アイデンティティを支える

アイデンティティを支えるとは

アイデンティティとは、生きる方向性

やはり肯定的に自分の姿を描けないことには、気持ちは落ち着かない。
自分探しというのも、肯定できる自分、「あ、いいな」と思える自分を探し求めるのだ。
みすぼらしい自分しか見えてこないときは、さらなる自分探しの旅が続くことになる。

もちろん、文句なく肯定できる理想的な自分像を描ける人など、めったにいるものではない。

意志が弱くてすぐに安易な方向に流されそうになる自分、レギュラーをとりたいのにいつまでも控え選手に甘んじている自分、英会話が苦手でいくらがんばってもなかなかしゃべれるようになれない自分。
そんな自分を情けなく思いつつも、「これではいけない」「なんとかしなくちゃ」と内省する向上心のある自分を肯定することはできるだろう。
「まあ、いいか」といった感じの消極的な自己受容でも、とりあえずはよしとしなければならない。

「自分はこういう人間だ」といった特徴が明確に描かれたとき、アイデンティティが確立された、つまり自己定義がはっきりと定まったとみなされる。
でも、自分の形がそんなにはっきり、かつ詳細に描けるはずがない。
実際には、方向性だけでも描ければそれでよいのだ。
人は、日々の生活の中で具体的な行動をとる際に、そうした方向性にできるかぎり則っていこうとする。

たとえば、優しい自分というアイデンティティをもっている人は、困っている人を見かけると放っておけなくなる。
困っている人に援助の手を差し延べなかったら、自己定義を裏切ることになる。
それでは自分のアイデンティティが崩れてしまう。

正義感の強い自分というアイデンティティをもつ人は、みんなが弱い者いじめをしているのを見過ごすことができない。
そんなことをしたら、自分のアイデンティティを否定することになる。
いじめを制止することで自分の身にも危険が及ぶ恐れを感じたとしても、黙って見過ごすわけにはいかない。

反逆者としての自分というアイデンティティをもつ人は、権力をちらつかせて理不尽な要求をされた場合、たとえ相手が上司であろうが、自分の地位を脅かすことになろうが、要求をはねのけ、自分の立場の正当性を強く主張していくことになるだろう。

のんきで穏やかな自分といったアイデンティティをもつ人は、何ごとにもムキにならず、あくまでもマイペースを貫き、ゆったりとした生活を維持しようとするだろう。

不屈の闘争者としての自分というアイデンティティをもつ人は、逆境に追い込まれれば追い込まれるほど力を発揮し、へこたれるどころかむしろエネルギーをもらったかのごとく生き生きとしてきたりする。

アイデンティティが定まることで、生きる方向性が見えてくる。
こうすれば自分の日々の生活を意味あるものにしていける、といった方向性が見えてくる。
アイデンティティというのは、いわば日々の生活態度や行動を貫くバックボーンだ。
人は、自分のアイデンティティを確認できるように行動を選択し、そうすることによって心の安定を得ることができるのだ。

ドン・キホーテの原理

ところで、ドン・キホーテの物語をご存知だろうか。
スペインの作家セルバンテスの有名な小説だが、その主人公は、ある物語を読んで、その登場人物に自分を重ね合わせることで、自らのアイデンティティを構築する。

スペインのラ・マンチャに住むアロソン・キハーノは、騎士道物語を読みふけっているうちに、騎士道にとりつかれ、その物語的文脈にしたがって生きる決意をする。
そして、自ら「騎士ドン・キホーテ」と名乗り、騎士道に則って、この世の不正をただし、弱きを助ける冒険の旅に出ることになる。

ドン・キホーテの生き方は、いかにも単純で滑稽なものとして引き合いに出されることが多い。
しかし、だれの人生にもそうした一面があるのではないだろうか。

僕たちは、いったいどれほど独自な人生を歩んでいると言えるのだろうか。
自分自身の人生を生きているつもりでありながら、じつは既存の物語を生きているということがないだろうか。
幼い頃から僕たちの心の中に取り入れられ、そのエッセンスが吸収され、僕たちの人生の物語的文脈を方向づけているような、種々の物語というのがあるのではないだろうか。

「ドン・キホーテの原理」と言われるものは、ドン・キホーテのように、物語を読んでその登場人物の生き方を取り入れることで自らのアイデンティティを構築し、それに基づいた行動をとるようになる人たちの性質をさしている。
読者は、まず物語の参加者として物語の中に巻き込まれ、主要な登場人物の一人に自分を重ね合わせる。
そして、物語を読みながらその登場人物の役割を想像の中で演じる。
そうこうしているうちに、その登場人物のアイデンティティが読者の中に取り入れられ、いつの間にか読者の実生活を導く原理となっている。

物語を取り入れる媒体は、書物にかぎらない。
スポーツ選手や人気アーティストの物語を雑誌や新聞で読んだり、テレビで見たりすることで、その生き様をひとつの物語として取り入れるというのも、よくあることだ。

誰かに自分を重ね、その人物のアイデンティティを取り込むことで自らの行動原理を確立し、自分自身のアイデンティティとする。
そうしたことは、誰もが経験していることであるはずだ。

アイデンティティの性質

アイデンティティは物語として保たれる

ドン・キホーテの原理やウェルテル効果のように、ある人物の演じた物語をそのまま真似るというのではなくても、
人には自分の人生をある物語的文脈に沿って綴るといった習性がある。

たとえば、激しい家庭内暴力を起こしたある高校生の事例をみると、勉強がよくできる優等生、難関高校から有名大学に進み、明るい将来が保証されているエリートとしての人生を歩んでいる自分という自己物語を生きていたであろうことが、明らかにうかがえる。

小学校時代はこの自己物語にふさわしい現実を生きていたけれども、優秀な子ばかりが集まる中学に進んでからは、優等生としての自己物語と矛盾する試験結果を突きつけられる機会が増えてきた。

それでも、はじめのうちは、今回は運が悪かった、勉強が足りなかった、体調が悪くて気分がのらなかったなどと、ごまかしごまかし自己物語を維持することもできた。
でも、高校に上がって成績がさらに低下してくると、どうにも言い訳ができない状況に追い込まれてしまった。

こうなると、優秀なエリートとしての人生を歩む自分という自己物語は、目の前の現実に対処する力を失って、ついには破綻する。
自らの行動を方向づける自己物語を失った者は、現実を前になすすべなく混乱するばかりとなる。

ある一定の文脈のもとでは納得のいく意味をもっていたはずの、過去の一連の流れをもった出来事群が、無意味な出来事のただの羅列と化してしまう。
優秀なエリートとしての自己物語を生きていたときには確かな意味をもっていた小学校時代の夏休みの勉強の特訓も、今やその意味がわからなくなってしまった。

そこで、みんなが楽しく遊んでいるのに塾に通い続けた自分の夏休みは何だったんだ、僕の夏休みを返してくれと親に迫り、暴力を振るうことになる。

人は、自分の生きる物語、つまり自己物語の文脈に沿って、ものごとを解釈し、自分の身のまわりの出来事や自分自身の経験を意味づけ、自らのとるべき行動を決定していく。

一定の物語的枠組みがあるからこそ、僕たちは日々の出来事を意味あるものとして経験することができるのだ。

身のまわりの出来事や自身の経験を意味づける枠組みとして機能する自己物語をもつことで、自分の世界は安定する。
一定の文脈をもつ自己物語のおかげで、日頃の行動にも比較的安定した一貫性が与えられることになる。

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アイデンティティーの確立

自己物語がないというアイデンティティの拡散

逆に、そうした物語枠組みが失われると、身のまわりで起こっている出来事や自分自身の経験をすくい取り、意味づけることができなくなってしまう。
出来事や経験を意味あるものへとまとめ上げていく求心力が欠けるために、個々の出来事や経験がバラバラに浮遊した状態となる。
日々の生活に意味が感じられない気怠さに包まれるのも、そのような状態のときだ。

自分がだれかわからない状態を「アイデンティティ拡散」という。
自己物語としてのアイデンティティという観点からすれば、アイデンティティの拡散というのは、まさにそうした自己物語をもつことのできない状態をさすと見ることができる。

物語的文脈があれば、自分の経験に意味を与えることができるし、数ある行動の選択肢の中から自分の生きる自己物語にとって意味のあるものを選択することができる。
そうすることによって、自己物語はますます強化されるし、自己物語に則って生きていることによる充実感が得られる。

だが、アイデンティティの拡散というのは、「自分とは何か?」「どのようにいきるのが自分らしいのか?」「自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか?」といった自己のアイデンティティをめぐる問いに対する答が見つからずに、自分がだれであるのかわからなくなってしまった状態をさす。
そこでは、自分らしさを表す自己物語的文脈が欠けるため、自分らしい選択というのをどうしたらよいのかがわからないだけでなく、身のまわりの出来事に意味を感じることさえできない。

自己物語の欠如は、自分の生きている文脈が欠けているということなので、自分の生に意味が感じられない状態をもたらす。
それは、自分がない、自分の中身が空っぽ、自己が空虚といった感覚を生じさせる。
同時に、自己物語の欠如は、身のまわりの出来事に意味を与える文脈が欠けているということでもあるので、どんな出来事にも意味が感じられないといった経験の平板化、世界の無意味化をもたらす。
こうして、自己物語の欠如は、自己の空虚化と世界の無意味化をともにもたらすのである。