心を窮屈にするべき思考
読者の方々の中にも法律をたくさん持っている人は多いのではないでしょうか。
この法律は国の法律ではなく、”自分だけの法律”です。
いわゆるべき思考というものです。
「仕事はスピーディーにやるべき」
「ご飯は、残さずに食べるべき」
「仕事は、丁寧にやるべき」
「メールの返信はすぐにするべき」
「部下は上司に、こまめに報告をするべき」
「子どもはちゃんと勉強するべき」
・・・などなど、とにかく、びっしりがありました。
そして、こうしたべき思考が心の中にあまりにもたくさんあると、違反をする人たちが、世の中にたくさんいるのが次々と目に飛び込んでくるのです。
心の歪みをほぐす方法
この「べき思考」や「こうせねばならぬ」という考えに支配された人など、苦しい思いをしている人が多くいます。
「べき思考」とは、もう少し別の表現をすれば、考え方や価値観の”偏り”です。
これは「肩こり」と似ています。
たとえば肩こりでも、肩だけを揉んでも実は効果がありません。
肩をこらせている原因となっている、体の他の部分をゆるめないといけません。
心も、「べき思考」という自分が偏っていることで、痛みが生じています。
どのように偏っているかというと・・・。
「ああいうことは、してはいけない」という否定。
「こういうことは、バレてはいけない」という抑圧。
「こういうことは、してはいけない」という禁止。
「これは、絶対に手放せない」という執着。
「あの人のことは、絶対に許さない」というねじれ。
「これが正解、これが絶対すばらしい」という盲信。
これらの「べき思考」という心の肩こりを、全部ほぐして、ゆるめていくのです。
その決まりは無意識に自分の何かを守ろうとしている
べき思考という心の「痛み」にあたるものは、嫌な人であったり、苦手な人であったり、嫌な出来事であったりします。
これらをなんとか排除しようと思って、一所懸命に頑張っても、何も変わりません。
つまり、嫌な人、苦手な人、嫌な出来事を作り出している、自分のべき思考という心の偏りをゆるめていこうということです。
でも、人は自分のべき思考に気づけません。
そこで、今からみなさんのべき思考を探していこうと思います。
べき思考は非常によくできています。
世間の法律では、「人が恨みに思うことをしてはダメ」と決められています。
たとえば、「人のものを盗んではいけません」
「人を傷つけてはいけません」「他人のパートナーを奪ってはいけません」
盗んではいけません、だましてはいけません、嘘をついてはいけません。
このように、「人が『恨み』に思うことをしてはダメよ」と法律は決めています。
そういう意味で、法律は、自分を守るためのものなのです。
自分は何にダメとしているのか
そして、”自分だけの法律”べき思考を知るための簡単な方法があります。
Q1.「最近、あなたがイラッとしたことはなんですか」
これを思い出してみてください。
たとえば、貸したお金をなかなか返してもらえなかった。
並んでいたら順番を抜かされた。
電車の中でマナーの悪い人を見た。
同僚の口にした言葉に「あの言い方はないわ」と思った。
ランチに入ったお店で、店員の態度が悪かった。
メールの返信が来なかった。
嘘をつかれた。
レジでおつりを間違えられて、二円多く払ってしまった。
自分がイラッとしたことを振り返っていくと、「自分はこういうことにダメをつけているんだ」ということがわかってきます。
イラッとした出来事は、あなたにとってのべき違反だったのです。
え?そんなの当たり前の常識でしょ?と思うかもしれませんが、少なくとも「それをする人たち」にとっては”常識”ではないのです。
その「べき」を手放すだけでいい
自分だけのべきは、今までの自分自身の経験や、出会った人からの教えに基づいて作られています。
過去に、つらく忘れがたい、嫌な思いをした。
親や友達や家族やパートナーに「そんなことをしたら失敗するよ、嫌われるよ、絶対イヤな思いをするよ」と言われた。
「そんなことをしたら、お巡りさんが来るよ」と言われた。
そうした過去の経験をもとにして、同じ目に遭うことを避けるために、”自分だけのべき”を作りました。
たとえば、たまたま体調が悪かったときに、友達からのメールに返信をせず、放置してしまった。
そうしたら、その子が自分のいないところで、「あの子って、私のことばかり無視するの。ひどいよね」と他の友達に言っていたらしいのを耳にして、悲しかった。
だからこれからは、誰からもらったメールでも、すぐに返信をするべきだと思うようになった・・・。
そんなふうに、自分が過去に味わった嫌な思いを、もう二度としないですむように、自分を守るためにべき思考を作ったのです。
しがみつくより流れに乗る
そのべき思考は、それはそれで色々な意味で幸せを作り出します。
その代わりに、何が起こるのか。
自分のまわりが”間違っている人”だらけになるのです。
「私が正しい」「すべき」と言いたいから、自分のまわりに”間違っている人””正しくない人”を置くのです。
わざわざ集めてきます。
もしくは、自分のまわりの人たちに”正しくないこと”をさせるのです。
それを見ながら、「ほら、私は正しい。だから、私はここを動かないんだから」とキュッと体を硬くします。
まわりはどんどん進化して成長し、新しい流れにのっているのに、自分一人だけ「流されまい」とギュッと岩にしがみつく。
みんな幸せになっているのに「私はここから動かない」とこだわっている。
流れている人が、「こちらに流れてきたら幸せになるよ」と言っているのに、「見えないところに行ったら大変なことになる」と岩にしがみついています。
みんなどんどん流れていきます。
チラッと見たら、「あんなところまでいっている。ずるい!」というわけです。
「ずるい」のでは、ないのです。
あなたがその手をパッと離したら、流れて行くのです。
でも手を離すのが怖い。
どこに流れていくのかが、わからないからです。
本人の曲った解釈の手を離すべきではないということです。
しかし、結局どこに流れていくと思いますか。
広い海に流れていきます。
そしたら好きなところへ行けるし、白い砂浜のビーチもあります。
豪華客船にも乗せてもらえる。
すごく「いいこと」がいっぱいあるのに、「私はここから動くべきではない」と言っている。
苔でぬるぬるした岩場に、死に物狂いでしがみついている-”自分だけのべき”に縛られている人というのは、そういう状況にあるのです。
イラッとくる所がべき思考のありか
自分の中には、たいてい、「この人はいい人」「あの人は悪い人」という区別があります。
このいい人、悪い人の頭に「自分に都合の」という言葉をつけてみてほしいのです。
我々は「自分に都合のいい人」のことを「いい人」と呼びます。
「自分にとって都合の悪い人」のことを「悪い人」と呼んでいます。
すごく勝手な話だと思いませんか。
つまり、あなたにとって「いい人」というのは、自分の価値観、べき思考に合っている人です。
あなたにとっての「悪い人」「嫌な人」というのは、自分のべき思考に合っていない人です。
非常に身勝手でわかりやすい。
そして困ったことに、心の中に「べき思考」を持っていると、自分のまわりの人たちが、その「べき思考」を刺激しに来るのです。
その「べき思考」を持っていると、そのポイントでいつもイラッとすることになります。
相手がうらやましいからイラッとする
自分の「べき思考」を守らない人にイラッとしてしまうとき、実は我々は、イラッとした出来事を起こした人のことを、「うらやましい」と思っています。
何がうらやましいのか。
- 遅刻してくる人。
- 誰かの悪口を言う人。
- 期限・〆切を守らない人。
- お金にルーズな人。
- 愛想の悪い人。
- すぐ怒鳴り散らす人。
- ご飯を食べ残す人。
- 電車やバスの中で、大きな声で話す人。
- 見た目に全然気を使わない人。
- 空気を読まない人。
そんな人に対して、「私には、とても恐ろしくて、そんなことは絶対にできない。本当は私もそうやって自由にしたいのに!ずるい」と思っているということです。
べき思考にはそんな「うらやましさ」が裏側にはあるのです。
つまり自分は、本来の自分の思いを抑圧しているということです。
怖さで人は怒る
「よく、あんなこと、できるわよね!でも、本当はうらやましい」と思っている行動を、あなた自身がとっているところを想像してみてください。
できるでしょうか。おそらく、できないことが多いでしょう。
「そんなことをしたら、私の評判が地に落ちる」「地に落ちるべきではない」
「嫌われる、ここにいられなくなる。悪いヤツ、冷たいヤツ、愛想のないヤツと思われるべきではない」
そういうべき思考の「怖さ」があるから、できない。
犬も怖いときに怒ります。猫も触ろうとすると怒ります。
同じように怖い(不快な)ときに、人は怒ると思っていてください。
つまり、イラッとしたときは、「自分は何かを怖がっている」ということです。
それは”安全”が”減る”怖さです。
僕たちは、自分が自分の「べき思考」を破ったときに、人に嫌われて一人ぼっちになるのが、ものすごく怖いのです。
孤立、孤独、一人ぼっち―そんなことになったら、とても生きていけない-想像するだけでも震えています。
そんな恐怖を隠すために、「そうするべきではない」と言ってべき思考を持ち出すのです。
「本当は怖いからやめてほしい」と言いたいのに、「そうするべきではない」という正しさの法律を振り回しているのです。
自分の中の「べき思考・タブー」を覆す
ノーベル賞を逃した野口英世はアフリカに行って、「黄熱病」の原因となる細菌を発見しました。
「これが黄熱病だったんだ。大発見だ」と当時は高く評価されました。
でも、後世で「黄熱病はウイルスによって起こる。野口の細菌説は間違っていた」と言われました。
逆に、過去に「間違っている」と言われていたことが、今は「正しい」になっていることも、世の中ではたくさんあります。
「地動説」などは、その典型的な例ですね。
どうしようもないことが常識に変わる時
特に商売の世界では、それが顕著です。
今までタブーと言われていたことを覆すことで、商売が大成功した例はたくさんあります。
例えば、運送業界では、かつて個人の荷物の集荷、配送は、郵便局の独壇場でした。
どんなに重い荷物でも、発送したければ、自分から郵便局まで持っていく必要がありました。
それを佐川急便や”宅急便”のヤマト運輸が、「荷物を一つひとつ家庭(会社)に取りにいこう」と言い出しました。
それが今では標準、「当たり前」になっています。
また、コーヒーショップはお客さんが入ってきたら、ウェイトレスが席まで注文を取りに行き、コーヒーを持っていくのが標準でした。
でも、いつの間にかセルフサービスが主流になっています。
「このほうがいい」と、みんなの意識が変わったのです。
インターネットが流行り始めたときに、ネット通販ができました。
これも「ネットで買い物なんて、日本では絶対に流行らない」と言われていましたが、今では標準となり、ものすごく大きな市場になっています。
「タブーを壊していく」ところから、商売のヒットは出てきたわけです。
「ダメだ。できるわけがない」「すべきではない」と思っていたことが、いつの間にか「当たり前」になっているんです。
「あ、いいんだ」を口ぐせに
もう一つ、人生がうまくいくために覚えておいてほしい言葉があります。
この言葉を口グセにすると、すごく面白いと思います。
「あ、いいんだ」
これを口ぐせにしてください。
- 「あ、やってもいいんだ」
- 「あんなこと言ってもいいんだ」
- 「あ、あれしなくていいんだ」
- 「お中元って、贈らなくていいんだ」
- 「結婚式の結納、しなくていいんだ」
- 「してもいいんだ、しなくてもいいんだ」
つまり、これは「すべきではない→いい」へと常識を覆すことです。
自分の常識なので、勝手にクルクルと裏返していいのです。
クルクル360度、全方向に回してください。
全部、〇ということです。
正しいことはないのです。
「すべきではないことは何もない」「すべきことも何もない」ということです。
そしてこれからは、「べき」、「べきではない」のではなく「私がそれをしたいか、したくないか」という基準に変えてほしいのです。
してもいいんだ、しなくてもいいんだ、言ってもいいんだ、メールを別に返さなくてもいいんだ、お礼を返さなくてもいいんだ。
たとえば、人に優しくしてもらったら、優しくし返さないといけないと思っている人が世の中には結構います。
すると、「優しさを返すのが面倒だから、優しくしない」という変ないじけ方、ねじれ方をするときもあります。
人に優しくしてもらったら、まずは受け取ってください。
「ありがとう」の一言だけでいいんですよ。
べき思考で被害者ぶることは止める
自分が「大事にされていない」「軽く扱われた」「傷ついた」と感じるようなことを言われたとき、されたとき、グッと我慢するのは、もうやめましょう。
「私は、それは嫌」と「ちゃんと言う」ということです。
これは、言えない人にとっては、結構怖いことです。
こころがねじれているべき思考のときは、「嫌」と言いたくないから、わかってほしくてモジモジしています。
わかってほしくて、言葉ではなく態度で表そうとしたり、すねた言動をしてみたりする。
「あの人は気づいてくれるだろう」
と様子をうかがい続けます。
「それは、嫌」と言えばいいだけです。言えないから、どんどん~すべきだなどと思い、被害者意識をふくらませていく。
それでそのうち、「言わせてくれない”あの人”が悪いんだ」と勝手に加害者を作ったりします。
「向こうがやめるべき」ではなく「してほしい」「やめてほしい」「嫌」これをちゃんと言おうということです。
ひねくれるのではなく、きちんと言う
この話をすると、必ず出る質問があります。
「嫌と言っても、会社がきいてくれないのです」
「嫌と言っても、パートナーがやめてくれないのです」
それは別の話だと、一回切り離してほしいのです。
自分が「やめてほしい」と言ってみて、本当にその希望通りになるかならないかは、相手次第です。
でもこちらがべき思考や何も言わずに相手を悪者にして、すねて、ひねくれているうちは、何もかわりません。
たとえば、「この仕事量だとつらいので、減らしてもらえませんか」と勇気を出してちゃんと言ったとします。
それでも、「それは無理です、やってください」と言われたら、「はい。じゃあ、わかりました」と仕事をやればいいのです。
そういうことです。
「希望を聞いてくれなかった、聞くべきだ」と言って、その人のことを怒るのは、筋が違うということです。
自分は、ちゃんと言った。
でも、相手から「それは困るからやってくれ」と言われたら、その結果も「ああ、そうなんだ」と受け取るということです。
「どうせ言っても無理」と思って言わないと、どんどん胸の中に変なものがたまってきます。「べき思考」のイライラと同じです。
それよりも、叶おうが叶うまいが、大切なことはちゃんと言おうということです。
言わないでいて、べき思考から「あの人はおかしい」と被害者ぶるのは、ずるいのです。
「そんなことを言っても、絶対否定されるはず」「あの人にそんなこと、言えるわけない」これを「弱犬の遠吠え」と言います。
ちゃんと言って怒られたら「ああ、怒られた」でいいのです。
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曲がった正義感
べき思考にとらわれる人は本当は怖くて不安
「怒鳴る人」がいます。
「怒鳴られる人」がいます。
ここに「竹林の法則」というものがあります。
竹は根っこが一つで、そこからいっぱい竹の子が生えています。
スギナも同じです。
根っこが一本で、そこからいっぱい芽が地面に出てくるのです。
つまり怒鳴る人(Aさん)と怒鳴られる人(Bさん)は、根っこは一緒だということです。
そこで、怒鳴る人(Aさん)は、どうして怒鳴るのかを考えてほしいのです。
たとえば、自分にとても自信があって、心にゆとりがあって、おおらかで優しい人は怒鳴りません。
つまり怒鳴る人は、べき思考にとらわれている「自分に自信がない人」です。
自分に自信がないから、心の中に常に「不安」と「恐れ」を持っています。
だから、まわりの人が自分をバカにしているのではないか、まわりの人が自分を裏切るのではないか、自分に無礼なことをするのではないか、まわりの人が自分を騙すのではないか、殺しに来るのではないかと、で常にまわりを見張っています。
「あいつ、オレのことをバカにした」
「あいつのあの態度はバカにしている」
「あいつがオレの言うことを聞かないのは、オレのことをバカにしているからだ」
「オレの言った指示通りに動けないのは、「オレのことをなめているんだ」
最後に「あいつは、オレのことをバカにするべきではない」というべき思考。
そういう目でまわりを見ています。
つまり、不安と恐れ、恐怖に包まれているから、怖くて吠えているのです。
いつもキャンキャン吠えている、弱犬と同じです。
不安な気持ちはべき思考から生み出される
怒鳴られる側の人(Bさん)は、常に怒られるのではないかと、同じように不安と恐れを抱いています。
AさんとBさんは不安仲間です。
AさんとBさんは根っこはべき思考で同じだということです。
このべき思考から生まれる不安と恐れから、「攻撃」という形で自分を守るのが、怒るAさん。
べき思考から生まれる不安と恐れを「防御」という形で小さくなって我慢するのが、怒鳴られるBさん。
あえて言うと、Bさんは怒られたいのです。つまり、「私は怒られるべき人なんだ」とどこかで思っていて、それを確認したいから、Aさんをくすぐって怒らせるのです。
「よし、やっぱり怒られた」と、どこかでガッツポーズしているのです。
つまり、不安の表現方法が違うだけです。
それを知っていてほしいのです。
この二人はワンセットです。
だから、怒鳴る人は怒鳴られる人のことを「あれは、不安がってまわりをうかがっている、卑屈な自分の姿と同じなんだ」と思ってみてください。
怒鳴られる人も、怒鳴る人に対して、「この人も私と同じで怖いんだな」と思ってあげてください。
そして、心の中で「怖くないよ、怖くないよ」といっぱい声をかけてほしいのです。
「怖くないよ、バカにしていないよ。もう怒鳴るべきをやめてもいいんだよ。あなたは大事にされているよ。あなたは怒らなくても立派だよ。怖がらなくても大丈夫だよ」と心の中で優しい言葉をいっぱいかけてほしいのです。
「あの人は私と一緒なんだ」
「そうなんだ。あの人も怖いんだな」
これは暴力を振るう人・振るわれる人、
いじめる人・いじめられる人、
怒る人・怒られる人、
みんな同じべき思考の持ち主です。
心の中で、「あなたもべき思考から怖いんでしょう」と思ってあげてください。
「怖かったんだね。私と一緒だね。不安だったね、べき思考はもうやめよう」って。
まとめ
べき思考は心の肩こりの原因。
べきというこだわりを勇気をもって手放してみよう。
べき思考の見つけ方はイラッとする時。
見方を変えれば天動説もひっくり返る。
べき思考を盾に被害者ぶることは、もうやめよう。
べき思考は怖さや不安を生み出し、認め合うことで解消される。