心理的距離の調節

相手が遠ざかったら、追わないのがベター

それまでふつうの友達程度の関係だったのに、あるとき急に心理的距離がグッと縮まることがある。

最近、結婚したカップルは、大学時代から10年近く、ただの同級生にすぎなかった。

異性として意識したことなどお互いにまったくなかった。

ところが、クラス会の幹事として何度か会って打ち合わせをしているうちに、一気に恋愛感情が生まれたという。

二人とも社会人として働いているうちに成長し、これまで見せたこともなかった大人の一面が顔を出したのだ。

「この人、こんなにテキパキしていたっけ?」

「へえ、ずいぶんきれいな言葉を使うんだな」

お互いに意外な一面を相手に発見した。

見直したのだ。

意外性というのは、人と人との心理的距離を縮めてくれる。

同様のことは、同性の友人づきあいや仕事の人間関係でも起こりうる。

どちらかというと敵対関係にあると思っていた同僚が、会議中、こちらの意見に「なるほど、そんな考え方もあるね」

などと肯定してくれただけで、好感度がアップするということもある。

いったんそうなると、それまでの苦手意識はどこへやら、こちらから積極的に話しかけて、いろいろ相談を持ち掛けたりもするようになる。

まったく勝手なものだが、こうしたことがあるから人間は面白い。

瀬戸内寂聴さんが「人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それは、まずこちらから相手を好きになってしまうことではないか」と話していたが、どんなきっかけであれ、相手を好きになることが心理的距離を縮める一歩であることは間違いない。

しかし、急に心理的距離が縮まるということは、その逆もあるということ。

特別な理由も思い当たらないのに、いきなり心理的距離が離れるのだ。

もっとも、特別な理由が思い当たらないのは片方だけで、心理的距離を置きたくなったほうには、それなりの理由がある。

食事中にクチャクチャ音を立てるのが許せない。

テーブルを指でトントン叩くクセが耐えられない。

上から目線の物言いがいちいち引っかかる―。

「そんなことは、会ったときから変わっていないじゃないか」といいたくなるようなことが、ある日、突然気になり始めて、やがてイヤでたまらなくなる。

「あばたもエクボ」の逆パターンだ。

距離が縮まったときがそうであったように、遠ざかるときも感情的な部分が大きい。

だから、離れられたほうとしては、ずいぶん一方的で突然の変化に感じる。

だが、相手がわけもわからず遠ざかったときは、しつこく追わないのが賢明だ。

とくに男女間のケースでは、無理を通せばストーカーになってしまう。

ストーカーとは、人との心理的距離感がつかめない人間の典型である。

相手との心理的距離は、こちらの思いだけでは決まらない。

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ひょんなことから、お互いが歩み寄ればグッと近づく。

お互いが後ずされば大きく離れる。

二者が同じ行動をしていれば、何も問題は起きない。

くっつくときも別れるときも幸せだ。

やっかいなのは、どちらかが歩み寄ろうとしているのに、一方が遠ざかろうとするとき。

人間関係において、このパターンは少なくない。

「人間というものは、互いに相手を苦しめ合うために創られたものなのである」

ドストエフスキーは、作品の中でそう述べている。

戦争のような大事ではなくても、離れようとする相手を追いかけることは、お互いにとって苦しみしかもたらさない。

こんなことは、できれば小説の中だけですませたいものだ。

「自分はこんなに思っているのに・・・」などと嘆いたり、怒ったりするのは愚の骨頂。

人はみな、自分の好きなように動いている。

こちらもそうであるように、相手も好きなように動いている。

そんな基本的なことがわからないのは悲劇というしかない。

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恋愛向きの人か、結婚向きの人かを間違えてはいけない

一昔前には、男も女もたいていは二十代から三十代半ばまでには結婚したものだ。

いまのように男女が知り合う場が少なかったにもかかわらず結婚できたのは、お見合いなどによるところも大きい。

しかし、それ以上に、本人たちの「結婚して社会的に認められたい」という思いが強かったのではないかと思う。

いまは、いくつになっても親に寄生することが許されるが、以前はそうではなかった。

男も女も、結婚して所帯を持って一人前と思われるようなところがあった。

結婚とは、重要な「社会制度」であることを、みんな若いときから意識していた。

いまの若い人にとって、結婚は恋愛の延長なのだろう。

「恋人との、この甘い生活がずっと続く」のが結婚だと思っている。

だが、いま甘い生活が送れていて、それを続けたいのなら、恋人のままでいればいい。

あえて結婚する必要はない。

はっきりいっておきたいのは、恋愛と結婚では、二人の間の距離感はかなり違ってくるということ。

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よく、結婚届のことを「紙切れ一枚」と表現する。

たしかに紙切れ一枚だが、役所に届けるこの紙切れの効力は大きい。

お互いに80歳で結婚届を出して、その翌日に夫が死んでも、その財産は基本的に妻のものとなる。

日本は法治国家だからだ。

結婚という法律で決められたシステムには、権利と義務が伴う。

ある三十代の女性は、二十歳そこそこで結婚したことを後悔していた。

若いから気づかなかったが、夫はつまらない男だった。

公務員としてふつうに働いてお金は入れてくれるが、とくに趣味も持たずに、毎日決まった時間に帰ってきてテレビを見て寝るだけだ。

「別れたい」と申し出たが拒否された。

家庭裁判所でも認めてもらえない。

浮気をしているわけでもない夫には、何の落ち度もないからだ。

「絶対に別れてやらない」というのが、この夫の生き甲斐になっているようにも思える。

これが恋人同士なら、「別れるのはイヤだ」といわれても荷物をまとめて出て行ってしまえばいい。

ストーカーにならないように注意をすれば、関係はすぐに切れる。

だが、結婚してしまえば、いくら姿をくらましても法的には夫婦なのだ。

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別の側面もある。

建築現場で働く五十代の男性が、自宅で脳梗塞の発作を起こした。

長く夫婦同然につきあっていた女性が居合わせて、救急車を呼んだ。

だが、病状の説明については「家族でなければできない」と医者からいわれた。

結局、職場の上司が男性の兄に連絡して、その兄が説明を受けた。

田舎に暮らす兄は女性の存在を知らず、倒れた男性は意識が混濁したまま何もいってくれない。

制度上「他人」の女性には、話を聞く権利さえ与えられないのだ。

人にはそれぞれの人生観があり、結婚をしようとしまいとどちらでもいいと思っている。

しかし、どちらの結論にしても、結婚とはどういうものかを正しく理解しておく必要はあるだろう。

「結婚前には両目を開き、結婚してからは片目をつむっていることだ」と、トーマス・フラーはいっている。

少なくとも、結婚を甘い恋愛と同じようなものだと、とらえないほうがいい。

そもそも、結婚が恋愛の延長線上にあるものだと考えていると「結婚したいのにできない」という人が続出するだろう。

カッコよくプロポーズしてくれる、あるいは感動して応えてくれる相手がいない限り、結婚などできない。

だが世の中に、それほど恋愛上手が多いとは思えない。

また、めでたくプロポーズが成立した恋人同士は、おそらく、その日が大きな転換点だったとあとになって気づくことになる。

結婚してみたら、親戚やら夫の会社など、やたらと社会的付き合いが増え、思い描いていた甘い生活などは送れない。

この点、「できちゃった婚」のカップルのほうが、うまくスイッチの切り替えができるかもしれない。

望むと望まざるとにかかわらず、二人はすぐに父や母という社会的存在になるからだ。

「恋愛はドキドキする相手と、結婚はホッとする相手とするのがいい」

そのあたりが、最も幸せな男と女の距離感ではないだろうか。

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親子はもたれ合わないで、互いに独立せよ

「親の過干渉が自分を苦しめる」と訴える人が増えているという。

なかには「毒親」という言葉が、ネット上で使われることもあるそうだ。

自分の親の「毒」について、綿々と書き込むサイトなのだ。

とくに、母親と娘の間で問題が起きているようだ。

「このままうるさくいわれ続けたら、自分がどう行動するかわからない」とまで書き込むケースもある。

どこまで本心かはわからないが、穏やかではない。

もちろん、何の問題もなくうまくやっている親子もたくさんいる。

ある三十代後半の女性は、社会人になってからも実家から通勤している。

実家は都内の便利な場所にあり、職場にも通いやすい。

光熱費を少し入れてはいるが、給料のほとんどは、自分の趣味や洋服代などに使っている。

親にしても、家庭を持って独立し、実家に寄り付かない長男よりも、独身の長女がそばにいてくれたほうがいいらしい。

もう一人、同じく三十代の女性が、子どもを連れて離婚したケースもある。

結婚後も仕事を辞めずにいたので、何とか収入はある。

子どもと二人で頑張ろうと思っていたが、両親が「帰ってこい」と熱心にすすめるので、田舎の実家に戻ることにした。

ただ、仕事は変えなければならない。

都会から離れたところで、いい仕事があるのか心配している。

両親は「お前たち二人くらい何とか面倒見る」といってくれる。

何か離婚を歓迎しているようにも感じられる。

これらのケースは、二つとも親と子どもの利害が一致している。

だが、いつまでたっても一致したまま続くとは限らない。

私は、ある程度の年齢になったら結婚したかどうかに関係なく、男は学校を卒業して収入を得られるようになったら、親とは別居して独立したほうがいいと思う。

親には、たまに帰ってプレゼントを渡したり、親だけではいけないようなおしゃれスポットに連れて行ってあげたりという距離感がいいのではないか。

親のほうも、独立した子どもの生活にあまり口を挟まず、「あなたにあげるお金などないわよ」と、自分たち夫婦で旅行三昧しているくらいでいい。

もちろん、両方でいがみ合う必要はない。

昔から、親子の間は「スープが冷めない距離」が最適だといわれてきた。

週末に一緒に食卓を囲んだり、何かあったらすぐに駆けつけられる距離に、お互い独立して住んでいるのが理想的ではないか。

実は、この理想の距離感を保つためにはお金が必要なのだ。

親世帯、子世帯の両方が、ある程度のお金を持っていないということはいかない。

いまの六十代以上は、年金もそこそこ受け取れるし、日本の成長期に働いていたから蓄えもそれなりにある。

だが、その子どもたちは、みんながそうではない。

老後に大きな不安を抱えており、マンションなどの不動産も持っていないと親に寄生したくもなる。

寄生しても、親が元気なうちはいい。

だが、やがて介護が必要にもなるだろう。

「私のために、いままでお金を使ってくれたのだから、これからは誠心誠意、親を介護しよう」となるとは限らない。

「お金がないのに、我慢して親を看なくてはならない」と思えば、態度にも出る。

それに対して、親は「いままで食べさせてやったんだから、面倒を見るのは当然だろう」といってくるかもしれない。

お互いにベタベタもたれ合って生きてきた結果が、最悪の事態を生むことにもなる。

逆に子どもが成功して金持ちになり、お金に困った親が子どもにたかるケースもある。

子どもとしては、そんな情けない親の姿はみたくないだろう。

「血は水よりも濃い」という。

なまじ親子という血のつながりがあるから、心理的距離感など必要ないと考えてしまうのではないか。

それが過干渉となり、寄生にもなる。

しかし、水よりも濃いからこそ、そこにどっぷり浸かれば呼吸困難に陥る。

お互いが独立するという気概があってこそ、親子はうまくいくのだ。

血縁関係をあまり意識しない方がいい。