自分は悪くないとは
恐れながら、自分は悪くないと罪悪感を感じる
大きな恐れを抱えた罪悪感を感じる人たちの大半は「他人の目」が気になっています。
他人の目が気になっているために、「彼が怒っているのは、どうしてだろう」
「上司が不機嫌なのは、この前のミスが原因なのだろうか」
「相手が私に冷たい態度をとるのは、この前のことが理由ではなかろうか」などと恐れながら、相手の心を憶測しようとします。
さらに、「きっと何かあって、虫の居所がわるかったんだろう」「私が悪いんだから、しかたがないか」「自分のやり方がまずかったのだから、怒るのも無理ないか」
などと、憶測した相手に対して、無理矢理理解を示そうとします。
こんな分析も得意です。
「あの人は、いちいち注文をつけてきて、ほんとに、うるさくてしかたがない。私が気にくわないんだろうけど、自分の手際が悪いってことには全然気がついていないんだから」
「彼女が素っ気ないのは、この前のことをまだ根に持っているからだろうけど、普通だったら、自分も悪かったって、反省するもんだよな」
行動するのが怖いという恐れ
けれども、罪悪感を感じるあなたがそうやって相手の心を憶測したり、分析したりしてしまうのはどうしてだと思いますか。
それは、そうやって相手の心を探ろうとするあなたの心の裏に、「行動するのが怖い」という”恐れ”が隠れているからです。
仮にあなたが、「普通だったら、あっちのほうから謝るべきなのに、どうしてあんな非常識な態度がとれるんだろうか。絶対に許せない」
などと見えないところで腹を立てているとしても、そんな相手にあなたが面と向かって言えないことが、罪悪感を感じる自分は悪くないというあなたの恐れを物語っています。
「言ってしまうと、相手と争いになるんじゃないだろうか」「相手に嫌われるんじゃないだろうか」「傷ついたり傷つけ合ったりするのではないだろうか」「これ以上、険悪な関係になったらどうしよう」などと考えて「自分から行動する」ことに恐れを抱いています。
だから、行動しないで済むように、頭で何とか処理しようとしているのです。
私はこうした、あれをしてみたい
もちろん、相手を恐れてしまう理由はそれだけではありません。
あなたは気づいていないかもしれませんが、罪悪感を感じるあなたがこれまで育ってきた環境が大きく影響しています。
例えば幼い頃、あなたが親に「私はこうしたい。あれをしてみたい」という欲求や願望を伝えたとき、「そうか、わかった。じゃあ、どういう方法で、それを叶えていこうか」というふうに、あなたの思いを受けとめたり認めるような返事が返って来ていたでしょうか。それとも、「やめなさい。無理だ。ダメだ、我慢しなさい。どうして我慢できないんだ」
などと拒否されたり、否定されたりしていましたか。
あなたがもろもろのことで傷ついてしまったときはどうでしょうか。
自分の気持ちを訴えているとき、親はあなたの言うことにじっくりと耳を傾けて、「そうかあ、そんなことがあったんだ。それは傷ついたわねえ。よくがんばったね。でも、あなたが自分の気持ちを言ってくれたので、私はほっとしたなあ。ありがとうね。つらいときは、いつでも言ってきてね」
などと、あなたが愛情を感じて安心するような言葉掛けをしてくれましたか。
それとも、罪悪感を感じるあなたは自分の気持ちを表現するどころか、間髪を容れず、
「そんなことぐらいでメソメソして、どうするのよ」
「悔しかったらお前もやり返せばいいじゃないか」
などと自分は悪くないと思いたい人は一方的にばっさりと切り捨てられて、傷ついている上に、さらに親の言葉に傷ついたということはないでしょうか。
自分は悪くないと思う心理的原因
幼少期の養育体験が関係している
私たちはそれぞれに、それぞれ固有の社会観、価値観、言動パターンを持っています。
なかでも罪悪感を感じるあなた固有の言動パターンは、大人になってから獲得したものだけではありません。
むしろ、生まれたときからの家庭環境、教育環境、社会環境が大きく影響しています。
とりわけ家庭は、同じ毎日の繰り返しです。
例えば、あなたの父親なり母親なりが一方的に感情的になって叱ったり、怒鳴ったりしていれば、あなたは「怖い」という恐怖を覚えます。
幼ければ幼いほど、そんな場面は、自分は悪くないと思いたい人は大きな恐怖として感じられるでしょう。
もしあなたがたびたびそんな恐怖を体験すれば、その怯えから条件反射的に身体が萎縮するようになってしまうかもしれません。
心と同時に、身体もその恐怖に反応してしまうのです。
衝撃が大きければ、一度の経験であっても、トラウマとして心に深く刻まれる可能性もあるでしょう。
家族以外の人に対しても恐怖を抱くようになる
それだけではありません。
毎日の生活の中でこんな恐怖に絶えず晒されて生きてきた、自分は悪くないと思ってる人は、家族に対してだけでなく、「家族以外の人」に対しても恐怖を抱くようになるというふうに、恐怖の範囲が拡大していきます。
ほとんどの家庭では、極端な虐待があるわけではありません。
それぞれが、自分たちの家庭は、ごく普通の平均的な家庭だと思っているでしょう。
けれども、日々の出来事を観察していくと、ある家庭では、日常茶飯事に家族同士が互いに争ったり口論したりして、罵声が飛び交っているかもしれません。
父親が専制君主のように「俺に従わなければ、許さない」という態度で絶対服従を要求し、家族全員が黙って従わなければ暴力的な言動をとる、というような家庭もあるでしょう。
父親が仕事やその他の事情で、週末もろくに家にいない父親不在の家庭、あるいは共働きで両親がいなくて普段は祖父母が子どもを育てているような家庭もあるでしょう。
ある家庭では、祖父母と母親が、子どもに対して「あれをしてはダメ。これをしたらダメ」と過干渉的に、子どものすべてを管理しようとしたり、監視しようとしているかもしれません。
こんなふうに、ごく普通だと信じている家庭での、小さな光景や小さな場面での繰り返しがすべて、罪悪感を感じる自分にとっての”トレーニング”であり”学習”です。
とりわけさまざまな経験を五感や感情で”実感したこと”は、自分の中に強い印象となって取り込まれるでしょう。
社会は危険に満ちていると思ってしまう
家庭が温かい愛情と互いに尊重し合う自由な雰囲気に満ちていれば、その思いがそのまま社会に延長されていって、社会に対しても「安全で、平和なところ」という肯定的な社会観が育つでしょう。
反対に、あたかも戦場で生活しているかのように、絶えず争いや揉め事が勃発していれば、そのたびに恐怖を抱き、自分の環境に対して「危険に満ちた、罪悪感を感じる、怖いところ」という否定的な認識が生まれるでしょう。
それがそのまま社会観へと移行していきます。
そのために”社会”に対して、
「社会は危険に満ちている。だから自分の安全を確保するには、相手と戦って勝たなければならない。負けると怖いことになってしまう。自分は悪くないと思いたい」
などと無意識に思い込んでいるに違いありません。
もし罪悪感を感じるあなたが、そんな「社会で生き残るには、戦って勝たなければならない」などと固く信じていれば、自分がその時々で主張したり行動しようとするたびに、恐れを抱くことになるでしょう。
にもかかわらず、最初から「戦闘モード」で相手に臨むために、罪悪感を感じる自分が恐れている通りの争いが起こる可能性も高くなっていきます。
このように、恐れるゆえに、自分は悪くないと思う人は”自ら恐怖を引き寄せる”ことになるのです。
けれども、今の社会は、大なり小なり、みんなが他者と対立しやすい他人の目の意識を持っているのかもしれません。
その結果、家族だけでなく”社会の人”あるいは”人そのもの”が怖くなって、自分の横に誰かが立っているだけで、「怖い」と反応して怯える人がいるのも頷けます。
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自分の気持ちを無視された傷つき
ごく日常的な家庭での、ありがちな光景です。
「ほら、ご飯よ。さっさと食べなさい。ほら、もうお風呂に入りなさい。
ほら、急いで。
ほら、明日は学校でしょう。
宿題したの。
ほら、もう寝る時間でしょう。
いつまでテレビなんか観てるのよ。
明日、遅刻しても知らないからね」
などと、一方的に急き立てられるような毎日ではありませんでしたか。
もしそうだとしたら、あなたは親に従いながらも、その都度、自分の気持ちを無視された罪悪感や苛立ちや憤懣を覚え、傷つきます。
一日がそうやって慌ただしく流れていけば、次第にあなたは、罪悪感を感じる自分がそんな気持ちを感じているということすら、意識にのぼらなくなってしまうかもしれません。
意識にのぼらなくなると、だんだん、それをするのが「当たり前」になっていきます。
食事をするというこんな日常的な行為一つ取り上げても、
- 朝になると起きるのが当たり前
- 昼になると食事をするのが当たり前
- ご飯は三度三度食べるのが当たり前
- 家族は一緒に食事をとるのが当たり前
他人の目を意識すると自分の気持ちを無視してしまう
他人の目を意識することは、「思考」に囚われて行動しがちです。
自分を大切にする行動は、「自分の気持ち、感情、意志」を大事にした行動をとります。
例えば、朝起きる場面です。
同じ場面でも、他人の目を意識する罪悪感を感じるのと客観して行動するのではこんなふうに異なります。
まず「それをするのが当たり前」になっている他人の目の意識は、朝の目覚めから、「起きるのが当たり前」でスタートするでしょう。
朝の仕度をしながら、行くのが当たり前ですから、次には「会社にいかなければならない」と”自動的に”思考しているかもしれません。
もしこのとき、体調が悪いと感じても、「どうすべきか」と迷い続けて、なかなか決断できないでしょう。
仮に休んだとしても、「行けば、何とか行けたのではないだろうか」と自分を責めたり、何だか自分が”サボっている”ような気がして、自分は悪くないけれど罪悪感を覚えるでしょう。
そのために、罪悪感を感じる人は心から充分な休息をとることができないに違いありません。
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自分を大切にして罪悪感を解消する
では、自分を大切にする行動をする人の場合はどうでしょうか。
自分を大切にする行動をする人は、目覚めのときには、「ああ、朝かあ。気持ちがいいなあ」と早朝の感覚や気分のほうに焦点が当たります。
そして「さあ、起きよう」となります。
気分や感覚に焦点が当たるために、顔を洗っていても、トイレに行っても、お茶やコーヒーを飲むときも、朝食を食べているときも、その「今やっている」ことのほうに焦点が当たり、その感覚や気分を実感しています。
もちろんこのとき、「体調が悪いなあ」と感じれば、「今日は休もう」と、”気持ちよく決断できる”でしょう。
早めに自分の気持ちを優先したほうがよい結果になると、経験的にも知っているからです。
そのために、罪悪感もありません。
罪悪感を抱いていなければいないほど、気持ちよく、充分に休養できるので回復も早いでしょう。
同じことをしても心の安定度が大きい
こんなふうに、他人の目を意識してしまう人と自分を大切にしている人では、生き方が正反対のベクトルへと向かって離れていきます。
自分を大切にする人は、同じことをしていても、プラスの感情やプラスの感覚を”実感”している分量が多いでしょう。
他方、他人の目を気にする罪悪感を感じる人は「思考」に囚われつつも、人の指示や命令に自動的に反応して従ってしまうために、それが当たり前になっていきます。
当たり前になってしまうと、やがて、そうやって自分は悪くないという罪悪感を”自動的に”従っていることにすら、疑問を抱かない自分になっているかもしれません。
と同時に、自分の気持ちや感情に気付かなかったり、自分の意志すら置き去りにしているかもしれないのです。