自分は変えられる

自己物語の文脈による支配

人は自己物語の文脈に支配されている

人は物語的文脈のもとで現実と触れ合って生きている。
裸の現実を体験するなどということはなく、体験されるのは、物語的文脈に沿って意味づけられた出来事である。

意見が対立するとか、気持ちをわかってもらえないといった、すれ違いが人間的かかわりの世界にはつきものだが、それはものごとを意味づける仕方が人によって異なることによるものだ。

そのような個人独自の意味づけの仕方を導いているのが、その人の生きる自己物語の文脈である。
世の中を支配―被支配の構図でとらえがちな権力支配の自己物語を生きている人と、本音をさらけ出した温かい気持ちの交流や信頼を基礎にして「心からわかりあうこと」を大事にする愛と信頼の自己物語を生きている人とでは、人間関係の結び方は180度異なっているはずだ。

前者なら、当然のようにつきあう相手を利用価値で決め、利用価値のなくなった相手と付き合うのは時間や労力の無駄として、冷たく切り捨てるだろう。
しかし、後者にはそんな非人間的なことはできない。
人を利用価値で判断するなどということは、どうしてもこれまでの生き方になじまない。

同じ他人の行動を見ても、前者はその背後にある意図、つまり影響力のある人や周囲の人に対してどんな効果を予想してとった行動なのか、といった読み方をするに違いない。
他者に対する行動は、ことごとく人や組織を動かすこと、それによってものごとが自分に有利に展開することを目的としたものとして解釈される。

それに対して、後者だとしたら、その行動が相手に対する同情や共感的配慮を十分含んだものであるかに着目し、温かい心の交流ができる相手かどうか、信頼して本音の交わりをしていける相手か、それとも利害関係中心に動く信用できない相手かといった視点から、その言動を解釈していくことになるだろう。

このように、使える人間かどうかといった視点に立つ場合と、心から信頼してつきあえる人間かどうかといった視点に立つ場合では、ものごとの意味づけ方はまったく異なってくる。
同じ言動や出来事を見ていながら、「あの人はどうしてあんな見方をするのだろう」「なぜこっちの考えをわかってくれないんだろう」と自他のものの見方のあまりの違いに首をかしげざるを得ないこともあるが、それは生きている自己物語の違いにより、解釈の枠組みにズレがあることによるのである。

トラウマの文脈による支配

カウンセラーが面接して話を聞いたある年輩の人は、幼い頃に母親が自分を置いて家を出ていったという経験をしていた。
父親と別れて、家を出ていったのだ。
その後、父親は別の女性と再婚したが、そこで生まれた弟妹たちばかりがかわいがられ、自分は父親からひどい虐待を受けるなど、辛い目に遭ってきたと言う。

その後の人生を語ってもらうと、なぜか身近な人物、愛情込めてかかわってきた人物とのすれ違いや別れのエピソードがやたらと目立つ。
親友と思っていた人物とのすれ違いと絶交、心を許した異性とのすれ違いと破局、配偶者とのすれ違いと離婚、愛情深く育てたはずのわが子との葛藤と成人後の絶縁状態―これでもか、これでもか、といった感じで、心がつながっていたかに思われた人物との間のすれ違いと別れのエピソードが繰り返される。

本人は、けっして自ら人間関係を断ち切っているつもりはない。
むしろ幼い頃から無縁であった温かい心の触れ合いを求めたり、自分が与えてもらえなかった愛情をわが子に十分に与えようと躍起になったりしていた。
それにもかかわらず、事態はいつも悪い方向に展開してしまう。
愛情とか温かい心の交流とかいったものに対する本人の渇望の背後にある不安や自信のなさが、知らず知らずのうちに悪影響を及ぼしているのかもしれない。

さすがに本人も、「不幸な星のもとに生まれた人間は、やっぱり幸福になれないんでしょうかねえ」「最近、トラウマっていう言葉が気になって・・・、幼い頃に心に傷を負うと、生涯それに支配されて、傷を負う経験ばかり繰り返してしまうっていうのはほんとうなんですかねえ」のように、自分の運命を嘆かずにはいられないようである。

優越の文脈による支配

他の事例では、もっと若い人だが、親とくに母親から植え付けられたと思われる優越の文脈によって支配されてきた子ども時代から青年時代を語っていた。

小学校の頃から、学校のテストで80点とか90点といった良い点をとっても、母親はそのこと自体に反応するのでなく、即座に「○○ちゃんは何点だった?」と聞いてきて、その子より良かったかどうかばかり気にしていた。

その友達は、クラスで一番できるとても優秀な子だったという。
自分の子ども自身が良くできたかどうかでなく、特定の友達と比べて良かったかどうかが問題とされるのだった。

こうした反応を常に返され続けるわけだから、いつの間にか「自分は周囲の人たちよりも優秀でなければならない」という意識が心の中に注入され、トップの成績がとれたら安心し、そうでないときは落胆するといった反応パターンが定着していった。
そこでは、自分の評価は他者との比較のもとで行われるのであるから、周囲の人たちは常に競争相手として意識されることになる。

このようにして、周囲の友達との比較をもとに、その人たちに優越することを目的として行われる勉強は、ほんとうに自分がやりたい勉強なのだろうか。
そんな疑問がふと頭をもたげるようになる。
それでも高校を出るまでは、この文脈から抜け出すことがふと頭をもたげるようにある。
それでも高校を出るまでは、この文脈から抜け出すことができなかった。
さすがに大学生になって、成績順もはっきりしない状況に置かれることで、成績をめぐる競争による支配からはやや解放されつつあると言う。

ただし、小さい頃に植えつけられた「自分は周囲の人たちより優秀な人間でなければならない」といった自己物語の文脈から抜け出すのは、容易なことではない。
学校の勉強でも、資格取得でも、サークル活動でも、友達からの人気でも、生活のあらゆる局面において、周囲の人に優越していなければならないといったプレッシャーにたえずさらされ続けている。

もういい加減そんなものから自由になって、他人の動向などに左右されずに、自分自身のあるべき姿、行くべき方向に向けてがんばっていきたい。
それでも、どうしても競争意識というか比較意識のようなものが抜けきらない。
人に負けないようにがんばるといった図式にいつの間にかはまってしまい、自分がほんとうは何をどうしたいのかがよくわからないのだ。

対抗同一性の文脈による支配

対抗同一性の文脈からどうにも抜け出すことができないという人もいた。
対抗同一性とは、少数派であること、反主流派であることに積極的な価値を置き、自らの正当性や創造性を主張し、多数派や権力体制に激しく対抗する生き方を身につけていることをさす。

とても穏やかそうに見えるし、実際に人を見下すような態度とは無縁で、どんな相手にも物腰柔らかく、誠実に応対する。
ところが、相手が理不尽に権力を行使しようとしたとたんに、人が変わったみたいに攻撃的な態度を示す。
横暴な相手に対しては、ひるむどころか容赦なく対抗的な姿勢を向けていく。

それも、相手が強大な権力を誇示しようとしたり、強引に力任せな態度を示したりするほど、それに対応して、本人の攻撃性も増していく。
向こうが強く出れば出るほど、こちらもますます強く出る。

「権力に屈しない自分」「弱い者の味方で、理不尽に権力を行使する者に対しては徹底的に抗戦する」といった自己物語を生きている者としては、相手が強大であるからといって逃げるわけにはいかない。
相手が強大であればあるほど闘争心が湧いてくる。
そこらのへなちょことは違うんだ、といった意識で自分自身を奮い立たせていくことになる。

「損得で動くことなく、自分の信念に則た生き方をしたい」といった文脈が強く根づいているため、自分の身を守ろうとする防衛的な態度はけっしてとることができない。
親身に考えてくれる周囲の人から、そんなに逆らったら痛い目に遭わされるかもしれない、ここは相手の理不尽さを見て見ぬふりをしたほうが得策だ、のように忠告してもらっても、自分らしさへのこだわりが邪魔をして、無謀と思われる闘いの中にあえて突進せざるを得ないのだ。

それによって損をするかもしれないし、失うものが大きいかもしれないけれども、信念に従って自分の納得のいく生き方を貫きたい。
そうした自己物語の文脈による支配力は強大で、ときに自分でも「そこまでこだわらなくてもよいのに」「もっと楽な生き方をしてもよいのになあ」と思うこともあり、自己陶酔している自分を滑稽に感じることもある。
それでも、やはりどうしても対抗同一性の自己物語から抜け出すことができず、気が付くと闘争の構えをとってしまっていると言う。

なかなか変わらない自分

自分を変えたい。
こんな自分でいるのは苦しすぎるから、何とかこんな自分から脱したい。
別の自分に生まれ変わりたい。
そんな思いを強くもちながらも、どうにも自分が変わっていかない―、そうした悩みを抱える人も少なくない。
「変わろうと思って簡単に変われるくらいなら、だれも自分のことで悩んだりはしないでしょう。人は変わろうと思ってもなかなか変われない。
だからこそ悩むんじゃないですか」といった声が聞こえてくるようだ。

アルコール依存症の人も、恋愛や性関係に依存している人も、つい暴力を振るってしまう人も、浪費癖の抜けない人も、こんな自分を変えてしまいたいと本気で思っているはずなのだが、なかなか変われない自分がいる。

恋人との関係に悩んでいる女性が、わがままでだらしない、でも憎めない率直さがあって、こっちに依存してくる男性とばかり縁があるが、自分はいつも母親役を演じなければならないので疲れてしまうと訴えるケースがあった。

手のかかる相手に振り回されるのは疲れるとは言うものの、母親のように面倒をみることに一種の心地よさのようなものがあるから、あるいは自分の存在価値が実感できるというようなことがあるからこそ、同じパターンを繰り返すことになるのではないか。
自分が変わってもいいという覚悟ができないから、同じパターンを繰り返せるような相手を探してしまうのではないだろうか。

自分を変えたいと思ったら、思い切って関係のネットワークを切り換えることが必要だ。
これまでとは違う関係のネットワークの中に置かれると、自分の経験の語り方が違ってくる。
語り方が変わると、経験から汲み上げてくるものが変わってくる。
それは自己物語に変化が生じたことを意味する。

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今の自己物語から抜ける

こんな生き方は損だなあと思いはしても、それが自分らしさを表していると感じられるかぎり、その生き方を変えるわけにはいかない。
その生き方というのは、あのとき自分はこんな態度をとった、また別のときには自分はこんな行動をとったといった個々のエピソードの積み重ねとして、一貫性のある物語の形で保存されている。
それが、人のアイデンティティは物語として保証されているということである。

人は、自分が一定の物語を生きていると改めて意識しているわけではないけれども、物語的文脈に拘束されて日々の態度や行動を決定しているのだ。

ここで考えてみたいのは、自分を変えたいと思うとき、自分の思考パターンや行動パターンを変えたいとき、どうしたらよいのかということである。

これまでと同じ物語的文脈を生きているかぎり、人はこれまでの思考パターンや行動パターンを変えることはできない。
思考パターンや行動パターンは、自己物語の文脈によって強く規定されている。
そうであるなら、思考パターンや行動パターンを変えたいと思ったら、採用している自己物語の文脈を変えていく必要がある。
これまで生きてきた自己物語から抜け出さないかぎり、自分の思考パターンや行動パターンを変えることはできない。

今の自分の生き方は納得がいかない、何とか自分を変えたい。
そうは思うのだがなかなか自分を変えることができない。
これまでのパッとしない自分から脱皮できない。
そんな声をよく聞くが、それはこれまで生きてきた自己物語の拘束力が強くて、そこからなかなか抜け出せないことを意味する。

これまで当たり前のように生きてきた自己物語から抜け出すには、かなりの覚悟と行動力を要する。
自分を変えたいのになかなか変わらないと嘆く人の場合、じつは慣れ親しんだ自己物語から思い切って脱する覚悟ができていないのではないか。

自己物語の文脈が変われば、世界の意味が一変する

同じ出来事でも、生きている自己物語が違えば、作用する文脈効果も異なるため、違った意味づけのもと、まるでまったく違った出来事として受け止められることになる。

テレビドラマで何らかの事件を扱ったものがよくあるが、同じ一つの事件であっても、被害者の側の視点に立つか加害者の側の視点に立つかで、まったく違ったドラマをつくることができる。

被害者の側に立つなら、その事件がいかに悲惨なものであり、それにより被害者がどれほどの痛手をこうむったかに焦点をあて、加害者の行為の不当性を責め立てるとともに、被害者の側の気持ちへの共感が切々と訴えられることになるだろう。
一方、加害者の側に立つとしたら、加害者が置かれていた切迫した状況がまず描かれ、もともとけっして悪い人物ではなかったのに、社会的に追いつめられることによって、いかにして事件の加害者となるに至ったか、罪を犯すことになると知りつつも事件を犯さずにはいられない状況に追い込まれていく気持ちへの共感が切々と訴えられることになるだろう。

同じ出来事でも、視点が異なれば、その受けとめ方が違ってくる。
視点というのは生きている自己物語が与えてくれるものである。
つまり、自己物語の文脈が、ものごとを見る視点を与えてくれる。
人によって、まったく同じ現実からそれぞれに異なった意味の世界を紡ぎだしているのである。
ということは、同じ人物であっても、生きる指針として採用している自己物語が変われば、周囲の出来事の受けとめ方が一変するということになる。