相手のどこが嫌かは最低限、把握する
新聞の人生相談に、女子大生からの悩みが寄せられていた。
同級生たちと卒業旅行に行くのだが、そのメンバーの中に自分をイライラさせる苦手な人間がいる。
「どうしたら旅行中、気分良く過ごせるだろうか」というものだ。
苦手な理由はささいなこと。
声が大きく、自意識過剰で目立ちたがり屋なところが気に障る。
しかし、ほかのメンバーは、そんなことは何とも思っていない。
つまり、単に自分と生理的に合わないのだ。
回答者の心療内科医は、「なぜイライラするのか」その気持ちを客観的に見てみることをすすめている。
嫌な相手はときとして自分と似ているところがあり、自分が欲しがっているものを、その相手がすでに手に入れていたりする。
だから、イライラするのは自分の問題でもあるということを暗に教えている。
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ただ、このアドバイスではわかりにくいのではないか。
この女性は、もしかしたら苦手な相手を、ほかのメンバーより近距離で見過ぎているのかもしれない。
だから、なおさらイライラするのではないか。
それでも、卒業旅行ならせいぜい10日程度だろう。
何とか我慢してやり過ごすこともできる。
しかし、会社の同僚にそんな相手がいたら大変だ。
二、三年の我慢ですむのか、五年以上も一緒にいなくてはいけないのかわからない。
だからといって、逃げ出すわけにもいかない。
一体、どうすればいいのだろうか。
まずいえるのは、イライラするのは、自分がその相手を気にしてしまうからだということだ。
女子大生の例でいえば、ほかのメンバーは何も気にしていないからイライラもしない。
気にしている人だけに問題は起きている。
実業家のジョン・ワナメーカーが面白いことをいっている。
「本人は気づかないが、いつも拡大鏡を持ち歩いて、人の欠点ばかりをのぞき回っている者がいる」
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人のクセなどについて、わざわざ近距離でじっくり眺めて「イヤだ、イヤだ」と騒ぐのはバカげている。
自分がイライラしたくないなら、相手のどんな言動も、なるべく自分の感情の中に入れないようにすることだ。
相手がどんな言動をしようと自由。
それをいちいち自分の感情とからめてはいけない。
「アラ、アラ、また、やってるよ」
「また、病気が始まったのかしら」
くらいに思って、それ以上は考えない。
会話が必要なら、最低限の受け答えに徹すればいい。
そのためには、相手のどこが嫌いなのかを正しく理解しておいたほうがいい。
それをせず、漠然と「嫌でたまらない」などと思っていると解決策が見つからなくなる。
顔が嫌いなのか、声が嫌いなのか、身振りが嫌いなのか―。
原因がわかれば、そこから自分をとおざけることもできる。
ある企業に、独特の話し方をする女性社員がいる。
本人は特別に意識しているわけではないが、言葉のアクセントが強すぎて大仰な感じがする。
平気な人は平気だが、気にし始めると気になって仕方がない。
しかし、その女性が悪いのではない。
どうしても気になるなら、その女性が他者と話をしているところには、なるべく近づかなければいい。
サラリーマンにとって会社にいる時間は長い。
睡眠時間と通勤時間を引けば、一日のかなりの時間を会社で過ごすことになる。
そこに生理的に嫌いな人間がいたら、きついのはわかる。
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しかし、夫婦と違って寝食をともにするわけではない。
夫婦なら「顔を見るのも嫌」「声を聞くのも嫌」「同じ空気を吸うのも嫌」となれば離婚するしかないが、会社の人間はそういう相手ではない。
そもそも、そこまで嫌がる価値がない。
それほど近しい距離にいる相手ではないということにまず気づくべきだ。
好き嫌いの感情は人間関係の基本であり、誰もが持っている。
持っているが普通は出さずにいる。
せいだく清濁併せ吞んで、濁には目をつむる。
それが大人の生き方だからである。
子どもではないのだから、好き嫌いの感情を会社の人間関係に持ち出さないこと。
どうしても合わない人間がいるというなら上司に相談するというのも手だが、その場合、職を失うこともあると覚悟のうえでやらなければならない。
なぜなら、みんな同じ状況にあるからだ。
「私だけが大変な思いをしています」という訴えは、なかなか通らない。
それは「私だけが、ことあるごとに大人げなく騒いでいます」といっているようなものだからだ。
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見栄を張るのはほどほどに
就職試験の面接官に話を聞くと、受験者のほぼ全員が、実際よりも自分を立派に見せようとするという。
だから面接官は、すべてを真に受けず話半分に聞いておく。
当たり前のことだと思う。
立場が違うのだから当然だ。
ただし、受験者側が立派に見せるにも限度はある。
とくに中途採用のケースでは、限度を超えることがよくある。
「〇〇プロジェクトを企画したのは自分です」
「デザイナーの〇〇さんには可愛がってもらいました」
実際には関係していないのに人の功績を自分のもののように語ってみたり、有名な人を知っていると大風呂敷を広げてみたり、というパターンだ。
それを信じて採用したら、まったく期待外れだったということになる。
なまじ期待しただけに落差も大きく、その人間に対する周囲の評価はガタ落ちになる。
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なかには、経歴詐称をする人もいる。
一度「詐称」をしてしまえば、その事実を取り消すことはできない。
失うもののほうが大きいのに、なぜそんなつまらない嘘をつくのか。
もちろん、世の中を渡っていくためには、ある程度の見栄は必要だ。
「世間は張り物」という言葉がある。
張り物とは、芝居で使われる木枠に布や紙が張られた道具のこと。
中味は空っぽだが、それっぽく見える。
ときには、そういうものを上手に使えと教えている。
しかし、見栄には張り方がある。
すぐバレるような見栄、大げさな見栄は逆効果だ。
具体的には、「みっともないよりは、カッコよく見えるほうがいい」くらいに考えていればいいのではないか。
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ある人は服装に気を使うほうだが、「みっともないよりは、カッコよく見えるほうがいい」と思っているからだ。
たとえば、誰かと一緒に食事をするときに、その人だけセンスが悪くて安物の服を着ていたら落ち着かない。
それに、あまり格好の悪いヤツが混じっていたら仲間にも恥をかかせる。
その人のおしゃれは小さな見栄であり、一種のサービスでもある。
女性が化粧をするのも同様だろう。
実際よりも自分をよく見せたいから化粧をするが、それによって周囲は不愉快になったりはしない。
むしろ、場が華やぐ。
しかし、度がすぎて厚化粧になるのはみっともない。
実物に「ちょっとプラス」くらいの薄化粧がいちばんいいのではないか。
「高く登ろうと思うなら自分の脚を使うことだ。高いところへは、他人によって運ばれてはならない。人の背中や馬に乗ってはならない」(ニーチェ)
その人が、自分の脚で登ってきたのか、人の背中に乗ってきたのか、山の上から見ている人はわかっている。
適度な見栄を張れるか、嘲笑されるホラ吹きになってしまうか。
その線引きは簡単ではない。
しかし、一ついえるのは「見栄は聞いているほうの立場になってみれば想像がつく」ということだ。
高い山の上から自分を見てみることも大切だ。
すぐにバレるようなみっともない見栄を張り続ける人は、それができていない。
あくまでも、見栄を張る自分の側からしかみていないからだ。
いつも自分サイドからしか物事を見ない人は、人と上手に距離をとることはできない。
相手にズカズカ近づいていって、やたらと大きなことをいう。
それで「自分の魅力をアピールできた」と思っているのだから始末が悪い。
もし、あなたの周囲にみっともない見栄っ張りがいたら、その人はいい反面教師でもある。
客観的に自分と比べながら、ちょうどいい具合の見栄を身につけたい。
ここまではいいけど、これ以上はみっともない-。
このへんの自己判断ができるかどうかだ。
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周囲を気にしすぎも、しなさすぎもよくない
「世の中の人は、何とも言わば言え。わが成すことは我のみぞ知る」
坂本龍馬の言葉である。
私たちは、なかなかここまで思い切れない。
自分がやっていることについて、とかく人がどう思うかあれこれ想像し、自分で必要のない悩みをつくり出したりもしている。
「何をやるにも周囲の目を気にしてしまう」と悩んでいる二十代前半の女性がいる。
とくに高給取りでもないその女性は、ブティックで買い物をしていても、本当は欲しいセール商品が買えないのだという。
顔なじみの店員がいると、どう思われるかが気になって、つい見栄を張って買ってしまうのだ。
ブティックでさえそうなのだから、会社では大変だ。
「先輩から生意気だと思われているのではないか」
「上司から無能だと思われているのではないか」
そんなことばかり気にしているから、本来はさっさと取り組むべき仕事もスムーズに進まない。
本人の思惑とは逆に、周りの目を気にしすぎる人は、かえって周囲に迷惑をかけているのだ。
男性にも、こうしたケースが増えている。
先方の会社に行っても、取引先の人が自分を見ていると思うだけで、まともにプレゼンができない。
得意なはずの英語を、同僚がそばで耳を立てて聞いていると話せなくなってしまう。
字が下手なので、上司へのメモは何度書き直しても不安でならない―。
なぜ、こんなことを気に病んでしまうのか。
たぶん、距離感が間違っているのだ。
本来、仕事の人間関係はそれほど近い距離にはない。
周りの目を気にしすぎる人は、すべてを近距離に見すぎている。
そして、相手もこちらを近距離で見ていると思い込んでいる。
しかし実際には、こちらが見ているほど相手は見ていない。
だから、気にすることなどないのだ。
あまり近距離で見ていると目が疲れるだけだ。
もちろん、遠い関係であっても、ある程度は気にしてもらわなければ困るときもある。
ある男の人が事務所に行くときに普段から利用している私鉄で、よく見かける二人の乗客がいる。
一人は三十代前半の若い女性で、座席に座ると必ず化粧を始める。
「きた、きた。またやるぞ」と思っていると、その通りになる。
その男の人は女性の化粧道具について詳しくないが、その人の作業の手順は覚えてしまった。
まあ、次から次へといろいろな化粧道具があるものだ、と思うくらい手順がいい。
毎朝のことだから当然だろう。
もう一人は四十代くらいの女性だ。
こちらは座席に座ったとたん、サンドイッチを取り出して黙々と食べる。
そして、ジュースか缶コーヒーを飲む。
その人が電車に乗ってくる時は、お約束のようにサンドイッチが入った袋を下げている。
決まった店で買ってくるのだろう。
どちらも、ひどくみっともない。
しかも、当然のように優先席に座ってである。
真正面から見せられる私たちの身にもなってほしい。
「美しい姿は美しい顔にまさり、美しい行ないは美しい姿にまさる」
アメリカの思想家ラルフ・W・エマーソンのこの言葉を、彼女たちに贈りたくなる。
彼女たちのような行動は、アカの他人が見てもうんざりする。
もし、知人に見られたらどうするのか。
しかし、本人たちの頭の中にはそんな想像はない。
電車に乗り合わせているほかの客など、最初から存在しないのだろう。
自分の部屋の中と同じと思っている。
彼女たちを見ていると、なぜ一時間早く起きないのかと不思議で仕方がない。
ある三十代独身女性は、朝六時に起きて、近くに犬を散歩に連れて行き、帰ってからシャワーを浴び、朝食をきちんととって、化粧をしてから家を七時半に出るという。
ルーティンワークにしてしまうと、このくらいのことは、どんな勤めの女性にもできるのではないかと思う。
他人の目を考えたとき、どうもいまは人との距離感がおかしくなっている。
人間社会は、いくつかの距離感で成り立っている。
自分を円の中心と考えたとき、非常に近しい家族や恋人、気の置けない友人、仕事仲間、ご近所さん-といったように、だんだんと距離が離れていく同心円をいくつも持っているのが本来の姿だ。
ところが、全部を一緒にして、やたらと近くに見据えたり、逆に遠くに置きすぎたりする人が増えている。
一度、自分を取り囲む人間関係について見直し、正しい同心円に置く練習をしてみる必要があるのではないか。