本当の自分がわからない人は「自分探し」は魔法の杖ではない
本当の自分がわからないとは、他人に自分をよく見せようとする自分が強すぎて、ありのままの自分を抑圧してしまっている状態である。
本当の自分が分からない人は、自信がなく生きているため、辛い。
そこでそんな本当の自分がわからない人が自信をもてる心理を対人関係を軸に述べてみたいと思う。
「本当の自分」はどこにいる?
ウサギは「本当のウサギとは?」とか「嘘のウサギとは?」とかいうことは考えない。
私達人間だけが「本当の自分はどこにいる」と悩む。
それはウサギは他のウサギに認められようとして頑張って自分を変える必要がないからである。
またウサギはウサギ同士のコミュニケーションが人間よりうまくいっているからである。
「人から評価されること以外には何も求めていない本当の自分がわからない人」は、例えば職業選択でどういう間違いを犯すだろうか。
それは自分が高所恐怖症なのに高層ビルの窓拭きになろうとするような間違いを犯す。
どうも自分が生きている気がしない
生存としては生きている、しかし実存として生きていない。
そんな時「本当の自分はどこにいる」と悩む。
確かに「本当の自分」に出会えなければ生きていることは辛い。
毎日シャンパンを飲んでいても、本当の自分が生きることは辛い。
社会的に成功しても自信のない本当の自分がわからない人がいる。
社会的に成功していなくても自信のある人がいる
それは自分の本性に従って成功したかどうかということである。
自分の本性に従ったことをして失敗しても人は自信を持って生きていられる。
本当の自分がわからない人は自分の本性に逆らって気に入られようとすると、どうしても自分で自分を軽蔑してしまう。
そして自分で自分を軽蔑すると、傷つき易さをはじめ様々な病的な心理現象が表れる。
どのような分野でも、かなり色々な業績を上げながらも自信のない本当の自分がわからない人がいる。
端から見て「え、あの人が?」と驚くような人が時に自信喪失している。
ビジネスに向いていない本当の自分がわからない人がビジネスで成功しても、「私の人生は何かおかしい」と感じる。
自分の人生に意味や価値を感じることは出来ない。
自信を本当の自分がわからない人は持つことは出来ない。
だから会社でエリートコースに乗りながらも時にうつ病になったり燃え尽きたりする人がいる。
自分の人生に意味を感じ、自信を持って生きるには自分探しは大切である
しかしこの自分探しで全ての人生の問題が解決出来る訳ではない。
最近「自分探し、自分探し」とよく言われる。
本当の自分がわからない人は生きるのが辛くなると自分探しをする。
まるで自分探しをして、「本当の自分」に出会えさえすればそれで全ての問題は解決し、生きるのが楽になると思っているかのようである。
自分探しが人生の魔法の杖であるかのごとくであるが、「自分探し」は魔法の杖ではない。
今の時代、「自分探し」の必要な本当の自分がわからない人が「自分探し」をしていないで、「自分探し」などと騒ぐことがお門違いな人が、「自分探し、自分探し」と騒いでいることが多い。
「自分探し」ばかりをして気持ちの落ち着かない本当の自分がわからない人々の症状を「自分探し症候群」と呼ぶことにした。
その背景には現代人の深い孤独感がある…
ニートと言われる人も、その背後にはコミュニケーションの崩壊がある。
ニートなども学校から就職への社会的条件整備というような社会学的視点からではなく、コミュニケーションの崩壊と回復という視点から考えてみる。
「本当の自分がわからない人は「ありのままの自分でいい」ということ」
「本当の自分」で生きることが望ましいという時に、「ありのままの自分でいい」というように誤解されることがある。
自分のマイナスの感情を吐き出すことと、自分を磨くことの二つのバランスがとれて人は充実して生きていかれる
「ありのままの自分でいい」というのはその通りであるが、それは「自分を磨く」ということと相補って意味がある。
その視点がないと本当の自分がわからない人は生きることが虚しくなり、人生に意味と価値を見失う。
確かに「ありのままの自分でいい」ということは大切なことである。
例えば子どもに恐怖をしゃべらせてしまうことは大切である。
本当の自分がわからない子はこもるからより怖くなる。
ひきこもる
大人でも恐怖や怒りの感情を出してしまうことは大切である。
長い事本当の自分がわからない人は怒りの感情を出せないからうつ病になったりもする。
ただ「ありのままの自分でいい」というだけでは時に単なるわがままを許容することになり、生きる基準を見失い、いよいよ自分で本当の自分が分からなくなる。
「ありのままの自分でいい」ということが特に許される人は、小さい頃から人間関係の中で苦しめられて生きてきた本当の自分がわからない人達である。
自分の感情が許されないで、内面的心理的にも従順を強いられて生きてきた本当の自分がわからない人達である。
いつも責められて生きてきた人達である
嫌いなときに嫌いと感じることが許されなかった人、好きな時に好きと感じることが許されなかった人、イヤな時にイヤと感じることが許されなかった人、相手の都合に合わせて迎合することでしか生きてこられなかった本当の自分がわからない人達である。
親の過干渉に苦しめられて生きてきた人達である。
「ありのままの自分でいい」というのは、努力することを大前提として生きてきた本当の自分がわからない人達である。
この大前提の努力をしないで生きている人に向かって、「ありのままの自分でいい」と言えば、わがままになるだけで、本当の自分がわからない本人もどう生きてよいかますます分からなくなる。
放任で生きてきた人達に「ありのままの自分でいい」と言えば、野生の猿になりかねない。
放任で生きてきた人に必要なのは「自分探し」よりも「自分創り」である。
ただ、これらのこと全てを「本当の自分はどこにいる」というテーマに含めて考えた。
百合は百合、牡丹は牡丹である。
百合は百合として生まれて、百合として育てられて幸せになれる
そうすれば「本当の自分はどこにいる」などと悩まない。
牡丹が必死になって百合になろうとしている時に、生きることが辛くなる。
その辛い時に「本当の自分はどこにいる」と悩む。
また牡丹が牡丹をして生きている時に、素晴らしい牡丹になるためには少し苦労が多いということで、自分は「本当の自分」として生きていないのではないかと思う。
そして「自分探し、自分探し」と騒ぐ
こう言うタイプの人は、「ありのままの自分でいい」ということを口実に「本当の自分」であることの厳しさから逃げているだけである。
根本的に人生を勘違いしている。
「本当の自分」で生きると周囲の人も幸せに出来る
「自分探し」が必要な人と、「自分創り」が必要な人がいる
「本当の自分」で生きている時には、自分に自信があり、かつ人々の幸せに貢献出来る存在になる。
周囲の人を居心地良くすることが、あなたの責任ではないが、「本当の自分」で生きる時には自然とそうなっている。
従って真の意味で「ありのままの自分でいい」ということは、肥大化した欲望を許すことではなく、自ずから社会に貢献出来る人間になっていくということである。
他人と自分は違う。
だから誰が何と言おうと、自分は自分であればいい。
今までにずるい人のお気に入りになるために本当の自分がわからないあなたはどれだけ消耗したことか。
そしてその度に「本当の自分」から離れていった。
その結果、本当の自分がわからない人はどれだけのストレスと、どれだけの不幸を味わってきたことか。
「本当の自分」から離れるということは、自分が生まれつき持っている性質をずるい人に気に入ってもらうために変えることである。
不幸なことに、そうした真面目な人の中には「自分は自分であればいい」と感じることが出来ない本当の自分がわからない人が多い。
真の意味での「本当の自分」を見出そう
「自分探し、自分探し」と騒ぎだしたのは、おそらく多くの人が、経済的繁栄の中で、自分の人生に価値と意味を感じなくなり、何となく生きるのが辛くなり出したからであろう。
経済的価値を唯一の価値として安易に生きる思想が広まり、皆が楽な生き方をしながらもっと幸せになりたくなった。
しかし「自分探し」は魔法の杖ではない。
「不幸せではないが、何かつまらない」、そういう本当の自分がわからない人も増えてきた。
コミュニケーションが崩壊し、本当の自分がわからない人々が自分の人生に意味を見失った時、「自分探し」が目的になった。
「自己充足、自己の可能性の実現はしたがってけっして自己目的であるとは考えられません。
そして、人が自分の人生の本当の意味を見失ったとき、はじめて、自己の充足が結果としてでなく目的として念頭に浮ぶのです」
真の意味での「自分探し」を怠ると、本当の自分がわからない人の人生の最後には孤独という悲劇が待っている。
本当の自分がわからない人は自分の心の中を見つめよう
一口に自分探しと言っても色々な種類がある。
生きづらいのは、単に生きる心構えが悪いというだけのことなのに、それを大袈裟に、かつ簡単に「本当の自分」に出会えていないからだと言ってしまうとする。
すると本当の自分がわからない人はいつになっても生きづらさは解消しない。
今、生きづらさの原因は色々とある。
抑圧から「本当の自分」がわからなくて苦しんでいる人、欲望が肥大化して虚しさから生きづらい人などである。
しかしそれを全てたまたま「本当の自分」に出会えていないからだと思ってしまうと、いつになっても生きづらさは解消しない。
そして終わりなき「自分探し」への旅に発つ。
「自分探し」を成功させるためには、自分を見つめることである。
結婚で考えれば、誰と結婚してもうまくいかない人と、たまたま選んだ相手とうまくいかないという人といるだろう
例えば離婚の時によく言われるのが「性格の不一致」である。
しかしその人が「私は、この夫と合わない」とか「私は、この妻と合わない」とか思っているが、実は誰とも合わないということがある。
誰と結婚してもうまくいかない本当の自分がわからない人が、うまくいく結婚相手を探しても見つかる訳がない。
無理である。
本当の自分がわからない人は配偶者探しは成功しない。
要するに、その本当の自分がわからない人は相手と「性格の不一致」が原因で離婚をしたのではなく、誰とも共同生活をするということが出来ない人間だから離婚したのである。
そもそも二人で助け合いながら生活を築き上げていくということが、出来ない
離婚をする時に、「性格の不一致」と言っていたら、いつになっても幸せな結婚生活は出来ない。
本当の自分がわからない人は何度離婚をしても幸せにはなれない。
離婚原因を、自分と合う人と出会っていないからだと考えていたのでは、いつになっても幸せになれない。
幸せになるためには、新しい相手を探すのではなく、自分の心の中を見つめなければならない。
しかし本当に「性格の不一致」なら何度離婚をしてもいいだろう。
たまたま選んだ相手とうまくいかない本当の自分をわかってる人は、うまくいく結婚相手を探せばいい。
いつか配偶者探しは成功する。
努力は実る。
この二人の配偶者探しは別のものである。
「課題を見極めて対処する」
同じことが、例えば「自分探し症候群」の人にも言える
本当の自分がわからない彼らは「今の仕事」が合わないと言う。
しかし実は「今の仕事」が合わないのではなく、どの仕事でも仕事が出来ないのかも知れない。
どの職業についても苦しい本当の自分がわからない人が、自分に適した職業を探しても、努力は実らない。
たまたま就職した先が自分に適していない本当の自分がわかっている人は、適している働き場所を探せばいい。
適職探しの努力は実る。
「自分探し症候群」の本当の自分がわからない人は「今の生活」が合わないと言う。
しかし実は「今の生活」が合わないのではなく、本当の自分がわからない人はどのような生活でも大人としての自律した生活が出来ないのかも知れない。
それなのにどこかにいる「本当の自分」を探せれば、全てが解決出来ると思う。
そう思うのは、魔法のバスを待つ小学生と同じではないだろうか。
ギャンブル依存症の人が、いつか大当たりをすると思ってギャンブルを続けているのと同じである。
そこまでくればもう「自分探し依存症」である。
離婚の場合で言えば、誰とも合わないというような人がしなければならない「自分探し」を「本質的自分探し」とする。
それに対してまさにこの相手と合わないという人がしなければならない「自分探し」を「状況的自分探し」とする。
「状況的自分探し」は自分と外側と両方に問題がある
外側の環境を変えることが大切である。
自分に適した環境を探すことが第一である。
それに対して「本質的自分探し」は自分の心の中に問題がある。
本当の自分がわからない人は何よりも自分の心の中を見つめることが先である。
それに気がつかないうちに本当の自分がわからない人は自分に適した環境を探しても失敗する。
しかし自分の心に原因があることを自分の外の環境に原因があると思っていたら、いつになっても「本当の自分」は見つからない。
そういう人は「本当の自分はどこにいる」と、死ぬまで自分探しをしなければならない。
「本質的自分探し」の場合には、環境を変えることも大切だが、それだけで「本当の自分」が見つかるというものではない。
「自分探しに外国へ行くのは逃げである」
よく自分探しに外国へ行く人がいる
旅行であったり、留学であったり。
しかし外国の方が「本当の自分」が見つかり易いというものではない。
日本で迷走しているよりも、外国にいる辛さの方が心理的に楽である。
外国にいる方が自分の感情から目をそむけられる。
本当の自分がわからない人は自分探しをしているつもりで、単に迷走し模索しているだけのこともある。
自分の心が求めているものは、今住んでいるところでみつけなければいけない。
「自分探しは元に戻る」
「本質的自分探し」が必要な人の中には、「本当の自分、本当の自分」と言って現実から逃げている人が多い。
現実から逃げていない人は、今のこれが「本当の自分」と思って戦っている。
逃げている本当の自分がわからない人は、目の前に見える困難なことから逃げている。
「自分探し依存症」の本当の自分がわからない人は苦難の道を選ばない。
それは夢がないから。
本当の自分がわからない人はエネルギーがないから。
毎日が何かおかしい。
どの職業につこうが、誰と結婚しようが、本当の自分がわからない人は生きることはうまくいかない。
現実から逃げているから、本当の自分がわからない人は同じところをグルグル回っている。
他の人ははるか向こうを歩いている。
本当の自分がわからない人は「なりたい」だけで行動しない
放任を自由と合理化したお陰で、人間関係において上下関係がなくなり、山の猿のような子どもが増えてきた。
放任で育ち、ルールを失ったところで「本当の自分」を探すといっても、それは無理である。
ニートが生まれてきたのも、身につけた下着を売ってお金を稼ぐ生セラのようなことが女子中学生の間で行われているのも、コミュニケーションが崩壊し、大人社会のルールがなくなったのが最大の原因であろう。
本当の自分がわからない人は生きるルールが分からないから、親は子どもに限界を教えていない。
「ニートの日常の多くは、昼過ぎまで寝て、日常はぼんやりテレビを見たり、ときには夜まで『ブラブラ』したりといった生活を繰り返している」
その原因が何であるかは別にして、本当の自分がわからない彼らの生活はリズムを失っている。
生命力が本当の自分がわからない人はない。
何よりも人と触れ合っていない。
仕事につく意志はあるけれども、本当の自分がわからない人は就職活動は止めたという。
精神分析に関する数々の名著があるカレン・ホルナイは神経症者は動機を強調するという。
まさにニートはカレン・ホルナイに言わせれば神経症者である。
働きたいという意志はあるけれども、就職活動の前で立ち止まる
本当の自分がわからない人は幸せになりたいけれども、幸せになるための活動はしない。
「こうすれば幸せになる」と言うだけで、「こうする」行動はしない。
「私は幸せになりたい」という動機だけを本当の自分がわからない人は強調する。
動機を強調する本当の自分がわからない人には生きるエネルギーがない。
彼らは無理をして生きてきたから、毎日が辛い。
ニートは小さい頃から無理をして生きてきた。
その積み重ねが現在の無気力。
しかし今本当の自分がわからない人は「自分探し」という口実で、目の前の困難を逃げて生きていると、老いた時には、その生の虚しさに苦しむ。
「本当の自分」がどこかにあると思って探すのではなく、今までの人生をもう一度見つめ直すことが大切である。
そして本当の自分がわからない人は「もう一度やり直してみたい」と思う。
しかし多くの場合、その時にはもう遅い。
だから本当の自分がわからない人は今見直そう。
「悩み苦しみ抜いて一生を終えた老人」
最後まで「自分探し」をして、「女をみんな殺したい」とまで苦しみ悩み抜いて死んでいった人がいる
本当の自分がわからない彼は妻と娘を殺したいという特定の人への敵意から、女をみんな殺したいという対象無差別の憎しみにまでなった。
幼児的願望が満たされていないことの恐ろしさである。
その本当の自分がわからない人はが死ぬ前に「老後の心境」として書き残したものがある。
「これが人生だという実感。若い頃は何かもう一つの人生が頭にあってそれが、自分の理想の人生像であったが、老年になると現在のこの人生、これが人生だという実感になる」
この人が、もし若い頃に「何で、自分は今の現実の人生を、これこそ自分の人生だと感じられないのだろうか?」と考えたら、老後に今書いたようなことを書かなかったであろう。
そうすれば彼は「女をみんな殺したい」とまで苦しまなかったであろう。
合理化とは、「私はあなたをこんなにも束縛したい」ということを「私はあなたをこんなにも愛している」と表現してしまうことである。
本来自分とは「探す」ものではなく「創る」ものであるという側面もある
本当の自分がわからない人は、その最初の段階でつまずいてしまったのである。
自分を創り始める前に挫折した。
そこで原点に立ち返って、本当の自分がわからない人は改めて自分創りを始めることである。
無意識にある自分を意識化すれば、自然と「自分創り」にエネルギーが向かう。
「本質的な自分探し」と「状況的な自分探し」と「自分創り」と理念としては分類出来るけれども、現実に対処する時には混合してくる場合も多い。
「自分探し症候群」の最大の課題は、コミュニケーションである。
いずれにしろ挫折の原点にあるものは「孤立と追放」の恐怖である
安心して成長出来た者は、原点での挫折はない。
「本当の自分」を見失うのは、人が「孤立と追放」を恐れるからである。
エーリッヒ・フロムが言うように人間が最も恐れるのは「孤立と追放」である。
今、自分のいるところから追放されないために、魚が木に登ろうとし、猿が泳ごうとする。
白鳥がさよなき鳥の声で鳴こうとする。
こうして子どもは親を始め周囲の人の望むような人間に変わろうとする。
大人になっても本当の自分がわからない人は「孤立と追放」が怖くて仲間に合わせる。
恋人に認めてもらえる人間になろうとする。
周囲の人に本当の自分がわからない人は認めてもらおうとして変わる。
もし所属感があれば、「孤立と追放」を恐れることはない
つまり自分を変えない。
成功した人間関係ではお互いに自分を変えないで生きている。
いずれにしても「本当の自分はどこにいる」と悩んでしまったのは、周囲のずるい人に認めてもらおうとして自分を変えたからである。
そして愛を求めるのに対象無差別になれば、あっちにもこっちにもいい顔をして、いよいよ「本当の自分」から離れて「本当の自分はどこにいる」と悩んでしまう。
「本当の自分はどこにいる」症候群が生じて来たのは今の時代の人間関係が成功していないからである。
コミュニケーションがうまくいっていれば、「本当の自分はどこにいる」とはならない。
コミュニケーションがうまくいっていれば、「本当の自分」で生きることができるから。
「本当の自分」で生きられるからコミュニケーション出来る。
コミュニケーション出来るから「本当の自分」で生きられるという好循環になる。
しかしコミュニケーションがうまくいかない。
「孤立と追放」を恐れる。
そこで「本当の自分」で生きられない。
そこでさらに本当の自分がわからない人はコミュニケーションがうまくいかないという悪循環に陥る。
「自分探し症候群」の最大の課題はコミュニケーションである。
「本当の自分」から逃げないで、それを受け入れることが強くなるということ
人は自分の器が分かれば悩みは少ない
怒りも少ない。
つまり「本当の自分」が分かれば人は憂いは少ない。
人は自分の器が分かれば、あまり人とは争わない。
あっちでもこっちでも人と争っている人は自分の器も自分の位置も分かっていない本当の自分がわからない人である。
自分の位置が分かっていないと、本当の自分がわからない人はどうしても不満になる。
自分が土器だと分かれば、水に溶けても「しょうがないな」と思える
本当の自分がわからない時には、人との関係で落ち込んだり、悲しんだりすることが多い。
そして自分の器が分からないのに、人が自分を分からないのは当然である。
それなのに本当の自分がわからない人は自分を理解してくれないと言って怒ったり、悲しんだりして悩んでいる人が多い。
『論語』に「人が自分のことを知らないことを憂えるな」とあるのは、早く「本当の自分」を見つけなさいということでもあろう。
「本当の自分」が分かれば人が自分のことをどう思うかで憂えることはなくなる。
落ち込まない、悲しまない
人が自分のことをどう思うかで憂えているうちはまだ「本当の自分」が見つかっていないということである。
「本当の自分」を見つけるためには他人の苦労を理解しようとする努力が、「本当の自分」を見つけるきっかけになる。
「本当の自分」が見つかっていない人には他人の苦労を分かっていない人が多い。
他人の苦労を知っている人は、「本当の自分」も分かっているし、自分のしたことも分かっている。
もちろん「自分がある」人は何も自分探しをする必要はない。
「自分がある」ということは自分が何者であるかが分かっていることであり、自分は何が好きで何が嫌いか分かっていることである。
ところで、
あなたは何が好きですか?
あなたは何が嫌いですか?
「本当の自分」から逃げないで、それを受け入れること。
それが強くなるということでもある。