、そんなことが頭に浮かばない。
いままでの、ありのままの自分が許されない世界とはまったく違った世界に接した気持ちになる。
そこで、言うべきことだから頑張って言うのではなく自然と言っている。
そうして長い間に溜まった感情が吐ければ、そこはその人にとって心理的な成長の場である。
自分が防衛的な態度になっていない、そういう場が心理的成長の場である。
それはその人が生産的な心構えになっているときである。
心が防衛的な態度になっているときには、「意識の死角」がある。
車の運転でも”死角”が原因で事故が起きる。
カレン・ホルナイも「personal blind spots」という言葉を使っている。
その車にたくさんの死角があるのに、平気でその車を運転している人がいる。
事故を起こすのは当たり前のことである。
それと同じで、無意識にいろいろな問題を抱えて、社会の中で生きている人がいる。
心の死角が多い人である。
人間関係で問題を起こすのは当たり前のことである。
悩んでいる人は皆、自己中心的であるという。
山登りをしている。
喉が渇いた。
誰も水をくれない。
「なんで自分だけがこんなに苦しいのだ」と思う。
悩んでいる人は「自分だけが水を飲めない」と思う。
でも山に登るときは誰もがそうなのだ。
それよりもこの先、誰も水をくれないかもしれない。
だって、まわりの人はもっと苦しいかもしれないのだから。
水は自分で探して飲むしかない。
苦しんでいるあなたは山道の下から聞こえる谷川の音を聞くのを忘れていないか。
耳を澄まして、視点を変えてごらん。
こうして視点を増やせば救われると私たちは思う。
しかしその簡単なことがなかなかできない。
パラダイム・シフトで人は救われる。
しかしそのパラダイム・シフトを妨害するものが、その人の無意識の中にある。
素直に生きてこなかった自分が気がついていないものがある。
「つらい!苦しい!」と言っている人は生きる道はひとつしかないと思っている。
もっとたくさん生きる道はある。
それに気がつくことを拒否しているのは、その人の無意識である。
「もっとたくさん生きる道はある」と気がつくことは、同時に認めたくない感情に気がつくことになるからである。
「生きる道はひとつしかないと思ってしまう」のは、無意識に問題を抱えているからである。
なぜ私は「生きる道はひとつしかないと思ってしまう」のか?
そう考えれば、「今まで自分で生きる道を選んでいなかった」と、気がつくかもしれない。
自分の無意識に気がつくかもしれない。
問題を抱えた無意識にしがみついている限り未来はない。
欠乏動機から積極的動機へ進むことが人生最大の課題である。
それは自発性の育成である。
ひとりではなかなか難しい事業であるが、その大事業なしに人生の諸問題は解決できない。
自発性の育成とは、依存心から自立心への道であり、退行欲求から成長欲求へという道である。
フロムの言う衰退の症候群から成長の症候群への道である。
依存と自立の葛藤は、退行欲求と成長欲求の葛藤である。
そしてこの葛藤を処理できないのが、神経症である。
マズローが自己実現している人は矛盾に耐えられるということは、この葛藤に耐えられているということである。
そういう人は神経症ではない。
そうした意味で疑似成長はまさに神経症である。
疑似成長とは「満たされていない欲求をやりすごすことによる成長」である。
「人が満たされていない基本的欲求を、実際には満たされているかそれとも存在しないかのように、自ら確信しようとする場合に、きわめて一般的に生じるものである。」
疑似成長も病的正常性も、心理的に無理している。
その無理が限界を超えて、防衛の瓦解が起きる。
人生最大の課題は、自分の運命を受け入れること。
そして立ち上がること。
それは現実逃避から現実へ直面すること。