「上司と、どう距離をとればいいのかわからない」と、三十代後半のビジネスマンから相談を受けたことがある。

食品メーカーに勤める彼は、最近の異動に伴って課長に昇進した。

それまでの上司は個人主義で、飲みに誘われることなどほとんどなかった。

ところが、新たに配属になった部署は、酒好きの部長を囲んでの飲み会がたびたびある。

元来、仕事とプライベートは分けたい彼にとって、会社の人間とべったりの距離感が重荷でたまらない。

誘いを断ってもいいものかと悩んでいるのだ。

いまの若い人たちは「仕事とプライベートは別だ」という考え方で、かつてのように会社べったりの距離感を避ける傾向にある。

強引に誘えば「アルハラ(アルコールハラスメント)だ」「パワハラだ」と騒がれる始末。

「プライベートと仕事はきっぱり分ける」というのも個人の自由だとは思うが、ある程度のつきあいができないようでは、ビジネスマンとして損をする。

上下関係がある組織では、上の人間が下の人間の命運を左右する。

どんなにつまらないことでも、上ににらまれたら出世は難しくなる。

それに、毎日の業務にも差し障りが出る。

小さなことにあれこれケチをつけられて仕事が進まなければ、いくら能力があっても会社は認めてくれない。

だったら、うまくやるに越したことはない。

飲み会に出るだけで「可愛いヤツ」と思われるなら、お安い御用だろう。

「至上の処世術は、妥協することなく、適応することである」と、哲学者のジンメルは指摘している。

「自分は妥協しているのではなく、適応しているのだ」と思えば、どうということもない。

もちろん、上司にべったりと媚びる必要はない。

「ほどほどの距離」でいればいい。

飲み会でいえば、一次会に参加すれば十分だ。

二次会まで行く必要はない。

毎回、二次会までつきあえば「あいつは、いつも二次会までいる」のが当たり前となる。

そうねってから欠席すれば、「あいつは最近、付き合いが悪い」と勘ぐられる。

同僚同士の飲み会でも「ほどほど」を心がけたい。

長い時間飲んでいれば、どうしても上に対する批判や愚痴が口をつく。

それを聞いているだけですめばいいが、「お前はどう思うんだ?」などと意見を求められたら厄介だ。

反論したら「何だ、こいつ」となるだろうし、賛成したらしたで「あいつも、そういっていた」などと不本意な噂が広まってしまう。

こうした話題には巻き込まれないに越したことはない。

みんなが酔っ払って、つまらないことをいい出す前に引き上げてしまうのがいい。

「あいつは、あんまりお酒が強くないと見えて、早く帰っちゃうけど、まあ、顔を出すだけいいか」

周囲から、こんな共通認識を持たれるのが、理想の距離のとり方だろう。

仕事の人間関係で適切なモノサシ

会社のように立場が明確に定まっている場所では、「肩書き」が大きくものをいう。

「あの人が部長だなんて絶対におかしい。上層部にコネがあるだけなのに」

「課長がちょくちょくズルい手を使っているのを、上は知らないんだ」

「あんな性格の人が上司だから、部下はどんどん辞めちゃうんですよね」

などといっても始まらない。

「人間は中味こそが大事だ。裸になったその人で判断しろ」

こうしたことが、よくいわれる。

たしかに一里はあるが、仕事ではいちいち相手の人格など斟酌せずに、肩書きで判断されることがたくさんある。

また、外へ出ても肩書きで判断される。

あえていえば、人は肩書きで判断すべきだと思う。

コネだろうとズルかろうと、性格が悪かろうと、会社はすべてわかっている。

それらを承知のうえで仕事ができると判断し、肩書きを与えている。

そこで反発したり、やっかみを抱いても仕方がない。

その人の肩書きと自分の立ち位置を見定めて、その通りの距離をとればいいのだ。

「常に全体の20%の人間が、80%の仕事を行なう」というのがパレートの法則だ。

また、アメリカの教育学者ローレンス・J・ピーターは「人は無能の範囲まで出世する」といっている。

ピーターの法則である。

つまりそこに至るまでの仕事で、会社の経営は成り立っているのだ。

そして、人は、その組織内における限界点まで出世し、それを超えれば無能になるということだ。

入社して同期の誰よりも早く昇進したのに、部長になったとたんダメになった男がいた。

彼にとって、部長は無能の範囲だったのだ。

これは誰にも当てはまることで、課長で早くも無能の範囲になってしまう人もいれば、副社長まで行って社長が無能の範囲とわかるケースもある。

会社は、それらを含めて人事を決定している。

決して伊達や酔狂でやってはいない。

無能の範囲だと判断したら、その時点で出世はストップするだろう。

降格させられるかもしれない。

だから、周囲は四の五のいわずにその肩書きに従っていればいい。

その人は肩書きにふさわしい人間なのだ。

もしふさわしくない肩書きであれば、放っておいてもその人は放逐される。

「気の合わない上司や、尊敬できない上司を前にして、いったいどういう立ち位置で仕事を進めればいいのか」などと悩む人は多いが、悩む必要はない。

たとえば、相手が部長で自分がヒラ社員なら、余計な感情は挟まずに、その肩書きの差だけの「距離」をあける。

部長は部長としての肩書きで尊敬すればいいのだ。

そうすれば、仕事は何の問題もなく円滑に進む。

「山から遠ざかれば、ますますその本当の姿を見ることができる」と語ったのはアンデルセンだ。

なまじ近くにいればいるほど、上司の本当の姿は見えなくなってしまう。

きちんと冷静に距離をとってみると、意外にその価値がわかってくるものだ。

人は肩書きで判断し、自分も肩書きで判断してもらえばいい。

余分なことは考えず、目の前の仕事を確実にこなしていれば、いつか自分にふさわしい肩書きが与えられるだろう。

仕事の人間関係では、それが最も適切なモノサシになる。

嫌いな人、苦手な人にこそ事務連絡をする

人は自分が苦手なものは遠ざけ、心地いいことをいってくれる人間をそばに置きたがる。

これを「嫌遠の法則」と呼ぶのだそうだ。

企業の管理職が、イエスマンをそばに置きたがるのは、その典型例だ。

IBM社の初代社長を務めたトーマス・J・ワトソンは、「ビジネスにおける最大のミスは、うまくいかないときではなく、うまくいっているときになされる」といっている。

イヤなことやマイナス要素を遠ざけていれば、重要な問題を見逃してしまうのかもしれない。

もちろん、嫌いな人間と、あえてガッツリ組む必要もない。

人生の時間は限られているのだから、不愉快な思いはしないほうがいいに決まっている。

だから、嫌いな人とは距離を置いていい。

しかし、距離を置くのと無視するのは違う。

絶対にやってはいけないのは、苦手な人には事務連絡すらしないということだ。

大手メーカーに入社した新入社員の男性は、細かいことに口うるさい課長にしょっちゅう怒られていた。

あるとき、外出中の課長にかかってきた電話を取った。

「課長宛だ」と思ったとたんに緊張して、相手の名前を聞き忘れてしまった。

また怒られることが目に見えていたので、課長に電話があったことを伝えなかった。

「用があれば、またかけてくるだろう」と軽く考えていたのだ。

実は、その電話の人物は重要な顧客だった。

電話があったというメモすら残さなかったことで、新入社員はひどく叱られた。

当たり前の話である。

どんなに嫌いな人間でも、事務連絡だけは欠かしてはならない。

きちんと連絡していても「いった、いわない」の揉め事は起きる。

一度でも連絡を怠ったことが明らかになれば、そのたびに「また、あいつがごまかしているのだろう」と、こちらに落ち度がなくてもいわれるようになる。

そんなバカらしい事態を、自分で引き寄せることはない。

それに、嫌いな人とはいずれ離れるのだから、あまり深く考える必要もない。

昔の日本企業は年功序列で、最初に配属になった部署でサラリーマン生活を終えるということが多かった。

自分がヒラだったときの係長が、やがて課長、部長と、最後まで自分の上司であり続けることもあった。

だが、いまは二、三年もすると異動でかなりメンツが変わる。

長くても五年というところではないか。

連絡事項だけはしっかりして、あとは気にせずに離れるまでの時間をやり過ごす。

これが得策なのではないかと思う。

性別を意識しすぎず、単純に接する

会社の中にはさまざまな人間関係があり、それぞれみんなが違った距離感でつながっている。

それでも1980年代の半ばまでは、そんな複雑さの度合いも低かった。

なぜなら、日本の会社は圧倒的な男社会だったからだ。

会社に女性がいても、その多くは補助的業務、お茶くみや伝票整理などであり、男性の仕事とは区別されていた。

ところが、男女雇用機会均等法が施行されてから、女性の仕事の範囲が広がった。

社員として採用される女性も多くなり、専門職や管理職にも女性が就くようになった。

当然のことであり、歓迎すべきことでもある。

だが、仕事に関する距離感に加え、「男女の距離感」もからんでくるようになると、いっそう悩みが深くなる。

本来は、男女間は仕事に関係ないはずだ。

職場なのだから仕事の距離感だけに気を配っていればいい。

だが、それが出来ない人間が少なくないのだ。

「女性の専門職は使いにくいので、なるべく部下に持ちたくない」

「女だからという理由で、上司が私を差別している気がする」

「女性上司の下で働くのは、男としてちょっと抵抗がある」

いちいち性別にこだわって、勝手に距離感を複雑にしている。

あるいは、その逆に極端な平等主義に走るケースもある。

重い機材の移動も、危険な地域の深夜業務も、男女の区別なくやらなくてはいけないというものだ。

ここまで性別を意識しないで頑張りすぎるのは、逆に意識しすぎている証拠かもしれない。

もっと自然でいいのではないか。

男にも女にも優秀な人はいるし、そうでない人もいる。

優秀な人もそうでない人もいるという点で、男女にまったく違いはない。

しかし、男女には性差がある。そこは認めて悪いことはない。

男女平等を謳う欧米では、レディファーストを強いられる。

矛盾してはいるが、男女それぞれを意識したしゃれっ気や見栄まで捨てなくていいということなのだろう。

そこはふまえたうえで、仕事ではバイアスのかからない距離感を保てばいい。

自分の中のバイアスを解くためには、「こういうものだろう」という思い込みを捨てること。

一口に「男」といってもさまざまだ。出世欲の強い男もいれば、そうでない男もいる。

家事は妻に任せっきりの男もいれば、育休を取りたがる男もいる。

女も、それぞれ一人ひとり違う。

それでいいのである。

突き詰めれば、そこには「その人」という個人がいるだけ。

きわめて単純なことなのだ。

それを、性別、立場、年齢、肩書きなど、いくつもの要素を掛け合わせて見ているからわからなくなる。

「個人」に絞れば、必要以上に性別を意識することもなくなる。

仕事場で性別を意識しすぎる人は、そこに恋愛感情を持ち込む危険性がある。

恋愛は手近にいる異性との間に起きやすいから、社内恋愛は始めるのは簡単だが、会社に内緒で続けるのも終わりにするのもラクではない。

無事に結婚できればいいが、そうならなかった場合、さまざまなトラブルのもとになる。

ましてや、社内不倫はやってはいけない。

不倫をしている当人たちは「絶対にバレてない」と思っているが、みんなお見通し。

わかっているが、誰も「知っているよ」とはいわないだけである。

ある特定の女性部下と不倫をしている男性上司に、他の女性部下がついていくだろうか。

男性部下だって距離を置きたいと思うだろう。

「色は思案の外」という言葉がある。

どれほど仕事ができても、色恋となると別もの。

それまでの実績や信頼を一気に棒に振ることになる。

仕事の人間関係に、男女の距離感は持ち込まないこと。