被害者意識が強い人

被害者意識が強いとは

強い被害者意識とは恐怖感となって表れる

自分に気付く。

劣等感が深刻だったり、嫌われたくないという気持ちがあまりにも強いと、コミュニケーションはできなくなる。

コミュニケーションできないのは、見栄が出てくるし、人と張り合ってしまうからである。

こういう被害者意識が強い人はありのままの自分を受け入れていないし、認めていないし、とにかく自分が見えていない。

そして自分のことで精一杯で、心にゆとりがないから相手が見えていない。

心の底には、見えていない相手への恐怖心がある。

それが被害者意識となって現れる。

お互いにありのままの自分を受け入れて、ふれあうものがなければコミュニケーションは無理。

被害者意識が強い人はとにもかくにもコミュニケーションするためにはまず自分を理解すること。

自分の本当の感情に気がついて、自分とコミュニケーションできている人は、相手がわかる。

これは「鶏と卵」になるが、人とコミュニケーションできている人は、自分がどこに向かって歩いているかがわかる。

自分がどこに向かって歩いているかがわかる人は、人とコミュニケーションできる。

トラブルを起こしやすい人

精神科医ベラン・ウルフは攻撃ノイローゼということを言っている。

一点にエネルギーを集中し、心臓病になりやすい性質の人は、タイプAと呼ばれている。

タイプAの人がイライラして、仕事以外のことでトラブルを起こすことは多い。

タイプAの人の特徴は次のようである。

まず、いつも焦っている。

第二に、過剰な競争心と達成欲。

第三に、敵意と攻撃性。

被害者意識が強い人は木の葉が落ちてもミサイルが撃ち込まれたように感じる。

その心理的打撃は大きい。

それは一点にエネルギーを集中して生きてきたことのツケである。

被害者意識が強い彼らは生活のバランスがとれていない。

こういう人がもし自分は欲求不満の塊であり、自分の心の中には敵意があると認めれば、周囲の人と上手くいきだす。

自分を知ることと他人へのトレランス(寛容さ)とが関連することを研究は示している。

とにかく自分を理解することがトラブルの対処能力を高めることである。

トラブルが多い被害者意識が強い人は、相手との心の通路は狭い。

トラブルが多い被害者意識が強い人は、まず自分の寂しさを認める。

ずるい人が、その人の心の隙に入り込む。

付け込まれるのは無意識の領域が大きいから。

他人から見ると被害者意識が強い人は寂しさが見える。

狙う人には相手の虚栄心がよくよく見える。

ずるい人には相手の恐怖感がよくよく見える。

人付き合いで自分の心がわかる

人は一般的に、「嫌い」という感情より「寂しい」という感情の方が強烈である。

だから寂しい被害者意識が強い人は、「私はあの人が嫌いだ」という感情に気がつこうとしない。

被害者意識が強い人は寂しさを満たしてくれる人なら、嫌いでもつきあいたい。

そこで、付き合っているときは、相手を「嫌い」という感情に気がついても、それを自分の無意識に追いやってしまう。

被害者意識が強い人は「嫌い」という感情に気がつかないのは、「嫌い」という感情に気がつかないでいる方が、そのときは心理的に楽だからである。

そういう人はたいてい心の底では誰も彼もが嫌いである。

さらに恐怖感がある。

ことに実力のあるライバルは嫌い。

しかし無意識の領域で相手を嫌いでも、寂しいから「親友」と思ってつきあっている。

そういう場合には本人が心理的に問題を抱えているから、明るさが不自然である。

被害者意識が強い人は心の底のそのまた底では無気力である。

被害者意識が強い人はどこで何をしても、気分が乗らない。

被害者意識が強い人は表面的に明るい顔をしても、無意識の領域では何もかもがイヤ。

被害者意識が強い人は基本的にウソで生きている。そこで周りの人から見ると癖のある人間になる。

「何であのときにあの仲間を求めたのか?」で、自分が見える。

そのときそのときの友達の色で自分の心が見える。

虚栄心の強い人、力を求める人、ずるい人、深刻な劣等感のある人、いろいろな人がいる。

被害者意識が強い人はそんな人達と友達になる。

そのときには、こちらがそのような人と同じ心の問題を抱えている。

また「重い」という気持ちを持っているときにも、嫌いだけれども寂しいから、その人と接していることが多い。

「重い」という気持ちがあるのは、被害者意識が強い人が接することは嬉しいけれども相手が嫌いというときである。

被害者意識が強い人は二人でいるときに「重苦しい」という場合は、相手を好きではない。

むしろ嫌いと思った方がよいかもしれない。

人が、最も気がつきにくい自分は、二つある。

一つは「相手に対して無関心な自分」である。

自分が相手に無関心とはなかなか気がつかない。

もう一つは「あの人が嫌いという自分」である。

したがって被害者意識が強い人の気がつくべき最重要なものの一つは「相手が嫌い」という感情である。

被害者意識が強い人は心の底では、その嫌いな相手に恐怖感を持っている。

人を嫌う深層心理

人が抑圧している重大な感情の一つは、相手を嫌いという感情である。

ではどうして「相手が嫌い」とわかるのか?

「重い」気持ちなどの他に、例えばテーマなしにじっくり話すのがしんどい人は、嫌いかもしれない。

会う前に、何を話すか話題を決めるような人は嫌いかもしれない。

あなたは本音でしゃべる相手がいるか?

あなたは見知らぬ人に何かを相談しているか?

もしそうなら周囲の人が皆嫌いと思った方がよいかもしれない。

好きな人なら本音が出る。

好きな人が周りにいるのに、見知らぬ人に何かを相談することはない。

悩んでいる人が手紙を書く。

電話をかけてくる。

「親しい人はいますか?」と質問する。

すると親しい人がいるという。

親しい人がいれば見知らぬ人に悩みの手紙を書かない。

親しい人の方に、書いたり話したりする。

あなたに深刻なトラブルがいつも起きていれば、周囲の人が嫌いと思った方がよい。

相手が嫌いということは、自分を嫌いということである。

相手を嫌いになる最大の原因は、自分の幼児的願望である。

被害者意識が強い人は自分とかかわった相手が幼児的願望を満たしてくれないから不満になる。

被害者意識が強い人は相手を嫌いになる。

被害者意識が強い人の深刻なトラブルの真の原因は、自分の無意識にある不満や不安。

被害者意識が強い人は自分が不安で、周囲の人が嫌い。

そこで深刻な問題が続発する。

こうなれば本質的な解決は「自分が自分を好きになる」ことである。

コミュニケーション出来ない被害者意識が強い人は自分が好きではないし、相手が好きではない。

サンマの好きな人はサンマを良く知っている。

どこが美味しいかを知っている。

サンマに興味がある人はサンマの料理が上手い。

人間の場合も同じである。

つまり相手に関心がない被害者意識が強い人は、相手を好きではないし、相手とコミュニケーションできない。

コミュニケーションできない被害者意識が強い人は相手を好きではない。

あなたの方が相手に関心と興味を持たない限り、相手と意志の疎通はない。

人間関係で刃傷沙汰のような大トラブルが起きたときには、お互いに嫌いでお互いに無関心である。

お互いに相手も自分も全くわかっていない。自分がトラだかネコだかわからず、相手がヘビだかモグラだかもわからない。

それであるにもかかわらず、被害者意識が強い人は自分も相手もわかっていると思っている。

そうなれば刃傷沙汰のような大トラブルが起きて当たり前である。

被害者意識が強い人は本当の自分を見つめる

本当の自分を見つけてくれるのは優しい人

人を見抜く力のある人と見抜く力のない人では、人への接し方が全く違う。

ヒステリー性格の人でも、相手を見抜く力がある人がいる。

ヒステリー性格の人は、被害者意識を持っている人などより一枚上手。

相手の気に入ることを言いながら心の隙に入っている。

騙す人と、騙される人の違い。

騙される人は「相手から見えている自分」で、かつ「自分が気がついていない自分」という無意識の領域が大きい。

自分はネズミなのに、ライオンと見せている。

騙す人は、相手がネズミと知りながら、「あなたは強いライオンですね」と褒める、おだてる。

先にも書いたように言葉は麻薬である。

被害者意識が強い人のトラブルは自分がみえていない人に起きる。

そして自分が見えていない被害者意識が強い人は「私は悪くない」と言い張り、「私ばかりつらい目にあう」となげく。

自分を知るための方法の一つとして洞穴日記をつける。

それは人間が洞穴の中で生きていた太古の時代に返ることである。

洞穴の中の人間の部分を日記に解放することである。

それは人間の原始的感情を解放するための日記である。

書くことが乗り越えるための一つの手段である。

自分に隠された領域を気づかせてくれるのはやさしい人である。

自分には隠された領域を自分に気付かせてくれるのは、自分を受け入れてくれる人である。

その人といて、肩肘を張っていなくてもいい人である。

このときにその人を受け入れる人がいれば、自分の無意識の領域に気がつく。

被害者意識が強い人は「ああ、自分は注目が欲しいだけなのだ」と気がつく。

人間関係でも自分がわかる。

被害者意識が強い人は同じ趣味がなくなると人が去る。

被害者意識が強い人は音楽がなくなると、人が去る。

被害者意識が強い人は趣味でつながっているだけ。

被害者意識が強い人は心の触れ合いはなかった。

人と付き合うのが嫌だという被害者意識が強い人は、無意識の領域が大きい。

コミュニケーション能力を高めるためには、リラックスできる人と一緒にいること。

そのためにはアメリカの心理学者ロロ・メイの言う「意識領域の拡大」である。

被害者意識が強い人は隠された感情を小さくするためには、信じる人がいなければならない。

そうしたらその人に言われたことは聞くから。

そうしたら自分に気がつく。

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自分の中で大切にしているもの

相手のことが嫌いでも、嫌いと気がついていればよい。

自分は相手を心の底では嫌いということに気がついていれば、対処の仕方は違う。

相手と距離を置く。

したがってトラブルが少ない。

心の底では嫌いな人と深入りしない。

例えば会社で言えば、プライベートなインフォーマルな飲み会をしない。

オフィシャルな忘年会だけに参加する。

そこで同僚や上司とトラブルは少なくなる。

相手が嫌いなのに、迎合して深入りするからトラブルは起きる。

連続して深刻なトラブルが起きたときには、自分は「周囲の人を嫌い」と認めることである。

自分は職場の人が嫌いということを気がついていれば、職場のトラブルを職場の外に引きずらない。

被害者意識が強い人は自分が「本当の自分」を認めていないで不安だから、一日中職場の不愉快な感情に引きずられる。

もちろんコミュニケーションできる人同士でもトラブルは起きる。

自分の意思を伝える。

そこでトラブルが起きる。

ただトラブルの深刻度が違う。

こちらが心の傷を負うようなトラブルではない。

そしてトラブルのあとで、お互いをより深く理解してコミュニケーションは深まる。

無意識に気がつくには、そのほかに「自分は何を残しているか?」と見てみるのも一つの方法である。

つまり「自分は何を大切にしているか?」もその方法の一つ。

例えば写真。

もう一つは、自分の注意をコントロールしようとしてみる。

何かに注意を向けようとする。

あるいは何かから注意をそらそうとする。

しかし被害者意識が強い人はできない。

そんなときには、自分には無意識にある問題が大きいと考えていい。

被害者意識が強い人は自分がコントロールできないものが、無意識の領域にあるということである。

そうしたものを一つ一つチェックしていくと、自分の無意識についてわかってくることがある。

自分に気付いて、実存的レベルでコミュニケーションできる人を見つけられれば、人は長い人生を何とか生きていける。

自分の無意識と向き合うということは大切です。

もちろんこれはなかなか難しい。

しかしコミュニケーションの達人には無意識の声が聞こえる。

コミュニケーションできない被害者意識が強い人は心の奥の智恵の声に耳を傾けない。

無意識の自分に気がついて、それを認め受け入れれば、「相手に近づかない」ということを含めて、多くの人間関係は上手く対応できる。

名声を得たから、権力を握ったから、大金を手にしたから、人生がうまくいくというほど人生は容易なものではない。

体が日の当たる道を歩いていても、心は日陰の道を歩いてきた人がいる。

そういう人は小さい頃誰かに言われた。

「日陰はよくないねえ」と。

名声を求めて生きてきた被害者意識が強い人は、たいてい心は日陰で生きてきた。

心が日陰で生きてきた被害者意識が強い人は、心の底に憎しみがある。

「本当の自分」に気がついて、それを認めて、人間環境が上手くいき、自然なコミュニケーションができて、人生はうまくいく。

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強い被害者意識からの解放

コミュニケーションは7,8割、いや、6割程度で十分

コミュニケーション能力を大きくするには、何度も言うように「実際の自分」に気がついていくことである。

そのための方法の一つは人間関係を観察することである。

無意識は無意識だから意識できない。

しかし無意識はどこかに現れる。

それは何よりもその人の人間関係に現れる。

人間関係がうまくいっていないということは、その被害者意識が強い人の無意識に何らかの問題があるということである。

ベラン・ウルフが言うように人は相手の無意識に反応する。

その人の無意識に敵意や憎しみがあれば、被害者意識が強い周囲の人はその人に親しみを感じない。

周囲の人全てとうまくいっているというのも問題だが、逆に全ての人と反目しているというのも問題である。

8割から7割、いや6割の人と関係がうまくいっているというのが、正常な人であろう。

というのは、世の中には心理的におかしな人がたくさんいる。

その人達ともうまくいっているとすれば、それはおかしなことだからである。

欲求不満の人は皆に不満

人間関係に不満な被害者意識が強い人がいる。

親に不満、子どもに不満、友達に不満、恋人に不満、上司に不満で部下に不満、社会に不満で血縁者に不満等々である。

誰にも彼にも不満な人がいる。

そういう被害者意識が強い人は多くの場合、単に欲求不満な人というだけである。

被害者意識が強い人は自分が自分に不満だから周りの人に不満なだけである。

被害者意識が強い人は幼児的願望が解消されないで不満なのか、自己実現の欲求が満たされないで不満なのかは別にして、自分の中の本質的欲求が満たされていない。

あるいは小さい頃から自分を偽って生きてきた。

被害者意識が強い人は親に気に入られようと「実際の自分」ではない自分で生きてきた。

被害者意識が強い人は嫌いなことを嫌いと言えないで生きてきた。

被害者意識が強い人は単純に言えば自己喪失、自己疎外している。

そのため自分の心はボロボロになっている。

しかし自分の心がボロボロだとはなかなか自覚できない。

被害者意識が強い人はとにかく自分の中に満たされないものがあるが、それを意識できていない。

その被害者意識が強い人は自己実現の欲求が満たされていないから不満でイライラしているのだが、自分は自己実現していないから不満なのだとは気がついていない。

自分がイライラしたり、わけもなく不安だったりする被害者意識が強い人は、自分には無意識の問題が大きいということである。

被害者意識が強い人は今イライラしていることが問題の本質ではない。

そしてその不満を周囲の人を通して感じている。

つまり被害者意識が強い人は周囲の人に不満になる。

ことは単純で被害者意識が強い人は自分の不満を周囲の人へ外化しているだけである。

もしその人が自己実現すれば、周囲の人が今のままでも周囲の人への不満もなくなる。

幼児的願望が満たされないで不満なら、幼児的願望が満たされれば人間関係の不満はなくなる。

親への不満も、子どもへの不満も、上司や同僚への不満も、配偶者への不満も、結局は被害者意識が強い自分の中の満たされない欲求が原因なのである。

被害者意識が強い自分の不満の原因の身代わりになっているのが、親であり、子どもであり、友達であり、恋人であり、同僚であり、上司であり、先生である。

被害者意識が強い人は上司のできの悪さをなげいていたり、部下のできの悪さをなげいたりしているが、実は自分のできの悪さをなげいているようなものである。

そのなげきの身代わりが上司であり部下である。

だから被害者意識が強い人はいつまで周囲の人のことをなげいていても解決はつかない。

周囲の人との人間関係の不満をなくすには、自分の中にある本質的な欲求に気がつき、それを満足させるしかない。

幼児的願望とか自己実現の願望のような本質的な願望はなかなか被害者意識が強い本人は気がつかない。

つまりそういう願望が自分のなかにあるとはなかなか気がつかない。

お金がないとか、病気がちだとか、天候が悪いとか、そういうことなら、人は簡単に気がつく。

しかし被害者意識が強い人はなんとなく自分の気分が悪いというようなことの原因にはなかなか気がつかない。

被害者意識が強い人は基本的欲求が満たされていないと、そのことにはなかなか気がつかない。

そして被害者意識が強い人は周囲の人の立ち居振る舞いを通して不満になる。

被害者意識が強い人は「私は自分の心を、周囲の人に開いているだろうか?」と考えてみることである。